寄せ集め短歌鑑賞
短歌の鑑賞は、短歌を作るのと同等の文学行為だと思います。
伊舎堂仁
原則としてさまざまな機会に書いた短歌鑑賞を集めておくコーナー。
(伊舎堂仁の『感電しかけた話』についてはほぼ書き下ろしです。)
必ずしもその歌人の代表作であるわけでなく、
また、評言の長さや口調も一貫しません。
なお内容はアップする際に手直しすることがあり、
評論等への掲載時と異なります。
まだまだ作成中
この作者の歌には読むたび発見があります。
つまり何年もつきあわないと読み解けない相手なのです。
すっかり書き終わってからアップってことだといつになることやら、私の寿命が足りません。
だから、思いついたら書き、ときには前言をひっくりかえして解釈しなおすことも辞さず、随時加筆更新しています。
いつか気が済んだところで整理して確定しますが、それまでは波乱状態で更新します。
第二歌集『感電しかけた話』2022
とりあえず、なんかいろいろおもしろーい
伊舎堂仁の『感電しかけた話』という歌集、とりあえず、なんかいろいろおもしろい、と思った。
それをすぐには説明できないので、
まずは私にわかりやすくて、その良さを私が説明しやすい歌を拾ってみよう。
サッパリわからない歌も数多くある。--ということは、わかったつもりのかんちがいもあり得るが。
ショートケーキだとしたらおまえ、もはやとがってるとこ一個もないぞ
伊舎堂仁『感電しかけた話』2022
ケーキの箱を持ち帰りの途中でゆすぶったのか、蓋を開けたらショートケーキが見る影もない状態に。
そういう場面だろうが、でも、それを「潰れた」とか「ぐちゃぐちゃ」とかでなく、「とがってるところがない」と表現したところからミソで、「カドがとれる」という慣用句への連想脈が生じる。
親戚が集まる場面ではたいてい誰かが「○○さんは結婚してからカドがとれて丸くなりましたね」などと噂をしている。体型の話ではない。「カド」という言葉はしばしば、「カド」をたてずに場の平穏維持に協力すべき、という意味合いで使われる。
一般的には「カド」はないほうがいいわけだが、このショートケーキの歌はそのことを覆す比喩なのかもしれない。
潰れたショートケーキがショートケーキとは言えなくなるように、とんがりを失うことは自己の劣化であるかもしれない。
ショートケーキの話は、諷喩として、カドをなくした人に置き換わり得るから、誰かを、あるいは自分を憐れむニュアンスにも転換し得る。
そういう気分を詠む歌はほかにいくらでもあるが、この表現、この「ショートケーキだとしたらおまえ、もはやとがってるとこ一個もないぞ」という言い回しを短歌に添わせたことが、かけがえのない手柄なのだ。
--にしかまだ言ってないから誰からじゃあ、漏れたか分かる噂 各自が
思考の順序って、日本語の構文と合っていないことがある。
疑心暗鬼、不確かな疑念みたいなものに心を乱されるときって、バラバラに言葉を拾い、組み立てる、あとから、みたいな感じ、しれない、かも。
電話しながらぼくがあなたも舞浜を言う真夜中のもしも これから
心乱れて語順も乱れるケース その2。さっきの歌と乱れる理由は違うみたいだが。
「舞浜」のそれとない隠語っぽい語感がおもしろくて、(え、まさか「舞浜」ってほんとに隠語だったりします?)
