評論を書くついでに思いついた短歌鑑賞。
いずれ作者別等に振り分けるつもりですが、
まだ鑑賞文が少ないので、
とりあえずここに放り込みます。
歌人別鑑賞と一部重複します。
歌人別鑑賞と一部重複します。
永井亘『空間における殺人の再現』2022
解釈は人それぞれ。私の解釈はそのなかの一つ。
言うまでもないが、言っておきたくなる歌。
まず、生きる時は死体がないというのは、生きている人は定まっていないという感じかと思う。
(例えば、私は文学部だったが、卒論のテーマを決める時、「人を選ぶ場合は亡くなって評価が定まっている人に限る」と言われたが、生きているうちはそういう意味で定まっていない。)
で、下の句の解釈。
探偵は文字を、ひらめく棺(ひつぎ)のように使う、っていう意味だろう。
つまり、探偵は推理がひらめく。ひらめきの言葉で不確定なものたちを確定していく。
そこに、テレビドラマで謎を解く探偵の頭脳から文字や記号が溢れ出す演出が視覚的にオーバーラップする。
この「探偵」は、ひとつの事件の謎を解いているのではなく、
「生きている世界」つまり「進行中のこの世界」というものの謎を解いているのだが、その思考を、ひらめきの棺に納めていくこととして表しているのがかっこいい。
なお、「探偵」を詠む歌を集めてみると、個別の事件でなくて、世界というものを相手にしているような感じの歌が散見する。申し合わせなどしていないが、「探偵」という語が、そういうふうに作者を導いているのだと思う。
その傾向は、昭和初期のこの歌から始まったんじゃないかと、私は想像している。
春風が
先づ探偵を吹き送り
アトから悠々と犯人を吹き送る
夢野久作 『猟奇歌』
※実はこの歌集はまだ入手できていない。上記は1首単独で読んだ鑑賞である。もしこの歌が連作のなかの一つであれば、別の意味を帯びている可能性もある。
谷口純子 『ねずみ糯』2015
神社の大樹の前で、レジ袋の持ち手を変える。--これも日常場面を詠む歌だが、なんだか記述以上のことを感じる。
上の句では左右の手の動きを述べ、下の句では遠い視点からの絵に切り替わるという、ふたコマの絵になっていることがミソだと思う。
スーパーの袋(食料などが入っている)を下げて歩くヒト。その手が疲れたか、ちょっと持ち替えてまた歩き出す。
(「右手から左手に」の字余りは、持ち替える動作を感じさせて効果的だ。)
それは、神社の前、樹齢何百年の大樹の前だ。命を超越する神、タイムスパンの長い大楠、そしてせいぜい百年しか生きない人間、という、異質な存在の3者がたまたま重なる。
そういういわば概念の奥行きのある構図の中で、ヒトが手の疲れというとても小さな問題を解決する。そんなささいな音もない一瞬の命の現場、という実にさりげない臨場感。
非常に精密な歌であると思う。
〈二人がそれぞれ犬連れで散歩中に紐が絡み引っぱる情景〉とオーバーラップさせて、
〈将来を共有するかもしれぬ二人だが互いに譲れないものがせめぎ合ってしまう状況〉と、
それが究極〈別々だった二人の星座(=運命)が混ざることへの根源的な恐怖であること〉までも暗示。
心理の機微から本質までを捉えつつも、語り尽くさず読者の参加の余地もたっぷり設えてあり、たまげた一首である。
空から落ちてくるものを詠む歌は多い。誰が題を出したわけでないがみんながこぞって詠むいわば「無意識題詠」である。
その一方、「空へと落ちる」はまだ新しい。
ただし「空に吸われる」というモチーフの歌は少なくない。→空と生きる(圧迫と吸引)
おもしろいのは「消火器」という重たいもの抱えないと空に吸い上げられるという着想。
水に沈まないためなら浮き輪など軽い浮かぶもの、風に耐えるなら木や柱、にしがみつくだろう。その〝でん〟で、空に落ちないために、いろんなものがあるなかで形や重さがちょうどいいのか、「消火器」が選ばれているのがおもしろい。
また、「空に落ちる」は自殺にも通じる。だからこのように気をつける、という強調は、そういう危うさが基本にあることを暗示する。
さらに、「人は空のこども」というモチーフ(空から落ちてきた、空から生まれた--と、なんとなく空に母というかふるさとというか、という淡い思いを抱いている。身体は土に帰る=土がふるさと、という感覚も併存している。)も、ほとんど意識化されないままに、けっこう広く(けっこう好まれて、便利に)使われていると思いませんか。
「空」は究極の無頓着であり、愛もなにもなく人間を気にかけない。冷たいわけではないが、システムとして地上に降らしたものを回収する吸引力を備えていたりしないかな。
「空に落ちる」という表現には、そうしたモチーフを連想させるところがあると思う。
「見ていてほしい」がかなり効いている。誰にみていてほしいのか。
これは、太陽や月など、従来人を見守る役目を帯びた天体への呼びかけではない。だって空に落ちるんだから。
じゃあ親かなあ。いや、なんとなくだが、親は、太陽や月に近い気がする。(=発想がありきたり)
自分より目上のもの、見守る役目のものでなく、自分と同等の横並びの弱い存在たちに言っている気がする。
(根拠は? うーん、そのほうが新しい気がするし、ぴったりくる。)
--従来たよりにできたものたちは当てにならない。お互いに助ける力はないが、他者の努力や辛さをお互いに「見る」。そのことの価値。これは、日常的には感じているが、歌にはっきり捉えるのは新しい傾向ではないだろうか。
なお、違うことを詠んでいるが、図としてなんだか通じるものを感じるのがこの歌。
星空がとてもきれいでぼくたちの残り少ない時間のボンベ 杉﨑恒夫『パン屋のパンセ』
それでふと感じたのだが、酸素ボンベは背中に背負うもの。→酸素ボンベに似て非なる消火器を抱く。
イメージになんらかの相関があるかもしれません。むろん作者はそんなことは考えないけれど。
関係ないけど、はじめ「消火器」を「消化器」と読み間違えた。
それはそれで、腹を抱え込んで丸まるところを想像しておもしろかった。
でも、丸まったって空に落ちてしまう、と考えてよく見たら「消火器」だった。
ん? 時制が変だな、と最初は思った。が、なるほど、未来の人への問いかけか、とあとから納得。
この歌の味わいどころは、
「未来との通話が可能になり、その装置のおひろめに招かれて質問の機会をもらった聡明な子どもの一人が発言した」
みたいな、知的なあどけなさではないだろうか。
空に感情を投影したり預けたりする「空≒心」というモチーフは、古典和歌時代からの共通感覚である。
