〝マイナスアルファ感覚〟と呼びたい歌がときどきある。
欠落、喪失、空虚感など何かが足りないというマイナス感を漠然と詠む歌は実に多い。※
だが、まれに、内容や書き方に対して、これはマイナスじゃなくてマイナスアルファだと感じる歌がある。
プラスとプラスアルファが違うように、マイナスとマイナスアルファは違う。
その違いを私はまだ説明できないが、マイナスアルファには可能性がある、という強い予感がする(私の予感は五分五分で当たる)ので、しばらく歌を集めてみる。
※喪失欠落というのでなく、「ない」というマイナス感覚を積極的に美意識や哲学味として捉える、次のような古典和歌は、マイナスアルファに入れてもいいと思う。
見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮 定家『新古今和歌集』
駒とめて袖打ち払ふ陰もなし 佐野のわたりの雪の夕暮れ 定家『新古今和歌集』
うつすとも月は思はずうつすとも水は思はず猿沢の池 柳生宗厳
■疑問1 そもこの図は?
この歌、桜のかたわらに「まはだかの空間」があるのだろうか。それとも、「私」などの主体者のかたわらに「まはだかの空間」があって、主体者から桜の思い出を汲んでいるのか。
どちらの場合も、「まはだかの空間」が思い出を汲むという、なんかすごく不可侵な状態で傍らにあることが重要だ。
■疑問2 なぜ右?
なぜことさらに右なのだろう。
言葉のなかの「右」と「左」のイメージの違いは、以前調べたことがある。
ことさらに「左右」に言及する歌をたくさん集めて見比べたところ、ざっくりいって、
「右」は積極的・理知的
「左」は消極的・心情的
という傾向が読み取れた。
「思い出を汲む」という行為は心情的な印象だが、この歌では、「右」がそれを少し相殺し、「まはだかの空間」がそれをするのは、なんらかの目的のある仕事ではないかな、という気が少しする。
■疑問3 なぜまはだか?
「まはだかの空間」は、服を着ない人の姿を一瞬思い浮かべさせ、しかし空間だから目に見えない輪郭であると考えさせる。
裸で寄り添うといえば性的な連想もあるけれども、「まはだか」の「ま」は、ナイーブで恐れや疑いなど心の汚れのないことをも表し、「桜」には生にも死にも通じるイメージがあることから、なんだか神事みたいな、厳粛な雰囲気も添えていると思う。
■サポート装置みたい……。
これは明確に歌にかいてあることではなく、私の空想に過ぎないが、いくつかの要素を総合したイメージとして、「サポート装置かな」と思った。
樹木というものは地中から水や養分を汲み上げ、天に向かって成長する。何事かを担う装置である。 桜も同様で、毎年律儀に「花をいっぱい咲かせては散らす」というパフォーマンスをしている。それは自然界でも何らかの役割を担う営み装置なのだろうし、人間のイメージの世界にも大いなる貢献といえる影響がある。
そういった装置の営みは崇高なものだから、神聖なサポートがあってしかるべき。サポート装置が設けられる。
「まはだかの空間」というのはそういうサポート装置ではなかろうか。桜の思い出を汲む透明な装置っぽい、と思える。
赤富士を見るのは開運の兆と言われている。
赤富士を見たのに、せっかくの僥倖は目薬で流れてしまった。
そのことを、日々の諸行が無常である一例として詠んでいることがおもしろい。
希望を抱いては失うこの世の時間の虚しさを、このユーモアが中和して、ひじょうに透明な仕上がりになっている。
この作者の歌は総じて、大きな虚無感を感じさせるが、その虚無はゼロでなく、マイナス方向に強まっている。
この世には、中身が有りそうで無い空疎なものが多くある。
