寄せ集め短歌鑑賞

短歌の鑑賞は、短歌を作るのと同等の文学行為だと思います。

杉崎恒夫

(まだ準備中ですが一部公開)

ここには、さまざまな機会に書いた短歌鑑賞を集めてあります。

必ずしもその歌人の代表作であるわけでなく、また、評言の長さや口調も一貫しません。

なお内容はアップする際に手直ししていますので、評論等の掲載時と異なります。

(こちらのページはまだパネーコメントが不完全です)

一覧

晴れ上がる銀河宇宙のさびしさはたましいを掛けておく釘がない

エスカレーターにせり上がりくる顔顔顔  朝のホームは魔術師である

この不思議な磁力のなかをすりぬける左右にならぶ鯨と機関車

休日のしずかな窓に浮き雲のピザがいちまい配達される

雪ふればふるとてかなし理髪屋のねじりん棒の無限上昇

三月の雪ふる夜にだす手紙ポストのなかは温かですか

朝礼に並ばされいておとなしい低温殺菌されたる君ら

半分のいのちとなりしタマネギの切り口がすこし膨らんでくる

人の名を呼んだりしない秋天の星は無限の吸音装置

ねむりゆく私の上に始祖鳥の化石のかたち重ねてみたり

あたたかき毛糸のような雪ふればこの世に不幸などひとつもない

雪ぞらの浸透圧なすさびしさはガラス一重を透りくるらし  

2023年4月24日

東京新聞夕刊

晴れ上がる銀河宇宙のさびしさはたましいを掛けておく釘がない

杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

読者にそっと語りかけ、そこはかとないさびしさを感じさせる。

「たましいは帽子かい」という軽いツッコミを誘いつつ……。

●ここでいう「銀河宇宙」はこの世のすべての場を意味している。私たちが暮らすここも「銀河宇宙」である。

「釘がない」が、帽子掛けやコート掛けがないみたいな言い方になっていて、読者は 「たましいは帽子かい」と、楽しくつっこっみを入れるように仕向けられる。

また、「掛けておく釘がない」は、旅人のせりふのような演出にもなっている。

すなわち、ここ銀河宇宙は私たちの故郷ではなく、私たちすべてが、たましいを(かけておく釘がないから)少し持て余しながら旅をしているかのような世界観が提示され、そこに由来する存在の拠りどころのなさ、さびしさが詠まれている。

●この「さびしさ」は、万人共通で、けっこう深刻なものだ。読者もそのことを承知していると読者を信頼した言い方で、「たましいを掛けておく釘がない」の「おかしみ」わかちあうべく語りかけてきている。

●「方丈記」に、私たちは「いづかたより来りていづかたへか去る」のか、というくだりがある。地上のすがたは仮のもので、死んだら私たちの魂はここを離れて旅を続けるという考え方だ。身体は土に帰れるが、たましいは違うようだ。

歌はこの死生観に関連してやんわり語りかける。

「死んだらまだどこかに旅してまわるみたいな話だけど、たましいがやすらぐ場所は宇宙にはないみたいだね」と。

●銀河宇宙の静寂に放たれ、ふるさとも拠り所もないたましい。実にさみしいイメージだが、この歌は感傷に無抵抗に浸ってしまっていない。

たましいをコートに見立てるウイットや、あてがはずれたような言い回しのユーモアには、おだやかで強靭な知性がにじんでいる。

方丈記にしろ何にしろ、たましいがどうのこうののイメージはすべて、根源的なさみしさのなぐさめとして人間自身が空想したものである。この歌は、私たちが世界に存在するその在り方を、感傷にひたってなげきながら受け入れるのでなく、よりさわやかな理性によって受け入れようとしているようだ。

2018・4・19

エスカレーターにせり上がりくる顔顔顔  朝のホームは魔術師である 

杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

人々の顔が朝日のように登ってくる!

●朝、一日のはじまり、昇るエスカレータに顔が次々あらわれる。朝のホームの光景であることはわかる。

●で、それをなぜ「朝のホームは魔術師」とまで言うか、と考えさせるのがこの歌のおもしろさだろう。

なぜなら、エスカレーターで次々に顔がせり上がってくるのは朝だけの現象ではないからだ。顔が次々せり上がる現象が「朝」に限って特に魔術といいたくなったのはなぜなのか?