現在、「空≒身体」と把握する歌がけっこう詠まれていて、歴史的に見ればそのほうが新感覚であり、この歌はそういう意味では、かなりまともで見慣れた内容。
だが新しさはある。
--既存のモチーフかどうかを気にしていなくて、結果として既存の普遍性に素直に従ったらしい、感じ。
旧来のものをリセットしようという意識を持たないこの詠み筋も、ひとつの方法として成立すると思える。
●「空≒心」は万葉の昔からのモチーフ
実は万葉集の昔から「空=心」だった。「そら」が「心」の同義として用いられた例もある。
……はろはろに別れし来れば思ふそら安くもあらず恋ふるそら……
大伴家持(『万葉集』783年頃) (防人の別れの情の悲しみを陳べる長歌の一部。はるか遠く別れてきて心は乱れ、家族などを恋しく思う。)
また、オンラインの古語辞典には「心の空」が載っている。「①心の中。心を空にたとえて言う語 ②気持ちの余裕。心のゆとり」という意味で、次の歌が例として引かれている。
やみはれて心の空にすむ月はにしの山辺やちかくなるらん 西行(『新古今和歌集』1210年頃)
さらに、〈空〉は、恋の思いなど、〈心〉の中身が立ちのぼる空間として捉えられることもあった。
いかにせむ室(むろ)のやしまに宿もがな恋のけぶりを空にまがへむ 藤原俊成(『千載和歌集』1188年)
ながむれば心もつきて星あひの空にみちぬる我おもひかな 建礼門院右京大夫(『建礼門院右京大夫集』鎌倉初期)
などなど、例をあげるに困らない。近代以降の短歌にも「空≒心」という関係は大いに引き継がれている。
この歌は誰が見てもいい歌だと思う。そして、私は、いい歌は原則としてほっとく主義である。
しかし、この歌はヒトコトではとうてい語れない複雑なニュアンスを一瞬で伝えてくるので、その一瞬をじっくり読み解きたい。
耳の中に何かが「ある、いる」と詠む歌は、けっこうあるけれど、その多くは、自然界のもので音をたてるもの(海とか風とか)である。その点だけでも、この歌の「硝子の駒」はレアだし、更に、耳穴を秘密の小部屋的に捉え、何かの置き場とするのもかなりレアである。
また、「駒」といえばチェスや将棋の駒(ビジュアル的にも字面からもチェスのナイトがマッチする)を思わせ、「ひとりになれば」も微妙に効いて、一人になる前にいっしょだった誰かと、 チェスのごとくに知的な心理戦を楽しんでいたのかなと想像させる。
この先は深読み。
▲深読みステップ1
これは恋人とのデートの帰りかなと想像したくなるよう、「ガラス」がこっそり促している気がする。
なぜなら遠い連想先に「シンデレラのガラスの靴」があり、それは「王子に見初められ結婚」という、愛の成就のすごく古いモデルだからだ。
「ガラスの駒」はその古いモデルの対極にあり、相手と対等な立場で一手一手かわるがわる関係を築きあげていく、新しい知的モデルたり得ないだろうか。
ーーとまあ、そんなふうに深読みできる可能性があると思う。
▲深読みステップ2
しかし、その冷気や、駒を耳の中という密かな場にしまいおさめるような口ぶりに、もしや恋の破局かな、という解釈も生じ得る。
その解釈を採る場合、この人にとって、破局は初めてではない、とも思えてくる。いつもガラスの駒で対局し、良くない展開で相手を打ち負かしてしまうような破局。そのたびむなしい勝利のトロフィーのように耳奥に駒を置く。だから「置き場がある」のではないか? と思えて来るのである。
そうしたことも踏まえると、「冬の駅」という恋の歌にありがちなアイテムも、ちょっと新鮮に見える。
「冬の駅」のベタな使い方のひとつに、心のぬくもりとの対比がある。
たとえば、少し前まで恋人といっしょにいた時間を思えば、心が温もって、冬の駅の寒さにも耐えられる、という筋書きである。
しかし、この歌では、そのありがちな「ぬくもり」感を回避し、さっきまでの心のチェスを反芻する要素として、「寒さ」を、「寒さ≒氷≒ガラス」というふうに、対比でなくストレートな連想で用いていると思われる。
こうしたことを一瞬で伝えてくる歌だと思う。
『義弟全史』は実におもしろい歌集だ。
ちゃんと感想を書きたいが、多忙で、こまぎれにアップせざるを得ない。
掲出歌には一読、この視点、頭蓋骨の中にいるような感じで、生命感を撹乱される心地がした。
なぜ、どの要素からそう思うのかという戸惑いが長く続いて、長持ちする飴みたいに楽しめる。
数日それが続いて、いや頭蓋骨っぽい巻貝の貝がらで作ったオカリナみたいだ、と考え直した。
いや、作者が頭蓋骨だの巻貝だのオカリナだのと考えたわけじゃない。
「天井にたくさん穴のあいている体育館」という表現で提示された空間の感じを、私の言葉で受けとめたのである。
「とうめいもぐら」は魂っぽく穴くぐりをしているだろうか。
※ここで寄り道的な連想も楽しめる。
小野小町の野晒しの髑髏の目の穴に薄が突き刺さって痛いと泣いている、みたいな伝説があったっけ、とか、
ドクロの目の穴を風が通ったり蛇がくぐったりする図を思い浮かべたりとか。
というわけで、生命感の日常の立ち位置とは違うところ(ワタシ的には「頭蓋骨っぽい巻貝の貝がらで作ったオカリナみたい」なものの中)に立つ心地がするのである。
『義弟全史』にはこういう歌がたくさんある。また時間があったらとりあげたい。
■三段跳びについて
[おすもうさん]→[トイおすもうさん]→[ティーカップおすもうさん]
この三段跳びのような展開は、ゲームキャラの進化で見かける[R・SR・SSR]を思わせる。
[おすもうさん]は現物の力士。
[トイおすもうさん]はカプセルトイのおすもうさん。
[ティーカップおすもうさん]は、おすもうさんをティーカップに変形したグッズ、あるいはカップにおすもうさんをプリントしたもの。
(カップではないが、お相撲さんの絵がついたティーパックで、カップにセットしてお湯を注ぐと、お相撲さんがお風呂に浸かっているように見える、という趣向のものを見たことがある。)
つまり、この三段跳びは、本物のお相撲さん→人形のお相撲さん→さらに変形などしたお相撲さん
というふうに、人間のイメージによって実物から離れて変化していく過程をなぞっているものと思われる。
※なおこのような三段跳びの構造は短歌のカタの一つである。
■末尾の「や」は関西人の明るい商魂か?
関西弁には、明るく世間を勝ち進む感じがあって、この「や」はおそらく、商魂たくましくイメージ進化させながら賞品化していくことを言っている。
関西弁はよく知らないので自信はないが、えーい、当たるも八卦や!