そのなかに生きて、あえかな自分という存在を大切に保つ努力みたいなものが、このマイナス感覚の元になっているのではないだろうか。だから〝虚しくないマイナス感〟を帯びているのだと思う。
いやいや、上の1首だけではそのことを強くは言えないだろう。
渡辺松男の歌はもっととりあげたい。
こんなにも緻密に組みあげられた歌の迫力を、心まかせでも言葉まかせでもない一首一首を、ぜひとも体感として分かち合いたい。
いっそ折り筋などつけずにまっさらなほうがいい。
最近なんとなく注目している作者。
内容だけ見ると極端な虚無性についていけない気がしなくもないのだが、「期待に応えず無でいる」というような極端に虚無的な気分を、この歌だけでなく、いろいろな言葉で表現しているのだが、何か豊かなものが感じられる。
そういうメンタリティを詠む歌ならしばしば見かけるが、この作者は徹底しているし、極端に虚無的内容を詠みつつ、その虚無性に詠み勝つている気がする。
歌の動機は作者の虚無性でなく、虚無性とせめぎあう強い個性ではないかと感じられる。
レコンキスタはスペイン語で「再征服」の意で、イベリア半島でのキリスト教勢力がイスラーム勢力を排除する国土回復運動。11世紀から15世紀末まで続いたそうだが、知らずに聞けば外国野菜みたいなひびきだ。レタス・レンコンがまじったような姿が目に浮かびそうになる。
で、それがバッグからはみ出している、というのは、世の中に対してなにか回復する・挽回する、といった気持ちであるだろう。ただし恨みなどのダークでありがちな感情でなくて、「レコンキスタ」という明るい語感に似つかわしく、「うっとり」と、夢見る野菜のように肯定しながら世界に参加していくような、そんな気分があふれていると思う。
この歌にはひとつ注目すべきポイントがある。俵万智のこの歌と見比べるとそれが明確にうかびあがる。
自転車のカゴからわんとはみ出してなにか嬉しいセロリの葉っぱ
俵万智『サラダ記念日』1987
どちらも、その時の気分を野菜っぽいもののがはみだしているさまで表現している。共通点が多く、かつ個性の違いがはっきり見える。
先行する俵の歌の「なにか嬉しいセロリの葉っぱ」は、ゼロクリアしたような無邪気な明るさが当時新鮮だった。
杉山の歌は、自分の立ち位置を、ゼロ地点でなく、レコンキスタという語によって、マイナスの地点へとずらしている。
このことは注目に値しないか。
切手の歌のコレクションに取り上げて、鑑賞もそちらに、以下のように書いてあるが、マイナスアルファの要素があると思うのでこちらに再掲する。
***
雪しかない場所。ふみだしたらもうその先は「せかい」がないかのような限界にいる「あなた」。そういう人に送る郵便にはどんな切手がふさわしいだろう。(元気過ぎるものはだめ。鳥は死に通じそう。仏像はもっとだめ……。)
無言の小さなうさぎの切手そっと貼る。(貼る→貼り紙→「この先は行けないよ」的にやんわり静止するもの、という連想脈もかすかにあるようだ。)2円切手は手紙や葉書の最終段階で貼り足すもので、その指まで見えてきそうだ。
「切手の図柄に相手への思いを込める歌」は一大歌群を形成するほど多い。この歌もそこに属するが、「雪うさぎ」の使い方捉え方がひとつ抜きん出て優れていると思う。上記に書いたようなことを歌にそっと貼り足すかのような作者の指先さえも感じられないか。
***
「あなたがせかい、せかいって言う冬の端」という部分、そこは端っこぎりぎりでああるだろう。踏み出せばそこはもう世界を超えたマイナス領域、と、このフレーズだけでは言えないのだが、2円切手を貼り足すことで引き戻すような感じがするために、2円分のマイナスをかすかに感じさせると思う。どうでしょう?