ここからがこの短歌の読解だ。

●朝せりあがってくるものといえば、代表的なものは朝日だ。朝日はたったひとつだが、駅のホームにいくつもの顔がつぎつぎに朝日のように表れる。だから「魔術」とまで言うのだと思う。

朝日がぞくぞくとせりあがってくる。

それぞれの人に朝が訪れ、人々は朝を分け持ってホームに昇ってくる。そういう見立てが、この歌の読みどころだと思うが、どうだろうか。

2018・4・19

この不思議な磁力のなかをすりぬける左右にならぶ鯨と機関車

杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

かたや、生物が進化の結果のひとつとして完成させた巨大な身体。

かたや、人類のさまざまな発明と技術を集めて完成させた大きな機械

●鯨と機関車。具体的には、博物館とか、なにかそういう場所かもしれない。

   実は、上野の博物館の入り口に大きな鯨と機関車がならんでいる。通りすがりの人も見ることができる。でも、みんながそれを知っているわけではないだろう。鯨と機関車を両極とする抽象的な位置どりとして、「不思議な磁力のなか」と言っている、という解釈も可能だと思う。

 ●「磁力」といえば、S極とN極なら引き合い、同極なら反発しあう。

 鯨と機関車の「磁力」を感知するのは、両極のように対等で異なるものどうしと把握したからだ。が、その磁力感がいまひとつぴんとこないので、 鯨と機関車の共通点と相違点を思いつくままにあげてみよう。


・共通点は?

どちらも黒い。大きい。力強い。どちらも動く。また、鯨は絶滅に近づき、機関車も博物館にあるような蒸気機関車などはすでに過去のもの、という点もやや似ている。

・異なる点は?

 自然の生物と人工物の違い。

●総合して、かたや、生物が進化の結果のひとつとして完成させた巨大な身体。かたや、人類のさまざまな発明と技術を集めて完成させた大きな機械、という両極になり得るだろう。

その両極のはざまで、歌の主体者(するぬける人)は、自然の生物であり、なおかつ人工物を作り上げた人類の一員として、双方から引かれ、双方からはじかれる、ということだろうか。

2018・4・19

休日のしずかな窓に浮き雲のピザがいちまい配達される

杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

浮雲のピザ!  まじ心の糧だーー

●窓から見えた浮雲をピザが配達されたと見立てている。

この〝見立て〟を味わうだけで十分だが、せっかくだからその効果をじっくり味わおう。

(1)浮雲の形

    ピザを上から見た丸い形なのか、横から見た平べったいものなのか、人によって思い浮かべる形が違う。

(2)ゆたかでリラックス

    ピザが配達されたという見立てには、豊かな想像力とリラックスが感じられる。

(3)「世界の好意」を感受

    世界(自然、天)が、主体者に対して、心の糧(=ピザに似た浮雲)を配達してくれた、という受け止め方をしている。

これらによって、この歌には、見かけ以上に癒し効果があると思う。

2018・4・19

半分のいのちとなりしタマネギの切り口がすこし膨らんでくる 

杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

傷を修復する   決別には残酷なかなしみがある

●タマネギの切り口は、ほんとうにふくらむ。

 だけれど、この歌は単なる事実の観察ではない感じがする。


・ 切断面のふくらみ=傷の癒し

タマネギを切る場合はたいてい、まず半分に切る。その半分をとっておくことがよくある。

そうするとこの歌のように、切断面が少しだけふくらんでくるが、それは身体の傷が癒えるときに傷口が盛り上がることを想起させる。

・ 切断面のふくらみ=喪に服す⇒もとにもどらない

切れたものはくっつかない。でも、切りたての新しい断面は、いまにも吸い付きそうに相手を求めている。

だが、傷を癒すためには少しずつあきらめねばならない。

この歌を読むと、タマネギの切断面のふくらみが、失われた半分に対して喪に服しながらタマネギが自らを修復してゆく過程のように思えてくる。

だが、傷を修復することは、もとにもどらないことをも意味してもいる。ここに決別ということの残酷さがある。

この残酷さ、歌全体が放つイメージの1%ぐらいの微量な「隠し味」になっていると思う。

●なお、タマネギは保管方法が悪いとすぐ芽を出す。生命力のつまった爆弾みたいだ。杉崎さんは、

爆発に注意しましょう玉葱には春の信管が仕組まれている

という歌も作っている。


●ついでの考え事

私たちの認識力は、世界をどんどん切り分けている。

(たとえば「私」と自分を意識したとたん、私でないものと切り分けられる。)