※三段跳びは短歌のカタのひとつ
何らかの進展、増幅のようなものを三段階で表す
例
リリィ、リリィ、ビキニ力士に意味必死 ビキニ力士に意味必死
ナイス害「うたつかい」2015年秋号
[リリィ]は百合だから、おそらく女性ファッションなどの方面にイメージ展開をすべく、リフレインで力を溜めた。(闘牛の牛の前足が2回地面を掻くみたいに。)
→だのになぜだか、ビキニ姿の力士という変なものを作ってしまった。
→それは、なんでこうなった? と誰もが突っ込みたくなるたぐいの変異であり、
→だから意味付けが必至であり、
→その意味付けはおそらく必死のこじつけになるだろう。
というドタバタ展開が凝縮されている。
展開がスピーディで、どんどんやったれという業界のやぶれかぶれ感みたいなものも感じられる。
★以下参考
「3段リフレインの〝進行〟」について以前考察した文章より
たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔
飯田有子『林檎貫通式』
世界が溶解するかのような悪夢の中から救いを求めているらしい。
溺れる者は藁をも掴むというが、その藁が「枝毛姉さん」「西川毛布のタグ」である。目に入るものを次々にあげてゆくことで、溺れながら流されてゆく感じが表され、「たすけてAたすけてBたすけてC」という三段リフレイン構造は、あっぷあっぷする感じを表し、字数が、A<B<Cと、だんだん増すことにより、クレッシェンド効果が歌を漕ぐ。また、「そこで枝毛を毟っている暇そうなお姉さん」を「枝毛姉さん」と、緊急やむを得ずはしょったような言い方も、ユーモア含みの効果がある。
この歌の〝進行〟要素は、リフレイン装置に絡めた換喩である。「たすけて。たとえばそこで枝毛を毟っている暇そうな姉さんとか。たすけて。たとえば高級毛布のタグとか。」というふうに、A「枝毛姉さん」は人全体を表す一例/B「毛布のタグ」はモノ全体を表す一例、
あるいは、A=実体のある事象/B=記号(有名メーカーの信頼を喚起する記号)の例、というふうに、ピックアップ例として機能している。
総合して、この歌は、人とモノのすべて、あるいは事物と記号すべてに、助けを求める形をとりながら、同時に、「人は頼りにならなかった、記号も頼りにならなかった」というふうに、絶望が〝進行〟してゆくのだ。(結句については他の場所で解説する。)
ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。
穂村弘『手紙魔まみ、夏の引っ越しウサギ連れ』2001
一人暮らしの人(若い女性か?)のささやかな暮らしを思わせる歌。上の「たすけて」の歌童同様、三段リフレイン装置にABCを置いてあり、ABCの字数が下にゆくほど増してクレッシェンドしてゆく。そして、この「このハローA、ハローB、ハローC」にも、複数の進行要素が束ねられている。
(1)起・承・結 主体の行動
【起】主体が(たぶん仕事を終え)夜の中を帰宅。
→【承】カップヌードルを食べる。
→【結】今日もささやかな一日が終わる。
(2)起・承・転
①自然物→人工物へ ②暗く静かで冷たい→明るく賑やかで温かい
【起】夜。静寂。暗い。
→【承】霜柱。静か。自然現象
→【転】カップヌードルの海老。加工食品。暖か。カラフル。エビが賑やかな感じ。
(3)起・承・承 生命の蘇り
【起】夜の闇。神秘のはじまり→
→【承】霜柱 神殿がささやかに育つ
【承】ひからびた海老が姿を取り戻す。
これらの「起承転結」の不揃いな〝進行〟は、大きな「ハロー」、すなわち、この人が今夜も自分自身に再会するという「ハロー」を導き出す、エンディングの仕掛けではないだろうか。
「両手を広げる」という動作は何を意味するだろう
その1 順当に読んで、海の大きさを表すしぐさである。
その2 そのときの少年の心理として、自分のアピール(くじゃくのオスみたいに)の形と重なりそうに思えるし、
その3 一方、少女というものを相手にしている戸惑いみたいなものもありそうで、手に負えないものを前にしたときのガイジンの仕草っぽさ、という連想脈も5%ほど含まれると思う
で、そのすべてを総合したもの、というふうに解釈するのが妥当ではないだろうか。
☆寄り道
解釈が複数成り立つ場合、表現の失敗であるケースもあるが、成功すれば、表現の工夫のひとつになる。
霜の墓抱き起されしとき見たり
石田波郷『惜命』
この句は、人が抱き起こされるのか、墓が抱き起こされるのか、と、二通りの解釈に迷うのだが、そのとき散文脈としての意味を超え、抱き起こされる人と墓が同時に起こされて重なるような、しかけ絵本的効果を帯びた詩の文脈が成立すると思うのだ。
(この方法は失敗も多い。安易にはできない。)
これは、幽体離脱して、自分と霜の墓が同化したものを見ているような光景ではなかろうか。それは現実の死とは限らず、精神的にあるいは社会的に死にかけたか死んだか、
「自分がいまにも死んで霜の墓になりかけるところを抱き起こされる」のか、「もう霜の墓になってしまったのを抱き起こされるのか」わからにほどのぎりぎり。そういう状況ではないかと思える。
「ランボーはむかしいもうとの妻であり」というぶっとんだフレーズは、何がぶっとんでいるかというと、ランボーが誰だとか血縁関係がどうだといった通常のものごとの理解に必要な要素が完全に混乱するほどに、この現実からぶっとんでいるのだ。ぶっとんでぶっとんで、はるかに遠ざかった時空の話をしていると思う。
そうでなくとも、〈青〉や〈青空〉という語には、時空を超越するイメージで用いられる歌の例が多くある※。
※作者たちはほとんど意図していないが、その〈青〉等のイメージの説明はけっこう複雑だ。『青じゃ青じゃ』で詳説した。
骨は、魂も血肉も失せたあとに残るものだし、また、骨といえば、アダムの骨からイブを作った、という話がある。
そのことがかすかに連想をひっぱって、青空に骨といえば、いったんほろびたものの欠片から、〈青〉や〈青空〉が培地となって、超越的なスパンで何か新たなものが培養されるイメージになりえる。
この歌の骨は、いま何かになるべく培養中であり、すでに「青空を統べる」存在であることから、新しい世界の芯になるものらしい、という方向に、想像を少しプッシュするのだ。
ふと通過駅の名を見たらなぜか知っていた、記憶のなかにあった。
この駅名をなぜ自分は知っているのか、いつどこで見たのか、と問うけれど思い当たらない。
そういう軽微な不思議現象を詠んでいて、その不思議感をリアルに絞り込んでいると思う。
--記憶した経緯を思い出そうとしたら、なんだか勉強で辞書を使って暗記したような。
それも漢和辞典を部首から調べるみたいな手間をかけて覚えたようなーー
そんな気感じがして、でも結局は思い出せない。そういうあやふやな不思議感の表現ではないか。
駅名というものは、自分に関係のない駅でも、妙に気になったり印象に残ったりするもののようだ。
駅名は思考の途中下車、道草みたいなものかもしれない。
この歌のおもしろさ その1。目的地が月であるらしい、と思った途端、銀河鉄道777の絵が一瞬よぎる視覚効果がそれとなくあること。
その2。道草をくっていたら月が置き手紙みたいになった、という婉曲表現の魅力。
道草をくっていたら
→《月が半分に欠けるほど時がたち》
→《月で待っていた何者かは去ってしまって》
→月の見た目が置き手紙めいた
という話なんじゃないかな、と、それとなく想像させる。
「月」というものは、何か大切なものが待っていそうだ。しかし、人は往々にして道草をくって、大切なものに出会えなくなる、という寓話めいている。
【上の句】海だけが描かれた切手があるのかどうか知らないけれど、一般的に海の絵には船や鳥や雲が、いや雲ひとつなくとも空ぐらいは描いてあると思います。
探したら海だけ描いた切手も実際にありましたが、それはあまり重要ではない。この歌では、郵便にはられた切手を「海だけが描かれた」と認識していることが重要でしょう。それは、「≒他の要素が欠けている」という意味あいではないでしょうか。
これは喪失感なんだろうか?
