心の傷を癒すということ

の傷を癒すということ

―劇場版映画を観てー  

 

阪神・淡路大震災時、傷ついた人の心に寄り添う,ひとりの医師がいた。若き精神科医・安

克昌。自ら被災しながらも他の被災者の心のケアに奔走した。そして多くの被災者の声に耳を

傾け、心の痛みをともに感じ、寄り添い続けた日々。震災後の心のケアの実践に道筋をつけ、

日本におけるPTSD(心的外傷後ストレス障害)研究の先駆者となった。この映画は

傷ついた人たちに優しい社会の実現を目指しながら志半ば、39歳でこの世を去った安

克昌精神科医師を描いたNHKドラマ「心の傷を癒すということ」(第46回放送文化基

金 番組部門 テレビドラマ 最優秀賞、受賞作品)を映画製作のため再編集した劇場版

である。

 

私はこの映画が、あの大震災から29年目に当たる今年(2024年)の1月13日に、

JR西宮駅前の西宮市フレンテホールで上映されるのを知って、早速朝の10時半の部に

駆けつけて観ることにした。

 

映画の総合演出は安達もじり、安克昌役(映画では安和隆)は柄本祐、その妻役は尾野真千子、

上映時間は1時間56分。映写は安克昌の少年時代から始まった。兄弟で家の引き出しの中

から偶然見つけた書類から、母親に問いただし、両親が在日韓国人で、自分はその2世である

ことを知る。そして、自分は何者であるか、どう生きるべきかを模索し続けることになる。

ジャズとピアノと読書を愛する彼は親友の湯浅と話し合い、共に神戸大学医学部へと進む。

そこで出会った恩師永野教授の講座に感銘を受け、精神科医の道を志すようになる。が、実

業家の父哲圭から猛反対を受けてしまう。そんな時映画館で終子と会う。姓を聞いても「言い

たくない」といった言葉から終子も在日韓国人2世だと分かる。やかて、二人は結婚し、

克昌は大学病院に精神科医師として勤めるようになった。家庭を持ち幸せな日々を送り、

第一子も誕生して間もなくのころ、あの阪神淡路大震災が起こる。

 

この映画は地震で倒壊した建物や高速道路の状況や、長田区の火災などの映像は出てこない。

避難所に集まる人々の不安な様子は映し出される。克昌は神戸市中央区の自宅で2歳になる娘

の叫び声や、倒れる食器棚、本箱、散乱する万物のなか、歩いて10分ほどの場所にある大学

病院に駆けつけた。やがて病院は次々と送られてくる重傷者で、さながら野戦病院となり、

ベッドは足りず、点滴のスタンドも足りず、死体安置所も一杯になる。

 

震災の初期では、何よりも救急医療が優先される。が、精神科医師として何ができるのか。

どうあるべきか。克昌は深く思いを巡らせた。

 

まずはすでに精神病棟にいる入院患者の心のケアと精神安定剤などの薬の確保であった。

薬は被災地全般にも必要となる。その後、避難所にいる多くの人たちから「夜寝られない」

「不安感で睡眠不足になっている」という声があがっている、ということを聞くようになった。

克昌は避難所を回って、被災者の人たちと向き合うことを決めた。映画でも避難所で女の人から

「眠れないので睡眠薬をください」と睡眠薬を要求される場面がある。確かに睡眠薬は必要な

時はあるが、むやみに配ってそれで、心の傷による睡眠不足が解決するものではない。まずは

薬に頼る前に心の傷を癒すことに専心することが大切なのである。それではどうするか。これは

大変難しことであるが、重要なことでもあった。

 

映画でも「精神科の医者は要らない」(実際は『神経科』という名札で避難所を回っていた)と、

断られる場面や、「精神科の医者にかかっていると、人から変な目で見られる」と言われる場

面がある。克昌も避難所を回るうちに「精神病」などの言葉は使わないことのほうが良いこと

が分かってきた。「カウンセリングに来ました」などと言っても、反発を招くだけである。まずは、

相手が必要とすることを何でもして、何でも話すことである。その上で相手の体験をじっくりと

心を込めて聞くことである。こちらから「治療する」などや「こうするべきだ」などとは言わ

ないことである。うまく心を込めて聞くことが、相手の心の傷を癒すのに大変効果を発揮する

ことが分かってきた。

 

震災は様々な形で、多くの人々の心を傷つける。人々は心の傷つきを、不眠、緊張、不安、

恐怖など、心身の変化として体験する。しかしその後時間とともに、こうした変化は自然に

解消されてゆくことも多い。しかし中にはこうした「正常な反応」にしたがって解消すること

なく、症状が悪化した状態が続くことがある。心の傷が癒えるどころか、ますますその人を

苦しめ生きづらくしてゆく。これがPTSD(心的外傷後ストレス障害)と言われるものである。

阪神淡路大震災では、各地から多くの精神科医、大学の精神科医学生、ボランティアが集まって

きていた。このPTSD治療のための精神科部門の支援者が、避難所を回ることなどは初めて

の現象であった。克昌自身も現場に参加しながら、中心となる地元の神戸大学精神科医局長

として、来援者どうしの連携を深め、調整の一翼を担い、大災害時のPTSD治療のありかたを、

まさぐりながら、確立していったのである。

 

