自然を詠めば自然詠
社会を詠めば社会詠
短歌について詠めば短歌詠
短歌詠コレクションⅤ
〝たんかポエジー〟
〝歌レポ詠〟
掲出歌は順不同。見つけた順に各分類項目に割り振りました。
掲出歌は順不同。見つけた順に各分類項目に割り振りました。
「短歌詠」はざっくり次のように分類できます。
歌人名が入っていない〝歌人詠〟
「歌人」は「うたびと」とも読み、少し「詩的存在」というイメージが強まります。
★ ★ ★
〝歌論詠〟もここに含めます。
短歌作品を対象として、その姿、雰囲気の描写、鑑賞や評。
(実在する短歌作品に対するものはほとんどなく、ほぼ架空の作品が対象。)
自分の歌のことでなく、短歌そのもの、短歌という詩型について詠む歌を集めてみました。
多くは短歌というものに詩情を見出して詠まれています。
**随時追加しています**
「短歌⇒ほろびる」という詩的連想脈が開通し、長い時のなか、詠みかさなる歌たちが討論していそうです。
斎藤茂吉にこういう歌がありますが、それに呼応したものなのかどうか、塚本邦雄には、さまざまなリアクションをしてみせるかのように、「短歌+滅びる」の歌がいっぱいあります。
でも、「短歌+滅びる」というモチーフを扱うには暗黙の資格が必要かもしれません。(私なんかおこがましくて詠めません。)
だからなのか、「短歌+滅びる」は、他の人からはまだあまり詠まれていないようです。以下はその数少ない例です。
「滅びる」という悲観的な歌をたくさん読んだあと「滅びない」というのを読むと、なんだか逆に、ゾンビとか吸血鬼とか、死なない気味悪さを感じなくもないですね。
「短歌+滅びる」というモチーフ、まだまだ歌が足りません。
この詩的連想脈はいまのところ世間話程度にしか開拓されていない。
詩的に詠みこなされるまであと100年ぐらいかかるのかもしれません。
擬人化・というレトリックは、短歌表現においてほぼ無意識に使うごくありふれたものです。
じゃあ、短歌というものも擬人化するでしょうか。
――例は少ないのですが、興味深い歌があります。
注目ポイントは、擬人化等をされるたび、短歌というものがふっと実体をまとう、ということです。
実体のないもの実体化する、抽象的なものが具象化されることで、対象化しやすくなります。
もうひとつの注目ポイントは、比喩は双方向に開通する面があり、短歌の擬人化は人間の擬短歌化につながるということです。
それが詠み重なると、作者というもの短歌というものの全体の関係が変化し、短歌が作者の従属物※でなくなり、人と短歌、作者と短歌は対等の関係へと少し変化すると思うのです。
なお、短歌を擬人化することは、この章末尾の〝歌レポ詠〟にも関係します。ご注目ください。
※作者の従属物とは
①レベル1 手軽な日用品
「短歌は作者自身の気持ちの描写や表出する道具」と単純に捉えるポピュラーな短歌観。よく「鏡」だの「器」だの言いますよね。あれは従属物的な捉え方です。
②レベル2 仏壇
多くの歌人は、短歌が「鏡」や「器」程度の従属物の概念に収まるものでない、ということを、体験的に知っていますし、歌人はふつう短歌というものを重要視し、大切に扱い、和歌の歴史や伝統に濃淡はあるにしろ少しぐらいは敬意を払っています。私は、このレベルでもまだ、短歌が従属物として扱われていると思います。
それは仏壇に似ています。大切にして敬意を払っているけれど、その敬意は私の心の都合で払っている。仏壇は私物。仏壇の中におわしますご先祖の霊も、ある意味私物で、生きている私の心の都合に依存するしかないものです。
でも短歌というものは死んではいない。人が思い思いに詠んだ歌たちは、作者の意図を超え、言葉の世界で呼び合い応じ合い混ざり合いひとりでに発展する現象があります。いわば生きている霊。私有できない霊。この詩型は、作者の思いどおりにならない不思議な生命力を帯びていて、作者と渡り合ったり寄り添ったりする存在、となり得ると思います。
短歌は、いろんな事象に擬○○化されます。
次の歌は、短歌の擬物化ですが、擬人化につながる面もあります。
「人体に似て」と言っていますが、たしかに短歌にはボディ感がある。
比喩というものには双方向に開通する性質があり、「短歌は人体に似て」は「人体は短歌に似て」という擬短歌化の発想に転じる一歩手前です。
「『歌器』に『わたくし一基』を据える」というのは、歌と人間が重なりあいます。
