「切手」はかなり前に、「満腹アンソロジー」でもとりあげましたが、
その後歌数が増えたので、再度歌を抽出し、こういう形にまとめました。
コメントの一部は、他の鑑賞文から切り出したものですので、
文体が一貫しない(「です・ます」と「である・だ」)部分があります。
おいそがしい方はここだけでもどうぞ。
郵便という仕組みは人が作ったものだが、魔法のようによく出来たシステムだ。差出人には届くまでの途中経過が見えず、手紙そのものが飛んでいくかのように感じられる。
単純なことを詠んでいるようだが、そうした理屈抜きの期待を、この歌は、へんに力をいれず実に自然なことばで表している。いかにも純粋にストレートに詠んだ、という感じだが、それは存外むずかしいことだし、見た目以上に詩的濃度が高いと思う。
「切手の図柄に相手に対するなんらかの思いをこめる歌」は非常に多く、そのせいか、好感を持たれても印象にはのこらない傾向がある。が、この歌にはプラスアルファがあって抜きん出ていると感じた。他者に対して抱く「元気でいて」という願いや励ましが「ぼくのわがまま」だ、という認識が繊細だし、それでもこの切手を貼って出すという微妙なわがままの行使も、いい味がでている。日常ではそういった心情的配慮は珍しくないが、短歌の「切手」のイメージとしては新しいものを加えた、と思う。
雪しかない場所。ふみだしたらもうその先は「せかい」がないかのような限界にいる「あなた」。そういう人に送る郵便にはどんな切手がふさわしいだろう。(元気過ぎるものはだめ。鳥は死に通じるし、仏像なんかもっとだめ……。)
無言の小さなうさぎの切手そっと貼る。(貼る→貼り紙→「この先は行けないよ」的にやんわり静止するもの、という連想脈もかすかにあるようだ。)2円切手は手紙や葉書の最終段階で貼り足すもので、その指まで見えてきそうだ。
このように「切手の図柄に相手への思いを込める歌」は一大歌群を形成するほどに多いため、上手に詠んだだけでは「よくあるいい歌」どまりになりがちだが、この歌は「雪うさぎ」の使い方捉え方がひとつ抜きん出ている。
上記に書いたようなことを歌にそっと貼り足すかのような作者の指先さえも感じられないか。
さらに、この歌は、世界からいまにも転落しそうな「あなた」を救うために、2円の不足を補うかのよう、という実にレアな味わいもあると思う。。
※この希少な味わいは、「マイナスアルファ」という別コレクションにも該当するので、そのコーナーにも再掲した。
「西陽」といえば、西に傾く午後の太陽の日ざし。眩しくて厳しい日差しのイメージ。夏の季語。(冬の西日は暖かくてうれしいけれど。)
また、「十二支」といえば、元日の朝に神様に挨拶に来いと言われて競争した結果があの順番だという民話があって、それは朝日の中の競争だったわけだが、この歌はそこからの連想で、「夕方の西日のなかでまた何かさせられる」というくすぐりがある。
そしてもう一つ、「むらむらと反り返る」というところ、ごく幽かにだがゾンビ的ではないだろうか。そういえば「西」という語は昔から「死」を意味したっけ、などと思ったりもする。干支というものは、にんげんの想像力で、生身の動物からキャラに完全転換し終えたものだが、そこに至っても「西陽」がまだ何かさせる、というような「西陽」の過酷さが、ごく微量に(切手がちょっと反り返る程度に)含まれている。
怒り、反発、抵抗。こういう歌はただでさえ難しい。だから珍しい。
しかも、こういう観点から切手を詠むことも珍しい。
さらに、短歌に詠まれる曜日名では「火曜」は一番少ない※ゆえに、珍しい。
レア✕3という書きにくい素材を、すごくよくまとめていて、ユーモアもあって、すばらしい!!