概念として切り分けられたものたちの断面も、喪に服しながら決別して、ちょっとずつ膨らむだろう。

その種の決別によっても世界は増量するのだと思った。

2018・4・19

ねむりゆく私の上に始祖鳥の化石のかたち重ねてみたり

杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

いたわりレベルを超越するかっこよさ

(私の祖母はとても痩せて骨ばった。確かに、晩年の寝姿はまさに始祖鳥の化石だった。本人がなによりそれを嘆いていた。年をとることで最も嫌なのは見た目の衰えだと言っていた。)

●始祖鳥の化石は、高齢だったりあるいは病気でやつれたりして痩せて骨ばった身体に似ている。実に的確な描写だ。

●ただし、ふつう、老醜などを嘆く歌は、たとえ的確な描写だとしてもなかなか成功しないものである。

作者は少しでもわかってほしいのかもしれないが、深刻すぎて、読む側は安易にあいづちを打てないためだ。

●ところが、この歌は、あまりそういう遠慮をさせない。

  嘆き口調でないこともあるが、「始祖鳥の化石」だなんて、そんじょそこらのあわれっぽさを超越して、むちゃくちゃかっこいいじゃないか。

じじつ、歌会でこの歌が披露されたとき、出席者が口々に言ったのは、「いやそれにしても始祖鳥とは!」「ものすごい描写……(笑)」「まだ生きてるけどもう化石だなんて、なんか逆にかっこいい。(笑)」だった。

●その感想「いやそれにしても」の「いや」や、「なんか逆に」の「逆に」は、何かを打ち消す言い方だ。

その何かは、老いの姿に対してフツーなら抱くべきいたわりの言葉などだろう。

そういうフツーのいたわりを省略して「始祖鳥の化石」という表現を褒め称えてもかまわない、

と、その場のみんなが思ったのだった。

●私は「歌を読んで、作者を読まない」という主義だが、杉崎さんの歌人としての気概には例外的に脱帽する。杉崎さんの言葉の組み立ての見事さはどうだ。

杉崎さんの歌は内容は決して平凡ではない。読者は非凡なものにはじめて触れる。

にもかかわらずわかりやすい。そして読者のリアクションがばらばらにならない。散らからないように歌が整えられて、内容や思い描く像が絞り込まれている。


◯杉崎さんは90歳まで生き、すぐれた歌を詠み続けた。

   晩年の歌は老いを詠んでいるにもかかわらず明るくて、読者は何も遠慮しないで読めるものばかりである。

2018・4・19

雪ふればふるとてかなし理髪屋のねじりん棒の無限上昇

杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

決して満たされぬ無限の祈り

●理髪店の赤と青の螺旋は、動脈と静脈を表す。

● 血の循環は身体の基本の仕組みであり、その無限上昇を「かなし」く感じるとすれば、身体そのものの根源的な悲しみを見ている歌ともいえるかもしれない。

●理髪店のねじりん棒の無限上昇は、まるで、生きる身体の祈りのようだ。

   おお、身体は祈る装置なのか。

●それに対して、降る「雪」は、ねじりん棒の無限上昇(祈り)に、どういうふうに関わるのだろう。

  決して満たされぬ無限の祈りがそもそも悲しいものだが、まして天からの応答が、無言の冷たい雪であるゆ一見めだたないがえに、またかなしみを感じるということだろうか。


★1 杉崎さんが書く「雪」については、もっとたくさん歌を検証したいと思う。

 短歌の中の「雪」はたいてい、美しくて魂をしずめる「恵み」のような面を持っているのだが、杉崎さんの「雪」は悪役であるような気がしている。この先「雪」の歌を取り上げたら、その点にも注目して検証したい。

★2 なお杉崎さんはもう一首「ねじりん棒の無限上昇」を詠んでいる。

この歌の「雪ふればふるとてかなし」は、次の歌と響き合う表現かもしれない。

春の夜の昏いパトスのバーバーのねじりん棒の無限上昇

(こちらは歌集に収録されていなかったと思いますが。) 

2018・4・19

人の名を呼んだりしない秋天の星は無限の吸音装置

杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

すげー。装置かよー。

● 「無限の吸音装置」って何でしょう。  「吸音」される「音」って何なのでしょう?

