ヴェルレーヌの詩がフランスに流れた
―ノルマンディー上陸作戦―
第2次世界大戦は1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻したことが発端に
なったといわれている。そして、イギリスとフランスによるドイツへの宣戦布告により、
ヨーロッパはたちまち戦場と化した。
1940年5月にはフランスがドイツ軍に降伏して、パリが開城した。フランスの大半
がドイツの占領下に入り、協定により対独協力を義務づけされたヴィシー政府が成立した。
そのとき、フランス各地でドイツ軍とヴィシー政府に対抗する抵抗運動が始められた。
当初は抵抗運動もバラバラであったが、次第に組織的に展開されるようになった。また
国外に逃れたフランスの政治家や軍人、知識人たちも、イギリスのロンドンや植民
地だったアルジェリアなどを拠点に国内に活発な抵抗を呼びかけるようになった。
この時イタリアも参戦したので一時的にはドイツ・イタリアが中心になって、
全ヨーロッパを制圧した形になった。そしてドイツのヒットラーは、イギリス本
土の爆撃を強化し、イギリス本土にも侵攻する勢いを見せていた。このとき、重
要なのはアメリカの役割であった。アメリカはイギリスに武器の供与などはして
いたが、戦争には参加をしていなかった。アメリカの国内世論も戦争参加には消極的
であった。
ドイツ軍はさらにソ連の国境にもなだれ込んだ。1941年6月のことだった。
そしてこの年の秋にはモスクワ・レニングラードの前面に迫ったが、12月にはソ連
軍もようやく反撃に転じ、ドイツ軍の進撃を封じはじめた。
独ソ戦が始まると日本は北の守りより武力南進の構えをいっそう強く示し、南部仏印進駐
を行った。これに対しアメリカは在米日本資産の凍結と石油の対日輸出禁止でこれに
応じたので日米対立はいよいよ険悪となり、戦争は太平洋にも拡大する傾向を強めた。
1941年12月8日、日本軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃するとアメリカの国内世論は
大きく戦争参加に沸き立ち、アメリカは日本のみならず独伊にも宣戦して交戦国の一員と
なった。このアメリカの戦争参加を最も喜んだのはイギリスのチャーチル首相だった。
ドイツに苦しめられていたイギリスのチャーチル首相はアメリカが参戦して共に戦って
くれることが、どうしても必要であった。彼は自身の日誌にもその喜びを記し、日本軍
に追い込まれていた重慶の蒋介石にも「これで中華民国政府は、連合国側の有力な1国
となった。共に勝利に向かって戦おう」というエールを送っている。
1942年、東南アジアに戦線を拡大していた日本軍はミッドウェー海戦で大敗し、海上
航空勢力に重大な打撃を受けた。その後太平洋の島々で玉砕が相次ぐこととなる。この年、
後半から全面的に、連合国側の反攻が始まった。1943年2月スターリングラードでド
イツの大軍が敗れたことが転機となってソ連軍が反撃に転じた。5月には北アフリカで
独伊軍が降伏。連合国軍はアメリカのアイゼンハウアーを総司令官として、反撃のため
イギリスの国内に大集結していた。駐留したアメリカ兵は約150万人に上ったが施
設に収まりきらないアメリカ兵を収容するためのテントや仮設の兵舎が構築され、
その規模は大きな都市ほどもあった。これだけの人数なので食事の準備もアメリカ軍
だけで4500人の料理人と5万人以上の食事担当の要員が従事したが、食事の配給
を待つ兵士の列は毎食ごとに1㌔にもなったといわれている。イギリスから最も大陸
に近いのが、ベルギーの南のカレー海岸である。ドイツ軍はこの海岸を中心に海岸の
防衛線を固めていた。しかし、どこへ、いつ、上陸するのか、についての情報合戦
が展開されていた。
1944年6月1日。英国放送協会(BBC)のフランス語放送はフランス国内に向けて、
午後9時のニュース放送の中で突然「個人的なお便りです」といって、「Les sanglots longs
des violons de l'automne」(秋風のヴィオロンの、ふしながき、すすりなき)と、19
世紀の詩人ヴェルレーヌの詩「秋の歌」の一節を流した。それは翌日、翌々日と続いた。
これは、フランス国内の抵抗勢力に「近いうちに連合軍の大規模な上陸作戦があることを
知らせるものだった。
そして6月5日、午後9時15分から数回にわたって放送されたのが、詩の後半
「Blessent mon cœur d'une langueur monotone.」(もの憂き哀しみに、わが魂を痛ましむ)
この放送は、この放送された瞬間から48時間以内に上陸作戦が行われることを
伝えるものとなっていた。
しかし、ドイツ側にもこの符牒は傍受されており、同じ放送を聴取していたドイツ軍の
フランス駐留部隊はこれを解読、軍内に警報した。しかし、6月5日から3日間は嵐に
なるとの気象予報が流れ、嵐の間の上陸作戦はないと考えられていた。
連合軍は諸条件から、ノルマンディー上陸作戦を6月5日から7日のいずれかに定めたが、
その後の気象観測により、この3日間は嵐のために上陸作戦が難しいとの予測がなされた。
連合軍にとっては幸運なことに、そしてドイツ軍にとっては不幸なことに6月6日は一時
的に天候が安定するとの予測が出されたことを受け、上陸作戦は6日に決行された。
ドイツの占領に対して戦われたフランス人の抵抗運動は、国内では主としてフランス
共産党が組織し、海外ではロンドンで「自由フランス」を組織した。これらの抵抗運動を