(※まじ調べました。「火曜」は最多の「日曜」の六分の一しか詠まれていない。)
主体は郵便。あるいは郵便のような役目を負って、人間扱い使いされずに働かされている人。
普通なら仕事を終る開放感を表しそうなネタだが、「いいですか」と許可を得るというもう一捻りに、思わずうーんと唸ってしまう。
(どうでもいいけど、捻ると唸るは字が近いですね。)
相手との地位の差が大きい感じが付加され、また「まぶた」の切手という身体への言及も、絶対的服従を思わせる。
「切手」という題材で、こういうことを書くのは本当に希少だと思う。
こういう観点から切手を捉えた歌が他に見当たらなかった。
「国を作る」という話の冒頭に「切手を作ること(それも普通じゃない材質で)」をあげていることだ。
およびこの会話(?)の内容だけでなくシチュエーションも、なんだか微妙にそそるではないか。
説明しにくいが、従来の短歌の詠ませどころとは力点が違っていて、そこに惹かれる。そこにもツボがあったか、っていう感じで。
興味のある方は以下も御覧ください。
歌を分類し、コメント付きでご紹介しています
切手の図柄で短歌に多く詠まれるのは動物である。
切手を詠む歌には絵柄にかかわる歌が多く、また、「これこれの図の切手を貼る」(自分が貼る)とする歌では、そこに相手への思いを込める例が多いけれども、動物の絵柄を詠む場合は、それだけでなく多様な展開をしている。
手紙というものは、自分の思いを送るものだ。
その前段階から思いに浸って楽しむために、投函前に遠回りして歩くこともあるかもしれない。そのとき切手の絵の中に自分が入って歩む。でも、駱駝の切手じゃなければ、こういう発想をしなかったかもしれない。
ところで駱駝の切手は実在するのだろうかと気になり、調べたところ日本の切手では「わたしの愛唱歌シリーズ」に「月の砂漠」の絵の切手があった。(これとは限りません。駱駝の切手は他にもありそう。)
こちらは投函した手紙の切手。歌稿を送った歌のようです。賞への応募など重要な歌稿でしょうか。
鳥の切手は、しっかり飛んで行くようにと選んだものか。でも、鳥の切手じゃあどこかに飛んでいってしまわないか、とちょっと心配。--そういった口ぶりで、歌稿が宛先にしっかり届くこと、受け取られることへの、期待を味わっている歌だと思われます。
この歌は、受け取った手紙か葉書の二円切手に目を留めた場面でしょう。
切手の歌を集めて意外だったことのひとつに、金額を入れた歌の少なさがあります。切手の歌は70首ほどありましたが(2023年1月現在)、そのうち金額を詠んだものは、うさぎの2円切手を詠む2首だけ※でした。
図柄のかわいらしさももちろんですが、「2円」という小額がなんとなく「うさぎ」とマッチしていて、なんだかマジカルな効果さえある気がします。
この歌では「だまされて」とあるから、例えば別れの手紙など辛いことが書いてあり、しかし内容とは裏腹に切手がかわいい、というようなことを詠んでいるのだと思います。2円切手は、ふつう〝貼り足す〟切手です。貼り足しの2円切手のかわいい絵。その程度のわずかなやさしさが文面にもあるのか、あるいはとってつけたような言い訳などがあるのか、などとも想像したくなります。
※もう1首の2円切手の歌、は冒頭にあげたこれ。こちらは出す郵便に切手を貼り足すシーン。
あなたがせかい、せかいって言う冬の端 二円切手の雪うさぎ貼る
笹川諒 『水の聖歌隊』2021★鑑賞は冒頭ピックアップ参照
閉じた切手帖のなかを空想している、というか、コレクターがお気に入りのきれいな鳥の切手を集めた切手帖を閉じるときに、大好きな空想をする至福のとき、みたいなシーンではないでしょうか。
そういえば、切手帖ってたいてい黒くないですか。
切手帖のなかのくらやみにんげんはしらない切手のチャ・チャ・チャ。
冒頭にあげたこの歌も動物の切手ですね。
西陽さす畳の上にむらむらと反り返る十二支の切手たち
穂村弘『水中翼船炎上中』2018★冒頭ピックアップ参照
動物の例に比べると、植物の例は少ないようです。
人が井戸なら、殺風景じゃないように、元気が出るように、と草を生やす、のかな?