一般的なことをいえば、人が亡くなればその一人ぶんの体積が実際に物理的に広くなる。また心理的にも一般的に欠落感を「がらんとして」など言い、これも広さを意識する表現だ。
しかし、第三の感覚とでもいったらいいか、家の歴史にはその人の記憶の占める領域が確保され、そのぶん感覚的に「狭くな」るというふうに、「体積」を体感することもあるかもしれない。累積するマイナスの体積。
こうした「感覚的な理屈」の説得力は、夢の中ならなんなく通用するような不思議さが魅力だが、それだけでなく、覚醒している読者にもなんとなく受け入れさせるためには、覚醒した理屈をすりぬけるような巧みさも必要だ。
この歌はそこをちゃんとクリアしていると思う。
人の想像力は能動的で、星空の点々に白鳥とか熊とかの姿を勝手に見出す。
この歌は、その能動性が全く作動せず、星空が無意味な点々に戻ってしまう状態を詠んでいる。
この虚無感・喪失感。なんらかの精神的なダメージによるものなのかどうか、心のエネルギーが尽きたような状態でにぎやかなものを見たときのそれではないだろうか。
(この歌を含む一連には「妻亡きあとの……」というフレーズを含む歌がある。そういう事情でも他の事情でも、あるいははっきりした事情が見当たらなくても、とにかく、心のエネルギーが失われた状態。)
星空から星座が失われるのはゼロ状態に戻るという意味で虚無的だが、そこに星があるのに星座が見えなくなるというこの後退感は、さらにさみしいマイナス感覚である。
水槽の中で卵をほぐす目的は不明だが、それが何であれ、その卵たちの未来は生まれる前から、卵をほぐす者に屈従している。この世を水槽に見立てるなら、私たちはその中でほぐされやまぬ卵のようなものだ。
――なんて話だけならベタなのだが、「邦とゆめが足りない」という展開に思わず刮目した。
「邦」は、「国」とほぼ同じ意味だが、ことさらに「邦」と書く以上、その微妙な違いこそが重要であるはず。
「国民」と「邦人」を比べると、後者は主に外国にいる自国人に用いる。自国人が外国で災害や事件に巻き込まれたようなときに意識されるかすかな絆によって、母国は邦人の安否を確認し救出に乗り出す。
――ここに至って、上の句の「卵をほぐす」の連想脈にイクラとスジコの対比が潜んでいたか、と気づくのだが、邦と邦人の絆の粘り気がスジコ感である。
水槽の卵の未来は限定的だから「ゆめ」はなさそうだが、加えて「◯◯とゆめ」というセットフレーズは、少女漫画雑誌名『花とゆめ』という用例の蜃気楼を従えている。
『花とゆめ』というフレーズは、二つの要素が敷布団と掛布団みたいに優しく少女たちを包む。冷たい水槽の中のものたちにも「邦とゆめ」という敷布団と掛布団があればいいのに……。
そういう漠然とした思いが読後に残される 。
白と黒は色という色の両極にあり、あらゆる喜怒哀楽、あらゆる段階の情熱や虚無、あらゆるニュアンスの針が振り切れてもう動かない境地である。
究極の色である白と黒。この究極純粋なる不活性が出会うと、「ふたつであったりも混ざって無限になったりもする」というすごいアメーバになる。
この歌は、マイナスアルファの歌というよりも、このアメーバ作用にはプラスアルファもマイナスアルファも含まれている、と感じさせるスケールの歌だ。
活性化が良いことであるのは言うまでもない。だが、何事もどこかでリセットする必要があり、短歌の表現の歴史においても、いくつかのリセットを経たおかげで現在がある。
不活性化はリセット要素のひとつとなり得るかもしれず、言葉の側にそういうものを求める無意識が醸成され、歌人を通していろいろな形で模索しているかのようだ。
【2022年12月大幅に補足】こここに書いた自分のコメントに長らく物足りなさを感じておりましたが、3年近くして、やっとのことでコメントを補足できました。
