私の8月
―私には昭和20年の8月しかないー
その時、中学2年生で阪神電鉄の社員証をもらい学徒勤労動員中であった。足にゲートル
を巻き、戦闘帽を被り「甲陽学徒隊」の腕章を巻き、懸命に働いていた私の上に何が起こり、
そして日本国はどうなっていったのか。
昭和20年8月5日深夜から6日未明にかけて、アメリカ軍爆撃機B―29,130機に
よる西宮南部の(鳴尾・甲子園・今津・用海・浜脇・香櫨園)住宅密集地帯の油脂焼夷弾
による爆撃により、一気に焼失した住居から一家5人が脱出。私は一人になり一時火に包
まれるが、何とか逃げ切ることが出来た。
8月6日。広島に原子爆弾投下される。市街地が壊滅し、約14万人が死亡。
8月7日。吹田市千里山の親類宅に一家5人寄寓し、私は勤労動員先の阪神電車尼崎工場
に出勤、そこから空襲の後始末の手伝いとして、甲子園球場に入る。球場のグランドに
一斉に突き刺さっている、焼夷弾を見て「まるでハリネズミの背中のようだ」と思う。その
時グランドで、他の学生と共に油脂焼夷弾の不発弾一発を解体し、ナパームの油の袋を
取り出す。
8月8日。ソ連が対日宣戦布告をする。ソ連が日ソ中立条約を破棄し、日本に宣戦布告。
同日深夜、ソ連軍が満州(中国東北部)に侵
攻開始する。
8月9日。長崎に原子爆弾投下。約7万人が死亡。同日、御前会議で日本政府内の終戦論
が本格化する。
8月14日。天皇が聖断し、日本政府が連合国の「ポツダム宣言」を受諾することを決定。
しかし、この8月14日の昼、アメリカ軍B―29爆撃機145機が陸軍大阪砲兵工廠
(今の大阪城公園一帯)を爆撃、京橋駅にも一㌧爆弾が落下、死者359人、行方不明者
は79人に及んだ。私はこの時、大阪梅田にいて、空襲の爆発音を聞いた。
8月15日。天皇が、ラジオで国民に対し、日本の降伏と戦争の終結を伝える。日本国民
の多くが、初めて天皇の肉声を耳にした。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」の一節
は確かにその通りであり、とにかく耐え忍ぶより他はなかった。
その放送の時、私は父と西宮空襲の家の焼け跡にいた。同じ近所で焼け出された八木さん
のお父さんがきて、「今、変な噂が広がっています。日本が負けた。というのです。甲子
園の暁部隊に確かめに行こうと思っています」と言って立ち去った。私の父は「今日は
天皇の特別放送があるということだったからな。とうとう負けたか」といった。その日、
新聞は「日本四国宣言を受諾(ポッダム宣言)」という記事を一斉に流した。
8月15日・16日。宮城事件があった。日本の降服を阻止しようと企図した将校達は
近衛第一師団長森赳(たける)陸軍中将を殺害、師団長命令を偽造して近衛歩兵第一連
隊を用いて宮城を占拠した。しかし、陸軍首脳部・東部軍管区の説得に失敗した彼らは
日本降伏阻止を断念し、一部は自殺し残りは逮捕された。
8月16日。陸軍大臣・阿南惟幾の自決が明らかになった。(実際に切腹したのは15日
未明)。私はこの日、阪神電車尼崎工場に出勤したが、学徒動員は解除となり、翌日より
中学校に復帰することが決まる。
8月19日。連合国軍と日本の降伏に関する直接交渉が開始。連合国代表が、降伏手
続きの詳細や占領に関する事項を協議。
8月21日。日本政府、GHQ(連合国軍最高総司令部)の指示に備える動きとして
戦争犯罪人(A級戦犯)の逮捕準備を進める。
8月22日。敗戦に対して一般人の殉死が続いた。尊攘義軍、茂呂宣八など10名
が東京の愛宕山山頂で、手榴弾で集団自決。会員の妻3人もピストルで後追い自殺
した。
8月23日。明朗会、酒井忠弘ほか12名は皇居の祝田十字路で毒薬およびピストル
自殺する。また、8月25日には、大東塾、影山庄平ほか13名が、代々木の練兵
場で一斉に割腹自殺。「事成らず、ついに今日に至りしなり」との自刃の趣意書を残す。
ソ連軍が満州や樺太に侵攻、日本人開拓団および日本人居留民は混乱のなか大量避難
する。そして、捕虜となった日本兵がシベリアへ送られ始める。
8月25日。連合国軍が占領軍として日本に進駐してくると、日本人の若い女性に性的
被害が及ぶのではないかとの思いから私の両親は、姉の逃避疎開先を検討し始める。
8月28日。連合国軍、厚木飛行場に先遣隊を派遣。アメリカ軍の先発隊が日本
本土に初上陸して、日本の占領が事実上始まった。
8月30日。ダグラス・マッカーサーが連合国軍最高司令官として厚木飛行場に到着。
東京に入り、皇居堀端の第一生命ビルを占拠して、GHQ司令部を設置した。
昭和20年8月の一日一日は、今まで経験したことの無い、またその後も経験すること
もない、大事件の日々の連続であった。なぜこのような8月を迎えるに至ったのか。
その時々の日本の実際の雰囲気を伝えるためにその時に日本人の歌っていた歌も入れて
説明してみたい。
昭和16年12月8日。「臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、十二月八日