もうひとつ、「海」には、海を越えた向こうという希望の文脈もありえますが、このように「海だけ」と言えば、その要素が棄却されます。
【下の句】下の句の口調は、これまでを振り返っての悔恨みたいです。もはや手遅れらしいとさえ感じさせるのは、「海」に(この海には特に)「行き止まり」のイメージがあるからかも。
【総合して】「海だけ」という部分、喪失感を表すようですが、更に「性善説」とを並列的に位置づけることは、「性善説」の不完全さを表していないでしょうか。
「僕たちは何かを、今まであえて不完全な解釈で見ていた≒悪い方を見ないできた、――それも佇んで(≒他人事のように)眺めていたのだ」的なことを言っているように思えます。
さらには、「人間の心の行き止まりは意外に近い。実はいつも、波打ち際にたたずんでいるんだ」というニュアンスも、あるかもしれません。
じゃあ「僕たち」が見ていたものは何なのか、また、「僕たち」をどう解釈するか。
「切手」は一つの手がかりでしょう。
これが私信なら、たとえば離婚話みたいな、取り返しのつかない深刻なこと。いや、「性善説」という言葉は、社会的制度を語るときによく使う語だから、この郵便物は、役所の通知文書かもしれません。辛い通知、――補助金等の打ち切りとか、家庭裁判所からの文書とか、人生が行止ってしまうような情け容赦ないものかもしれない。だからことさらに「海だけ』切手に注目した、とも考えられる。
とにかく、喪失感を描く歌も、行き止まり感を描く歌も世に溢れかえっていますが、この歌の表現は超レアで優れていると思います。
――以下、良い子は真似しなくていいレベルの、ついでの深読み。--
「私たちの多くは善人で、ささやかな幸福にまあまあ満足して平和を分かち合って日々を送っているけれど、その世界はいきなり手のひらを返して、意地の悪いディストピアに変貌することがある。実はそれもうすうす知ってもいるが、考えないで暮らしている。」みたいな解釈も可能ですね。
だから、
なお、「性善説」は社会的うぬぼれになる場合があると思う。たとえばこのようなこと。
私たちは、日本は「善意」に満ちている国、と思いたいようだ。ある程度は事実だが、そういう良い面だけしか見ないのは、いじましいナショナリズムである。実際、日本の「善意」はすごくゲンキンだ。お金を落としてくれる観光客には至れり尽くせりの〝おもてなし〟をし、「日本のいいところは」などと笑顔でインタビューする。が、一方、事実上低賃金労働者確保のための「実習生」という制度が存在するし、さらには入管施設で放置されて死に至るというような非人道的な事例もある。つまり、すごくブラックな〝裏がある〟のだが、「性善説」といううぬぼれは、こうしたあまり認めたくない事実から目をそらす方向に働いてしまわないか?
おそらく児童書だろう、その扉に、二人の(たぶん)子ども寄り添って深い谷をこわごわ覗き込む姿が描かれている。
○臨場感がすごい。読者は、その絵を見ている人に重なりながら、子供の頃にそういう絵を見たことがあるような、いや同じ絵ではなくても、本の挿画などに見入ったことがあるような、惹き込まれる気持ちがわかる気がしてくる。
A 絵の中の人:二人で深い谷を見ている
B 叙述主体 :本の扉絵を見ている
叙述主体(作者であることが多い)が対象物を「見ている」という行為そのものが重要な歌と、叙述主体の目を意識する必要のない歌とがある。
どちらのケースも理由はひとつではない。この歌の場合は後者だが、その理由は、「叙述主体が扉絵を見ている」と意識するいとまなく、読者がその視点になりかわるから、である。
C 読 者 :BとAを見ている
(BとAを見ることで、結果として、この階層構造に取り込まれる。)
・臨場感UP効果1:一体化 読者(C)はBを通して間接的にAを見るが、Bを自己の体験と重ねて空想上で一体化し、B同様にAを見る。
ただし、このように読者の視点が間接的になる場合、臨場感が薄れるときと高まるときがある。
この歌では臨場感が高まっているが、いかなる要素が臨場感のアップダウンを分けるのか、まだ解明できない。
・臨場感UP効果2:ドロステ効果※ 特殊な引き込み効果がある。
「扉絵」は本の扉のページにある挿画だが、「扉」という語の効果で、「扉をあけたらそこは谷!」みたいな感じで、ほんの一瞬、扉絵の二人が、本の中身を覗き込むような感じがする。
まるで、子供のころの「これから読む本への期待感」を具現化したような感じ。
※ドロステ効果
昔、粉ミルクの缶に女の子がそのミルク缶を持っている絵が描いてあった。絵の中のそのミルク缶にも同様の絵があり、理屈の上では無限に続く不思議な絵だった。こういうのをドロステ効果というらしい。
以下ウィキペディアより
ドロステ効果(ドロステこうか、オランダ語:Droste-effect)とは、再帰的な画像(紋章学における紋中紋)のもたらす効果のこと。あるイメージの中にそれ自身の小さなイメージが、その小さなイメージの中にはさらに小さなイメージが、その中にもさらに……と画像の解像度が許す限り果てしなく描かれる。ドロステ効果は、自己言及システムの不思議の環(strange loop)の視覚的例である。(後略)
路地のおくに燈をともさざる石館ありて、緑青を噴く山蓬の扉絵
ルビ:石館【やかた】 山蓬【のや】松平修文『トウオネラ』 2017
★「二人で何かを見る」というシチュエーション
かつては「一人で何かを見る」歌が多かったが、いつからか、「二人で見る」歌が出てきて、新しい境地をひらいてきていると思える。今後、機会を見つけて考察したいと思う。
うつとりと/本の挿絵に眺め入り、/煙草の煙吹きかけてみる。
石川啄木『悲しき玩具』1912
夢の挿絵に王子あゆめり鳥籠のような肋に砂は降りつむ
ルビ:肋【あばら】ああそうか夜の挿絵の三日月のようだ胎児は白く浮かんで
千種創一『砂丘律』2015
物語を持った蠅をめくるとき挿絵になっているわたしの手
川村有史「かばん新人特集号」2015/3
右下に真白き芥子の挿画あり隣のページのアヘン戦争
小島なお『展開図』2020
・前にもどこかに書いたが、こんなふうに、何らかの単語で歌を検索すると、現代歌人に混じってただひとり近代の石川啄木がヒットする、ということがよくある。
ちゃんと調べたわけではないが、短歌に使われてこなかった語彙を持ち込んで、ごく自然に使いこなして見せ、短歌の表現領域を広げた、という功績があると思うし、そういう批評っぽい話でなく、単純にすごいと思いつつ、「あ、啄木の短歌さん」という感じで、(啄木にでなく)啄木の短歌に親近感をいだく。
■1 カタツムリやナメクジには「角」と呼ばれる突起がある。出たり引っ込んだりする不思議な柔らかい角が二組あり、(種類によるかもしれないが)大きい方の角の先には目がついている。小さい方の突起は鼻や舌の役割であるらしい。
■2 「白玉」と「消える」のセットであることは、短歌としては、見逃せないポイントだ。
「白玉」とは美しい丸い石や真珠のことだが、丸い水の粒である「露」と縁が強い。「露」は「露の白玉」「白露」そして「白玉」ともいい、「白露を置く秋萩」などと草花の露が昔から多く詠まれている。
そして、上記の白秋の歌にある「白玉」と「消える」のセットといえば、次の歌を想起せずにいられない。
白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを 在原業平『伊勢物語』
(新古今では結句が「消なましものを」)かなり有名な歌でエピソード※ととにも知られていたが、ちかごろは知らない人が多くなっているのだろうか?
※男(業平)がある女性を連れ出して逃げる途中、女性が草の露を見て「あれは真珠?」と尋ねたが、先を急ぐので答えなかった。女性は鬼に食べられてしまい(これは比喩で、追っ手に連れ戻された)、それを嘆き悲しんで男が詠んだ歌。
この露が、白秋の歌では、なんとカタツムリの角の露(or目玉)になっている。
白玉=露≒目玉
「振りのこまかさ」には繊細かつ不思議な体感があり、加えて、角を振ったら目が振り消えてしまいそうな、視覚的にも不思議で斬新な歌だと思う。
■3 「振りのこまかさ」に余計な意味が見えちゃう件。
私は作者の実生活と歌を結びつけて鑑賞することには、慎重であるべきと思っているが、白秋は例外だ。人妻との不倫で姦通罪で投獄され、そのことを積極的に歌に詠む(『桐の花』)など、つまり私生活の心情を歌に表すタイプだからである。
そこを汲んで私生活を絡めて読むならば、伊勢物語のこのエピソードに無関係にこの歌を詠んだはずがない。
『雀の卵』は大正3年から10年にかけて詠んだ歌をまとめた、という意味のことが序文に書いてあるが、その期間は離婚結婚をくりかえす波乱の時期だったのだ。
(大正3に最初の妻と別れ、大正5年に不倫相手の女性と結婚、大正9年にその人と離婚、大正10年に三度目の結婚。この歌は『雀の卵』のなかの、大正5年5月ごろに書かれた「葛飾閑吟集」にある。)
そのことを考えると、「振りのこまかさ」が、あちらこちらに目移りする、という意味に見えてきてしまい、それだと解釈が浅くなったようながっかり感がある。
だから教訓。古典の教養はあったほう生きていく上で楽しみが増えるけど、人の私生活には興味を持ちすぎないようにね。
(「角ふりの眼の振り消えしかたつむり」みたいな俳句か川柳どこかで読んだかしら? ありそうよね。ない?)