■作業する人が思案して、この「机の低さ」を受け入れるなり、なんらかの対処を考えつくなりするまでの時間は、たばこを一本吸うぐらいだろうか。--なかなか微妙なことを捉えたものだ。この表現、いかにも無造作だが、情報量が多い。ふだん詩歌に求める抒情みたいなものは薄いようだが、そういうものに目移りさせたくないのだとおもわれる。
などと書きながらもう一つ気づいた。この歌は更に微妙な感覚を捉えていて、かなりレア度が高い。
この歌、読後に、なんだか造形物(美術館にある)を見たような気がしないだろうか。それはおそらくこの言葉付きの詩的色気のなさの効果なのか、静止感があり、タバコを持っているのに人間味が薄いのだ。
再度読んでみて「人がタバコ片手に机を見下ろす」という造形物をしっかり目にとめながら鑑賞し直した。
さてここからは私の深読みだが、作業に適さない高さにも、「ひくすぎる」と「高すぎる」があるわけで、「高すぎる」だったら、味わいの違った歌になるじゃないか!と気づく。
【注意 これは置換え歌です】作業するには高すぎる机たち見上げているたばこ片手に
人がタバコ片手に見下ろす、という造型物を見るような、その形は、見上げる形とは大違いである。
コトバのイメージとしても「低すぎる」という語自体にある盛り下げ感にも、マイナスアルファ効果があるだろう。
■それにしてもこの極まる無味。効果はわかったが、ちょっと真似できない。
料理は味がなかったら「おいしい」と感じない。短歌は言葉の料理とも言える面がある。「いい歌だなあ」などと言うのは〝味〟にあたる要素である。無味は詠むのも難しかろうし、当然読むのも難しい。
この歌の無味にはある種純粋な気配があり、そこに接してしまうと、表現というものの根幹に立ち戻らざるを得なくなる。
素材そのものの味を知りたい場合、料理だったら味付けをしないだけでいいが、短歌は、言葉という素材自体に味=イメージ等が付いているから、素材そのものを味わうのは難しい。短歌は、イメージを活かすことに心血を注ぎ、読者もそれを感受するものだと思ってきたけれども、それだけでいいのか。行きどまっていないか。--なんて考えてしまう。
また、この歌には、既存の抒情等がありそうに見せて消すような〝塩抜き〟感もなくて、言葉たちは最初からイメージを発動しない不活性状態でつながっているような新感覚がある。
この言い方だと、なんだか発芽を抑制した野菜みたいな悪いイメージにもなりかねないが、そうではない。この〝不活性化〟技術の原理はまだわからないが、きっと今までにない機序で言葉を鍛え、人間と言葉の新しい関係を啓く。そういう予感がする。
この言葉つき、一晩置いたら人語でなくなりそう。
そんな脆い風情に注目。これはフツーじゃない。すごくフツーじゃない。なんらかの理由で極端に意欲を喪失して知覚が劣化している状態、あるいはお年寄りなどが認知機能を失っている状態。しかもその劣化が進行しつつあるみたいだ。
・「角張ったものを何度か見かけた」は、角張ったものの描写でなく、見たものの記憶もみるみる劣化していくかのようで、心身の消耗、およびその進行を思わせる。
・「おやつをこんな暗いところで」も、うまく具体性を消した曖昧な状況把握が消耗の度合いを表していると思う。
これをマイナスアルファと思う理由のひとつは、精神活動は一般に、当たり前の状態を「0」と思い、そこから能力を失う、という捉え方をするからである。
もうひとつは、このマイナス状況が、しかし必ずしも哀れさ弱さの訴えではないかもしれないからである。
--消耗して脆くなっているからこそとれる捨て身の究極の体勢があるかのような、--以前なら足場にできなかったマイナス領域にまで後退し、完全無能を「0」として立脚したら……。
そんなことはどこにも描いてないのだが、なぜか、劣化しながら意外な強靭さを獲得していそうな気がして仕方がない。
とりあえず、これも「マイナスアルファ」と呼んでおこうかな。
ただのからっぽはゼロ。でも不在感はマイナスアルファだ。
