NHKスペシャル・シミュレーション
昭和16年夏の敗戦・を見て
1940年(昭和15年)9月。当時、内閣総理大臣直轄の研究所として、国家総力戦に
関する調査研究と将来の指導者育成を目的に、「総力戦研究所」が設立された。
そして、1941年(昭和16年)4月に第一期研究生として、文官22人、武官5人、
民間人8人の計35人が入所した。これは国内の各部署の中でも最も優秀な人材として、
選別し推薦された若きエリートたちであった。
このメンバーたちは模擬内閣を組織して、軍事、外交、経済など各分野のデータを分析し、
日米開戦を想定した机上演習(シミュレーション)を行なった。この机上演習では、各メン
バーに組織の壁を越えた自由闊達な議論が奨励さされた。そして、導き出された結論では
「日本はアメリカとの戦争では、必ず負ける」というものだった。
この結論は当時の近衛文麿首相、東条英機陸軍大臣らに報告された。が、それが日本の国
家戦略に反映されることはなく、日本は開戦へと踏み切る事になった。
この実際にあった「総力戦研究所」のことを作家で政治家でもある猪瀬直樹が、ノンフィク
ションで『昭和16年夏の敗戦』という題名で書いた。そして、今回この作品を原案として
NHKは、スペシャルドラマとして、終戦80周年の夏に、「シミュレーション・昭和16年
夏の敗線」と題して、8月16日・17日の2日連続で午後9時から放送した。
この話の主人公は東京大学を首席で卒業して、産業組合中央金庫の調査課長を勤める宇治田
洋一である。産業組合中央金庫の理事井川忠雄は、頭脳明晰な洋一を強く推薦したことにより、
洋一は総力戦研究所員となった。
平均年齢33歳、若きエリートたちは、出身官庁や企業から機密情報を集め、日本がアメリカ
と戦った場合のあらゆる可能性をシミュレートしていく。そして、模擬内閣で、宇治田洋一は
その「内閣総理大臣」に指名される。洋一の両親は赴任した満州で軍と対立し謎の死を遂げた
こともあり、軍への反感からシミュレーションには消極的であったか、現実の数字で現わされる
日米の格差の実態を知り、「開戦を避けるべき」と動き出す。
同じ研究員となった樺島茂雄は 同盟通信社政治部記者だが摸擬内閣では「内閣書記官長
兼情報局総裁」を担当した。はじめは宇治田洋一の消極的態度を批判的に見るが、次第に
日米の実力格差を理解し、洋一に対し戦友のような絆を感じていく。
また海軍大学校を首席で卒業して研究所員となった、若き海軍少佐村井和正は、模擬内閣では
「海軍大臣」を担当したが、「無敵の連合艦隊」も燃料の石油の輸入が途絶えることは深刻な
問題で、日本保有の500倍以上もの石油を生産しているアメリカ相手では、初戦では有利に
展開できても、長期戦に耐えられない。と冷静に判断して、「日本は勝てない」と意を決して
訴えた。
若き陸軍少佐で研究所員になった高城源一は、摸擬内閣では「陸軍大臣」を担当した。彼は、
欧米列強に支配されるアジアで、いずれ植民地にされる前に日本は先に動くべきだと開戦を
強硬に激しく主張していた。だが、宇治田洋一の分析した、国民総生産(GNP/GDP)は、
アメリカは日本の20倍に近い、鉄鋼生産量は、アメリカは日本の約12倍の差があること、
航空機生産量は、当時の日本の生産能力は年間約5000機程度だったのに対し、アメリカ
は約2万6000機以上と差があり、動員兵力は当時アメリカの総兵力は日本の2倍はあった。
と、いう事実に驚がくし、次第に現実を見定め始める。
実際の企画院物価局事務官で、研究所員となり、模擬内閣では、「企画院総裁」となる
峯岸草一は、日本が南方の石油を武力で確保しても、工業力に勝るアメリカと敵対し窮地に陥ると
説いて、軍ににらまれる危険を覚悟で発言する。
国際情勢では、日本と同盟関係にあったドイツ軍がヨーロッパを制圧し、ソ連のモスクワに迫ろう
としていた。この動きに期待する意見もあったが、研究所の綿密な調査と当時機密とされた情報の
分析では、ドイツ軍の「補給」が限界を超えており、燃料や資源も底をつき、やがて撤退をせざるを
得なくなるとの、見通しとなった。このような、通常は国家機密であるさまざまなデータにアクセス
が許されるなど、宇治田たちはある種の興奮の中で、日米開戦の戦局を占っていった。もしシミレー
シヨンの結果が上層部の意に沿わないものだった場合、自分たちの身にも何か害が及ぶのではないか……。
という不安もあり、このドラマでは研究所長の陸軍少将板倉大道が政権に「不都合な報告」を上げない
ように、若手に圧力をかける場面もあり、そんな緊張にさらされる中でも、彼らは激しく議論を、繰り
返し戦わしながら、模擬内閣の若き閣僚たちは、最終結論を導き出した。
それは、「もしアメリカと戦えば、日本は必ず負ける」という、あまりにも厳しい未来予測だった。
彼らは全員で「アメリカとの戦争は絶対避けなければならない」と告げることになった。
この研究結果の発表は1941年8月27日・28日両日に首相官邸で開催された。時の首相近衛
文麿や陸軍大臣東條英機以下、政府・統帥部関係者の前で報告された。宇治田洋一が「日本人として
大変残念なことだが、といって、はっきり結論を述べると、研究員の総員35名は全員起立して、個別に、
兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携などについて各種データを基に分析
結果を次々と発表していった。
この研究会の閉会に当たって東條陸軍大臣は、参列者の意見として以下のように述べた。