電話のなかでひとりでに暗示力を帯びていくような感じ。
「舞浜」という言葉に指をおいてするエアこっくりさん的に(この例え、気に入った)、お互いの見えない意志が舞浜(っぽい何かの「もしも これから」)に集中していくよう。
作者とは年代が隔たっている。(隔たってる人が多くなる一方だが)そのせいで内容に興味がないことがあるし、とんでもない読み間違いをする恐れもある。
でも、内容がどうこうの次元でなくて、この人の短歌的センスのすごさはわかる。
日常次元の普通の人が使いこなせている日本語の微妙なニュアンス、言い回しのレトリックによる繊細な心理表現を、短歌に取り入れている。そこに感動するのだ。
(いいですか、「日常語を取り入れる」ではないですよ。「日常次元の普通の日本語の微妙なニュアンス、言い回しのレトリックによる繊細な心理表現」を取り入れている」ですよ。)
短歌にはボディがあって、使い慣れない言葉を使うだけで、ボディに違和感がある。
近代になってからみんなで短歌に新しい言葉を使いならして、現在の短歌の語彙は飛躍的にひろがった。
新たな単語を取り入れて短歌のレトリックのなかで消化するのは、わりあい真似がしやすいから、新しい言葉でも使いたい人が多ければ10年ぐらいで定着するようだ。
ただし、新しい言い回しのレトリックを短歌のボディに添わせるのは難しいし、読者になかなかそこが通じないから真似もされない。短歌というジャンルがそれを吸収するのにかかる時間は、おそらく新しい単語のそれの倍ぐらいはかかると思う。
下北沢の食べるお店で迷ったら入るころまでおりている坂
(詞書 しばらく木下さんとは会わなそう) すごく短歌のボディを使ってる。一首が、いきさつと足取りと時間経過を体現する坂そのもの。
「坂」を詠む歌にはそういうものがときどきあるが、ここまで歌と坂とが一体化する例は珍しいと思う。
分かってて違う血液型の血を入れるときってこんなだろうか
物理的なことだったらまずやらない。けれど、心の罪なら、こういう感じの罪--苦しまぐれに理屈をすり替え、そう自覚しながら歌評をやってしまうなど--をたまに犯してしまうことがある。
ものすごく余計なことだけど、歌会ってなんでお礼を言うんでしょうね。歌の評をもらっていちいちお礼を言うのは、ツミをおかしてくれたかもしれないことへのイクスキューズじゃないでしょか。
階段を上がってきながら怖い人「今1階に誰もいないよ」
これはたぶん、そこにフツーにいる怖くない人の、べつに不自然でもなんでもない言葉なんだろう。でも「今1階に誰もいないよ」というフレーズには、かすかに妙な連想へとひっぱる力があって、階段をあがってくる足音がフツーの人を「怖い人」にしてしまう一歩一歩になりそうだ。
人間の側じゃなくて、言葉の側にある要素が人間に作用する、ってことがあるよ。ある。※
※人間の側じゃなくて、言葉の側にある要素が人間に作用する とは
私が小学生の頃の流行歌のフレーズに「本当の愛なんて歌の中だけよ」というのがあった。
「え、どうして?」と気になって、ときおり思い出し、そのときどき解釈を試み、それを今だにやっている。
言葉というものは、人間という端末にインストールするソフトだ、というふうに考えるのが好きなのは、あの流行歌のおかげだ。
「言葉の側にある要素が人間に作用する」という現象を見ると脳内でピっと音がして、人間が言葉を作るだけでなく、言葉が人間をつくっているということをしょっちゅう実感している。
(「夢見るシャンソン人形」。もとはシャンソンだが、私が聞いたのは中尾ミエが歌う岩谷時子作詞のもの。でフランス語の歌詞とは違うようだ。)
この人の歌は、いったん鑑賞を書いても、翌日読み直すとまだ何か見つけてしまって、書き終えられない。
いつまでも生乾きだが、そうも言っていられないので、試みに分類して、振り分けながら書いてみようかしら。
それで捕まえられる気がしないけれども。
巨大な世界を顕微鏡で見るような
……近くて遠い世間話
……近くて遠い世間話
視点のとりかたも、私がおもしろいと思ったことの一つだ。
短歌の批評で「距離感」「へだたり」などとよく言うが、伊舎堂仁の歌には、そういう現実の空間の比喩では表しにくい位置と階層関係の微妙さがあると思う。
描かれているのは別世界ではなくて、自分がいる世間のことなのだが、すごく大きい何ものかを針穴から見ているような、--巨大なものを顕微鏡で観察しているような、あるいは逆に、小さいものに望遠鏡をあてるような、そういう奇妙なコマカさがある。
近くて遠い世間を覗く、その覗き方の苦心のバリエーションとしても鑑賞できる。
(『感電しかけた話』というタイトルに、そんなふうに世の中を覗いてる人が感電して、漫画みたいに骨が透けてる図が思い浮かべました、というのは、こっちの話です、はい。
なお、右の絵は、画力がないためぜんぜん挿絵になっていません。)
もう終わるギャグ漫画にはキャラクターたちがしりとりする回がある
伊舎堂仁『感電しかけた話』2022
え、そうだったの?