人物切手はよくあるけれど、そのわりに歌は少ない印象が。
1円切手の前島密さんを詠んだ歌はないかしら?
手持ちデータの切手の歌で、匂いに言及したのはこの歌だけでした。
切手の絵は枠に囲まれているため、その小さな絵に匂いがこもるような感じもします。
コメントの言葉を思いつかないけれど、かなりのレア物です。
「5モーリシャス・ルピー切手の人物が兄に似ていた」ということを「メールするに値する事項」として捉えたことのほほえましさ、センスの良さ。
さらにそれを歌に詠むに値すると捉えたことが、なんだか味わい深いです。
歌の内容が事実かどうかなんて私は全く気にしない主義ですが、ちょっとさがしてみました。
お兄さんは右の絵のような方なんでしょうか?
黒柳徹子さんの図柄の切手ってあるんでしょうか?
あるかどうか知りませんが、「黒柳徹子さんの切手シート」には、虫の複眼が見たように、黒柳さんがいっぱいならんでいるんでしょう。
コレクターが満足そうにそれを眺め、大切にカバンにしまうまでのさまが、ほほえましく目に浮かびます。
なお、調べたところ、右のタンザニアの切手(1995年発行)を発見。
おや? さっき、動物切手のところに、自分が切手の絵の中に入るかのような駱駝切手の歌がありましたね。
で、こちらの歌は出さない手紙。歩む駱駝がいなくて背景の砂漠を見ているのかな、なんて勝手に想像しています。
(あ、どちらも小島さんだ。親子で本歌取り? 同じ月の砂漠の切手を見ているのか?)
【上の句】海だけが描かれた切手があるのかどうか知らないけれど、一般的に海の絵には船や鳥や雲が、いや雲ひとつなくとも空ぐらいは描いてあると思います。
探したら海だけ描いた切手も実際にありましたが、それはあまり重要ではない。この歌では、郵便にはられた切手を「海だけが描かれた」と認識していることが重要でしょう。
これは喪失感なんだろうか?
喪失というより、「≒他の要素が欠けている」という意味あいではないでしょうか。
また、「海」には、「海の向こう」という希望もありえますが、「海だけ」では、その希望要素が棄却されます。
【下の句】下の句の口調は、これまでを振り返っての悔恨みたいです。もはや手遅れらしいとさえ感じさせるのは、「海」に(この海には特に)「行き止まり」のイメージがあるからかも。
【総合して】「海だけ」という部分、喪失感を表すようですが、更に「性善説」とを並列的に位置づけることは、「性善説」の不完全さを表していないでしょうか。
「僕たちは何かを、今まであえて不完全な解釈で見ていた≒悪い方を見ないできた、――それも佇んで(≒他人事のように)眺めていたのだ」的なことを言っているように思えます。
さらには、「人間の心の行き止まりは意外に近い。実はいつも、波打ち際にたたずんでいるんだ」というニュアンスも、あるかもしれません。
じゃあ「僕たち」が見ていたものは何なのか、また、「僕たち」をどう解釈するか。
「切手」は一つの手がかりでしょう。--これが私信なら、たとえば離婚話みたいな、取り返しのつかない深刻なこと。
いや、「性善説」という言葉は、社会的制度を語るときによく使う語だから、この郵便物は、役所の通知文書かもしれません。辛い通知、――補助金等の打ち切りとか、家庭裁判所からの文書とか、人生が行き止ってしまうような情け容赦ないものかもしれない。だからことさらに「海だけ』切手に注目した、とも考えられる。
喪失感を描く歌、行き止まり感を描く歌は、世に溢れかえっていますが、この歌の表現は超レアな球筋で、秀逸だと思います。
冒頭にとりあげたこの歌も、ここに分類できます。
元気でいてという願いはぼくのわがままで 積乱雲の切手はる
フラワーしげる 『ビットとデシベル』2015★冒頭ピックアップ参照
切手の色を言うだけで、なんらかの思いを表現しえるということ。それで歌が成立する、ということに驚かされます。