総称してレジスタンスといわれている。国内のレジスタンス組織は、BBC放送を聞いて、
行動を開始、ドイツ軍の装甲部隊を海岸地帯に送る鉄道路線の破壊工作などを行った。
6月・7月鉄道の脱線・機関車の事故は600件以上に及んだとされている。
そして、上陸作戦はアメリカ・イギリス・カナダが、ノルマンディーの5つの浜に上陸した。
上陸用の小型船4100隻と戦闘艦1200隻を含む艦艇約7千隻、上陸を支援する航空機
約1万1千590機が参加した。その日の未明に空からパラシュートやグライダーの部隊が、
早朝に海から歩兵部隊が上陸した。
連合軍の死傷者は1万300人に及んだ。最も被害が出たのが、アメリカが担当したオマハピーチ
で、死傷者は2400人以上となった。しかしながら、この戦いは第2次世界大戦の連合軍の勝利
の流れを決定づけた。6月末までに連合軍は85万人以上の兵と、15万台近い車両を上陸させ、
8月にはパリを奪還した。そして、ナチス・ドイツからヨーロッパを開放する歴史的な成功を収めたと、
いわれている。作戦を指揮した。アイゼンハウアーは戦後、アメリカ大統領となった。
1944年6月6日、この時私は、中学1年生だった。地上最大の作戦といわれたノルマン
ディー上陸作戦だが、日本ではほとんど報道されてはいなかったから、私が知ったのは戦後
のことである。しかし日本は太平洋でアメリカ軍に攻め込まれて、この年の6月15日には
アメリカ軍の航空母艦10数隻、戦艦8隻、大型輸送船70隻にサイバン島が囲まれて、7月
7日には、日本軍守備隊約2万7000人は全滅。住民約1万人が戦死した。(バンザイ
クリフで自殺した人も多かった)そして、サイバン島陥落により、アメリカ空軍の日本空襲
が容易になった。
その時の日本は、国の存続が問われる寸前まで追い詰められつつあり、ノルマンディー
上陸作戦の対応どころではなかった。しかし、ノルマンディー作戦から80年たった今、
考えてみると、アメリカという国は、当時の同じ時期に、大平洋にもヨーロッパにも両面に、
強大な軍隊を出し、堂々と勝ち抜いていける力を持っていた世界一の強国であったといえる。
しかしながら、今はどうか。
今年2024年の6月6日。ノルマンディーの現地では、アメリカやイギリスなど各国政府が
主催する上陸作戦から80年目の式典が開かれた。このうち午前中に始まった式典では、イギ
リスのチャールズ国王やスナク首相、フランスのマクロン大統領が参加し、午後にはアメリカの
バイデン大統領やウクライナのゼレンスキー大統領も参加した。10年前にはこの場にいたロシ
アのブーチン大統領の姿はなかった。2022年2月、ロシアはウクライナに全面侵攻を開始。
状況は一変した。ノルマンディーは、欧米の首脳たちが再び「独裁者と戦う覚悟」を決意する
場に変わった。マクロン大統領はロシアを80年前のナチス・ドイツと重ね「侵略するロシア
と戦うウクライナ国民の勇気に感謝する」とたたえた。ウクライナのゼレンスキー大統領は誰
よりも大きな拍手を浴びた。
それではロシアとウクライナの問題に対してアメリカはこれからどう動くのだろうか。かつて、
1941年イギリスのチャーチル首相が参戦を待ち望んだアメリカの姿は、今はもうない。
マクロン大統領も「安全保障をアメリカにゆだねていた時代は終わった」として、アメリカ
に頼らないEU(欧州連合)の集団防衛の必要性を力説している。さらに欧州の多くの国が
共同して戦うことを決めたNATO(北大西洋条約機構)の原則を軽視してNATOからの
撤退もほのめかす、アメリカのトランプ前大統領が11月の大統領選で返り咲くことも
考えられる状況にもなってきている。
ノルマンディーの上陸作戦は、ナチスから欧州を開放しただけでなく、当時、北から欧州
になだれ込んでくるソ連の占領範囲を東ドイツまでで食い止めたともいえる。このことは、
この作戦が、アメリカがヨーロッパやアジアでその存在感を示す大きな意義を象徴してきた。
しかし今は変わった。イラクやアフガニスタンでの戦争は、世界におけるアメリカの役
割への不満につながった。ロシア、中国、北朝鮮、イランなどはアメリカの考える世界観や
世界秩序を大きく脅かしている。
ヨーロッパ各国は当然のことであるが、日本を含むアジアにあっても、今後の安全保障は
アメリカに依存しない形での、各国の分かち合い、と助け合いと結束がどうしても必要に
なってくると私は思っている。
ヴェルレーヌの詩「秋の歌」は放送された言葉の後は、次の言葉が続く
「Tout suffocantEt blême, quand
Sonne l’heure,Je me souviens
Des jours anciensEt je pleure;
Et je m’en vaisAu vent mauvais
Qui m’emporteDeçà, delà,
Pareil à laFeuille morte.」(時の鐘、鳴りも出づれば、せつなくも胸せまり、思ひぞ出づる
こし方に涙は沸く、落ち葉ならね、身をば遣る。われも、かなたこなた吹きまくれ逆風よ)
(訳・堀口大學)
私はアメリカ・中国・ロシアなどの大国に頼らず、ヨーロッパ各国とアジア各国のすべてが、
手を組んで、アフリカ・中東諸国も巻き込んで、本気で戦争をしない決意と結束が図られれば、
いつかは世界から戦争がなくなる日が必ず来ると信じている。その時、BBC放送はこの歌の
後半を流して、もはや戦争は過去のものになったことをここで示し、けじめをつけておいて
ほしいと思っている。
(2024年7月21日)