「キャラたちのしりとり」がギャグ漫画の終わる前兆だ、というのは、本当かどうか知らないが、想像をくすぐられる。
前兆といえば死亡フラグ(物語等において、死亡するキャラの死の事前にありがちな行動や事前演出などがテンプレ化する)というのもあり、このことから「世の中そうしたフラグでいっぱいだ」と敷衍することもできそうだ。
人があるけばフラグにあたる。見わたせば花ももみじも何ごとかほのめかす風情。あれって詩のフラグ。
味わいどころは、「キャラたちのしりとりがギャグ漫画の終わりの前兆だ」ということの微妙な確からしさではないだろうか。
前兆・フラグ・ほのめかし的なものを3段階に分けてみる。
A テンプレレベル(死亡フラグとしてよく例示される「この戦いが終わったら結婚しよう」等)
B 「あるある」という反応が期待できるレベル
C 「え? そうかな、どうかな、ありかも」と思い浮かべて吟味するレベル
(D「ない。ぜんぜんピンとこない」は論外。)
この歌はCに該当し、「え? そうかな、案外ありかも」と思い浮かべて吟味すること自体を楽しんでね、というコンセプトの歌だと思う。
現実のギャグ漫画そのものや、それを読む行為とは、関わっているが関心は異次元にあるような。対象と短歌の位置関係を了解していく、読者としての私の過程も味わいだろう。
伊舎堂の歌には「換喩」※的発想があって、ひとつの事例から普遍的考察へ、逆に普遍から事例へ、と行き来するような、(木から森へ、森から木へと視点がゆすぶられるような)強い知的刺激がある。
※ある事物を表すのに、それと深い関係のある事物で置き換える法。「青い目」で「西洋人」を、「鳥居」で「神社」を表す類。メトニミー。( goo辞書より)
※高柳の説明:換喩は思考が部分と全体を行き来するもので、「赤ずきん型」の喩(あの少女を、その一部である赤ずきんで代表させる)と言われている。なお、比喩は共通点・類似点で結びつくもの。「白雪姫型」の喩(王妃が雪のように白い肌の子を望んで授かった姫であり、肌の色の白が雪と共通・類似)と言われる。
短歌に知的刺激よりも抒情を多く求めるタイプの人には、伝わりにくいかもしれない。
ふたりのうち一人が塾を指さして昔行ってたーって言った
それがどうした、っていう感じの、エピソードですらないような、たまたま見かけた他人の言動。
どうでもいい些事の描写は、短歌というジャンルの特徴的スタイルのひとつだが、待て待て、この些事はフツーじゃないみたい。
階層性
末尾の「って言った」が特に重要な気がする。階層が深いな、何層あるんだ?と思いませんか?
歌人の中には「見ていた」「聞いた」など自分の行動を単に字数合わせで付け外しするような安易な人もいる。しかし、事実を描写する場合にそこに自分を入れるか入れないかは重要なことであり、伊舎堂の歌では決してそういう点がおそろかにされていなくて、その繊細さにいつも驚かされる。
この歌には次のABCDの人が登場する。
A 昔この塾に行った人。懐かしさにその情動をBと共有しようとした。
B Aの連れの人 Aの言動から親しい人物と推察できる。塾に興味はなかろうが、Bの情動につきあって「へー」と言ってあげるぐらいの親切心はあるだろう。
C 通りすがりに、このABの場面に遭遇して空気を読んだ人
D Cからそのことを聞いている人
(え?あれ? 私たち読者もDに含まれちゃうのか?)
どうでもいい些事を聞かされるBと同じく、短歌の読者って、ある種の親切心から作者につきあって「へー」ぐらいの感想は抱いてあげますよね。
階層性の強い奇妙な世間話である。困った味わいというか変な「魔」に巻き込まれていくようだ。
他人の情動を受動喫煙?
(深読み御免)
ところで、Bは友人か知人としてAの情動につきあうのは普通のことだが、おもしろいのは通りがかりのCである。Cは、作者なのかどうかとにかく歌の発話主体だが、同時に、登場人物として描かれた人でもある。このCという人物の行動はなかなか味わい深い。
Cは、全く無関係のABの情動の気配を、いわば受動喫煙のように偶然に嗅いだわけだ。
ていうか、禁煙中にタバコの匂いをくんくん嗅いでる的な?
ただし、喫煙と違って無害だし、また、受動喫煙みたいに不快でもない。
Cが通りすがりに見たのは、他人のどうでもいい情動にすぎないが、こういうものを見たと記憶する程度には印象に残った出来事として扱っている。
ABの姿には生きている人間のほほえましさのようなものがあると思うが、それを記憶に残したCは、そのとき、そのほほえましさを必要以上に嗅ぎ取ったわけだ。
(困ったな深読みが止まらない)
この歌を読んで最初にちょっと感じる「それがどうした」感もこの歌には必要な要素である。
どうでもいい場面がCには印象深かったとすれば、それは、Cがそのとき、生きた人間のちょっとしたほほえましさが欠如している状態であり、受動喫煙というより、禁煙中にタバコの匂いを嗅ぎつけたような感じで、くんくんしちゃったのではないか?
この歌に、そういうあるかなきかの暗示を読み取った私はDである。
で、私はなぜこんなに深読みして、その解釈を力説しているのだろう?