カタツムリはもともと動きが鈍いものだし、ゼリー状の体が冷えたら殻の内ふかく固まってしまうだろう。それが「セックスレス夫婦」のイメージになると思う。
が、この歌で注目したいのはつぎの2点だ。
1「かたつむり」の語感に注目--「固まる」「つむる」「語る(語らない)」「むっつり」
この歌で絶対注目すべきなのは、「かたつむり」という名前の語感を生かしていることだ。
数行前に「殻の内ふかく固まる」と私は書いたが、歌にはそんなこと書いてない。
でも、「かたつむり」という語のなかに「固まる」「つむる」があって、(「め」という文字がカタツムリの形に似てもいるし)目をぎゅっとつむるように殻に固まって閉じこもり心を閉ざすような感じを醸し出している。
さらに「語らない」「むっつり」という語もかすっていて、言葉すら交わさない夫婦というイメージを、誰も気づかないほどひそかに付加していると思う。
2 こちらからの投影でなく流れ込んできた想念
「なればいい」というのは、誰かの思念でなく(作者の思いとか、かたつむりの思いとかではなく)、カタツムリが板塀裏でじっと冷えている姿を見たときに、流れ込んでくるような感じで触発された想念ではないかと思う。
(そういうものがありますよね。
モノの姿やたたずまいに、人間は勝手に何かを読み取る。すすんで自分の心を対象に投影する場合もあるけれど、ふと見たモノの姿やたたずまいに喚起されてひとりでに何かを想起する、ということがしばしばありますよね。
だとしても、なぜ作者の思いの投影ではない、と言えるのか。なぜなら、もし「セックスレス夫婦にみんななればいい」という激しい思いにかられ、それをカタツムリに投影してそう詠むのなら、そういう思うに至った何かしらの要素をチラリとでも詠み込んで必然性を担保するはずだからだ。そういうことは絶対ではないが、読者は最善を尽くして歌の言葉を頼りに読み解く。)
というわけで、カタツムリかナメクジかと悩むとしたら、この歌にはカタツムリがふさわしい。
また、ナメクジが冷え固まるとしたら噛んで捨てたガムみたいなものが思い浮かび、それは「心を閉ざして暮らす」段階ではなく、もはや完全に破綻した感じになると思うので、この歌にはそぐわない。
前置きとして、この作者は理の通ったユーモアを詠むことが多いので、この歌はもしかしたら、「猛暑で泳ぎたくなった観音」を詠んだ歌なのかもしれない、と断っておきます。
でも歌には猛暑という要素がないわけで、ここにある言葉だけを見るなら、映画のエンディングっぽい。--そう、まるで、夕日の海へ去っていくゴジラみたいではありかせんか。
銅像のようなものは、身動きできず(なかには裸で)いつも人に見られている。だから、もし可能なら、世に疲れた人が海を見に行くような感じで、海に向かってあるき始めるんじゃないかしら。(あら、そういうこと詠んだ歌あったっけ、なければ私が詠んじゃおうかな。)
ましてや仏像は、なかにはすごく古くからあるものもあって、海を見に行くどころか、ざぶざぶ入りたいだろう。仏像の役目を放棄してどこかに消え去りたいなど、入水のイメージもあるなあ。
というようなことを考える。
もうひとつ、「神仏」というけれど仏さまや仏像は微妙に人間味があって親しみがわきやすい。良い歌をなりやすい題材じゃないだろうか。
この歌を見て、磔刑のキリスト像とはぜんぜん違うなあと思った。
磔刑のキリストは、解かれても、こういうことはしなくて、早速あるきだして布教をはじめる感じ。
●「町のうしろ」(「町のせなか」)は街の背景のことだろう。
そして、「銀のなめくぢ過ぐる」「なめくぢの銀の足が這う」の「銀」は「銀河」を連想させ、「過ぎる」なら流れ星、這った跡なら天の川、と見立てて鑑賞しても良さそうだ。
(削除歌に出てくる「せなか」という要素も個人的には捨てがたいと思う。「せなか」というものにはなぜか悲壮感があって――あると思いますよ――銀の跡から一気に袈裟懸けの刀傷みたいなものまで思い浮かびそうになってしまい、「町」にそんな背中があったらそれはそれですごい歌だと思っちゃう。でも、イメージの過剰による混乱を避けるために「町のうしろ」に落ち着いたのではないか。これなら単純くっきり、「町の背景に銀河がある」という美しい絵が目に浮かぶから。)
●一方、「町のうしろ」(「町のせなか」)は、人間の日常の背景(あるいは裏側)、具象世界の背景(あるいは裏側)というふうにも思えてくる。「なめくじの銀の足」という美しくやわらかなものがそこぬぐっていく、という不思議な体感にも驚かされる。
それと界面感覚もあるし。
(かたつむりやなめくじとかは貝の仲間。水槽の水面にぶらさがって移動するタニシ?みたいな貝を見たことがあると思うが、あれは界面[=気体と液体などの境界面]の力でぶらさがってるんだって。)
●このなめくじは、町全体からにじみ出た何かの巨大化した化身だろうか。でもウルトラマンの怪物みたいなものではぜんぜんなくて、何か美しい哀しみと願いの混じったようなものだろう。
〝たましいで拭うような〟触感。そしてその軌跡が銀河になるような、少し悲しくてすてきな童話になりそうだ。
(ああ、これが近代の人の歌だなんて。宮沢賢治:1896 – 1933 かなわないなあ。)
●なお、この役柄、ナメクジは涙みたいな形だし、たましいっぽさもあって適任だと思う。
近縁のカタツムリが代役をつとめるとしたら、かすかな悲壮感が損なわれ、不思議感やユーモラスな感じが強まりそう。人間の町の思いから生じた化身というより、エイリアンみたいなものが出現したような感じになる。つまり別の歌になる。
★母を神聖視しない
ふつうの人間として相互に培ってきた普通の母の愛、母への愛を描いている。
そんなの当たり前と思うだろうが、この当たり前が案外むずかしい。
「母」には、母を神聖視するような定番化されたファンタジーがあり、一般に共有されている。
「母」を詠もうとすると、わざとでなく、ひとりでに、それにあやかってしまうのだ。
それでも最近、短歌における「母」の詠まれ方がだんだん現実に近づいてきた、と思う。この歌もそのひとつだ。
★新しさがさりげない
新しさがあるけれど、「今までと違うぞ」という感じを読者に与えない。(そも、そういう意図がないのだろう。)
【歌を読んでいて思い浮かぶこと】
「母」は、子のためになると思ってピアノを習わせる。普通のことだ。親らしい無邪気な期待※もあっただろう。
※孟母三遷みたいな強烈なものじゃなくて、もっとフツーの動機。
はたして、子は「ふまじめ」にしか通わず(あるあるある)、
「母」は、「まじめにやりなさいよ」と小言を言うこともあっただろうし、ときにはがみがみ叱ったのかもしれないが、
しぶしぶ「ふまじめ」を許容して、月謝を払い続けた。べつに美談とかではない。
ピアノそのものはあまり成果がなさそうと気づいたあとも、できることは多いに越したことはないし、少なくとも情操が豊かになるだろう、というささやかな期待のため、月謝を払い続けた。
(見てきたような、と思いますか? 実は、ここまでは実体験です。)
結局、子どももそんな母の顔をたてたのか、ピアノを続けて、まあまあ中級程度に弾けるようになった。
このソナチネは、こういう普通の生活のなかでのなりゆきや妥協や甘えの集大成である。日常のなかからなんとなく雑雑と培われる愛によって身につけた、そういう価値を帯びたものなのである。
さて、人は一人前になるとき、不安がいっぱいで、自分を励ますもの、少しでも拠り所になるものがほしい。
ソナチネが弾けるというのは、ささやかだが拠り所になる。
ひとつは「芸は身を助く」である。音楽で食べられるほどではないが、別の職業でも何か役だつかもしれない中級の技能ではある。
そしてもうひとつ、こちらのほうがずっと大きいが、この人(歌の主体)にとって、「自分には、自分に期待してくれた母がいる。そんな母に甘えながらふまじめに習ったピアノだが、そうした日々そのものが無駄でなく、ささやかだけど自分の糧となっているんだ」というふうに、拠り所になり得ると思う。
この歌には、こういうことの全体が凝縮されていて、それがとてもリアルで、従来の母モノとひと味違っていると思った。
★なんか啄木っぽくない?
