宝塚海軍航空隊と.その第16期生徒の遭難
先の大戦中、私の住んでいた西宮の周辺は昭和18年頃から急に軍事施設化が進み始めた。
よく行っていた鯨池のあった浜甲子園の阪神パークが、競馬場、ゴルフ場、南運動場と
一緒に取り壊され、海軍の飛行場となった。
武庫川の河口にあった川西航空機の会社が海軍の次期戦闘機「紫電改」の製造工場に指定
され、鳴尾村は、工員宿舎、病院、交通機関整備などで、急激に拡張を始めた。
私の通っていた甲子園の甲陽中学に陸軍暁部隊が昭和19年秋より駐屯を始めた。暁部隊は
甲子園球場、香櫨園の甲陽高等工業専門学校、浜脇国民学校にも駐留して西宮は軍隊の町に
なった。そして阪急甲陽園駅裏山から北側山地一帯にかけて7か所の大規模な海軍壕が掘り
進められていた。
海軍の予科練習生は、航空機の操縦技術を習得し将来の飛行士官を養成する目的で昭和5年
に発足したが、先の大戦が始まった昭和16年には、大量の操縦士の養成に迫られ、予科練に
特化した航空隊は、土浦・霞ケ浦だけではなく岩国・三重・滋賀・鹿児島など、最終的には
19か所に増えた。このうちの三重航空隊の分遣隊として西宮の関西学院の校舎に駐在した
のが、西宮海軍航空隊であり、滋賀航空隊の分遣隊として、宝塚歌劇の大劇場を座学教室
にして、その廊下のすべて、ダンス・舞踊練習室、楽屋、食堂などに2段ベツトを置いて
駐在し、宝塚ゴルフ場を陸戦用練兵場として接収したのが、宝塚海軍航空隊だったのである。
戦局が危急となり、宝塚歌劇団に公演停止命令が出されたのは昭和19年の3月4日だった。
春日野八千代主演の雪組『桜井の駅』『勧進帳』『翼の決戦』の公演中だった。あと2日間で
公演打ち切りを発表した。フアンが押し寄せ、その列は劇場から阪急宝塚南口駅まで
続いたほどだった。大劇場と周辺施設すべてを海軍航空隊に明け渡した宝塚の生徒やスタッフ
たちは、移動演劇隊を結成して、国内だけでなく、満州や樺太にまで慰問の旅に出た。また
勤労挺身隊として川西航空機などの軍需工場で働くことになった生徒もいた。
6月1日付で海軍に接収された宝塚の施設は大竹海兵団の先遣部隊が設営に当たった。その中に
32歳で徴兵された、後に映画監督になった新藤兼人がいた。彼らは老兵とも呼ばれ、雑用使役兵
だった。彼らは歌劇場を、送られてくる若き予科練生のために急速に改造しなければならなかった。
そして8月25日には滋賀海軍航空隊宝塚分遣隊として、海軍予科練習生第十三期生約千名が入隊
してきた。続いて12月1日に第十四期生約千人が入ってきた。昭和20年3月には宝塚分遣隊は
独立して宝塚海軍航空隊と改名した。しかしながら、国内の軍用機生産が相次ぐ空襲の打撃を受け
たため、飛行練習過程が凍結となった。第十三期生の一部は飛行特攻隊となったが、他の全員には
特攻兵器回天(人間魚雷)の隊員の募集を言い渡された。そして志望者から2百名が選ばれて、
回天練習基地へと送られていった。他の第十三期生徒は卒業して軍に転属されていった。
第十五期生は西宮海軍航空隊と分かれて約千人が入隊してきたが、昭和20年6月からは最
後の予科練と言われる第十六期生が、大量採用で何回も分かれて入隊してきて、6千名近く
が宝塚航空隊に入隊したといわれている。
私はこの宝塚海軍航空隊に深く関心をいだいて、2冊の本をネットで調べて購入した。一つは
文芸春秋刊、栗山良八郎著作の『宝塚海軍航空隊』で、海軍下士官増田勝男という宝塚海軍航
空隊の指導教官を務めた人の大学ノートに書き記された日記をもとに書かれた長編小説である。
その中で選ばれ特攻基地に向かう2百名の選抜された特攻隊員を、残る8百名が送る様子を