「幽玄」と「有限」のダブらせ感も効いているし、一基というとお墓のイメージですから、そういう捻りもありますね。
(ただし、この歌は「五重塔」という特殊な一連のなかにあり(後述します)、五重塔の擬人化というか人間の擬「塔」化というか、その「塔」と短歌「一基」は五重塔
「君」が「僕」を抱き、そして「君」と「僕」ふたりしてふるえて抱きあう図が思い浮かびます。
「口語短歌のように」からは、文語みたいな威厳がないこと・未成熟感が、そして「ふるえて」※からは寒さプラス、心細さが伝わってきます。
さて、この歌は口語短歌の擬人化なのか人の擬短歌化なのか微妙です。
比喩(擬人化もその一種)というものは双方向に作用する良い意味の曖昧さ・可能性をはらんでいます。
短歌が人間のようにふるえて人間を抱く ≒人間が短歌のようにふるえて人間を抱く
≒短歌が人間のようにふるえて短歌を抱く ≒人間が短歌のようにふるえて短歌を抱く
むろん、この歌はこんなことまで言ってはいません。
が、短歌を擬人化する・人を擬短歌化する歌が詠まれるたびに、言葉の世界で短歌と人間のイメージの縁が強まっていくと思います。
いやいや、擬○化なんてものでなく、もっと不思議な詠み方もあります。
「新感覚」というか、コレクションのなかには20年ぐらい前のものがあるし、私が知らないだけで、もっと前からあるのかもしれないので、ほんとうはちっとも「新」じゃないのかも。
「かばん」に一時期在籍し、注目に値する歌を毎号発表してた鈴木有機という歌人がいました。いつのまにか短歌をやめてしまったようですが、埋もれてしまうのはもったいない歌も少なくありません。
マニアックな〝たんかポエジー〟を数多く手掛けていましたのでここには多めにピックアップします。
・2001年7月「創作」という筆名で「かばん」に参加、2002年9月から「鈴木有機」に改名。ここでは「鈴木有機」に統一します。
・「かばん」誌は創刊号から2004年3月号までデジタル化されており、そこからデータを拾いました。そのあとの分はほとんど拾っていません。
・もともと横書きの作品があります。
短歌はふつう縦書きですが当サイトはすべて横書き表記です。鈴木有機作品にはもともと横書きになっているものも少なくありませんが、当サイトでは区別なく横書きにしています。・短歌詠だけでなく、言葉や詩について詠む歌も多く、右のAA(アスキーアート)のような視覚表現の試みを伴うこともありました。
(右は「かばん」2004年2月 号。特別作品ページは順番制で会員が1ページを自由に使えるというもの。)
(詞書)「お友達』は枕詞です
鈴木有機にとっての短歌詠は、必ずしも特別なものでなかったらしく、短歌詠も他の歌も当たり前のように並んでいることがありますが、この「 1Tk」という一連はすべて短歌詠。
なお、鈴木有機の歌はほぼすべて、現実の事象の次元と言葉の次元とが混在する層のなかで詠まれていて、その特殊性に注目するなら、彼の歌はすべてが連作みたいなものだったと言えると思います。
最後の納豆の歌のように短歌が出てこない歌も、短歌や詩歌、あるいは言葉に接点を持ってもいる、と思って読むほうがおそらく歌をよりよく味わえます。
※高柳注:
横書きで 同じ歌が3行書きで書いてあり、中央に、矢印で挟まれたアスタリスク。
勝新太郎は何かのドラマで立小便をする有名なシーンがあったと思います。
だからそれ以上の深読みはいらない、――かもしれない。
けれども、鈴木有機はやっぱりたんかポエジー。
すごく深読みですが、手形といえば「その人が存在した証」みたいなもの。短歌も同じことを期待されがちだし、しかも、短歌はいわゆる「自分を流し込む器」です。だから「器に液体ずっとが残っている」という内容が実にイミシンに見えます。
「自分を流し込む容器」という言葉を見聞きするたび、私には検尿の紙コップが思い浮かびます。
これはべつに悪い意味ではありません。「小便」にはその人の健康状態や生活が反映されているからこそ検査するわけですよね。
でもこのことは口には出せません。多くの人は小便を卑しんでいるから、短歌が検尿コップだなんて言ったら気を悪くするでしょう。
事象イメージにはいわれなき貴賤ランクがあります。
私にとってこの歌は、そんな貴賤意識につきあわされる抑圧が一気に吹き飛ぶような痛快な一首でした。
