82年前に見た映画に思う
―空の神兵―
1942年(昭和17年)2月15日の午後5時、ラジオから大本営発表が流れた。日
本陸軍の落下傘部隊が降下して、インドネシア・スマトラ島のパレンバンの石油基地を
攻撃し、ほぼ占拠した。との発表であった。そして、海軍の落下傘部隊はセレベス島のメ
ナドに、1月11日降下していて、メナドの町とランゴア飛行場を占領していたことも
その時に報じられた。
国民学校4年生だった私は、日本軍に落下傘部隊があることをその時はじめて知った。
勿論、戦闘機の飛行士が落下傘を背負って搭乗していることは知ってはいたが、それは
緊急時の脱出用であり、大勢で舞い降りて、敵を集団で攻撃することなど、当時は想像
もしていなかった。
その年のうちに映画「空の神兵」が陸軍省の協力の下に日本映画社から制作され封切ら
れた。当時西宮には東宝系と松竹系の映画館が2館あった。が、私がこの映画を観たのは戦
時中、この年に新しく西宮北口にできた日本最初の航空施設「航空園」の催場(ホール)
だったと思う。その催場の横には、落下傘塔ができて、開いた落下傘をそのまま人を吊るして、
一定の高さまで引き上げ、そこから降下させた。これは大変な人気となっていた。そして同
時に「空の神兵」の歌ができた。作詞者の梅木三郎はそれまでの軍歌調でなく、青い大空に
白い花が咲く美しいイメージで一番を作詞した。その歌詞を見た作曲者高木東六は「その瞬間、
頭の中にさわやかなイメージが、ひろがったのです」と語り、すぐに美しい旋律を作り上げた。
藍(あい)より蒼(あお)き
大空に 大空に たちまち開く百千の
真白き薔薇(ばら)の花模様
見よ落下傘空に降り 見よ落下傘空を征く 見よ落下傘空を征く
私はこの歌を今でもすぐ歌うことが出来る。そして、今でも落下傘の降下訓練を続けている自
衛隊の第一空艇団に引き継がれ、実際に空挺団の団歌となって演奏されて、隊員により歌われ
ている。
今年の1月の半ばのある日、偶然、ユーチューブを見ていて昔の映画「空の神兵」を見つけた。
陸軍落下傘部隊訓練記録として1942年(昭和17年)の作品で、55分の映画であった。
その映画は82年前、私があの落下傘塔のあった「航空園」で見たものと同じであった。
映画は落下傘兵を志望する若い兵隊たちを集めての、訓示の場面から始まった。改めて
私が、気が付いたことは、この映画には俳優は一人もいないことだった。出演しているのは
みんな当時の本物の落下傘兵であった。また、使われている落下傘も降下服も当時使われて
いたもので、九七式輸送機(中島AT2)や九四式拳銃・九九式短小銃・九九式軽機関銃・
九二式重機関銃・九七式自動砲・一〇〇式火焔放射機・九四式三十七粍砲などの武器・兵器
類も実物が登場していた。
私は「これは貴重な戦争の資料だ。あのニュジーランドの戦争博物館に出展すればよいのに……」
と思った。2017年に、日本の「ゼロ戦」の実物はじめ、世界中の古今の戦争資料が集められた、
オークランドの丘にそびえる戦争博物館に行った印象が深かったからである。
映画は高いところから、飛び降りる訓練に始まり、飛び台を超えてマットに頭から転がり
込む訓練などを経て、実際の輸送機の胴体部分から、両手を挙げて飛び降りる訓練に入る。
そして最後に大空を進む輸送機から順番に降下する訓練になる。落下傘は折りたたまれて、
それを胸につけている。折りたたみ方
を間違えると、開かないかもしれない。「もし傘が開かなかったら……」と不安を日記に書き
記している兵隊もいた。しかし演習本番となると。みんな元気に次々と飛び降りて、青い大空に
純白の花を美しく咲かせていった。落下して着地する場所にいる指導者の兵隊から、声をかけられ
て、着地の姿勢が悪い場合は修正される。そして、落下後、素早く落下傘を脱ぎ、別の場所に落下
している、小銃、機関銃、小型の大砲まである武器を探し、それぞれが武器を取ると直ちに戦闘演
習に入り、決められた地点まで突撃する訓練をして、この映画は終る。
随所に「空の神兵」の曲が入り、私も82年前に、見たことを思い起こす場面もいくつかあって、
どこか懐かしい感じがしたのは確かであった。
この映画のような訓練を受けた落下傘兵たちの実際の戦いはどうであったのだろうか。ネットに
記されている記録によると、1942年、2月14日、落下傘兵たちは、当時マレー半島にあった
陸軍基地から輸送機に搭乗して飛び立った。「エンジンの音 轟轟(ごうごう)と隼はゆく 雲の果て」
の軍歌で有名だった、加藤隼戦闘機隊が輸送機を護衛して共に飛び立った。目指すのは蘭印(オランダ
支配下のインドネシア)パレンバンの石油地帯の占領確保である。勿論陸上部隊もスマトラ島へ上陸して
石油地帯へ進む。が、地上部隊だけでは、到達するまでに時間がかかり、その間に、石油の設備を破壊
される恐れがあった。それを避けるためにも。まず落下傘部隊が先に奇襲占領する必要があったのである。
蘭印の石油の1939年生産量800万㌧は当時の日本の年需要量500万㌧を上回っていた程で、生産
量は充分であった。
落下傘兵たちは、陥落寸前のシンガポールから立ち上がる黒煙を眺めながら、パレンバン上空に達し、
市街地北方にある飛行場の東西両側の湿地帯に次ぎ次と輸送機から飛び降り、パレンバンの空に純白の
花を咲かした。それを知った英、豪。蘭の連合軍は装甲車部隊500名を市街地から到着させて激戦と
