三淵嘉子のお終わりなき戦い
―NHK朝ドラ「虎に翼」は9月で終わった ー
NHKの朝ドラ「虎に翼」は日本初の女性弁護士の一人であり、日本では初めて女性判事
および家庭裁判所長となった三淵嘉子を、伊藤沙莉が演じる主人公「猪爪寅子」のモデル
として制作された連続ドラマである。私は4月から毎日見続けていたが、これは昭和の
初め頃の時代から法曹界に足を踏み入れた女性のジェンダーギヤップとの激しい戦いが続
くドラマとなっている。と、私は理解している。
そして、もう一つは戦争である。戦争で夫も弟も亡くし、空襲で被災した女性が「原爆
裁判」を担当することになる。そして、
「原子爆弾による爆撃は、無防守都市に対する無差別爆撃として、当時の国際法から見て、違
法な戦闘行為である」と判定を下す。
主文で、被災者に対する賠償は棄却されたが、のちに英語に訳され、国際司法裁判所でも
「核兵器の使用や威嚇は、一般的には国際法の上では人道主義の原則に反する」と
述べられるようになった。それはこの判定が、その裏付けとなったのである。
「虎に翼」は9月で終わり、三淵嘉子は1984年(昭和59年)に亡くなってはいるが、
未だ世界では核兵器はなくならず、ジェンダーギャップ指数も日本は156カ国中118位
(2024年発表)と、まだまだ前途多難である。三淵嘉子の実際に直面して戦った戦いは、
まだまだ終わってはいないのである。
三淵嘉子は1914年(大正3年)11月、台湾銀行シンガポール支店勤務の武藤貞雄とノブ
の長女として、シンガポールで生まれた。漢字での「新嘉坡」から「嘉子」と名付けられた。
東京の小学校を経て、東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業した際に、進歩的な考えの
父の影響を受け、法律を学ぶことを決意した。そして、当時女子に唯一法学の門戸を開いていた
明治大学専門部女子部法科に入学した。1938年(昭和13年)明治大学法学部を卒業して、
高等試験司法科試験に合格。1940年(昭和15年)、第二東京弁護士会に弁護士登録をした
ことで明治大学同窓の中田正子、久米愛と共に日本初の女性弁護士となった。私が「虎に翼」
を見ていると、戦前期は女性が判事・検事に就くことが省令で禁じられていたことが、法律を
志す女性たちにとって将来に不安を抱かせていたことが、大きな問題であったことが良く分
かってきた。そして、女性の判事を創設する案が浮上して、女性たちは大いに期待するのだが、
「尚早論」に阻まれて落胆する様子が映されていた。当時はまだ、「女性が判事や検事になれば、
嫁の貰い手がなくなる」という考え方をする人が男女とも多かったのである。弁護士になって、
法律事務所に勤めるのが、唯一つの道であった。
そして、嘉子は武藤家の書生をしていた和田芳夫と、積極的な求愛結婚をして1943年
(昭和18年)長男を出産するのである。しかし夫の和田芳夫は招集令状(赤紙)を受け中国戦線
に送られ、発病し陸軍病院で戦病死してしまう。また出征していた武藤家の長男の弟も戦死する。
1945年(昭和20年)3月10日、B―29による東京市街無差別焼夷弾大爆撃で家は焼かれ、
弟の家族と共に、福島県会津坂下町の農家に寄寓して、サツマイモなどを栽培して飢えをしのんでいた。
この年8月15日、敗戦。そして、敗戦による新憲法の発布は日本の法曹界に革新の波が押し
寄せた。男女平等が保証され、古い家族制度は廃止され、家督相続を長男男子に継承させる戸主権も
否定された。私は法曹界にこのような革新をもたらすことが出来たのは、ポッダム宣言を日本が受諾
したことの一つのメリットだとも考えている。敗戦による、日本の無条件降伏という現実がなければ、
妻を無能力者と規制し、均分相続制度を認めなかった古い伝統的な日本の家族制度を革新すること
は実際には難しかったのではなかったか、と思っている。嘉子も「女性が家の鎖から解き放たれ、
自由な人間として、すっくと立ち上がったような思いがして、息を飲んだものです」と、この時の
ことを語っている。
旧憲法下の「裁判官任官は男子のみ」の規定も新憲法下では無くなっている。今こそ女性裁判官
を出すべきだと考えた嘉子は最高裁に1947年(昭和22年)「裁判官採用願」を提出した。19
49年(昭和24年)、東京地裁判事補となり、1952年(昭和27年)名古屋地方裁判所で、日本
初の女性判事となっている。そして新潟・浦和・横浜の家庭裁判所の所長として裁判長を歴任。「家庭
に光を」、「少年に愛を」、家庭裁判所は愛の裁判所と訴え続けた。そして「家庭裁判所育ての親」と
言われるようになった。そして、嘉子は1956年8月、裁判官の三淵乾太郎と再婚、目黒に住むよう
になった。
嘉子が今まで、多くの裁判を実際に経験して感じるのは、憲法が変わったからといって、日本人の
価値観が直ちに変わったわけではない。「戦前の家族制度の考え方」を引きずっている人がまだまだ多い
ことが分かってきた。結婚の家柄のこだわり。相続の争いが絶えないことなどをなくすには、まだ相当
の時間がかかりそうであった。嘉子の家庭裁判所長としての活動が成功して「女性判事は家庭裁判所が
適任である」という考えが生まれ、後輩の女性判事の家庭裁判所の配属されることが多くなった。嘉子