次のように書かれている。
「夜空に月はない。選抜された2百名が、『それでは、お前たちの武運長久を祈る』という
分遣隊長の言葉をあとに隊門を出、人の背丈ほどの高さの花のみちを上がっていった。
見送る側は白い事務服だったが、彼らは紺の七つ釦の第一種軍装である。虫に食われて
醜く黄ばんだ葉桜も、今はただくろぐろと頭上に覆いかぶさり、征く者の列を濃い闇のなか
に包み込んでいた。
先頭が進むにつれて、土堤下いっぱいに白い服の群れが移動して行った。
花のみちの2百名と、その下の8百名の靴音だけがザックザックと続いた。散り重なった
枯葉が踏みつけられて乾いた音を立てた」
もう一つは第三書館刊、木下博民著作の『宝塚最後の予科練』で、これは昭和20年8月2日
に戦死した第十六期の形谷和久練習生の残された日記を中心に、宝塚予科練の鳴門遭難事件を
ドキュメンタリー風に描かれている。
それによると、17歳になっていた計谷和久は昭和20年6月15日に858名の同期と共に
宝塚航空隊に入隊している。翌16日錬兵場で入隊式、その日、2千㍍駆足訓練を受ける。居住
区は大劇場の食堂が温習室(勉学室)になり、各階の廊下の2段ベッドが寝 室になっていた。
6月19日、配食棚が汚いと、主計兵から食卓番総員がアゴ一発殴られている。殴られ初めと日記
に書いている。
7月に入り温習の他、手旗信号訓練、銃剣術訓練が激しく行われる。その合間に軍歌演習なども行
われる。7月の半ばとなると、日本本土近海はすべて敵。空母を含む機動部隊が出没し艦載の敵戦闘
機が、本土上空を飛び回るようになってきた。7月16日には戦備作業として、伊丹の飛行場に誘導路
堀りに出かけ、日本の飛燕や彗星を近くで見る。その時敵機来襲待避。週番担当がボサットしたため、
総員バッター(尻を打つ制裁棒)2本の上、靴でアゴを殴られて、痛かった。と書かれている。この月、
即成の少年兵であったが、2等飛行兵から、1等飛行兵に進級した。軍服には階級章が付いた。同時
に宝塚航空隊には、新しく第十六期の8次組2千余名が入隊してきた。
本土決戦が迫る中、海軍大阪警備府では旧巡洋艦「春日」の20㍉砲を転用して鳴門海峡を望む淡路
島の阿那賀伊比に砲台陣地を作る計画をたて、その作業要員を宝塚航空隊に下令してきた。宝塚航空隊
では指導要員25名。班長として第14期から40名、そして第十六期からは作業隊員4百名を選抜した。
計谷1等飛行兵は、この砲台陣地構築の本隊の一員となって、7月31日に宝塚を出発することが
決まった。その前日大劇場の舞台で、宝塚歌劇団が送別演芸会を開いてくれた。『若鷲の歌』『うみゆかば』
ラジオ歌謡『お山の杉の子』を一緒に歌ったとある。そして日記の予備欄に次の歌を詠んでいる。
魁(さきがけ)テ飛ベヤ若鷲 我モ又
花ト砕ケテ後ニ続カン
そして2百名の仲間と共に宝塚を出発し、岡山・宇野から高松に渡り鳴門の撫養(むや)につき、芝居小屋を
借りて一泊する。ところが翌日、気帆船の手配ができず、もう一泊、となる。計谷の日記は8月2日、朝礼後、
また浜へ駆け足させられた。「気分ワルシ、スグナオル」で終わっている。
彼らを淡路島に運ぶのは、民間の木造小型気帆船であった。2隻に分乗してわたる手はずとなった。先発の
船は「住吉丸」といった。船長は41歳、機関長は18歳、船倉の上に丸太を渡しそれを頂点にして舷側から
幅50㌢の板を屋根型に並べ、板と板の間を少し開けて換気をするという荷物専用の人間を運ぶことなど考えて
いない船である。しかも、船倉の両側に衣服袋を集めてその中に100人を立たせたままで詰め込んだ。わずかに
見張り員数名と上官が甲板に出ていた。分隊長の杉本静大尉は船橋で軍刀を両手に支えてぐっと、前方を睨んでいた。