まずは近代の牧水。
日本の切手は1871年(M4)に初めて発行。職人が1枚ずつ手作業で作った和紙の切手だそうですが、牧水のこの歌集は1910年発行なので、もう少しあとのものでしょう。
牧水のイメージした切手はたぶんこういうかんじの切手でしょう。
(右は1906年発行日露戦役凱旋 3銭 という切手です。他にも似たようなのがありました。)
切手が封印? と、ちょっと引っかかったが、切手を貼るのはふつう、手紙を書き、宛名を書いた封筒に入れ、という、その一連の行為の最後にすることであり、切手を貼るのは「この手紙を出すかどうか」の最終の意思確認なのである。「封印として」というのは、そういう意味合いだろう。
さて、「青」という色は、静かで動じない空、あるいは永遠のような、究極の強さのイメージがある。
だから「青で封印する」というのは、空で蓋をするような、絶対的な、「死」のように抗えない内容の手紙だと思う。
つまり「人事を尽くして天命を待つ」といった感じの心境を詠んだ歌かと思うが、そういうことを詠む歌はほかにいくらでもある。私が着目したのは「あをき切手」が、それとなく「赤紙」(召集令状の俗称。戦場への呼び出し状 )を連想させそうになる効果だ。(させるではない。させそうになる効果だ。)
作者が意識したかどうかわからない。無意識だとしても、脳のブラックボックスのなかで、この「あを」は、「赤紙」と響きあおうとしていないか?
機序のわからない、そういうささやかな効果によるプラスアルファ。それこそが大切だと思う。
紫という色は、高貴な色でもあるのだが、病的というイメージもある。
赤と青を混ざっていることがなんだか怪しいのかもしれない。「白黒つける」という言い方があり、「赤青つける」とはいわないけれど、紫は「赤青つかない」色、つまりはっきりしない、得体の知れない、という怪しさがある。
ただ、この歌の場合、切手の色だけで「陥れむとするにあらずや」というのは無理があり、差出人が不信感を持つ相手だとか、なんらかの事情があることを暗示しているのだろう。
このほか、冒頭にあげたこの歌も、この分類に入ります。
空色の切手を貼ろう遠い遠い知らない町までひとすじに飛べ
千葉聡『海、悲歌、夏の雫など』2015★冒頭ピックアップ参照
このごろ、「切手をなめた」と言うと、受け取る人が、汚いとか気持ち悪いとか感じるらしい。
(内緒だが、切手の糊のほんのりした甘さが大好きだ。でも、最近買った切手は甘くなかった。やめちゃったのかな?)
だから、少し古びかかっている可能性もあるのだが、切手をなめる歌はけっこうある。
鑑賞は人それぞれですが、私は、歌を読み終わった瞬間に、太古の夕日が空を舐める図が、サブリミナル的に一瞬よぎった気がしました。
「人類の舌」と書いてあるのになぜかしら。
現在と同じ郵便切手を利用した制度が開始されたのは1840年のイギリスだそうで、それは「時の彼方」と言えなくもないが、さほどの彼方でもない……。
しかし、切手には、なぜかわからないけども、「永遠」とか「空」とかへの連想脈がひそんでいて、「人類」とか「時の彼方」とか大きな言葉がその連想脈を刺激する。そんな気がしてなりません。
(いまのところ、その機序は解き明かせません。申し訳ない。)
舐め方の比喩に徹している。
切手を舐めるときは、糊を舐め取ってしまわないようにそっと舐める。
傷をこすらむよう最新の注意を払う手加減に似た舌加減。
自分を手紙に入れて届けたい。
いや、いっそのこと、自分に切手を貼って投函したい。
そういう直情的な思いの表現。
「ペン先のくずれるような夜」
わからないようでいて、わかるような気がするのは、なんだか絵になるからでしょうか。
何か書こうとすると、ペン先からはじまって自分ももろく崩れてしまう。そういう絵。
わからないのは「夜の切手をなめて」です。
夜の図柄の切手かな?