なった。が、降下部隊はその日の夕刻までに飛行場を確保し、続いてパレンバン市内に突入、おりしも
到達した地上部隊の先遣隊とも合流、協力して石油地帯にある石油工場の全部の設備を、2月15日に
は占領した。放火により一部の石油設備に火災が発生したものの、大規模破壊は避けられ、この奇襲作
戦の目的は完全に達成した。パレンバンの落下傘降下人員は、329名であった。が、39名が戦死して
いる。そして、戦傷入院兵37名、戦傷在隊兵は11名だった。と、されている。
私は映画「空の神兵」を見て、先の大戦について、強く思うのは、日本が戦争を始めた最大の動機は
石油資源の獲得。特にアジアの中にある、蘭領インドネシヤの石油地帯の占領確保だったのではないか。
勿論戦争の理由は他にも色々あり、資源も色々あることは、分かっている。しかし、あの時点で考えれば
何といっても「蘭印石油獲得」が一番必要な事ではではなかったのではないか、と、私は考えている。
そして、それならば「蘭印石油地帯」を落下傘部隊の力を借りて占領確保したあの時点で、目標は
達したのだから、なぜ戦争を終わらせるように働きかけに、最大の努力をしなかったのか。あの時点
とは、落下傘部隊の降下作戦が成功した1942年2月15日であり、ちょうどその日は同じく、
日本軍がシンガポールを、陥落させた日であった。
戦果を上げた直後の終戦工作。これは極めて難しい。しかしながらこの時点こそ、終戦工作をする場合の、
最良絶好のタイミングなのであった。先の大戦の場合でも、この2月15日から4か月後の6月5日から
6月7日にかけて行われた、ミッドウエー島周辺の大海戦において、日本海軍は空母4隻・巡洋艦1隻を失い、
兵員3千人以上を失う大敗北を喫し、大平洋の制海権・制空権をアメリカ軍に奪われて、せっかく占領確保した
「蘭印石油」もインドネシアから、外へ運び出すことが出来なくなってしまうのである。
戦果を挙げた直後、必死の思いで終戦講和に結び付けられた例は、あの「明治三十七・八年戦役」日露戦争
であった。開戦当時日本の戦力は、強大な軍隊を持つロシアに比べ、1年が限界、1年以内に戦争を
終わらせなくては、弾薬・武器・兵員補充ともに完全に底をつくといわれていた。陸軍が最後に残った、総力
を集めて戦ったのが奉天大会戦であり、海軍が最後にありったけの力で挑んだのが、日本海大海戦だった。
本当に「皇国の興廃この一戦にあった」のである。戦果が勝利となると、この時とばかり、日本政府は直ちに、
当時急速に成長し、国際的権威を高めようとしていたアメリカ大統領に対し、駐米公使を通じ、外交文書で、
日本とロシアの講和への友誼的斡旋を申し入れた。
しかしロシア側は強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘で敗れただけで、ロシアは負けてはいない。まだまだ
戦争継続も辞さない」と主張していたため、交渉は暗礁に乗り上げていた。会議はアメリカのポーツマスで行
われていたが、なかなか結着が付かず17回を数えた。結局、両方の軍隊は鉄道警備を除き満州から撤退、朝鮮
半島のロシアの優越権を日本に渡す。樺太の南半分を日本に譲渡する。あと満州の鉄道・炭鉱・関東州・沿海州
の漁業権を日本に与える。ことなどでやっと決着した。しかしロシアからの日本に対する賠償金は一切支払われ
ることはなかった。このことは「弱腰外交」として日本国民大衆の憤慨を高め、大阪朝日、東京朝日、万朝報、
報知などの有力新聞は一斉に「講和条約反対」の記事を載せた。日比谷で焼き討ち事件が発生、東京で戒厳令が
施行された。政府は日本の国力が限界を超え、戦争を継続できないことを公表できなかったのである。公表
すればロシア側は戦争継続を唱え、終戦に応じなかったであろう。
戦争を、終わらせることは、極めて難しいことである。しかし、戦争を始めた以上は、終わらせるタイミングを
常に考えておかねばならない。日露戦争の時は首相の桂太郎は内閣解散となっても、また交渉の全権となった
外相小村寿太郎は命を狙われても、戦争を終わらせた。それでは1942年2月、蘭印石油占領獲得の時点では、
戦争の先行きに危機感を持つ者はいなかったのか。日本は米英との開戦は「短期に勝負して早く戦争を終わらせる」
方針で始めたのであった。当時、近衛首相にアメリカ駐在武官が長かった司令長官山本五十六は日米が戦えば「初め
の半年や1年は随分暴れてご覧に入れる。しかし2年3年となれば全く確信が持てぬ」として戦争の回避を強く進言
していたと、近衛日誌に記されているが「早期終戦」を貫くべきだったのである。講和を斡旋してくれる有力な国
もないまま、悲惨な流れが続き、大平洋の島の守備隊は玉砕に追い込まれ、本土の200以上の都市が焦土と化し、
広島・長崎は原爆で崩壊した。あの落下傘降下の後で、直ぐに戦争を止めていたら、その後の日本の歴史は大きく変
わっていたことであろうと私は、思いをつのらせていた。
その時、パソコンのユーチユーブから、自衛隊習志野駐屯地音楽隊の演奏する曲が流れて来た。第一空挺団団歌「空
の神兵」だった。私は声高く、歌を唄っていた。
敵撃催(げきさい)と舞降る 舞い降る
まなじり高き つわものの
いずしか見ゆる おさな顔
ああ純白の花負いて
ああ青雲に花負いて
ああ青雲に花負いて
(2026年2月26日)