生き残った幸運駆逐艦「雪風」と「海軍特別年少兵」
戦後80年の2025年8月。映画「雪風」が封切られた。「雪風」とは先の大戦での日本
海軍の駆逐艦の名前であった。1938年(昭和13年)8月2日に佐世保海軍工廠で起工
され、1939年3月24日に進水した。「雪風」は当時としては最新の機能を持つ新鋭艦
だった。基準排水量2033㌧。全長118・5㍍。最大幅10・8㍍。艦本式衝動ター
ビン2基2軸、52、000馬力。最大速力35・5ノット。乗員・兵員239名。
1941年12月8日。真珠湾奇襲攻撃による日米開戦以降、「雪風」は「スラバヤ沖海戦」
「ミッドウエー海戦」「ガダルカナル島撤収作戦」「マリアナ沖海戦」「レイテ沖海戦」など
主要な海戦にすべて参加している。
あの、戦艦「大和」の沖縄水上特攻作戦にも参加している。そしてどの戦場でも、海に投げ
出された多くの仲間たちを救い、必ず一緒に日本に連れ帰っている。いつしか海軍ではこの
「雪風」を「幸運艦」と呼ぶようになった。それは沈着冷静な艦長の操艦技術と下士官・兵
を束ね、彼らから日頃深く信頼されている先任伍長の迅速なる判断によるものだった。時に
はぶつかり合いながらも、互いに信頼してゆく二人だった。
「幸運艦」と呼ばれたのは「佐世保の「時雨」など他にもあった。しかし駆逐艦「時雨」は
1945年1月24日、輸送船護衛中にアメリカ潜水艦に撃沈されている。終戦まで生き
残った「雪風」はまさに「幸運艦」「奇跡の駆逐艦」だった。
終戦後「雪風」は中華民国に賠償艦として引き渡された。「丹陽」と改名され同国の海軍の
主力艦として長く活躍し1971年12月、台湾で解体されて、その艦命を閉じた。
私は以上のように幸運の駆逐艦「雪風」のことを調べているうちに、14歳で「海軍特別
年少兵」を受験合格し、大竹海兵団、海軍水雷学校を経て、16歳で「雪風」に乗艦。幾多
の海戦に参加して、左腿に重傷を負いながらも生き残り、「雪風」と共に海外復員業務、中国
海軍への引き渡しまで担当した人がいることが分かってきた。そして、2019年に『雪風
に乗った少年』という本を出版しておられることも知った。私は直ぐその本をアマゾンから
取り寄せて読むことにした。このエッセーはその読書感想文である。
その西崎信夫さんは1927年1月2日、三重県志摩郡阿児町鵜方の生まれ、14歳で定時制
中学に通っていた時、村役場から「君を海軍特別年少兵に推挙したい」と声がかかった。母親
に相談すると「まだお前は子供だから20歳の徴兵検査まで待つように」と強く反対された。
夫を亡くし世帯を切り盛りしていた、母親としては当然のことであった、であろう。しかし
定時制中学の先生は「君の学力と体力なら大丈夫だ。ぜひ受験したまえ」と励まされ、それを
力に母を必死に説得し、遂に願書を提出した。当時は特別少年兵の応募者も多く、なかなかの
狭き門であったが、難関を突破して合格した。志摩郡の合格者は西崎さんと網本の少年の
二人だけだった。
翌年1942年9月1日、広島の海軍大竹海兵団に、第1期生として入団が決まって、勤めて
いた名古屋の会社は辞めた。入団の1日前、母親は涙をため、海の守りの青峰山正福寺の
お守りを首にかけてくれた。そしてきっぱりと言った。「死んでは何もならない。生きて帰って
こそ、名誉ある軍人さんだ。必ず生きて帰ってこい」それから復員の日まで、母親のこの言葉は
西崎さんの道標となるのである。大竹海兵団の訓練は厳しかった。精神注入棒で尻を叩かれ、
痛みの無くなる時もなかった。卒業を控えたある日、錬兵場で海兵団団長の福田少将の査察が
あった。第1期生600名が白い軍服を着て整列する中、団長は教育成果を見て回るのだ。
たまたま西崎さんの前で足を止めた団長は「戦場における軍人精神の真髄とはなにか」と
質問した。西崎さんは頭の中が真っ白になり、とっさに口から出た言葉は「生きて帰る