いや、自分はからだがもろくなっちゃって普通の切手はなめられないが、「夜の切手」は昼の切手よりソフト(な感じがする)だから舐められるのかな?
いやいや、自分のかわりに「夜」が舌となって切手をなめてくれる、とか?
いやいやいや、この人は崩れて粉となって夜にまぎれてしまい、そのかわり、実態として残っている手紙が「夜の切手」を舐める、というのか?
最後の解釈が個人的には気に入りました。
この歌は、舐める歌ではないけれど、切手の糊そのものを比喩に使っているレアもの。
たしかに地味です。それ以上なにも言えません。--これはけなしているわけでなく、これはこの作者の作風。こういう独特の「盛り下がり感」を得意としているようです。
「これこれの切手を貼る」という歌では、手紙等の相手への気持ちを詠むのがほぼ定番であるようで、そういう歌はたくさんあります。それだけに、何かプラスアルファがないと印象に残りにくいみたいです。プラスアルファを感じる歌をピックアップします。
切手を貼るという行為で手紙を書くことは完結するけれど、そこからもう次が始まっている。
時間がいきいきと流れだす。
返事を待つような手紙、そういう相手に出す手紙であることは言うまでもない。
切手を貼るときや貼ったあとのことを詠む歌は少なくないが、この歌の着眼はありそうでいてレアであり、歌の姿、言葉の流れもなめらかで、内容にマッチしている。
「切手」を貼ることに、ささやかな立場の上下のような要素を見出すのは珍しい。
レアな着眼だ。
が、複数の歌があったので、こういう面もまたこれから詠み重なっていくのかもしれない。
もう1首は、冒頭にとりあげたこの歌。
居丈高な依頼のとどく火曜なり切手は弱者でお貼りください
中沢直人『極圏の光』2009 ★鑑賞は冒頭ピックアップ参照
このほかにも、冒頭にあげたなかに「切手を貼る」歌がありました。
元気でいてという願いはぼくのわがままで 積乱雲の切手はる
フラワーしげる『ビットとデシベル』2015
あなたがせかい、せかいって言う冬の端 二円切手の雪うさぎ貼る
笹川諒『水の聖歌隊』
★鑑賞は冒頭ピックアップ参照
また、「切手をはがす」ことを詠む歌は超レアですが、これも冒頭に置いてありました。
郵便を終えたら上のまぶたから切手をはがしてもいいですか?