と思ったらこんな隠し味が。
短歌において言葉の用例は位置も大きな特徴となる場合がある。
二句目のおわりの「なお」は、かなり特徴的な語調を醸し出す。いちばん有名なのはおそらく啄木の「はたらけど/はたらけど猶【なほ】わが生活【くらし】楽にならざり/ぢっと手を見る」だろう。
文脈は似ているものの「なお」の上下の繋がり方は違うし、たった二音では気がつかない人が多いだろう。気がついても無視するかもしれない。
しかし、意識しないまま、かすかな隠し味としてこの雰囲気を嗅ぎ取る読者も少なくはないだろう。知らぬ間に打たれた注射みたいにしっかり、それとなく、淡く効く。(「しっかり、それとなく、淡く」って?)
効果1 練習してもあんまり上達しない感じ(「はたらけどはたらけど」の影響)
効果2 この歌と同じぐらいに有名な啄木の代表作、「たはむれに母を背負【せお】ひて/そのあまり軽【かろ】きに泣きて/三歩あゆまず」という母モノも、連想の周辺に引き寄せられてくる。
こういう淡いイメージたちがやんわりと、この歌の歌境を支えていると思う。
勝新太郎は何かのドラマで立小便をする有名なシーンがあったと思います。
だからそれ以上の深読みはいらない、
かもしれない。けれども、鈴木有機といえば短歌そのものについて詠む歌が多い歌人です。
すごく深読みですが、手形といえば「その人が存在した証」みたいなもの。短歌も同じことを期待されがちだし、しかも、短歌はいわゆる「自分を流し込む器」です。
だから「器に液体ずっとが残っている」という内容が実にイミシンに見えます。
「自分を流し込む容器」という言葉を見聞きするたび、私には検尿の紙コップが思い浮かびます。
これはべつに悪い意味ではありません。「小便」にはその人の健康状態や生活が反映されているからこそ検査するわけですよね。
でもこのことは口には出せません。多くの人は小便を卑しんでいるから、短歌が検尿コップだなんて言ったら気を悪くするでしょう。
事象イメージにはいわれなき貴賤ランクがあります。
私にとってこの歌は、そんな貴賤意識につきあわされる抑圧が一気に吹き飛ぶような痛快な一首でした。
子どもが出たあとの湯にちらばる玩具のアヒルを拾い集めて並べる。そんな日常的な行為にも、散らばった言葉をあつめて五七五七七と整列させる歌人の思考と重ねているようで、とてもおもしろい歌です。
最初の「家庭内歌人」は造語だろうと私は解釈します。
(もしかしたらこういう言葉が歌集の評などに使われた例があったかもしれないけれど、この歌の中では藤原龍一郎自身がこの言葉の意味を独自に考えていると思います。)
子どもが出たあとの湯にちらばる玩具のアヒルを拾い集めて並べる。そんな日常的な行為にも、散らばった言葉をあつめて五七五七七と整列させる歌人の思考と重ねているようで、とてもおもしろい歌です。
最初の「家庭内歌人」は造語だろうと私は解釈します。
(もしかしたらこういう言葉が歌集の評などに使われた例があったかもしれないけれど、この歌の中では藤原龍一郎自身がこの言葉の意味を独自に考えていると思います。)
★ついでながら、藤原龍一郎には、詩歌の言葉によって時代と向き合う歌がたくさんあり、そのように詩歌に携わることを役割として強く意識していると思います。歌人について詠む歌も多いのですが、藤原の歌に出てくる歌人は、本人の詩的決意を増幅したものなのか、「歌人」というより、「うたびと」という、それ自体が詩情を強く帯びた存在(個人的にはなぜかスナフキンを連想)であるように見えます。
〝うたびと詠〟を集めたコーナーに少し多めに引用しましたので、お時間ありましたらぜひ御覧ください。
また、藤原龍一郎の短歌鑑賞ページを準備中です。いつになるかわかりませんが、そちらが完成したら、この歌は移動します。
鳩が近くで鳴いているということを詠む歌がときどきある。
「鳩」もしくは「鳩の声」という題材は、さまざまに詩情を呼び起こすが、そのなかに距離感からも喚起される詩情があるということだ。
この歌の字足らずも、〝うまらない空間〟を感じさせる一定の効果がある。
この歌は鳩が近くにいるとは言っていないが、「胸のふくらみ」ときう文言は、現実に見ているかもしれない(=近くにいる)と思わせる要素である。
しかし、どこにいても遠い感じがする鳩の声の趣を詠んでいるわけで、その声から発想した歌であれば、声を体から押し出すポンプみたいな胸の様子を幻視した歌ともいえる。
作者が歌が詠んだ経過がどうであれ、歌が成立する過程でそれらは混じり合ったはず。
歌としての成立は、この実景と幻視とが双方から補い合う循環システムの成立そのものであり、それが歌を名歌にしている。
内容と関係なく、歌にはこういう種類の循環システムによって成立する種類のものがある。
そのことが認知されないために、あっちだ、いやこっちだと不毛な議論がなされている場合があると思う。
どういう事情か「あやまりに行」かねばならなくなった。
まず地図で相手先までの道順を確かめ、途中の橋を目印のように思っただろう。
そして、実際に歩いてその橋にさしかかったら、やかましいカモメに心がすくんだ。
「橋を渡る」とは別領域への移動である。「あやまる」という気鬱なことをするためにいよいよ相手の領域に入ろうという地点で、責め立てる罵声のごときカモメの声が降りそそぎ、見れば橋はカモメのフンまみれだ。
降りそそぐ声=降りそそぐフン。
これでは足も心もすくんでしまう。
(そういえばカモメの声はM音やN音系で、ちょっと粘り感がある。)
これだけの字数ですごい情報量の描写だ。「あやまりに行く」ために地図を調べるところから、実際に歩いて途中の橋で立ち止まりそうになることだ。カモメ声がフンみたいに降り注いでいるかの表現も秀逸。
喃語とはアーアー、ウマウマなど赤ちゃんが発する声。
カモメの声に応ずるにふさわしい喃語がなくて手を振る。
カモメはなぜか親近感のわく鳥で、歌詞などで、何か問いかけたり(鰊きたかと鷗に問えば「ソーラン節」)、「かもめよ」と呼びかけたりする例が少なくない。
この歌にはプラスアルファーがあり、「喃語」という語の効果で、「自分はすでに言葉を覚えてしまったゆえに、無邪気なカモメとじかに話せない」という意味合いが加わっている。
だから、「手を振る」というありふれた行為も、この歌のなかではちょっと手話の試みみたいでおもしろい。
「夭」は若死にすることだが、「なかぞらに反るあをつばめ去年の」と来て末尾「夭者」の「わかもの」というふりがなを見た瞬間、「夭」の字面が天に相似で、ツバメの形にも似ていて、わかものが手足をひろげた姿で天に向かって落ちていく絵が思いうかんだ。
読むとひとりでに、いろんなイメージや概念が重なりあう。
(余計なことだし、変な言い方でもあるが、夭折は若いときにしかできないんだなあ、なんて思った。)
ビルの背面に隠れた飛行船を見失う……。船……。
この歌、柿本人麻呂の
ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ(古今集)
を意識していると思う。
この人麻呂の歌は、普通に考えれば、船を見送るのだから、航海の無事を祈る、といった心情を表すのだろう。