●星といえば、「星に願いを」という歌(ディズニーアニメ「ピノキオ」で聞いた)など、「星」は「願い」(祈りも)とセットである。「星」のたたずまいは願いや祈りを触発するのだ。

●でも「星」が、地上の願いや祈りに興味を持つはずもない。

「おーい、そこの◯◯さん。君の願いが聞こえたよー」なんて絶対に言わない。ただ遠くに在って静かにまたたく姿を見せているだけなのだ。

●「人の名」うんぬんには、

「人の名は人間どうしで呼び合うもの。(よく星に願いごとをしたり、亡き人が星になって空から見守るなどと言うけれども)、星は吸音するだけの一方通行で、願いや祈りなどは地上のものどうししかわかりあえない。」

という踏み込んだ意味も含まれる、と、私は感じる。

「吸音装置」は素敵でありかつ、ある種の冷たさ(意地悪ではない)を含む、と思う。


●装置といえば、さっきの

雪ふればふるとてかなし理髪屋のねじりん棒の無限上昇

という歌も一種の装置だった。

これがセットの歌であるならば、

     「理髪屋のねじりん棒の無限上昇」=存在の無限の営みとしての祈りを上空に発し続ける装置

     その祈りのようなものを無限に吸い消す装置としての「星」

という二者の構図がうかんでくるが、考えすぎだろうか?

2018・4・19

三月の雪ふる夜にだす手紙ポストのなかは温かですか

杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

こっちは暖房装置かな

●まずは上の句をよく読んでみた

下句「ポストのなかは温かですか」をどのように受け止めようと考えつつ、とにかく上の句をよく読んでみる。

寒いのに外出

  雪の夜にポストまで行って出すのは、いてもたってもいられない切実さで出したい手紙である。  三月の雪ふる夜のポストには、ふだんよりも切実な「人恋しさ」がこめられた手紙が集まっている、と読者に推理させる。

   また、雪は寒さだけでなく、人を屋内にとどめるし、視界が悪くなるしで、孤立感を強める。これも「人恋しさ」を増幅する要素だ。

白と赤の配色

  白い雪と赤いポスト。この配色は対比的であり、雪の寒さと手紙の温かさという対比を引き受け、くっきり際立たせる効果がある。

●雪の孤独感に対抗? 

  雪はほぼ万人に孤独を感じさせる。上空から降ってくるからなのか、白いからなのか、冷たいからなのか、とにかく雪は人が孤独であることに気づかせるらしい。「雪」と「孤独」はしばしばセットで詠まれる。そういう歌は枚挙にいとまがない。

この歌は、そういう歌の中で珍しく、「雪」が仕向けてくる孤独に対抗できるもの(ポストの中の手紙の温かさ)を提示している。

●「ポストのなかは温かですか」は誰が誰に何のために問いかけているのか?

解釈1 投函した自分の手紙が寒くないかと気づかい、ポストの中は温かいかと手紙に問うている。

解釈2  ポストの中には自分が今出した手紙以外にも、切なる人恋しさによって投函された手紙が入っているだろう。たくさん入っていればポストは温まっているだろう、という思いからの問いかけ。

解釈3 降る雪によって世界は冷やされている。それに対抗して世界を温めるものがあってほしい。人々の愛が投函されているはずのポストに「温かですか」問いかけ、ポストをいわば暖房装置となすスイッチを入れる。


解釈1と2が混ざったようなものとするのが順当かと思うが、私は解釈3が好きだ。


◯余計な考え事だが

もし私が作者なら、下の句、特に末尾をどうするか、そうとう考えただろうが、「なかは温かですか」という絶妙のフレーズを見つけ得たかどうか、自信がない。

三月の雪ふる夜にだす手紙ポストの……

というフレーズを得たら、あなたなら続けてどう書きましたか?

2018・4・19

朝礼に並ばされいておとなしい低温殺菌されたる君ら 

杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

人間性まで殺菌されそう

●「低温殺菌」は、朝の寒さに萎縮して並ぶさまを示唆すると同時に、もう一つ含みがある。

「低温殺菌」という殺菌法はよく牛乳で見かける。

 牛乳はふつう高温度で殺菌をする。高温殺菌は70度以上で15秒ぐらい、超高温殺菌では120度から150度で瞬間的に殺菌する。それに対して「低温殺菌」は、65度ぐらいで30分ぐらいかけて殺菌する。この方法だと微生物は完全には死滅しないが害のない程度に減少する。賞味期限は短いが素材の風味を損なわないのだそうだ。