魔の階層に巻き込まれちゃったようだ。
三人が刺され一人が亡くなったあとの二人のように暮らした
事件で一家三人刺されて二人生き残った的な、他者には受け止めきれないような重い記憶を共有する暗鬱な絆、で結ばれている二人。
「のように暮らした」のところで、そのメンタルを想像することがこの歌の鑑賞ポイントだろう。
「暮らした」には抒情的遠景としての回想のひびき(昔のフォークの、たとえば「神田川」みたいな)があると思う。
そのせいなのか、かすかに心理的おままごとのような、いい意味の作り物感がただよっていないだろうか。
みんなどの秋にキンモクセイのにおいって教えてもらったんだよ
確かに、これがキンモクセイの匂いだと教えてもらうシチュエーションは、ささやかだけど、ライフイベントのひとつに数えてもいいな。
・夏休みあけに学校の先生が「みんな、夏休みはどっかいったかい」というような口調だけど、
・ただし、内容は夏休みなんかじゃなくて、ささやかだけど、ライフイベントなわけで、
・じゃあ人生が終わったあとのあの世の教室か、と思うのも一興だし、
・しかも、問われるライフイベントが「いつケッコンしたか」みたいな健診の問診票みたいな野暮なことじゃなくて、
・キンモクセイの匂いを誰かに教わる、という、すごく風流で、ジューシーな短歌的抒情したたる瞬間をとらえていることが、
すごいじゃないか、すごいじゃないか。もう一回! すごいじゃないか。
ついでながら、キンモクセイのライフイベントといえば、まだ次がある。
全員ではない。たぶん一割ぐらいの人が受ける洗礼的な言葉のイベントだが、
「名前は『臭え』だけど、こんなにいい匂いだ」
というような冗談を聞かされることがある。季節はやっぱり秋が多いようだ。
これは人生の節目のひとつに数えたい。なぜなら、以後、「キンモクセイ」と聞くたびに「臭え」と思うようになってしまうから。
この冗談には、不幸の手紙的なウイルス性がある。ちょっと下品なのに、人に伝えて拡散しないとなんだかおさまらない。。
だから、我慢できずついにこんなところに書いてしまうのだが、今まで聞いた中でいちばんおもしろかったアレンジはこれ。
「『脇が臭え』に続けてこの花の名前を言ってみてください。」
随時追加していくつもりです。
ゆっくりと焦点を合わせていくのが楽しい
読者である私は、その近くて遠い世間を覗き見る特殊な地点に招かれて、いっしょにしゃがみ込んで覗くのだが、そのときなかなか焦点を合わなくて、望遠鏡を調節するような感じになるのが楽しい。
(どういう短歌を読むときも「わかろう」とするわけだが、伊舎堂の歌は、歌が示すものへと焦点を合わせること自体が楽しい。それはまるで、まだ目でものを見ることに慣れていな赤ちゃんが、目の前にあるものもじぃーっと見て数秒かけて焦点をあわせていくような感じだと思う。)
こんばんは日本年金機構から業務委託を受けた者です
伊舎堂仁『感電しかけた話』2022
歌によっては、歌を読む行為の冒頭で、それを短歌としてあるいは作者として査定する一瞬がある。
上記「こんばんは……」の歌は、急いでいるときならその査定段階で捨てるかもしれない。
なんだこりゃ。短歌か? この作者まじめに書いたの?
しかし、余裕があるならば、こんなだからこそ逆に、「普通はこうは書かないわけで、これは作者が『この意図を汲んでみてよ』と誘っているな」と感じちゃって、二度見三度見することになる。
さて、この歌は、どこをどう読み何を受け止めれば、短歌としての価値が生じるのか?
1 とりあえず、いわゆる〝偶然短歌〟(短歌ではない文言がたまたま57577的になった)を見つけたよ、っていう報告、として1点入れる。
2 加えて「こんばんは」のニュアンスにも1点。「こんにちは」「おはよう」にはないアヤシサが感じられ、サギかもしれないとさえ思う。
3 アヤシサといえば、「日本年金機構」が「業務委託」をして問い合わせなんかしているのは、例の社会保険庁のとんでもない不祥事のせいだ。その後始末で、「業務委託」をしなければならないほどの作業が生じ、その委託先では大量に〝ハケン〟を雇ったのだった。その暗示に1点加点。
4 一方、「日本年金機構から業務委託を受け」と電話してくる人に目を向けるなら、これはその〝ハケン〟の人だ。国の落ち度を背負って最前線で一日中この定型文を読み上げ、電話越しに罵声と唾を浴びせられる。そんな汚れ仕事をするのは生活のためだろう。この要素にもう1点。
(そういえば、うちにもその電話が来たっけ。気の毒なほどおずおずと。)
5 「こんばんは」には別のニュアンスもある。電話をかけるのは歩合制か、それともノルマがあるのだろうか。日中だけではノルマが終わらないとか、日中いくら電話してもつながらない人には、夜にかけなおすとか、怪しまれるとわかっていながらやむを得ず、おずおずとこう名乗って電話するのかもしれない。などとだんだん推察してしまう。これでもう1点。
何点が満点なのかわからないが、これでもう短歌として必要な功徳を積みあげたのではないか?