午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦
闘状態に入れり」とラジオが報じた後、軍歌が流れ、やがて真珠湾攻撃の戦果を報じた。
そして、しばらくして次の歌が流れ始めた。
歌の題は「進め一億火の玉だ」。作詞、大政翼賛会、作曲、長妻完至であった。
行くぞ行かうぞ ぐゎんとやるぞ
大和魂だてぢゃない
見たか知ったか底力
こらへこらへた一億の
かんにん袋の緒が切れた
そうだ一億火の玉だ
一人一人が決死隊
がっちり組んだこの腕で
守る銃後は鉄壁だ
何がなんでもやり抜くぞ
進め一億火の玉だ
行くぞ一億どんと行くぞ
本当に勝てるのか? 開戦当時国民学校生だった私でさえ、本気でそう思った。こう
なったら、皆で火の玉になって突き進むしかない。私だけでなく、殆どの日本人は
そう思ってこの歌を唄っていたに違いない。むしろ上層部の山本五十六連合艦隊司令
長官などはアメリカ駐在武官の経験から、実際の国力の差を充分理解しており、日米
が戦えば「初めの半年や1年は随分暴れて御覧に入れる。しかし2年3年となれば
全く確信が持てぬ」と語っており、戦争が長期になれば、日本は危ないと思って
いた人もいた。しかし、負けると分かっていても戦争を止められなかった。
「かんにん袋の緒が切れた」からだった。誰のかんにん袋なのか?……。
緒戦は確かに香港・マレーシア・シンガポール・インドネシア等を占領し各地に進出
した日本軍だったが、昭和17年6月のミッドウェー海戦では、航空母艦4隻喪失・
重巡洋艦1隻喪失・重巡洋艦1隻大破・駆逐艦1隻大破。飛行機289機喪失という
大敗を喫しているが、これは日本国民には本当のことは知らされなかった。しかし、
昭和18年2月ガダルカナル島の戦いでは、アメリカ軍の攻勢に撤退を余儀なくされ
「撤退」を「転進」と言い換えて発表している。
昭和18年5月29日。アッツ島守備隊の最後の全員攻撃、玉砕を契機に太平洋諸
島へのアメリカ軍の反転攻勢で。日本軍の玉砕が相次ぎ。次のような国民歌をみんな
歌っていた。「アッツ島血戦勇士国民歌」。作詞、裏巽久信、作曲、山田耕筰
刃凍る北海の
御楯と立ちて二千余士
精鋭こぞるアッツ島
山崎大佐指揮を執る
火砲はすべて摧け飛び
僅かに銃剣 手榴弾
寄せ来る敵と相搏ちて
血潮は花と雪に染む
昭和18年から昭和19年にかけて攻勢は一層激しくなり、タラワ・マキン島、
マーシャル群島、クエゼリン・ブラウン環礁、ビアク島、サイパン島、テニアン
島、グアム島、アンガウル島、ペリリュー島と続き、昭和20年になると、ニユー
ブリテン島、硫黄島、そして、6月23日には沖縄島の守備隊の戦闘が終わり、
玉砕が報じられるようになった。
昭和20年3月10日の東京大空襲をはじめとしてアメリカ軍はB‐29爆撃
機による、低空・無差別・大量に収束(クラスター)油脂焼夷弾を使って、耐火
性の低い日本の木造家屋密集地帯を焼き尽くす作戦を開始した。3月中にはこの
焼失作戦爆撃は名古屋・大阪・神戸・横浜と広がり、さらに日本中の主要な都市
すべてが対象となり、200以上の爆撃予告ビラで指定された都市は、焼き
尽くされていくことになるのである。
それでも6月頃までは、まだラジオから流れる歌声や国民学校から聞こえて
くるのはこの歌であった。「勝利の日まで」。作詞、サトウハチロー、作曲、
古賀政男
丘にはためく あの日の丸を
仰ぎ眺める 我らの瞳
いつか溢るる 感謝の涙
燃えてくるくる 心のほのお
我らはみんな 力の限り
勝利の日まで 勝利の日まで
動員先の尼崎の工場で、仲間と防空壕に避難中、1㌧爆弾が近くに落ちて、
壕が大きく揺れたことがあった。1㌧爆弾の落下してくる響く音を真上に
聞いたとき、壕の中で仲間同士身を寄せあった。「一緒に死のうや」と
誰かが言った。1㌧爆弾は近くの広場に落ちて爆発音とともに大きな穴を
あけていた。それを覗き込んで「もうこんな戦争は、やめないかんなあ―」
と一人が呟くように言った。
沖縄の戦いが終わってしまった頃、「この戦争はどうなるのだろうと」父
に聞いた。負けるかもしれんなあ」と父は言った。「負けたらどうなる」
「分からん。有耶無耶(うやむや)や」こんな会話を父と交したことを覚
えている。7月には一機で来たB‐29からビラがまかれた。西宮の空襲予
告だった。水戸、前橋、八王子、郡山、大津、舞鶴、久留米、高岡、福山、
富山、長野の都市も同じビラに書かれていた。これらの都市はその後、全
部本格的な空襲を受けている。西宮の場合はこうして、あの8月5日深夜
から6日の空襲につながってゆくのである。
昭和20年の8月は、日本国のすべて、政治、軍事。経済、「国民の考え」
まで、が、一気に変わった。全く恐るべき月であった。そして、私には、灯火
管制下の全然明かりのない暗黒の夜の日々が続いていた時から、急に明かり
の輝く夜に一変した驚きが、一筋の希望であること、と、共に強く印象に
残っている月でもあった。
(令和7年7月30日)