――それなら生徒の低温殺菌は大いにけっこうじゃないか、と思うかどうか。

大いにけっこうと思う人もいるだろうが、普通の単純な殺菌よりも、菌を殺しすぎないはずの念の入った低温殺菌のほうが、より恐ろしいと感じる人も少なくないだろう。

それはなぜだろうか。

●人間的な部分まで殺菌されちゃいそう

アンパンマンというアニメにはバイキンマンという人気キャラが出て来る。

アンパンマンは自身の顔を他者に分け与えるような自己犠牲のキャラだが、それに対してバイキンマンは、自己の欲求のままに行動する。人間には、バイキンマン的な要素も不可欠だろう。

私たちは心のどこかで、内なるバイキンマンの必要性を知っていて、なおかつ、バイキンマンは不滅であって、普通の殺菌ぐらいで死に絶えやしないとたかをくくってもいる。

ところが、低温殺菌は、きめこまかに人間性そのものを「殺菌」し、バイキンマンを骨抜きにしてしまいやしないかと心配になるのだ。

2018・4・19

あたたかき毛糸のような雪ふればこの世に不幸などひとつもない

杉崎恒夫『パン屋のパンセ』

杉崎さんの歌の「雪」は、たいてい悪役。気づいてた?

●あたたかい毛糸のような雪が降るならば、世の中に不幸などひとつもない。

この理屈は、言い換えれば「雪が冷たいから世の中に不幸がある」になる。

●こんなにも「雪」を悪役にする人は珍しい。※

やんわりとした口調だから気づきにくいが、杉崎さんの歌に出てくる「雪」はほぼ悪役で、それも命とか世界とかを根源から冷やして不幸をもたらすものとして捉えられている。

●「ふれば」は、「ふるので」と「ふるなら」のどちらの意にもなる。

この言葉選びも意味があると思う。雪の性質さえ変われば、逆転して祝福の歌になる。「ふれば」は、そういう主軸のような役割を果たしていると思う。

そして、さして凝った表現とも見えぬこの歌では、そのことこそがメインメッセージではないかと思うのだ。


 ※「雪」が歌の言葉のなかで果たす役割は、 雪は冷たいものであるにもかかわらず、イメージの中では救いの力を期待されて使われることが多い。短歌のなかで雪に降られている人は、ほぼ。救いや癒やしを必要としている人だ。たましいレベルで救われるべき人に降る。

短歌でなくとも、ドラマなどのエンディングが雪の場面なら、「いろいろありましたが」と、沈静化しながら幕引きする感じになる。

 「雪」はそう書けと決まっているわけではない。傾向として、そういうふうに扱う人が多い。そして、杉崎さんは、なぜかそういう「雪」を詠まず、悪役として扱っているのだ。

2018・4・19

雪ぞらの浸透圧なすさびしさはガラス一重を透りくるらし

杉崎恒夫「かばん」1985年5月号

この「浸透圧」、じわじわくる。

●まるごと一瞬でわかる歌。

   物理的には「雪空の冷気は、浸透圧でガラスを透過し、部屋にしみこんでくる。」ということ。

  だが、「雪空のさびしさは、まるで濃度の違う液体が半透膜で隔てられたときに同じ濃度となろうとして浸み込む圧力のような力で、私と雪空のさびしさが同じ濃度になるように、私にしみ込んで来る。」

というふうに、読んだだけでひとりでに了解してしまう。

「浸透圧」という語が秀逸だし、「冷気」と言わず「さびしさ」と言った効果も大きい。

●杉崎さんの歌はわかりやすい。凄腕の歌職人の手になる歌の優しさが、それこそ「浸透圧」をなして読者を魅了する。

他の歌のところでも書いたが、杉崎さんの歌の中では「雪」は悪役である。(さらっと詠まれていて気づきにくいけれど。)これは「雪」にとって悪役は珍しい配役である。

杉崎さん以外の人の歌では「雪」は癒やしをもたらすものとして扱われることが多いのだ。だが、杉崎さんが詠む「雪」の冷たさは、地上の悲しみや不幸を癒さない。

そして、杉崎さんのこの「雪」のあつかいには一貫性があり、「雪」というテーマについては、杉崎さんは生涯かけて連作をしていたと見ることも可能だ。

他にもそういう要素があるかもしれない。

2018・4・19

以下準備中