本日も東日本のご利用まことにありがとうございました
ん? あ、「JR」が抜けているのか。
それだけでいきなり深読みできるフレーズになる。
いわれてみれば ,「東日本」というもののイメージを、日々「ご利用」させていただいている気がしてきた。
観光イメージならいいけれど、震災後の「ご利用」は、それってどうよ、と思う例もある……。
ぼくたちを徴兵しても意味ないよ豆乳鍋とか食べてるからね
「先に言っとくけど」という感じで、「ぼくたち兵士としては役に立たないからね」と誰かに(政府に、大人たちに、この社会に)言っている口調。
この「ぼくたち」という語は曲者だよな、とか、初見で思う。
(一時期やたら短歌に使われていたが、仲間がいっぱいいるかのように勝手に肩を組んでみせるようなニュアンスで、そこに抵抗や違和感を覚える人も少なくなかった。
ちゃんと賛同者がありそうな内容なら「ぼくたち」と言ってもいいだろうが、そうでないならハッタリになる。そういうあやしさがある。)
この歌は、あえて、その微妙な境界のあたりを狙って書いていて、出来心の強がり、みたいな屈折した味を出している、と初見から数秒後の私は思う。
ただ、階層的な表現がこの作者にはあるからなあ。
それに階層的な表現っていうのは、まずは層を一枚一枚向いていく読み方があり、最終的にはそのすべてが地層断面みたいに見えてきて、という切ったケーキみたいな全体を伝えてくる、というレトリックなんだなあ。
層1A こういう感じの心情そのもの--これにそうだそうだという「共感」で応じる読み方がある。
層1B 〃 --これに反論する読み方がある。私なんかは即座に反論で頭がいっぱいになっちゃう。
「何いってんの。戦時、人は〝使いよう〟で、豆腐人間だろうが何だろうが数のうちには入る。前線に置けば盾になる、そのぐらいの使い道の奴は、使い捨てられる便利な存在だというのがわからないのか」って。「次の瞬間、襟首を掴まれて……戦場にポイ」みたいな場面までも一瞬見えてしまう。(うちの息子はこのタイプだなあ、とか思う。)
A+B そんなのわかっているけれど、こういうふうにちょっとうそぶいてみたい、的なセリフにも見えてくる。。
層2 こういう感じでうそぶく人物や場面の描写--動画を見るように目に浮かび、これを「あるある」とおもしろがる読み方もある。
総合 これ全体を受け止める。
層1は、自分はBだけれど、Aも心情としてわかる。
そして、層2の客観をくぐると、こうした言動は、個人で抵抗できないものを迎えねばならないときのさまざまな、強がり弱音世迷い言の一つパターンだな、というふうに思えてくる。
伊舎堂の歌には、こういう「断面を見せる」という方法がときどきある気がしてきた。
書きもらしたが、「豆乳鍋とか食べているから徴兵しても意味がない」とはどういう意味だろう?
おそらくは、動物性タンパク質じゃないからヘルシー&平和志向だし、豆腐にかすがい的にふにゃふにゃ根性なしだから、兵士には向かないよ、ということだろう。
買いはしないアイス売り場は金正日総書記みたいになる後ろの手
買わないという気持ちが、手を出さないように両手を後でつないでいる、かのよう。
そんなふうに庶民がアイスを見下ろしながら「買わないぞ買わないぞ」と手を後で組む形が、たまたま、金正日という傲慢そうな為政者の仕草(後ろに手に組む)と相似形になっている。
たまたまといえばたまたまだけど、この相似は、ちょっと意味出そうな感じ。
気持ちを手のしぐさであらわすっていえば、仏像のハンドサイン、たとえば「施無畏印」(=みなさん怖がらないで)「与願印」(=願いを叶えてあげるよ)みたいなものがある。金正日と同じ手のしぐさには、何かしら心情として同じ要素があるのか、ないのか?