ことであります」と答えた。すると団長は大きな目をぐるぐると回して、一つ頷き、
再び歩を進めていった。
査察が終わり,分隊に分かれ240名の前で当直の教班長から「貴様はどうして、あんな答弁
をしたのか、なぜ天皇陛下のために死ぬことだといわなかったのか」とひどく叱られた。罰則
として夕食を抜きにされてしまった。
その晩、ハンモック(海軍の寝袋、吊り下げて使う)中でうつらうつらしていると、下から
つつく者がいる。飛び起きて目を凝らすと、親友の濱田1等水兵だった。彼が無言で差し出
したのは紙に包んだ、小ぶりの握り飯一つ。夕食に出た自分のご飯を半分残し、握り飯にして
持ってきてくれたのだ。早速かぶりついたが、友の気持ちが胸に迫ってきて涙が止まらなく
なってしまったという。「生き抜くこと」西崎さんはその一心で、その後も戦争の日々を生き
抜いたのである。
大竹海兵団を卒業し、横須賀の海軍水雷学校で魚雷の勉強が続いたあと、半年足らずで繰り
上げ卒業となり呉に向かい、1943年11月30日の朝、呉軍港に係留中の駆逐艦「雪風」
に乗艦することになった。
船の停泊中の艦隊勤務は、朝6時起床、軍艦旗掲揚、甲板掃除、7時朝食、8時から担当課業
(魚雷の分解、調整)12時昼食、13時午後の課業を始め、17時夕食、その後、半舷上陸
が認められる。(半数が上陸する。あとの半数は当直に残る)21時巡検(当直将校が艦内を
見回る)で一日が終わる。
しかし出陣となると、臨戦態勢となり、日本列島をはなれ、玄界灘に出ると、敵の潜水艦が
すでに狙いを定めている戦場となる。1944年1月2日、「雪風」は油槽船(石油を運ぶ
船)6隻を門司港からシンガポールまでの往復を護衛するため、もう一隻の駆逐艦「天津
風」と共に呉軍港を離れた。門司港で船団と合流し、玄界灘に出ると、急に海がしけだし
艦が大きく揺れる。「雪風」は木の葉同然となり、波の背に押し上げられ宙に浮く。西崎さん
にとっても初めて経験する船酔いであった。タオルを口に当て吐き続けると、黄色い胃液が
出て、なおも吐き続け、最後に血の塊を吐いた。「これで本物の駆逐艦乗りになったな」と
古参兵にからかわれた。2日後しけがやむと,嘘のように船酔いがおさまった。
この航海中、同じ年少兵だが夜尿症に悩む部下がいて、古参兵から毎晩のように、ハンモック
から滴り落ちる小便が見つかり、殴られていた。見かねた西崎さんは、直接軍医長に直訴した。
軍医長は「貴様が言い出した以上、貴様が責任をもって面倒を見ろ」と言って「毎晩1時間ごとに、
本人を起こし、便所で小便を確認し寝かせよ」と命じた。西崎さんは班長の許可を得て、彼の
世話を引き受けた。そして4週間たったころ、なんと彼の夜尿症がぴったり止まったのである。
彼はジョホール港で下艦したが、目に涙をため「おかげでよくなりました」と最敬礼をした。
私は軍人が軍艦で寝小便をしていた話は初めて聞いた。年少兵でこそ聞ける話で面白いと思った。
また軍隊での体罰も乗船した最初の頃は「雪風」にもあり、古参兵に問答無用で尻を力いっぱい
に叩かれることも一度や二度度ではなかった。しかしある事件を機に「雪風」からは体罰がなく
なった。それは砲術科の一等水兵が被服点検前に紛失した衣類をそろえようと点検時の体罰を
恐れて船底の倉庫に入ったのだが、ガスの発生で、顔一面に青白い泡を吹き、むごたらしい姿
で遺体となって発見されたことであった。この日を境に体罰はなくなり、一層戦友意識が強く
なっていった
私はこの話を読んで「これだ」と思った。「雪風」が最後まで生きのこった原因の一つは、この
体罰をなくしたことではないか。特に駆逐艦のように、戦闘中、操艦技術により、海上を進んで
くる魚雷を避け、敵機から落とされる爆弾を避けていく場合、甲板にいる見張りの報告と舵を
