谷崎潤一郎没後60年記念展
―潤一郎終活するー
今年、2025年は文豪・谷崎潤一郎の没後60年に当たる。谷崎は79歳で亡くなる
まで、晩年には「老い」や「病い」、そして、「死」をテーマに作品を描き続けた。芦屋市
にある谷崎潤一郎記念館では、特別に6月8日まで谷崎の晩年をたどる展示が開かれていた。
私は6月4日の午後、阪神電車芦屋駅からバスに乗って記念館を訪れた。
この記念館は1988年に、開館している。芦屋は谷崎にとつて深いゆかりのある土地で、
芦屋に在住中に、最愛の松子夫人と結ばれ、ベストセラーになった「細雪」も舞台は芦屋
に設定されている。そして、通常には、直接原稿、書簡、美術品、初版本、などが
集められて展示されている。私は今までこの記念館には2回訪れているが、2回とも香
櫨園の自宅から歩いてきていて、阪神電車の芦屋駅からバスで行くのは、今回の特別展
示が初めてのことである。これは私自身が「老い」を強く感じる年齢になっていること
に他ならない。
バスを「緑町」で降りると、すぐ北側に谷崎潤一郎記念館があった。入館料は600円だが
65歳以上は300円だった。入館すると、入口近くに潤一郎が最後の時まで使っていた
文机が展示してあった。この机は吉川英治が使っていたものを寄贈されたといわれている。
私は着物姿で終活の文机に向かう文豪の姿を思い浮かべていた。
そしてこの記念展の展示は、展示室を右回りに『細雪』から始まった。記念展ではこの代表
作を「豊かな晩年へと向かう「一里塚」と位置付けている。79歳で亡くなった文豪。
当時としては珍しいほどの長命だった。晩年と呼ばれる終わりの時を迎えつつある時期も
長いもので、その間にも多くの作品を執筆し続けた。まさに豊穣の晩年ではあるが、これは
作家として人生の集大成であり、「死」への挑戦の営みでもあったのである。
『細雪』の連載が開始された43年当時、陸軍報道部の杉本和朗少佐から「緊迫した戦局下、
われわれのもっとも自戒すべき軟弱かつはなはだしく個人主義的な女人の生活をめんめんと
書きつらねた、この小説はわれわれのもはやとうてい許しえないところであり、このような
小説を掲載する雑誌の態度は不謹慎というか、徹底した戦争傍観の態度というほかない」と
非難され、連載は2回目で打ち切られ、「自粛的立場から今後の掲載を中止しました」という
お知らせが掲載された。しかし、谷崎は掲載が中止となっても、作品を書き続けた。戦争
が終わり48年12月に全編を完成させた。59歳だった。刊行完結となり細雪は、版を
重ねることになるが、この作品の後半執筆中には高血圧や狭心症が出始め、48年には
菊池寛の他、太宰治、47年にも織田作之助、横光利一など文芸作家が亡くなっており、
次第に文豪の創作の中心に据えられるのは「老い」や「病(やまい)」そして「死」の
問題が、中心となっていった。
そして次に、私の眼を引いたのは『少将慈幹の母—王朝の母恋い物語―』である。この作品
は49年11月から50年2月まで、毎日新聞に連載されていたのを、私が夢中で読んだ記憶
がある。王朝時代、80歳になろうかという國経は、若く美しい妻を,甥の権力者藤原時平に
奪われる。国経の息子慈幹は幼くして母と生き別れることになるが、その美しい面影はいつも
胸の中を去来していた。そして、何十年かを経たある春の夜、花の下で、今は老いて尼となった
母と再会した慈幹は幼童の頃のように、母の胸の中に顔を埋めるのだった。幼い時の谷崎は
母の乳房から離れるのが遅かったといわれている。乳房への思いが母親への思慕とつながり、
老いてもなお、乳房と性の意識が「母恋い」の作品を生み出したといわれている。