笹井宏之 『てんとろり』2011★鑑賞は冒頭ピックアップ参照
切手を比喩に使う歌(「○○の切手のように」等)がときどきあって、たいてい印象深い歌に仕上がるようです。
未使用切手はきれいで張りがあり糊面もつるっとしている。そういうふうに美しい肌の頬なんだろうと思う。
「まだ手紙を知らぬ切手」という表現には、次の「もう使用済み」という段階への示唆が含まれるし、そこに「街の灯り」ときたので、一瞬、新人の娼婦デビューか、なんて考えそうになったけれども、そういう種類の初々しさを言うなら、もっとふさわしい他の比喩がいくらでもある。
それに、「切手」にとって「手紙」はあらかじめ決まっている相手だ。「手紙」とセットではじめて「切手」は本来の力を発揮できる。「手紙を知らぬ切手」という比喩は、そういう運命的な出会いがまだだ、という含みあるだろう。
さてここで、その切手みたいな人を「おまえ」と呼ぶ人物のことが気になりだす。
(この歌の鑑賞はここからじゃないかな。)|
その人物は、自分がふさわしい「手紙」となり得るかどうか、と今まさに自問しかけていている。。
自分こそが「おまえ」にふさわしい「手紙」だと確信できれば、その頬に触れたり、キスしたりできる。頬は手紙と切手が接触すべき場所、として目の前にさらされている。
(解釈はいろいろ成り立つが、この解釈なら、歌のことばをぜんぶ活かせると思う。)
郵便に使用された切手は、郵便局でスタンプが押されて、使用済みとわかるようになるが、ごくまれに、郵便局員のミスでスタンプもれがある。
そういう切手みたいな確率で、「からくも命拾いした」みたいな出来事があったのだろうか。
努力や金や才覚が通用しない状況を、小さな紙切れでしかない無力な切手が、運だけで生き延びた。そういう危うさをうまく捉えた絶妙の比喩。
そういう切手は剥がして再利用できそうに思えますが、再利用は禁じられています。
(比喩としては「切手のように」ではないけれど、切手絡みということでここに分類します。)|
解釈は言うまでもなくひとそれぞれであり、以下はそのそれぞれの中の一つである私の解釈にすぎません。念のため。
「切手なき手紙を置いてゆく」とは何でしょう? 「手紙を投函せず自ら届けに来て置いていった」という意味合いだろう。
で、そのことには、3つのポイントがある。
①人の手を借りずわざわざ自ら持ってきた、という積極性。
②自ら出向いたのに、言いたいこと自分の口で言わず手紙でよこす、という屈折。
③「置いてゆく手紙」≒「置き手紙」 最後通牒っぽい。
次に「君の白衣」。
一般的的なのは看護師さんで、「ひるがえる」から想像して、何か注意などをきつく言いおいて去る、的な感じでしょうか。
「切手なき手紙を置いてゆくよう」という比喩が凝っているし、看護師さんに「君」っていうのは不自然ですから、下の句も、看護師さん風のものごし(病人に対して少し優位)、という比喩でしょう。つまり歌全体が比喩。
歌の主体も実際の病人とかではなく、
--「君」と呼ぶ程度に親しい誰かがつかつかと来て、他人行儀に、私はあなたを保護する役目ですからねという看護師みたいな上から目線で、何かすごくきついことを言い置いて、ぷいと去った、--
という場面を想像しました。
(比喩としては「切手のように」ではないけれど、切手絡みということでここに分類します。)
大切なコレクションを手放すことの比喩。いろいろ考えつくでしょうが、「虫籠を開け放つ」は、「兄」の少年のような純粋な思いをよく伝えてきます。
虫の切手なのでしょうか。それを手放す行為も「逃してあげる」ような感じだし。
(キャラを捕まえて育成するというゲームで、キャラが多すぎると捨てることがあるんですが、うちの子は「逃してあげる」と言っています。)
また、虫の切手、生物の絵の切手ではなくても、なぜか「切手は生きている」というイメージはうっすら共有され得るように思えます。
なお以下は「裏糊」のところに分類した歌ですが、比喩の要素もあります。
地味といふことをいふならなかんづく切手の裏に付着せし糊
喜多昭夫『夜店』2003
新しい傷に消毒液を塗るように優しく切手を舐める
鈴木晴香 『夜にあやまってくれ』2016
(「切手をなめる 切手の裏糊」参照)
「記念切手」を詠む歌がいくつかありました。
だいじにして特別なときに使うもの、熱心に収集するもの、といった一般的通念を、いまのところ踏み固めている段階なのでしょうか。
「きらいではない」という肯定のニュアンスが微妙である。
「好き」とまでは言えないわけで、じゃあ、手放しに「好きだ」といえる暮らしってどんなのだろう?