「かばん」CDROMのデータはここまで。この先はバックナンバーを紙媒体で探さねばならず、私のデータベースにも少ししか収録してありません。めおいおい追加したいと思っています。とりあえず今みつけたものだけアップ。
〝歌レポ詠〟は私の造語。食べ物の感想を言う食レポみたいに、歌の姿やあじわいなど短歌の感想を歌に詠むことをコンセプトとしている詠み方、と思ってください。
テレビの食レポ番組は、味や食感という映像音声では伝わりにくいものをあえて伝えるというコンセプトで成立していると思います。食レポはただの〝表現〟でなく〝表現努力〟であって、それが見どころなのではないでしょうか。
その〝表現努力〟には二種類あります。
ひとつはリポーターの主観的な生のリアクション。人気タレントさんなどが何かを口に運んで味わい「うん、おいしい!」などと言います。その表情・声・しぐさの映像と音声によって、視聴者に食の感動を伝える〝表現努力〟です。
食レポにはもうひとつ、味や食感を対象化して言葉で描写するという要素もあります。映像を見るだけの視聴者にとっては「おいしい!」というリアクションだけでは情報が不十分だからです。リポーターは食感という主観的なものを頭の中で対象化し、味の特徴・舌触り・香り等を、具体的にあるいは感覚的に、言葉を工夫して視聴者に伝えようとします。伝わるかどうかはともかく、その〝表現努力〟を感じ取ることも、食レポを視聴する楽しみでしょう。
そして、食レポとして特に特徴的なのは後者の〝表現努力〟のほうだと思います。
短歌を詠むときも、ただの表現ではなくて、なんらかの〝表現努力〟がなされるのが普通ではないでしょうか?
ここまで紹介してきた〝短歌詠〟の多くは、自身の心情や言動を描くことをコンセプトとして、「よし、描いた!」という手応えを得たことで歌を成立させていると感じます。
〝表現努力〟もそこに力点があって、読者としてもそれを感じて「わかった!」と受け止めるわけです。
〝わがうた詠〟〝作歌ライフ詠〟は作者自身が表現の中心だから当たり前。「歌人」について詠む〝うたびと詠〟〝うたびとポエジー〟も、多くは感情移入など心情的裏付けによって歌が成立しており、それが自然な詠み方です。
この章は、短歌そのものを対象化して詠む歌を集めています。それでも主観的な語に重きをおいて人間の情感を軸に据えるジューシーな歌がけっこうありました。
このような主観中心の〝表現努力〟は、食レポにおける〝表現努力〟のひとつめに近いと思います
が、この章には、新感覚のものや、変わった擬人化のように、見せ場の異なる歌もあるようでした。
もっとよく探せば、食レポにおける〝表現努力〟の2つ目「味や食感を対象化して言葉で描写する」のように、短歌そのものを対象化して言葉で描写するという方法で詠むケースがあるのではないでしょうか。
コレクターの魂がうずきます。
・依田仁美の『正十七角形な長城のわたくし』という歌集は、歌論的なエッセイと短歌作品群とが交互に配置されています。
・構成としては、エッセイの従属物としての歌か、それともエッセイが歌の詞書なのか、と迷いそうになりますが、読んでみると、主従でなく、両者は協力的に別のパフォーマンスをしていると思います。作者自身が「第一辺 歌はもともと軋轢の産物である」の終わりの方にこう書いています。
「論と作はそれぞれ形の違った芸術思想の発露である。(中略)作が論による「自爆性」の被害に遭わぬよう、少しばかりの統制を加えているつもりである。つまり、両者にはほどほどの相関しか与えていないことにご留意いただきたいのである。」
・エッセイのほうは、法話を正座をして聞くような不思議な味わい。
(悪い意味ではなく、親戚がお寺さんで、夏の法事で蝉の声のなかで聞く法話の雰囲気をなんとなく思い出します。)
・歌の方は、歌論的エッセイを直接的・間接的、あるいは発展的に反映しているようで、すべて短歌詠(わがうた詠・作歌ライフ詠・歌人詠、歌論詠など)と言ってよいでしょう。
そして歌にはすごく遊び心があるります。感覚と観念の遊びであって、理論を実践してみせるという関係ではないようです。(散文を読み飛ばしてとりあえず歌だけ読んでしまいましたが、おもしろかった。ごめんなさいごめんなさい。)
・作者の強靭かつ自在なウイットが駆使する言葉遊び(もじり、本歌取り・パロディetc)の一例をあげます。
こんな感じです。
単独なら社会批評詠に見えます。