でも、「身分の高い人の死」を「お隠れになる」と言うことがあるし、雰囲気がどこかすごく厳か※で、もしかして表にできない追悼の意、みたいなものがあるんじゃないか、という気がしてしょうがない。
(※「隠れる」だけでは死を暗示しにくい。プラスして「どこか厳か」でなければいけない。説明しにくいが、船が隠れるといえば、人麻呂には別の歌がある。
天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ(万葉集)
こちらはなんだか明るくて、めでたくにぎやかな雰囲気だ。ちっとも追悼っぽくない。)
何を追悼しているのか、名言はしないが、以下2点を調べた。
①飛行船を表す「ツェッペリン」は、20世紀初頭、フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵(1838年7月8日 - 1917年3月8日)が開発した硬式飛行船だが、慣用的にあらゆる硬式飛行船のことを指す。
②ロックグループのレッド・ツェッペリン
1980年9月24日のドラマーのジョン・ボーナムの事故死(過剰飲酒後の就寝時に吐瀉物が喉に詰まったための窒息死)による同年12月4日にグループを解散している。
この歌も、「屋根のうへに働く人」が「手に載せて瓦を叩く」というのは、実に微妙な叩き加減・体感ですが、それを音として耳が聞くことを同時に味わう歌だと思います。
この人は家の中にいる。とまで明記はしていませんが、家の中にいて、家屋の身体を通して間接的に音を受け取る、という位置関係の図を思い浮かべることで、この歌のすばらしさがMAXになります。
このすごい歌は、「手に載せる」歌を集めているとき発見しました。
短歌で「手に載せる」と書く場合には、現実のしぐさの描写にとどまらないことが多く、興味深い表現がたくさんあります。ここではヒトコトで言えません。こちらのブログの記事→「手に載せる」に書きました。お時間ありましたらぜひ御覧いただき、他の「手に載せる」歌とも比較してください。
初句「雪が降る(+一字アケ)」で、いきなり異世界に突入。
詩歌において「雪」は、しばしば非日常への領域転換を暗示するし、雪+朱という二色化の捨象効果もある。
そこに出現する「おかめ」という語。「うどんをとろとろすする」食感の生々しさ。
「すする」という動詞の主体はもはや誰でもない。のっぺらぼうがうどんをすすりながら「おかめ」になっていくかのようだ。
『逃げる!』という歌集は、散歩番組ふうに、リポーター(作者)が見聞きしたものとリポーターの心象を伝えるスタイルで連作になっている。
つまり、読者は、リポーターを通して対象を見るか、対象を見たリポーターのリアクションとしての心象を見るのだ。
が、この歌は、この歌集のなかでは異色であり、読者はリポーターの存在を忘れて歌と向き合う。
子どもは、卵生なら殻を破り、胎生なら産道を押し広げて生まれ出る。つまり出生はなんらかの障壁を克服するものである。
この歌には、 ①その克服の姿がある。
また、「横へ広がる枝」には②子孫繁栄の末広がりのめでたさが、
そして「枝をきりおとす」は③自らを剪定する、という意味が含まれる。
また、「横へ広がる」末広がりは個でなく全体のめでたさだから、そこには卵子精子など出生前からの全体的な生存競争も含まれてもいる。
ゆえに、剪定するのは自らだけでなく
④互いに切り払い合ってそれが競争でもあり助け合いでもある、
というニュアンスも少しある。
さらに、「枝をきりおとす」は、「切り払う」とまで強く言っていない。
けれども、植物に刃物を振るって脱出するイメージのはるか源には〝草薙の剣があることで、それが⑤出生にヒロイックなニュアンスを一滴加えてもいる。
※須佐之男命(スサノオノミコト)が倒した八岐之大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から出た神剣、天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)。倭健命はこの剣で草を薙ぎ払って野火を逃れた。そして、末尾の「が」。困難を乗り越えての出生。⑥その先にはご褒美があるはずと思ったらあてが外れた、という「が」ではないだろうか、これは。
――多くの王子が茨に阻まれて殉難したが、ついに、茨を切り開く王子があらわれ、運命の王女のもとに到達。キスした。だのに王女が目覚めない。何だよこのシステム、根本からバグってるだろ、っていうような。
①軽い食感のコーンスナック
②空中演技を競うスキー競技
③接頭語のエア(ふりをする、架空の意)を冠した「リアル」
の3つが重なっている。
①スナック菓子の歯ごたえと、
②空中演技のような手応え足応えのない幸福感と、
③〝演じられているリアル〟
このような感覚が混じっている。
そして、遠目に虎を見つけたような口ぶりの「あ、首都高にデコトラがいる」は、空中演技の最高地点で下降直前にちょっと止まる、その視点から見えているものみたいだ。
これは珍しい視点だし、説明無しでそう感じさせ得たことも手柄だと思う。
また、「デコトラ」のかすかな歌舞伎っぽさも、歌のスローモーションに一役買っていないだろうか。
あの「ィヤーー」という掛け声が空を横ざまに流れていそうな気がする。
視覚が捉え、表象で連なり、いろんな位相が、言葉で串刺しになっている歌だ。
「アンパンマン」の作者の名「やなせたかし」が、アナグラムで、痩せてアンパンを頬張る「やせたかなしい」姿になっちゃった。
その変化がおもしろいだけでなく、命の位相の移籍まで感じさせる多重効果があるとも思う。
だが困ったことに、〝命の位相の移籍〟については、詳説すればするほど、話が突飛になってしまう。
①やなせたかしの亡霊がやせ細ってアンパンを咥えて出たような感じ。
②〝食べ物を頬張ること〟は〝命が別の位相にシフトすること〟に幽かな縁がある※。アナグラム転換と連動してその縁がかすかに強調された。
③アンパンの構造は卵と同じ。そこにへそまでついているし、餡は闇を煮詰めたような色だし、未生のこども、生まれない命みたいな感じさえする。
※黄泉戸喫(よもつへぐい)。黄泉の食物を食べると黄泉の住人になる。(古事記)
「スコール」はここでは乳炭酸飲料の名称だが、熱帯の激しいにわか雨の意も含まれている。
「親指の指紋」は、〔拇印=印鑑の代替〕&〔指紋=自己を特定〕を暗示し、その「指紋が溶け」ることは自己の喪失を表すだろう。
この歌では、指先という小さな一点は、自己喪失感と神の劣化感(スコールを止められない)との接点になっている。
その接点からそれらが入れ替わりあうなら、自尊心の劣化と世界の混沌の始まりにもなり得そうだ。
(そんなことまで書いてないが、そういう思考の圏内にあと一歩だ。)
この考察はもうじき個人別鑑賞ページ杉山モナミに移動する予定です
天の川。考えてみると〝現物〟をじかに見たことなんてめったになくて、詩歌や文学からインプットされたイメージはやたら豊富である。
古典和歌・近現代短歌に詠まれる天の川は、ほとんどが七夕伝説やギリシャ神話のミルキーウェイなどを踏まえて、いわば〝知〟にまみれてしまっている。