ペットコーナー等に並ぶ水槽には、たまに何もいない水槽があり、「ああ何にもいないや」と思うまでしばらく目を凝らす。
--そんなふうに、人が空っぽの水槽を覗き込む行為はいかようにも叙述できるけれども、この歌で重要なのは、「幾何学模様の開襟シャツ」との奇妙な取り合わせだ。
「不在」の水槽に対して、シャツの中には人が「在」る。
その「在」は、非生物的な幾何学模様に拘禁されているけれど、襟から首がにゅっと突き出して、水槽の「不在」を覗きこむ。
そういう「在」と「不在」の対比。--読んだ瞬間は「それがどうかしたか」と思って通り過ぎる程度の印象なのだが、妙な後味が残っていて、しばらくしてから「さっき何か変なものを読んだな」と気づいて読み返すような歌だ。
■マイナスに踏み込む自嘲
面白い。普通の自嘲でなくて、「どうだ、がっかりしたか、悲しめよ」と、「母さん」のほうを嘲笑うかのようだ。
親が子に神童かと期待したらただの人だった、ということはよくある。
が、この歌の場合、親の期待に、ゼロ(ただの人)どころかマイナスで応えていないだろうか。
■【深読みですが】粘土といえばお団子か蛇。形が「◯」と「-」……
粘土で簡単に作る代表的なものは「だんご」と「へび」。
その形が「◯」と「-」と考えると深読みがおもしろくなる。
この歌がもし「だんご(◯)しか作らない」だったら「ただの人」(ゼロ)だったけれど、「へび(-)しか作らない」なら「蛇」のイメージの微妙な禍々しさが加わるし、それがマイナスの形だというのもおもしろい。
※「かあさん」この歌は、母という〝聖域〟に対して絶妙な攻め方をしていると思う。
母親を表す語はいくつかあるが、短歌のなかではざっくり言って以下のように呼び分ける傾向がある。あくまで傾向。
・「母」は、個人の欲求などの人間的なものを超えて子に献身する絶対な母性が期待される。
・「ママ」はそれに比べると未熟で頼りない。子はどちらかといえば幼児で、ママのふるまいにさびしく思ったり困惑したりする。
・「かあさん」は未熟なのではなくて普通の人間。「ぞうさん」の歌など親しみを込めた呼び名。
ときには普通に欠点があり、子はそれを「しょうがないな」と受け入れたり、あるいは批判できるぐらいに成長している。
※参考
群青の空の真下のかあさんは僕をどこかに捨てそうでした 廣西昌也『神倉』
忘れ物とりにもどつた家にかあさんゐなくてそんなものかな 平井弘『遣らず』2021
母さんの金の指輪よその肉に食い込みすぎていてこわかった 穂村弘
冬休みのかあさんは疲れつかれいて除夜の鐘、夢の中にも鳴らぬ 鈴木英子『油月』2005
この歌には確かにマイナス感がある。はっきり「減ってゆく」と書いてある。
ただし、減らすだけではマイナス領域にはいけない。げんに歌では1匹残っているし、この一匹が消えれば0になるが、そこで止まってしまう。
私がイメージする「マイナスアルファ」は、ここからマイナス領域に踏み込んだ境地である。
とはいうものの、この歌には、マイナスアルファに近い味わいがある。
歌は直接言っていないが、「眠れる」=「眠れなくない」ことのさみしさを詠んでいて、この屈折にはマイナスアルファの気配が少しあると思う。
この歌は「マイナスアルファー」ではない。「0」感覚を詠んでいる。
ピアニッシモはいくら足してもフォルテにならない。
この言い回しは、「ゼロをどんなに足してもプラスにならない」を想起させ、それを裏返せば「ゼロをどんなに引いてもマイナスにならない」となる。
だからマイナスアルファとは異なる。が、しかし無関係ではないと思う。
そもそも「雪」というものには、
・無音で降る(物理的に音はあるだろうが誰にも聞こえないほどのピアニッシモ)
・降っても自ら消失する(自動ゼロクリア)
という、〝感覚的な論理性〟をくすぐる性質がある。
そして、くすぐられた〝感覚的な論理性〟は、「マイナスアルファー」の領域を、もう少しで手の届くものとして想像の射程に入れるのである。