後発の機帆船は機関故障で少し出港が遅れることになり、先発の「住吉丸」が先に出航した。警戒警報は出ていたが、
それが空襲警報に変わったのは「住吉丸」が出航した後だった。阿那賀港を目前にした鎧崎(よろいさき)沖に
おいて、突然、アメリカの戦闘機2機(P51といわれている)が「住吉丸」に襲いかかった。敵機の機銃掃射により
杉本大尉は船橋にて軍刀を握ったまま戦死。機銃掃射は2・3回繰り返され、船倉に詰め込まれていた練習生も相次いで戦死した。船倉は血の海となり、贓物が飛び出した死体や、死にきれない人間がうごめいていた。機関室の油タンク
に火がついて燃え上がつた。「海に飛び込め」と指示する士官がいて、動ける者は海に飛び込んだ。飛び込んだ者の
中には何とか岸に泳ぎ着いて助かった者、また救出された者もいれば、鳴門の潮に流されて亡くなった者もいる。
そして、敵機が去った後、燃える船からロープを投げてもらい船に戻り、生き残った者たちで、食用の缶で、海水を
くみ上げ、船の消火に当たり、何とか船の沈没だけはまぬかれた。
「住吉丸」は阿那賀港に曳航され、遺体は春日寺に収容された。亡くなったのは、船長、機関長を含め82名となった。遺体は地元でアカの谷と呼ばれる斜面に仮埋葬されたが、戦後の昭和23年、生き残った隊員の尽力で、兵庫県民生部は仮埋葬の遺体を発掘、火葬の後、各遺族に遺骨を届けた。
淡路島出身の三洋電機の井植歳男社長は英霊墓地の建設を決意、各界に賛助を依頼し鎧崎の桜ヶ丘に地元住民の協力を
得て、昭和40年5月27日、彰忠碑と82名の墓標が完成した。宝塚歌劇団を招き『若鷲の歌』『すみれの花咲く頃』
が歌われた。そして、昭和42年10月5日、住友銀行の堀田庄三頭取らの提言により10万人以上からの100円募金が集められ、墓地の正面に慈母観音菩薩像が建立されている。
今年、令和7年5月1日。私は甥(亡妻の弟の長男)のサトシ君の運転する車で明石海峡大橋を渡り、淡路南インターから、一般道を北上し鎧崎の桜ケ丘英霊墓地を目指した。春日寺の前を過ぎ、海に面した阿那賀の町を過ぎると、北側に小高い丘がある。そこが桜が丘なのだが、海岸に沿って進み標識に従い石段を上がるか、それとも右の山側から回り込むかである。
サトシ君は右に坂を上がり、桜ケ丘墓碑にかなり近づいて車を止めた。墓碑はまるで予科練生が整列しているように、中央の慈母観世音菩薩像の右40墓碑、左40墓碑に分かれて整然と並んでいた。「住吉丸」の船長と機関長の碑もその中にあった。
そして正面左側にはまるで訓示をしているように分隊長・杉本靜大尉と松本秀一少尉の墓碑がこちらを向いて建っていた。碑面には、正面に官、氏名、没年、右側面には出身地が彫られていた。20歳以下の人の年令は、14歳1名、15歳18名、16歳17名、17歳21名(計谷練習生を含む)、18歳6名、19歳11名となっていた。サトシ君はバケツに水を汲んできて全部の碑に水をかけて、哀悼の意を表していた。私は14歳の人がいるのに驚いた。昭和20年には私も同じ14歳であったからである。甲種飛行予科練習生は昭和18年から中等学校3年修了程度で志願できるようにはなっていた。優秀な人ですでに中等学校3年の修了過程を済ましていた人かもしれない。私は慈母観音像に向き合って立ち、『若鷲の歌』に続いて『すみれの花咲く頃』を口ずさんでいた。
この日、淡路島を縦に走るドライブウエイを往復したが、天気も良く快適なドライブであった。私がエッセーを書くことを知っているサトシ君は「エッセーが書けたら、ぜひとも読ませてほしい」と真剣な顔つきで言った。
(令和7年5月25日)