次いで、この部屋の右手奥に『鍵』の展示があった。56年に発表したこの作品は
「老人の性」の大胆な描写が「猥褻(わいせつ)か芸術か」をめぐり衆議院法務委員会で
論議された。女性の裸で横たわるお腹の上に「鍵」が載っている有名な鬼才の版画家、
棟方志功の挿画も展示されていた。話は、妻45歳、夫56歳、互いの日記を盗み見ては、
夫婦の性の快楽を高めるための刺激としていた。やがて、妻は、愛人との関係を日記に
書くようになった。高血圧症の夫が、嫉妬の刺激で過度に官能を昂らせ、快楽を引き金と
した「死の発作」に見舞われるように、妻が仕向けたのであった。高血圧症だった谷崎は
自分の死を考えるとき「快楽の極致の死」を考えていた。しかし、マゾ傾向もあった谷崎
の「快楽の極致」には「嫉妬」の最大限の刺激も必要としていた。このような「老いの嫉
妬」と「性」と「死」の三角形の中に『鍵』という作品があった。この作品には「相手が
死ぬかもしれないが、死んでも構わない」と思って殺害行為を行う、という「未必の故意」にも
当たる作品とされている。
そして、この部屋の左手側の展示は、61年、75歳の秋から書き始めた、『瘋癲(ふうてん)
老人日記』となる。60年に、若い時から親しかった吉井勇、和辻哲郎、そして61年には
古川緑波の3人の死は、谷崎に迫りつつある死を強く感じさせた。高血圧症や狭心症に悩む
主人公の卯木督助は息子の妻に「浅マシキ魅力ヲ感ジ」る。その女性のモデルは、松子
(3人目の妻)の息子(前夫の子)の嫁の渡辺千萬子だった。
谷崎は72歳のとき、義理の娘ともいえる千萬子にたいして「ぼくは君のスラックス姿が
大好きです……」といったラブレターが残っている。作品では千萬子は颯子という名前に
なっているが、颯子は浴室で卯木督助に脹脛(ふくらはぎ)から下を唇で吸わせた。「ソノ
ママズルズルト脹脛カラ踵マデ下リテ行ク」「予ハ跪イテ足ヲ持チ上ゲ、親趾(おやゆび)ト
第二ノ趾(ゆび)ト第三の趾トヲ口一杯ニ頬張ル」と「老人日記に書いている。そして
その代償として、卯木督助は颯子から帝国ホテルの高級宝石店に展示のあるキャッアイ
(猫目石)を3百万円(当時価格)で買うように請求され、颯子に買い与えることになる。
そのキャッアイを指にはめた颯子と卯木督助は京都法然院に墓を探しに行くことになった。
老人に一つのアイデアが生まれた。自分の墓に仏足石を彫ろうというのだ。その仏足石
の足型は颯子のものでなければならない。宿で老人はいやがる颯子の足の裏に朱墨を塗り、
ちょうど魚拓を作るような足型をとった。
何度も何度も良いもが出来るまで異常なまでに続いた。そして卯木督助は日記に次の
ように書いている。
「彼女ノ足ノ裏ヲ仏足石ニ彫ラセ、死後ソノ石ノ下に予ノ骨ヲ埋メテソレヲ以ッテ
予ト云ウ人間卯木督助ノ墓ニ代ラセル」「彼女ガ石ヲ踏ミ着ケテ『アタシハ今アノ老耄
(おいぼれ)爺ノ骨ヲ地面ノ下デ踏ンデヰル』ト感ジ」「ソノ石ノ下ノ骨ガ泣クノヲ聞ク、
泣キナガラ予ハ『痛イ,痛イ』ト叫ビ『痛イケレド楽シイ、コノ上ナク楽シイ、生キテ
ヰタ時ヨリ遥カニ楽シイ』ト叫ビ『モツト踏ンデクレ、モツト踏ンデクレ』ト叫ブ……」。
と、このような死後のことまでを、日記に書いている。
谷崎潤一郎記念展の終活の展示はこの『瘋癲老人日記』で終わるが、谷崎は、自分自身
の女性遍歴とセックススキャンダルを小説のネタにしつづけてきた作家である。終活と
して「死」に関する作品を書く場合でも、自分や家族のプライバシーを露わにしてきた。
これはよほど強靭な精神がないと出来ないことである。私は谷崎こそ人並はずれた