でも、この歌集のなかで読むなら〝短歌詠〟と思って鑑賞するのが妥当でしょう。
自身の半世紀に及ぶ歌歴のことを詠んでいるのか、それとも現代短歌の半世紀を評したものなのか、迷って鑑賞を試みるのが楽しいです。
・『正十七角形な長城のわたくし』の歌は他の章にもたくさん掲出しました。この歌集そのものの魅力についてはここでは伝えきれません。ぜひ現物を読んでいただきたいです。
私がこの歌集で特に注目したのは〝歌レポ詠〟です。
〝歌レポ詠〟というものはとてもレアですが、この歌集には「これは歌レポとして読もう」と思ってもかまわない歌がいくつもあって、それだけですごいと思います。
「【第一角】風の中の存在」という一連のなかの歌。
鯉のぼりを描写している歌として普通に読めるのですが、言葉が鯉のぼりを吹き抜けるような短歌構造を描写したものかとも思えます。
この一連の前に「第一辺 歌はもともと軋轢の産物である」というエッセイがあり、その末尾に【第一角】は「風と遊ぶ腰折れ」※だと書いてあるからです。
※「腰折れ」とはへたな詩歌文章、あるいは自分の詩歌文章を謙遜して呼ぶ語。
【第一角】の一連が腰折れ短歌が風とあそぶさまを詠んだものならば、それはつまり〝歌レポ詠〟ではないだろうか。
この歌、一瞬「序破急」という語が読者の脳をかすめる仕掛けになっていないでしょうか。「そんなことどこにも書いてない」とあくまでとぼけるような、言葉のみぶりのおもしろさもあります。こういうウイットの好きな読者にはたまらない一首です。
もうひとつ。
普通に読めば倅を背後から見ている歌ですが、「倅」は短歌の擬人化ともとれる歌で、これも実に鑑賞が楽しい歌だと思います。
この一連の歌ぜんぶが〝歌レポ詠〟というわけではありません。
そも、短歌に関することを詠む歌を、〝わがうた詠〟〝作歌ライフ詠〟〝うたびと詠〟〝歌レポ詠〟等に分けるのは、本稿を書くにあたって私が勝手に考えた鑑賞実験的な区別でしかありません。作者が詠む段階ではそんな区別をしていないでしょう。
しかも歌人はしばしば、自作歌と自分自身を一心同体のもののように捉えがちですが、この作者も同様です。また、さっき擬人化は双方向、ということを書きましたが、それも関係しており、短歌詠は、作者と歌が混然としてのりうつり合うような混然とした視点から詠まれやすいようです。
たとえば次の歌。
〝うたびとポエジー〟的解釈 =歌人が犬を牽いてそぞろの夢をぶん流している
〝歌レポ詠〟的解釈 =歌が犬を牽いてそぞろの夢をぶん流している
混然一体的解釈 =「ふわわの尾なる犬」みたいな歌を牽いて歌人が「そぞろの夢をぶん流し」ている
このように短歌と歌人が融合している歌は、その融合ぶりも味わいだと思います。
解釈次第ともいえますが、鑑賞実験としてもう少しおつきあいください。
〝歌レポ詠〟には擬人化・擬○化がしばしば見られます。
短歌という現物は一行の文字列でしかありませんが、歌のなかの言葉たちは緊密に関わり合ってパフォーマンスをしています。そのパフォーマンスをレポートするには、擬人化などして姿や身振りを描写する方法がもっともかんたんで有効でしょう。
『正十七角形な長城のわたくし』の「第五辺 信頼へ」には「短歌は五重塔である」ということが力説されていて、続く「【第五角】五重塔」には、その考えの周辺に漂う思念などが歌に詠まれ、〝歌レポ詠〟に近いと思われる歌がいくつか含まれるのですが、その擬人化・擬○化ぶりが複雑で、その点だけでも鑑賞が楽しめます。
「おお短歌」の歌。前田夕暮の本歌の「ひまわり」の立ち姿にもかすかな擬人化があると思いますが、それが更に五重塔と短歌の姿に重ねられていますし、「胸奥の」の歌では更に、五重塔が人の身体と結びついています。
そして、この連作には、擬人化の項でも引用した次の歌も含まれています。
「『歌器』に『わたくし一基』を据える」で短歌と人間が(作者が、歌人が)重なりあいます。「幽玄」と「有限」のダブらせながらの対比も有効です。
「基」はお墓など(塔・棺・鳥居・原子炉・ピラミッドなど)を数える助数詞で、この一文字は、擬人化をより複雑にして短歌と人を融合する仕掛けなのです。
この歌集には〝歌レポ詠〟に見える歌、そのように鑑賞することが可能な歌がたくさんあります。
目についたものだけ少しあげておきます。
〝歌レポ詠〟の短歌は擬人化擬物化で立ち姿など細長いものが多い気がしますが、この歌が〝歌レポ詠〟だとするならば、水中花を上から覗き込むようなかんじのレア物です。