たいていの人が気づいて、それゆえに黙っているんだろうけど、このひとの名前の中にシャドーがあることを、つくづくいみじと思う。
追記、でもその程度の〝いみじさ〟のつくづくは、短くて脚が出ちゃう毛布みたいにものたりない。
で、あとから、「このひとは名前の中に車道がある」のほうが、そこはかとなく深淵な説明ができそうな気がしてきた。(まだできない。)
やぶからぼうの魅力
伊舎堂の歌の唐突さ
短歌は一首で成立する。タイトルや詞書なしで自立する。
そういう意味で、歌は自力でいきなり読者と渡り合う力を本質に持つものであって、作者はほぼ無意識だが、読者との出会い方も詠みながら設計している。
もっとも、読者のほうも「短歌を読むぞ」と思って読むから、短歌らしい姿や内容なら違和感なく読むし、程よい意外性はむしろ歓迎される。
しかし、伊舎堂の歌は、「さあ短歌を読むぞ、と思って読む読者」さえも面食らうような書き方をしている。
唐突--それは短歌の本質のひとつだ
で、私は、伊舎堂の歌のそういう唐突さが好きだ。
歌は自力でいきなり読者と渡り合う。
これは短歌の本質のひとつだと思うが、数ある短歌の本質のなかで、これを本質として重視しない作者読者のほうが多数派である。
で、この少数派のみが支持する本質に根ざしたような、むき出しの「短歌らしさ」が、伊舎堂の歌にはある。
そんな歌と渡り合うためには、読者のわたしも自力全開。身一つでどんどん深読みしちゃってもいいんだよね。
自販機へのぼる誰もがつま先をお釣りの穴にいったんいれて
伊舎堂仁『感電しかけた話』2022
んーー? こういうことが現実に起きるとしたら、--あ、災害。これは洪水かなにかでの緊急のやむを得ない行動だろう。※
で、歌の見どころは、内容よりもこの描き方だ。
つまさきを入れて自販機によじ登る、というフォーカスが、いかにものリアル映像だ。平和な日常が一変、自販機の役割も変わり、お釣りの穴はよじのぼるための足がかりになる。
そして、--うん、そして、短歌としては、「なぜ唐突にこういう場面を歌に詠んだのか、なぜ思い浮かんだのか」と読者に思わせるこの出現のしかたそのものも表現のうちだろう。
次のステップで私はこう深読みする。
災害への恐怖をいきなり感じちゃった、と報告したい歌ならば、「いきなり」に対するエクスキューズをちょっとは入れるはずだろう。でもこの唐突な詠みぶりにはライブ映像感がある。
そんな災害は現実には起きていないが、日常には、可視化できない災害がけっこう起きていないかな。それを言葉のカメラで撮ったりしてないかな。
ふだんはちゃんとした人も、追い詰められて立場をなくしたら、見えないワラを掴む的に、見えない自販機をよじ登るだろう。
※ 追記 韓国の梨泰院の雑踏事故の映像に、ほんとうになにかによじ登っている人が映っていた。
もらうだけ 持ってるものを守るだけ 「ありがとうございました!」ってだけ
ぞくっとした。これは乞食の暮らしだろ。
誤読だったら申し訳ないけど、いきなりそう思った。
乞食は私がこどものころにはよく目にする存在で、見た目もふるまいも昔ながらの乞食スタイルを守っている人が多かった。
すなわち、汚れてツギハギのそれも破れて一部ワカメみたいにぶら下がってるようなぼろ服を着て、筵に正座し、縁が少し欠けた茶碗を前に置いている。誰かが小銭を投げると「おありがとうございます」とお辞儀をするのである。
今は乞食ってほとんどいないだろう。うちの近所のホームレスさんは、きれいじゃないけどあそこまでぼろでもない服装だし。
でも、アルバイトとか、非正規雇用の不安定な身分で日銭を稼いでやっと暮らしている人はたくさんいる。
昔のスタイルの乞食ではないけれども、似た面のある暮らしぶりだ。
「おありがとうございます」じゃなくて、「ありがとうございました!」という明るさのぶん、昔の乞食より社会的に軽い存在とも感じられる。
これまた昔の労働歌には「自分の価値に目覚めなさい。部署を放棄してストライキをすることは『社会の虚偽』をうつものだ」という意味のことが歌われたが、今、そういう方法で自分の価値を取り戻せるとは限らないほど、虚偽がしたたかになった。
五十銭貰って
一つお辞儀する
盗めば/お辞儀せずともいゝのに
夢野久作『猟奇歌』
コメントはあとからでいいとりあえず拾っておけ
--の置き場
--の置き場
人が人にふつうに冷たいときがある 竜巻(ボールペンだけで描く)
伊舎堂仁『感電しかけた話』2022
自衛隊だから 元、って噂してるトラックがゆく花びらのなか
ルビ:元【もと】壁をアコースティックギターこすれながら倒れていった泊めてもらう日
わかった気はしないが、とりあえず解釈してみようか
--の置き場
--の置き場
さっきから言ってることと実際にやってることがドクターペッパー
伊舎堂仁『感電しかけた話』2022
どういう意味だろう? 「ドクターペッパー」というなんか思わせぶりな名称の由来がけっこうテキトー(たしか単に関係者の身内にペッパーという博士がいただけ、みたいなこと)だと聞いたことがある。そういうギャップのことなのだろうか? 自信ない。
最後は「楓」だから楓が終わったら終わったままにしておいていい
スピッツの「楓」かな。あれは、このあとはもう何もなしですべてフェイドアウト、っていう感じで終わる曲。
しかし、それにこだわらず、この歌の言葉だけを相手にして読んでもおきたいとも感じる。
そういう〝引き〟がかすかにある、と思う。
秋を彩る「楓」は晩秋の季語、とか、その葉が幼児の手を思わせるとか、なんとなく(秋という実り多き季節のように、)さまざまなパフォーマーたちが立ち現れたあと、トリは幼い踊り手(楓)が舞った。巡る季節のそら冬だそら春だ的にふたたび何か始まってしまうのは、終わるということの美しさを損ね、完結の満足感をぶちこわしてしまう。
だなんて、書いてありませんね~。気の所為ですかね~
おそらく関係ないだろう。あっても意味のない連想脈でかろうじてつながるだけだろうが、淵上毛銭のこの詩が思い浮かんでしかたがない。
風邪 淵上毛銭
もう屏風の
山桜の散った武者絵にも
飽いてしまつた。
毛銭は「病床詩人」として知られる。だから、(というふうに繋げたくないが)「今」を苛むような停滞する時間を描く詩がある。
何を考えているのかわからない。何を考えてるかが分かる?