性と創作へのエネルギーを持ち、終活の作品といえども、「女性」と「性欲」が結び
ついて、それが創作への強い執念となって、大文豪谷崎潤一郎をかたち作ったものと
考へている。
今回の記念展には、名前が出ていないが、谷崎の晩年の心境や死生観などを知る上
で欠かせない、一人の女性の存在があったのである。それは谷崎の晩年に、口述筆
記を担当していた秘書、伊吹和子である。
53年、当時68歳だった谷崎は右手を痛めて自筆では書けなくなったために『新譯
源氏物語』以降の作品制作は口述筆記となった。そのとき伊吹和子は24歳、京都大学
文学部国文学研究室に勤務していたが、国文学者澤潟久孝の紹介で、谷崎と相まみえる
ことになった。以後12年の長きにわたって、女性好きで極端に我儘で神経質な谷崎
との、神経をすり減らすような、きわどい交際を続けることになった
のである。しかし伊吹和子は谷崎の亡くなる最後まで秘書、口述筆記者としての役割を、
正に谷崎と一心同体となって、その職責を見事に果たしたのである。
伊吹和子は谷崎没後、谷崎との仕事や思い出を書き始め、94年それを単行本
『われよりほかに』という題名で出版した。この本は日本エッセイスト・クラブ
賞を受賞している。
私は今回の記念展にあわせ、この本を購入し、谷崎の終活作品である『瘋癲
老人日記』の口述筆記をする記述を読み、伊吹和子と谷崎の状況や、その思い
が良く分かった。『瘋癲老人日記』で、伊吹和子は次のように
書いている。
「内容はかなり刺激的な個所が多い。先生(谷崎)はひそかに、私が性的な表現
に戸惑うことも期待しておられたのかもしれない。しかし、私がひとかけらでも
私的な情緒をさし挟んだら、原稿筆記は成り立たない。
一瞬たりとも書き手が機械でなくなったら、先生は作家ではなくなり、わがまま放題
のただの老人になってしまわれるに違いなかったのである」と、自らは筆記の機械
に徹して、谷崎に接していた様子がうかがえる。
そして「瘋癲老人が颯子の足型の墓石の下で踏まれて『生キテヰタ時ヨリ遥カニ
楽シイ』『モツト踏ンデクレ』と叫ぶような愉楽に身を委ねられる死は,『瘋癲老
人』には決して訪れてはくれないであろう。彼は性と生とへの執着に身をさいなまれ、
徒らに痛みに悶え続けるうち、やがては『死』を想像することさえ快楽どころか、
苦痛と恐怖とだけを齎すものに変って行ったに相違ない。
救いのない「瘋癲老人」に似て先生(谷崎)はまだこのうつし世に、果てしない
苦しみを負い続けて行こうしておられた。それが先生にとつての創作の意味で
あった」と伊吹和子は書いている。
伊吹和子が口述筆記を通じて感じたことは、本当は死んだ後、踏みひしがれる快楽
などは、決して訪れてくれことはない。そんなことを夢想していると、快楽どころか
苦痛と恐怖に変わっていく。谷崎が死後の快楽を夢想したのは、面白いものを
書きたいという創作意欲を、終活の作品でも持っていたからで、本当は。生きて
いる限り「老い」「病い」などの苦しみを負い続けていこうとしていたのだ。と、
私は伊吹和子の文章をこのように解釈した。
1965年7月30日、腎不全から心不全を併発して文豪谷崎潤一郎は湯河原の
湘碧山房で79年の生涯を閉じた。晩年「病い」の苦しみを負い続け、「瘋癲老
人」には死を与えず快楽を夢想させた谷崎にとって、この死はむしろ「救済」と
感じていたのかもしれない。2015年、伊吹和子は86歳で亡くなっている。
帰り、93歳の私は谷崎潤一郎記念館を出たとき、香櫨園の自宅まで歩いて帰るか
どうか迷った。無理せずに阪神電車の芦屋駅まで北に向かって、芦屋南部の住宅地帯
を歩くことにした。
(2025年6月25日)