そんな中でこの歌は異質だ。「天の川って義憤に似てる」は、既存の〝知〟に頼っていない。天の川というものに自分の感性で向き合って、自分で見つけ出したイメージレシピであるだろう。
〔天の川≒義憤〕という結びつきは、意識化できていない領域に潜む何かを今にも呼び起こしそうだ。こういう言葉の料理をもっと食べたい。
杉山モナミの他の歌も見たい方は、こちらをどうぞ。→杉山モナミ
古いドラマを見ると様々な場面で時の経過を感じる。特に喫煙シーンの多さには隔世の感がある。
といっても、この歌は喫煙習慣の変遷を詠んでいるわけではなかろう。
タバコというものには時間を燃やすイメージがあると思うが、そこから転じて、経過した時間たちが吸殻になって累々とおりかさなる光景を幻視したのではないだろうか。
「眠っている」には、時間たちへの、墓碑銘の「◯◯ここに眠る」に似た鎮魂のひびきがあると思う。
虫を集める歌というと、
というのもある。
どちらの歌も、集めたあとのむなしさを詠んでいて、大西は順当な表現。
東の歌の見どころは、書くと長くなる(東さんの歌はたいていそうなる)。
「だんごむしをバケツいっぱい集める」という妙な行動にわれしらず夢中になり、やりとげちゃってから「誰にあげよう」だなんて考える。
子どもっぽい無邪気さで、「たくさん集めたね」という褒め言葉を期待している。
ところが、今までならそんなふうに何でも褒めてくれた「爺」がもういない、と気がつく。
ちょっとしんみりしているように響くが、同時に、何かが取り憑いて、次の獲物を探すような口ぶりにもなりつつある。
妙な行動にはかすかな異常性が内包されているものだが、そうした異常性は、クッションのように受け入れるものがあるときはそこで止まる。
「爺」というクッションがなくていきなり増大して噴出しそうな異常性。そういうホラーっぽい薄気味悪さがちらっと感じられる。
この歌の鑑賞は、個人別鑑賞 伊舎堂仁 のほうに移動しました。
すごくいい歌、というわけではないが、この歌集をみたとき、他のもっとすぐれた歌より印象に残った点がある。
「眼をとじて耳をふさいで」はありそうでいて滅多にないフレーズだ。片方を無効化する例はよくあるが、耳目という人間にとって情報収集装置の療法を無効化するのは珍しい。
耳目を塞ぐ(通常の感覚器を無効化)
金星の位置を感知(別の感覚を使う)
舌で指す(普通なら指だが、他の表現方法でする)
つまり、「既存の経路で感受するのをやめ、別の方法で実現しなさい」
と、すごくユーモラスに言っている。
これは、「書を捨てよ、町へ出よう」的なことを、このひとの言葉で表しているんだな、と思った。
金星は、宵の明星・明けの明星などと呼ばれ惑星のなかでもとりわけ親しまれている。
地上の人を見守ってくれるようなやさしい感じ。
でも、そうした既存イメージは古びかかっており、恩恵が薄れてきている。
金星がどのように歌に詠まれたかは知っているのに、実際の金星がどれなのか、私にはわからない。
季節感でも何でも、知識領域では知っているだけで、自分で考えたことではない。ジカ(直)には知らないことが多い。
知識教養もだいじだが、勉強だけじゃなく、新しい方法で、自分の力で、金星に限らず、従来親しまれてきた詩歌的題材と、関係を結び直さねばならない。
とまあ、そういうことを考えちゃいました。
肯定的・積極的な穂村弘の歌の強靭さを裏付けるのは、感覚的であると同時に論理的であることだろう。
こんなに自由な表現なのにこっそり筋まで通ってるのかよ、としばしば驚かされる。
耳と目を詠む歌を少しあげておく。
参考
簡単なことだったんだ目を閉じて耳をふさげば何もなくなる 辻井竜一『遊泳前夜の歌』2013
我がうたは耳と目を閉じ透明な壁に裂け目をさがすがごとし 神﨑ハルミ 『月刊短歌通信ちゃばしら』2002年10月
もくれんのわらわら白いゆふぐれは耳も目鼻も落としてしまふ 小島ゆかり『月光公園』
眼を洗いたい、耳を洗いたい、鼻を喉を洗いたい。胸の内側まで洗いたい。 田丸まひる『硝子のボレット』2014
戦争が両目に届く両耳にとどく時間を与えられずに 木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』2016
目と耳と口失ひし王様が『聖』といふ字になった物語 九螺ささら『神様の住所』
目も耳も入り口であり出口なる 空もわたしも仰向けの夏 小島なお『サリンジャーは死んでしまった』
眼を口を耳をおほへる人三人脊なかあはせに木枯をきく 前田夕暮『収穫(上巻)』(1910ペンクラブ 電子文藝館より)
眼も耳も消耗品ゆえ減らさぬよう使わぬようにそっと陽を浴ぶ 佐伯裕子『流れ』
「赤青の蛇口をまわし」てちょうどよい温かさの「湯をつく」る。
そんなちょっとした場面描写なのに、その事実以上の何かが添っているようだ。
赤と青を混ぜるということ、根源的なものを混ぜ合わせてほどよい環境を手作りするということ。それは〝あめつちのはじまり〟に通じそうだ。
〈赤・青〉のセットは、〔対極であること〕と、その両極をあげることで〔完全であること〕を表し得る。加えてこの歌には「つくる」という語もあって、歌のなかの人物は明確には気づいていないだろうが、かすかな神様気分の湯気が漂っている。
歌意は読んだ通り。だが、見かけ以上のものを感じる。
要素1(普遍性) 雪を見ると離れた場所にいる人に思いが強まる
「降る雪に、懐かしい場所や、大切な人などを思う」というシチュエーションの歌がよくある。「雪」に心の距離を縮める効果があるのは、たぶん心情的に普遍性があるのだろう。
また、一般に「遠くても同じ空の下にいる」と思うことで心の距離が縮まる、ということもあり、この歌では「雪」「空」という2つの要素で、二人は結びついているのである。
要素2(レアな着眼) 上から見守る視点
「ヤフーの天気実況で『君』の住む町を上から見守る」というのは、この歌が発表された当時、ものすごく新しい視点だった。
パソコン作業のついでに「君の住む町」を「ヤフー天気」で見守っているのだろうか。電話をかけるなど直接的なアプローチはしない。このように見守ることで、「君」への思いが淡く満たされている。
要素3 新しい人との距離感
そう、「君」への思いが淡く満たされている。 要素1と2でこの歌の鑑賞は十分だと思う。
そのうえで、もうひとつ。
これはお互いにやっていることだろうか。もしかして、「君」はそんなふうに見下ろされていることを知らないかもしれない。
最近は、GPSとか、以前なかったいろいろな手段で見守られる(見張られる)ことがあり、私たちはときに無防備である。
ひとつ例をあげる。
必要があって、ある人にツイッターのDMで住所を教えたら、あまり時をおかずに「コの字型のマンションですね」という返信が来て、ぞくっとしたことがある。
グーグルアースで上から見ているらしい。いやいや、グーグルアースの映像はリアルタイムではない。知ってはいるが、それでもなんだか不快だった。
新しい対人領域にはそうした淡い禁忌がある。
そうしたもろもろのなかでは、ヤフー天気による見守というのは、ぎりぎりセーフであり、距離感をわきまえていると思う。その絶妙さも味わいたい。