「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習であり、実際の戦争というものは、
君達が考えているような物では無いのである。日露戦争で、わが大日本帝国は勝てるとは思わなかった。
然し勝った。あの当時も列強による三国干渉で、やむにやまれず帝国は立ち上がった。勝てる戦争だ
からと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がって
いく。したがって、諸君の考えている事は机上の空論とまでは言わないとしても、あくまでも、その意外裡
の要素というものを考慮したものではないのである。なお、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外
してはならぬということを守ってほしい」
結局、模擬内閣の若き閣僚たちの意見は取り上げられず、その年の12月8日、日本はアメリカ・イギリス
と戦端を開くことになるのである。そして、実際の戦争の推移は、原爆こそ想定外だったものの、それ以外
は概ねこの時の予測に近い戦況となって日本は敗戦の時を迎えることになった。
今年8月、NHKのこのスペシャルドラマが放映された後、実在の総力戦研究所の所長であった
陸軍中将飯村穣氏の孫、飯村豊さん(元駐仏大使)から、穣氏は若手の自由な議論を妨げること
はなかったとし、「面白くするために祖父が卑劣な人間に描かれ名誉を棄損している」と主張された。
番組では実在の所長とは関係がないことがテロップで明示されてはいる。だが、飯村さんは「視聴者には
ドラマが真実と伝わるのではないか」と述べて、放送倫理・番組向上機構(BPO)への申し立ても
検討しているとしている。(朝日新聞)
私はこの話からも、当時の上層部の要人や軍人の中にも「アメリカとの戦争」に疑問を持つ人が、戦後に
考えられている以上に多かったのではなかったかと思っている。そう考えると当時天皇最側近の内大臣、
木戸幸一もアメリカとの戦争の勝利には疑問をもっていたのではないかと思われる。研究結果の発表後の
10月16日、近衛首相は対米戦争の対応について、「やれと言われれば外交でやる、といわざるを得ない。
戦争には私は自信がない、自信のある人にやってもらわねばならない」と述べ内閣は総辞職した。そして、
次機首相には、皇族の東久邇宮稔彦王を推すことに、近衛も東條も一致していた。ところが内大臣木戸幸一は、
皇族が首相になって戦争を起こせば、累が皇族に及ぶことを懸念して、そのことを天皇に伝え,次期首相
を東條に決めた。木戸は後に「あの期に陸軍を抑えられるとすれば、東條しかいなかったといっているが、
結局は木戸も又、アメリカとの戦争に勝つ自信がなかったのだ、と私は思っている。
その東條は10月18日、皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすよう直接指示される。
天皇の命令は絶対厳守主義の東條は、それまでのアメリカとの開戦推進姿勢を直ちに改め、今まで推進してきた
帝国国策遂行要領を白紙に戻した。そして今まで頑としてはねつけていた中国からの日本軍の撤兵問題についても、
長期的・段階的に撤兵してゆくという東條としてはかなりの譲歩した案を提示しようとした。
しかし、時はすでに遅かった。今まで幾度かの交渉で、アメリカ側は硬化して、中国・仏印(ベトナム)から
の即時全面撤兵以外は受け入れられるものでなかった。東條内閣組閣後約40日後、東條内閣はアメリカとの
交渉継続を最終的に断念し、アメリカ・イギリスとの開戦を決意するに至るのである。
1941年(昭和16年)12月8日、開戦日の未明、東條は首相官邸の自室で一人皇居に向かい号泣しながら
天皇に詫びていたといわれている。
このスペシャルドラマの終わりに近く、あの開戦から3年9か月後の敗戦の日本の焼け跡が広がり廃墟となった町
が映し出され、その風景の中に佇む主人公宇治田洋一が「こうなったのは私のせいだ」と叫ぶ場面があるが、これは、
すでに研究所で「アメリカと戦争すれば日本はこうなる」と、洋一が思い描いていて、語っていた通りの風景であった
からだ。
若く日本の将来を担うエリートである研究生らにとって「日本が敗戦することを知っていたのに何もできなかった」と
いう状況を生みだしたことに、忸怩(じくじ)たる思いを持ち続けた人もいたに違いない。と私は思っている。
研究所の模擬内閣で日本銀行総裁を務めた、佐々木直は、戦後本当の第22代日本銀行総裁となって活躍した。
また模擬内閣の企画院総裁を務めた玉置敬三は、後に通産省事務次官となり、東京芝浦電気の会長となった。
模擬内閣では法制局長官兼司法大臣を務めた三渕乾太郎は、NHK朝の連続ドラマ24年4月から始まった『虎に翼』
で、日本で初めての弁護士、判事、裁判所長となる三渕嘉子の夫となる。このドラマの中でも「日本敗戦は分かっていた
のに」と悩む場面もある。
私は今、何よりも日本にもこのような「総力戦研究所」が、あったことを多くの日本人に知ってほしい。そして、これは
秘密裏にするべきだが、1945年北海道に上陸を計画していたロシア(ソ連)にどう対処すべきか。また、南シナ海
の島々に侵攻し、沖縄の尖閣諸島の所有権を主張し、沖縄も最終的に侵略する恐れのある中国とどう対応するべきか。
アメリカにあまり期待が出来ない今、機密の研究所が絶対必要だと、私は考えている。この研究所を「教育機関だから」
と位置づけても、「今の日本人ならば、その結果を無視する人は絶対にいない」と私は信じて疑わないでいる。
(2025年9月22日)