記念切手をどんどん使うような暮らしだろうか。
=たくさん手紙を出す。そんなふうに多くの人とつながりがある。ちょっと目を引く切手を貼るみたいに、ちょこちょこ心を引きあうように、小さな刺激を与え合う。そういう暮らしかしら。
きっとそのほうが楽しいだろうが、そういうことのない今の暮らしも「嫌いではない」。
人疲れしないだろうし、気楽で自分らしくいられるのかな、というあたりに落着しそうなのが惜しい気がする。
なお以下の歌はすでに別の項で取り上げました。
黒柳徹子さんの記念切手ワンシートいただきたいんです
小野田光 『蝶は地下鉄をぬけて』(人物切手の項参照)
虫籠を開け放つように兄は売る蒐集したる記念切手を
沼尻つた子『ウォータープルーフ』(比喩の項参照)
何らかのことを「切手を貼って送るもの」と捉える、という形の歌が複数ありました。
連作のなかで、こういう言い回しや捉え方をする歌の需要があるのではないかと思うんですが、(つまり現段階ではメインテーマでは詠まれないみたいですが、)どういう需要でも、詠み重なっていくことで、しだいに短歌の世界で独自にイメージが醸されていき、本当に多くなれば、定番のテーマにまで昇格することもありえます。
直接相手に言わなくても、いや、相手を「従順、誠実、奔放」といった概念だけで捉える、一個の人格として見られないような状況に至っていて、それでも郵便で文書を送ることができる。--とまあ、こういうふうに思うのはかなり厳しい状況でしょうね。
この1首だけで読むとそういう解釈になりますが、おそらく連作の一首でしょうから(原点を直接見ていない)、他の歌と併せて読んだ場合にぜんぜん違う意味だったりするのかも。
旅にまつわる連作のなかの歌ですが、具体的な旅行記でなく、旅の概念を相手にしているようです。
「長い答えになるものは、重要だから、伝えるべき相手を見つけて、ちゃんと届くように計らいましょう」という意味だと思われます。(観念的に旅を詠む一連ですので、命は一生という時間を旅するもの、と考えれば、「旅先からちゃんと報告しなさいよ」という意味合いにもなりそう。)
言い回しの理屈っぽさが、理屈っぽい感性を刺激。(個人的にはこういう感覚的論理性が大好き。)
論理空間は、四ツ窓。右の上の図。
この歌は「長くなる答え」についてだけ述べていますが、直接触れていないだけで、「短い答え」や「宛先を描いて切手を貼る必要がない」ケースが存在することは、間接的に示唆しています。それらに触れないのは、触れる必要がないからです。※
※これはあえて微妙に論理を超えてみせる警句表現。「大事なものは目に見えない」(サンテグジュペリでしたかね)もこの類である。
「大事なものは目に見えない」だけでなく、目に見える大事なもの、目に見える大事じゃないもの 目に見えなくて大事でもないものという他の3種類のケースがあることも、論理的には示唆しているが、あえてそれらには触れていない。
なぜ触れないか?その3種類のケースは注意喚起しなくとも人が対応を誤らないゆえに触れる必要がないからだ。
「目に見える大事なもの」なら人は黙っていても大事にするだろう。「目に見える大事じゃないもの」「目に見えなくて大事でもないもの」も注意は不要。
「目に見えない大事なもの」だけ特に注意が必要であり、そのための警句なのである。
↓大事なものは目に見えない
なんとなくついでに見つけてしまった俳句川柳も、私の好みでピックアップしておきます。
俳句
初夏に開く郵便切手ほどの窓 有馬朗人(出典調査中)
みどり夜の窓に切手の貼つてある 西原天気 『けむり』 2011
極彩の切手蝶道に緘す 長岡裕一郎『花文字館』2008
川柳
夕暮れの寺院のように貼る切手 石部明(出典調査中)
雪で貼る切手のようにわたしたち 平岡直子『Ladies and』
2023/1/11