は、自分自身は家庭裁判所の仕事に集中したが、法曹界に入っ女性は家庭裁判所へ行けばよいという
ルートが固まることを警戒し反対していた。
昭和30年に入った頃から、女性の司法試験合格者は増えて、昭和40年代には初めて30人を超える
ようになった。しかし、裁判官と検察官になる女性は増えなかった。これは当時、女性に、これらの任
官をさせるのを敬遠する風潮が当局にあったためと言われている。1970年(昭和45年)当時の最
高裁人事局長自身も「女性の生理休暇、出産休暇、を取るたびに、男の裁判官にしわよせがくる。性犯
罪や暴力事件に女性の裁判官が合議に加わるのは困る」と所長会の後の談話で話している。
私は当時から半世紀が過ぎた今でも、男女共同で仕事をする場合、女性に対しこの局長のような価値観
を持っている日本人は相当数まだいるように思っている。このような価値観を持つ意識を改めないと、
日本のジェンダーギャップ指数の順位を上げることはできないと考えている。
山我浩著作の『原爆裁判』の記述によれば、当時日本婦人法律家協会の副会長だった嘉子は、嘉子
の後輩の野田愛子と共に最高裁に局長の発言を確かめに行った。局長の発言が掲載された新聞や週刊
誌の記事をもって、人事局任用課長を訪ね発言が事実かどうかを直接聞いている。二人よりはるかに
後輩の課長は、正直に上司の言葉であることを認めた。日本婦人法律家協会は要望書を作り「女性に
対する侮辱であるばかりか、国民の司法に対する信頼を失わせ、かつその尊厳を著しく傷つける」と
抗議している。会長の久米愛と副会長の嘉子は、事務総局で局長と直接対面して抗議の言葉を伝えたと
されている。
このように戦ってきた三淵嘉子のジェンダーギャッとの戦いはその後も続き、終りなく
今は後輩たちに引き継がれ、続けられているのである。
原爆裁判は1955年(昭和30年)広島と長崎の被爆者5人が、大阪と東京の裁判所で、原爆投下
の違法性を明らかにして、国相手に国家賠償訴訟を起こした裁判のことである。この年から準備弁論だけ
で27回、4年に及んでいる。1960年(昭和35年)2月から、1863年(昭和38年)3月まで
9回の口頭弁論が開かれている。これは質量ともに重い、難しく大きな裁判だった.3人の裁判官が担当
したが、裁判長と左陪席裁判官はこの間、何度も交替しているが、右陪席裁判官を担当した嘉子だけは、
第1回の口頭弁論から結審に至るまで、一貫して原爆裁判を担当し続けた。
被告となった日本国側は最初から、「原爆投下が国際法違反とは断定できない」と主張し、被爆者への賠償
や補償の義務も否定し続けた。最大の争点は、原爆投下が当時の国際法に違反するかどうかだった。裁判
所は3人の国際法学者に鑑定を依頼した。このうち2人は国際法違反と断定、1人は違反の判断に傾きつつも、
確定的に断定できないとした。被爆者側と国の主張は、大きく対立したまま審理を終えることになった。
判決は1963年(昭和38年)12月7日に言い渡された。主文を述べる前に、東京地裁の法廷で判決
理由の要旨が読み上げられた。主文は被爆者への賠償を棄却した。しかし、裁判長は原爆投下を国際法に違
反するという判断を述べた後、次のように続けている。
「国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、
不安な生活に追い込んだのである。しかも、その被害の甚大なことは、とうてい一般災害の比ではない。被告
がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは多言を要しないであろう」
「しかしながら、それはもはや裁判所の職責ではなくて、立法府である国会および行政府である内閣において
果たさなければならない職責である。しかもそういう手続きによってこそ、訴訟当事者だけでなく、原爆被害
者全般に対する救済策を講ずることができる」「われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはいられ
ないのである」
私は「政治の貧困」という言葉まで、裁判官が述べていたことに驚いた。しかしこの判決後に、世論の高まり
もあって、「原子爆弾被爆者に対する特別措置法」が制定され、1994年、「被爆者援護法」が制定された。
被爆者の被爆した地域の認定などがなお不十分という意見もあるが、この判決の指摘の影響した力は大きいと
思っている。さらに私は先の大戦中、私も西宮で体験したが、日本の200を超える都市の木造の住宅密集地帯
に対するクラスター(収束)油脂焼夷弾による無差別大量投下は、原爆と同じく国際法の違反であることは明白な
事実だと考えている。「原爆裁判」と同じく、これも賠償金は別にしても、裁判で国際法違反であることを明確に
しておかねばならない。と、思っている。
国際司法裁判所は、「核兵器の使用や威嚇は人道主義の原則に反する」と認めながらも、今は、一方で「究極
の自衛権行使の際には違反か合法か結論づけることはできない」といって、実際に使用するかどうかでは、
逃げた判断となっている。国際司法裁判所に「核兵器の使用や威嚇は完全な国際法違反である。国際犯罪として
厳重に罰せられる」と断言させるまでは、三淵嘉子とその考えを引き継ぐ者たちの戦いは続くのである。
(2024年9月22日)