取る操艦が一体となって動かなければならない。まさに神業的な全員の一帯感がなければ出来
るものではない。やはり、体罰などで心のどこかにしこりが残れば、激しい戦闘時などでは全
員一帯となる信頼感などは生まれない。日本の軍隊では「殴って鍛える」のが当たり前となって
いた。この風潮は全国の中等学校に配属将校などを通じて広がり、先生が生徒を殴る。上級生が
下級生を殴るのが、広く普通になっていた。私も終戦時は中学2年生であったが、よく殴られた
ものである。
駆逐艦「雪風」はマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦では激しい敵雷撃機の攻撃を切り抜け、呉へ帰る
途中、筏で漂う輸送船樽島丸の遭難者10数人を救助したりしていた。が、1945年4月6日。
戦艦大和を中心とした沖縄への特攻作戦に参加することになった。片道燃料しか持たず、日本の
航空機の援助はなく、戦艦大和の周りを「雪風」を含む9隻の駆逐艦が取り囲む特攻陣形で進む
ことになる。出発前の朝。最後の郵便物が出る。「遺書を書け」の命令である。しかし、西崎さん
は母親との生きて帰る約束もあり、遺書は書かなかった。
12時32分、約200機を超える大編隊が「雪風」にも、攻撃を仕掛けて来た。小窓からも弾丸
が撃ち込まれ、内田兵長が倒れた。その時、西崎さんにも、焼火箸3本を突き刺されたような衝撃
が左太腿に走った。臨時の看護兵が「自分で抜け」と置いていったピンセットで傷口を広げ。カンシ
(ものを挟む器具)で弾丸を一つ引き抜いた。痛みが強く全身の力が抜け、残りの弾丸を抜く気力は
なくなってしまった。弾丸2発はそのまま体に残った。「後部機銃台の射手として直ちに任務につけ」
という命令が艦橋の水雷長から下った。後部機銃台の射手が戦死したためである。実戦で射手を
するのは初めてであるが、機銃助手が健在であったので、さらにハゲタカのように向かってくる敵機に
対し、無我夢中で引金を引いた。その時敵機の放った魚雷が「雪風」に迫ってくるのが見えた。艦長
がとっさに回避の舵を切り、艦は海水をかぶり西崎さんは海上に投げ出される寸前に舷側の支柱に
引っ掛かり助かった。
一方戦艦「大和」はゆっくりと横転した後、火柱を上げて大爆発したのが見えた。4月7日午後2時
23分であった。10隻からなる艦隊は、大和のほか矢矧・磯風・浜風・朝霞・霞が沈み、涼月は
大破して、残ったのは「雪風」「初霜」「冬月」の駆逐艦の3隻だけであった。
敵機が去った後、残った駆逐艦で重油が浮かぶ海面にロープが投げおろされ、海に投げ出された
遭難者の救助が始まった。救助には2時間を要したが、重油を飲み力尽きてそのまま海に沈んで
しまう人も多かった。「雪風」が救助した「大和」の生存者は105名だった。
「雪風」は、佐世保に帰投して、西崎さんは太腿の傷について軍医長の診察を受けた。化膿して
蛆がわいていた。練り薬をつけ新しい包帯を巻いて治療が終わったが、弾丸は身体に残った。
「雪風」はその後、本土決戦に備え北の守りとして、宮津湾に派遣され、続いてさらに北側の伊根
湾に接岸して、砲台としての役割も果たそうとしていたが、8月15日、ここで終戦となった。
引き続き西崎さんは、「雪風」と共に海外からの復員業務に従事し、1947年7月6日、上海での
中国海軍への賠償引き渡しまでの業務に「雪風」と共に従事している。この年10月に復員。その後
平和祈念展示資料館の語り部として活動していたが、2021年11月17日に94歳で逝去されて
いる。
私も1945年、14歳になれば、海軍特別年少兵を受験していたかもしれない。そんな空気の時代
だった。しかしそのなか「雪風」と共に「必ず生きて帰る」という信念をもって、激しい戦闘の中を
生き抜いた西崎さんの生涯に、私は深い感動を覚えた。
(2025年10月27日)