下線部分歌集では傍点が振ってあります。
「何を考えているのかわからない」って言うけどそもそも、「何を考えてるか」って分かるものなのか?
っていう意味、だよね?
この歌、一読でそう思い、うそ、そんなわかりやすいはずがあるかよ、まだ何かあるんじゃ? と思えておちつかなかったのですが、
でも、「そも、『何を考えてるか』って分かるものなのか?」という疑問は、一首をなすに値しますね。うん。
食べたあと4人くらいで黙ってて「行くか……」っていうとき おもしろい
末尾の「おもしろい」がわからないけど、味のないグミみたいな感じ?
ファミレスとかで隣席の4人を観察していた。飲食をしても何ひとつ盛り上がらなくて、4人ともそのゼロ感をかみしめつつ0のままいったん区切る決断をした、画面にツーーとひたすらまっすぐな線が表示されていて、一瞬小さな波が出てまたツーーみたいなこと。そこかなあ。
0感をかみしめるって、そういうグミがあったら買ってみたい。
短歌の感想を食感で表す、ってどうよ?
お菓子ならグミ ラムネ カルピス、プリン、せんべい(のなかでも柿の種)。
カルピスにまぜて飲み干したい短歌とか、せんべいに書いて食べたい短歌、とか
麺類もいいね。うどん系とそば系。この歌はかつお出汁が効いてるとか、言ってみたいしさー。
え、はい、すみません、もうやめます。
コメントかきかけとか、
わかった気がしなくて解釈が書けないけど気になるとか、
--の置き場
わかった気がしなくて解釈が書けないけど気になるとか、
--の置き場
一睡もしてない、みたいな一滴も飲んでない、の言い方が要る
伊舎堂仁『感電しかけた話』2022
なぜその言い方が要るのかなあ。睡眠も水分も必要なものだから。
ん? お酒か。なら逆にわかりすぎるかな。生きていく上で酒が睡眠なみに必要だという…。
女1:男99の図の青いあの人たちのあの後
なんだろこれ。ぴんと来るような知識が必要なのかも。
わかんないけど、なんだか気に入ったので、青の歌のコレクションに入れたい。
音楽の先生を性欲で好きだったおれには資格がない その
コメント準備中
というわけで、まだまだ興味の尽きない歌集。追加更新するつもりです。
第一歌集『トントングラム』2014
ニコリともできない面白さだ!
ニコリともできない面白さだ!
『トントングラム』の帯には、「少し笑ってから寝よう。」と書いてある。
(作者の言でなく加藤治郎の言葉)
私はこの帯をろくに見ないで歌集を読み、私なりにかなり面白がって読了した。
にもかかわらず、読んでいる間はニコリともしなかった。
ユーモアって笑うものばっかりじゃないんだよね。
読み終えてから帯を見て、「え、笑うんだったの?」と、ちょっと慌てた。
ま、反応は人それぞれ。
母さんがおなかを痛めて産んだ子はねんどでへびしか作りませんでした
伊舎堂仁『トントングラム』2014年
母さんを巻き添えにした自嘲
母を巻き添えにする自嘲
面白いな。
自嘲なんだけれど、「母さん」を巻き添えにしている。
まずは「母の自慢の息子になりたかったのになれなかった」と受け止めるのが順当だ。
が、自分自身への期待はずれだけでなく、「どうだ、がっかりしたか、悲しめよ」と、「母さん」まで嘲笑う。
しかも、この歌の口ぶりだと、この期待はずれは、期待に対して成果がゼロだったのではなくて、マイナスに踏み込んでいるみたいだ。
自分自身への期待はずれって、期待してくれた「母さん」と共有できるようなものなのだろうか。それは難しい。たぶんできない。
自分のせいだけでなくお互いに少し「おまえのせい」にできる部分がある。そういう悲しみが感じられる。
どこからマイナスを読み取った?
かすかに感じ取れるマイナス要素。この歌の重要な要素なので、歌のどこにそれがあるか、よく探してみよう。
■その1 お前の期待のぶん俺が傷ついた?