短歌の評でよく「等身大」というのを見かけるが「刀身」はそれをかすっているかもしれません。
さっきも書きましたが、この作者は『正十七角形な長城のわたくし』以外の歌集でもさまざまな短歌詠的な試みをしています。興味のあるかたはぜひ歌集を御覧ください。
◆なお、依田仁美の一部の歌集データは下記で読むことができます。
作者サイト
「小鳥はとっても歌が好き、かあさん呼ぶのも歌で呼ぶ」
じゃないけど、和歌が好きすぎて、和歌バトル的な催し「歌合」(うたあわせ)の判詞(判者がどっちの歌が勝ちか決めて理由などを述べる)まで和歌にしちゃった例があります。
これって〝歌レポ詠〟ですよね。
古い例では、延喜末年(九二二)ぐらいの「論春秋歌合」で黒主・豊主の歌を番わせたものに凡河内拐恒が判歌を添えた、というのがあるそうです。
千五百番歌合(1203年)では後鳥羽院が折句歌で判をしたというのはけっこう知られています。
でも、なかなかテキストが見つからず、ひとつだけ発見。
これが代表というわけではないかもしれないけれど、こんな感じ。
「千五百番歌合」秋二
六百四番左 公継卿
武蔵野にこれもむつまじ女郎花わか紫のゆゑならねども
右勝 寂蓮
野辺までもたづねて聞きし虫の音の浅茅が底にうらめしきかな
判歌 後鳥羽院 (折句判「虫はよし」)
これもテキストが見つからなくて、代表例かどうかわからないのですが、以下は、「女四宮歌合」(九七二年 村上天皇第四皇女・規子内親王家で催された歌合)の例。
こちらは、歌で判をしたのでなくて、判詞は判詞としてあり、そこに源順が判歌を添えた、という例だそうです。
題 虫の音
浅茅生の露吹き結ぶこがらしに乱れても嗚<虫の声かな 但馬の君
秋風に露を涙と嗚<虫の思ふ心をたれに間はまし 橘正通
判詞(省略)
判歌 源順
説話などには、和歌にまつわる逸話がたくさんあります。歌人がすぐれた和歌で状況を好転させた、というような逸話がすごくいっぱいあって驚かされます。
古典時代、和歌は神聖視されている面があり、歌人はそんな和歌の歴史に連なることを誇りにして、和歌というものを敬いながら歌を詠んでいたようです。
和歌の時代と違って、近現代は「短歌で自己を表現する」というコンセプトが広く重視されているため、短歌という詩型をその手段と捉える傾向があると思います。
たとえば「短歌は自己を流し込む器、自己を映す鏡」と歌を道具に例える言説。実によく耳にしますね。
しかし、自分が歌人になってみてわかったのは、短歌を道具のように位置づけるのはポピュラーな思い込みであるということです。
「器」だの「鏡」だのと言うのは歌を詠まない人であって、歌人なら、自分と短歌の関係がそんなかんたんな比喩でかたづくとは思わないでしょう。
今回コレクションしてみた短歌詠たちはそれを裏付けるように、歌人それぞれの短歌へのリスペクトがあらわされています。
近代の人など、やや前の時代では少しステレオタイプと感じる面がありましたが、短歌詠はすごく進歩していて、短歌へのリスペクトが個別の独自のものになってきているのがわかります。
若い歌人の短歌詠はわずかしか見つけられませんでしたが、おそらく短歌という詩型に新しい形のリスペクト感をもって和歌・短歌の歴史に参加してきていると思います。
その手応えを感じ、本稿はいったんここで終わります。
これからの短歌詠を楽しみするということで、コレクションは引き続き行い、機会があれば補足追加などをしようと思っています。
なお、時代の変化をもっと具体的客観的に追いたかったのですが、歌人の生年を調べて歌を並べ替えて考察するなど、体力気力がついてきませんので省略しました。
(参考程度ですが、歌集の発行年はできるだけ添えました。)
自作で恐縮ですが、一度やってみたかった。まだまだやりたい……。
歌合の判歌は、実際そこにある歌の鑑賞や評価を歌のかたちで示したものですが、現在は、現実に存在する歌の鑑賞や評を〝歌でする〟というのは、見た記憶がありません。
(私が知らないだけで稀にはあるのかも。)
でも〝歌レポ詠〟という方法なら、実際の歌でも架空の歌でも、その鑑賞詠を詠むことができます。
だったらそれで歌合ができるでしょう。
やってみました!
歌合でなく題詠で短歌鑑賞詠というのもおもしろそうなので、いつかやってみるつもりです。ひとりで。
2022・8・20 高柳蕗子