こうした動きを注目していた新聞記者(映画では日報新聞文化部谷村記者となっているが、

実際は産経新聞文化部河村記者)に「精神科医として見たことを、内部から書いてほしい」

とコラムを書くことを頼まれる。最初は「文章など書いている場合ではない」と断っていた

克昌であったが、当初あまり注目されていなかった「心のケア」の問題は今こそ大切なことと

して書き留めておかねばならない、と思うようになった。そして新聞の連載は「被災地のカルテ」

と題され、震災から一年後の39回まで続いた。書くのは深夜に至り大変であったが、この連載

をもとに改稿・加筆を加え、1996年4月に単行本として『心の傷を癒すということ~神戸…

365日から』を刊行することになった。この著作は、まさに震災による心の傷に対する

貴重な臨床報告としても注目され、第18回サントリー学芸賞を受賞することになる。そして、

このことから震災の被災地を象徴する精神科医として、また広くPTSD治療の若き研究家

・臨床家として知られるようになり、災害時の精神保健の講演や原稿依頼が後を絶たなく続く

ようになった。映画では著作の受賞に恩師永野教授が、祝福に駆けつける場面や、精神科医師

になることに反対していた実業家の父親が、今は祝福し喜んでくれている場面が映し出されていた。

 

また映画の中で印象に残る言葉として、克昌が被災者との対話中「弱いっていうのは大事なこと

だよ。他人の弱さがわかるからね」と語りかけるのは、心の傷を癒す対応の基本的な治療者のある

べき考え方であり「医者の仕事というのは、そばに寄り添うことでしかない」という言葉からは、

「誰かのために穏やかに、しかし忍耐強く一緒にいることが大切なのだ」という言葉と共に

心の傷の治療の真髄を語っていると私には思われた。

 

2020年10月、克昌の体調は急速に悪化し始めた。肝細胞がんのためであった。疲労感は

極度に募り10月20日、最後の診察をして休職する。この時、妻は3人目の子供を身ごもって

いた。11月30日、陣痛の始まった妻を自宅から産院へ送り出し、自らはタクシーで西市民

病院に入院した。夜、赤ちゃんは無事生まれた。12月1日、赤ちゃんを抱いて妻が病院に

駆けつけた時、すでに克昌の意識はなかった。2日未明かすかに祈りのように「頼む」という

言葉を繰り返して克昌は息を引き取った。映画は終わる。

 

全般を通じ「人の心に寄り添う」ことこそ、心の傷を癒す最高の方法であることを観る人に

悟らせる、感動の映画であった。

 

映画を観た後、すぐに著作を電子書籍で購入した。この中で克昌はPTSDの治療について、

次のように書いている。「まず患者に恐怖心から安心感を回復させる。その上で患者の考え方、

感じ方を尊重した患者のベースに従って、体験について語ってもらうことが治療の中心になる」

考えてみれば、克昌も地震の被災者であった。その上、精神科医師の中心となって、避難所

全般の患者と対応し、支援者同士の調整に心身をかけることによる強いストレスを乗り切る

ことはどうしても必要であったろうと思われる。彼は体験を新聞の「被災地のカルテ」に書き

続けていった、そして、仲間と精神治療の方策を語り、やがて単行本にまとめ、講演会で語るよう

になった。克昌自身も「書く」そして「語る」ことによって、自分のPTSDを乗り切ってきて

いたのである。

 

大地震の日、1995年1月17日火曜日は、朝日カルチャーセンターのエッセー教室の作品

提出日であった。私はカバンに甲山のことを書いた作品を用意していた。午前5時46分。

未曾有の上下動と揺れに、部屋のタンスの上部が飛んで寝ている私を飛び越えた。棚のもの、

引き出しの中身もすべてが飛び出して床に散乱した。妻は悲鳴を上げ、続いて起こった余震に

脅えて「どうしょう」と繰り返して呟いていた。私は妻と私の身体の無事を確認したものの

「どうすべきか」一時、頭が真白になっていた。その時、私の頭の中にこの大地震の状況を

エッセーに書いて、エッセー教室で説明している姿が浮かんだ。「提出エッセーを地震の内容に

書き換えないといけない」私は直ぐに部屋中に散乱している万物の中をかき分けて、当時エッセー

を書くのに使っていたワープロを探して拾い上げた。しかし、電気もガスも水道も通じない。

なにはともあれ、手元のノートに体験した地震の状況を記録し始めた。幸い電気だけは翌日

通じてワープロが動き始めた。余震の揺れが時々襲ってくる中、私は懸命にまず『タンスが

飛んだ日』を書きあげた。

 

精神科医安克昌の著作を読んだ今、思うとあの時エッセーを書くことに集中したことは

私自身が怖れや不安を乗り越えて、PTSDにならずにすんで、本当に良かったことなの

だったのだ。「患者のベースに従って、体験を語ってもらうことが治療の中心」であるから、

私は「語る」ためにまず体験を「書く」ことを始めた。そして、「書く」ことによって、「怒り」

「恐怖」「悲しみ」などの被害者意識から、「挑戦」「観察「希望」などのエッセー人間の意識

に変わっていったと思うのである。

 

私は続いて食料と水を求めて、長い列を並んでエレベーターが動かないマンション5階まで

運んだ『並んで運んだ日』そして関学フェンシング部での親友中川君が圧死した知らせが入り

『黙祷の日』を書いた。そして西宮北口まで動き始めた阪急電車で千里山の親類で風呂を浴び

レストランで食事をして『天国を感じた日』を書き、これらをまとめて『激震の日誌』として、

甲子園から動き出した電車で大阪のカルチャーセンターの事務所に届け地震の次の教室の日、

1月31日には、地震の文集をもとにして、教室で語り合うことができた。その後も『校庭の

自衛隊風呂の入浴』『阪神間が一時砂漠になった日』『甲山の地滑り地帯に遭遇』『西宮神社の

倒れた土塀の瓦の泥落とし』などのエッセーを夢中で書くことで、震災の心の傷を癒して乗り

切ることができた。

 

私は「心の傷を癒すということ」は安克昌医師のいう、寄り添って体験を語ってもらうことと

共に、そのために体験をつれづれなるままに、書き綴ってもらうことだとも思っている。

(2024年1月3日)