この「母さん」は、我が子に期待してお受験に血道をあげるステレオタイプの母を想起させる。
そうならば、「勝手に期待しやがって、俺までつられて自分に期待しちゃったじゃないか、だから無駄に傷ついたじゃないか」という気持ちかもしれない。
(……なんかフツーに筋が通る感じが気に入らないな。)
■その2 団子と蛇
(やや深読みだが、出てこない団子も考慮するこっちの考察のほうが面白い。)
粘土細工において基本の形であり、技術もセンスも不要で幼児でも作るものといったら、「だんご」と「へび」の二つである。
もしこの歌が「だんごとへびしか作らない」だったら「ただの人」(ゼロ)感が強かっただろう。
「だんごしか作らない」だったらややお人好し感が強まる。
そして「へびしか作らない」は、「へび」の禍々しさが強調され、「嫌われることばかりなすタイプ」(マイナス)の暗示に傾くのだ。
(と書きながら今気づいたことだが、団子と蛇は形状も「◯」と「-」、ゼロとマイナスじゃないですか、奇しくも。)
この自嘲のニュアンスどう受け止める?
■人生相談の回答の如き感想はやめなきゃ
この歌に限ったことではないが、短歌の鑑賞において人生相談の回答の如き感想を抱きそうになったら、いったん仕切り直しすべきである。
この歌には「母を巻き添えにした自嘲」が描かれている。が、それは、作者自身が母を巻き添えにして自嘲しているとは限らないし、歌が実に冷静な書き方をしていることから、自嘲などの感情を単純に披露するものとは思えない。
■比較的若い世代の〝世間話〟のノリかしら?
これは昨今の短歌に表出される、比較的若い世代のメンタリティでする〝世間話〟(悪い意味ではない)みたいな感じのものかもしれない。
自分が若くないのでよくわからないが、わりと深刻なことを他人事のように話す傾向があるようだ。そういうノリではないだろうか。
末尾「でした」で終わっているが、言葉の流れは「でしたとさ」になりそうな雰囲気だ。そういうふうにおとぎ話ふうに軽く語って深刻さをやわらげ、聞き手の笑いを取りながら共感や同情の相槌を誘う。ーーそういう語り口ではないだろうか。
■「母」は聖・「ママ」は未熟・「母さん」は?
「母さん」という語感に興味がわいて、近現代の短歌の用例を探してみた。
大雑把に言ってこういうニュアンスの違いがある。
・「母」は押しも押されもせぬ聖(ひじり)である。
・「ママ」は母よりも未熟で不安定で弱虫。ふらふら失踪しちゃったりする。
・「母さん」はまだ用例が少ないけれど、子の側がサメていて、「母」を聖でなく、人間としての弱さを持つものとして、「しょうがないなあ」と許容するニュアンスになるようだ。
※参考
群青の空の真下のかあさんは僕をどこかに捨てそうでした 廣西昌也『神倉』
忘れ物とりにもどつた家にかあさんゐなくてそんなものかな 平井弘『遣らず』2021
母さんの金の指輪よその肉に食い込みすぎていてこわかった 穂村弘(出典調査中)
冬休みのかあさんは疲れつかれいて除夜の鐘、夢の中にも鳴らぬ 鈴木英子『油月』2005
■言葉の成長には〝世間話〟が必要だ
短歌の中の言葉に、今の現実の心情の機微を注入するためには、その次代のメンタリティによる〝世間話〟のような短歌がたくさん詠まれる必要があると思った。
追記:第二歌集『感電しかけた話』にはこういう歌があった。
おれが朝シロハラクイナをはねたときシロハラクイナをせめた母さん
『感電しかけた話』2022
わかる歌だ、けど、
これは批評でなくすごく個人的感想だけど、少し日和ったかな、と思った。
そも、母の愛って本当に愛なのだろうか。ましてやかあさんを甘く見ちゃいけない。愛はまぜるな危険、って。
母モノを見るとなんかいっぱい言いたくなってしまう性分で。
考えてみますねのねでファスナーの音 そしてまたファスナーの音
伊舎堂仁『トントングラム』2014
音の叙述だけで心理と場面の描写。この臨場感がすばらしい。
コントのような歌。会社のトイレで並んだときに、こっそり何か大事なお願いをしている。
そういう場面だろう。
相手は「考えてみますね」と請け合うが、用を足してファスナーを閉めながらの返事には拒絶感があり、いかにもあてにならない。
次のファスナー音は自分のほうの音だ。
こっちはあきらめて、願いをズボンのなかに納める音(とは書いてないが)、みたいな感じ。
コントみたいなんだけど、音の叙述だけで心理と場面の描写。この臨場感がすばらしい。
追記 それに聞き耳をたてて空想している人、という位相があって、それも読みどころなんだと思う。
『トントングラム』の歌は少ししか鑑賞を書いてきませんでした。読む力とそれを書き表す力が足りなかったから、手控えていたせいです。
今後なるべく追加したいと思っています。