自然を詠めば自然詠
社会を詠めば社会詠
短歌について詠めば短歌詠

短歌詠コレクション

たんかポエジー〟
〝歌レポ詠〟


掲出歌は順不同。見つけた順に各分類項目に割り振りました。

自然詠・社会詠といった言葉はよく使われますが、「短歌詠」なんて聞きませんね。
短歌そのものが歌の題材になっていることはあまり意識されていないのですが、短歌詠はけっこう多いんです。
歌人にとって、常時募集中の題詠みたいなもの、といっても過言ではないようです。

短歌詠の分類(目次)

「短歌詠」はざっくり次のように分類できます。

1 歌人たる自分や自分の歌について詠む

2 歌人について詠む

   歌人名が入っていない〝歌人詠〟

 「歌人」は「うたびと」とも読み、少し「詩的存在」というイメージが強まります。

  ★   ★   ★

ここまでは表現対象が人間(作者自身や他の歌人)でした
ここから
は短歌そのものについて詠む歌です。
個人的にはこの範疇の作品に一番興味があります。

 短歌について詠む  このページです。

①〝たんかポエジー〟

  「短歌」という詩型そのものに詩情を見出して詠む新感覚短歌ポエジーメタ短歌もあります。

   〝歌論詠〟もここに含めます。 

 〝歌レポ〟 短歌作品の鑑賞詠

  短歌作品を対象として、その姿、雰囲気の描写、鑑賞や評。
  (
実在する短歌作品に対するものはほとんどなく、ほぼ架空の作品が対象。)

たんかポエジー その1

〝たんかポエジー〟 

 自分の歌のことでなく、短歌そのもの、短歌という詩型について詠む歌を集めてみました。
多くは短歌というものに詩情を見出して詠まれています。

戰後派の一首の歌に角砂糖の如き甘きもの少しありたり

斎藤茂吉『つきかげ』

短歌とふ微量の毒の匂ひ持ちこまごまと咲く野の女郎花

齋藤史『秋天瑠璃』

日本狼さいごの一頭死にしより近代短歌の隆盛きたる

小池光『梨の花』2019

そそり立つ赤爪族の短歌かな沈魚落雁閉月羞花

依田仁美『悪戯翼』

事実ではあるがリアルでないことのこの世にあふれ短歌が困る

松木秀『親切な郷愁』2013

人間とチンパンジーのゲノムの差 短歌における助詞ひとつの差

松木秀『5メートルほどの果てしなさ』

たぶんいま誰かが歌を詠んでいる美しすぎる夕暮れは来て
短歌とはスーパーマリオが死ぬときのBGMのあかるさに似て

松木秀『RERA』

どのような雨風さえも吹き込まぬための蓋つき三十一文字
使っても傷まぬものを使うから続くのだろう歌を詠むこと

盛田志保子「詩客」 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-12-03-18907.html

滝壺に女は消えて悲しみし男の一首は地上に残る

大口玲子『自由』

無花果の熟れつつやがて腐りゆくまで見き短歌的抒情とも

藤原龍一郎『19××』

ものみなの像は影につつまれて歌ごころのみのこる黄昏

ルビ:像(かたち) 黄昏(たそがれ)

江田浩司『孤影』

短歌とふ情の世界と振る枕よりぽろぽろと蕎麦殻の落つ

斎藤寛『アルゴン』

歌はついに祈りに終りたりしこと白銀飛沫く中世和歌史

佐佐木幸綱『夏の鏡』

いちまいの栞とともに挟まれて誰が手の影ぞ明治短歌史

今井恵子「詩客」行く人来る人 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2013-01-04-12724.html

ぬばたまの三十一文字の密室に詩の殺意歌の怨恨みちて

藤原龍一郎『花束で殴る』2002

招き猫倒れしという写実歌のおそろしければこの花吹雪

藤原龍一郎『19××』1997

あぬえぬえ 歌はおまえの餌だから次の歌人のところへ行きな

ナイス害『フラッシュバックに勝つる』

てにをはをいらふかな愛しささらさらにどんなたまごも切りよで詩歌句

小池純代『梅園』2002

**随時追加しています**

直立せよ一行の詩 陽炎に揺れつつまさに大地さわげる

佐佐木幸綱『直立せよ 一行の詩』 2022・9・22追加

賛歌なき現代短歌、抜歯せし穴より出ずる血のにがさかな

佐佐木幸綱(出典調査中)2022・9・22追加

********

★〝たんかポエジー〟「ほろびる」系

「短歌⇒ほろびる」という詩的連想脈が開通し、長い時のなか、詠みかさなる歌たちが討論していそうです。


短歌ほろべ短歌ほろべといふ声す明治末期のごとくひびきて

斎藤茂吉『白き山』

斎藤茂吉にこういう歌がありますが、それに呼応したものなのかどうか、塚本邦雄には、さまざまなリアクションをしてみせるかのように、「短歌+滅びる」の歌がいっぱいあります。

枇杷の花夕べの霜に冱ゆるころ古歌とほくほろび韻きを伝ふ 

塚本邦雄『透明文法』1975

歌はずば言葉ほろびむみじか夜の光に神の紺のおもかげ

塚本邦雄『閑雅空間』1977

昨日こそ和歌ほろびしかゆふつかたゆふすげの濃き一花に對ふ

ルビ:一花【いちげ】 對【むか】

塚本邦雄『歌人』1982

歌は残り歌人ほろびてまたの世の秋冷銀砂敷きたるごとし

塚本邦雄『不變律』1988


でも、「短歌+滅びる」というモチーフを扱うには暗黙の資格が必要かもしれません。(私なんかおこがましくて詠めません。)

だからなのか、「短歌+滅びる」は、他の人からはまだあまり詠まれていないようです。以下はその数少ない例です。

井村屋のあんまん様も否定せりいつか短歌が滅びることを

大橋弘『used』2013

「滅びる」という悲観的な歌をたくさん読んだあと「滅びない」というのを読むと、なんだか逆に、ゾンビとか吸血鬼とか、死なない気味悪さを感じなくもないですね。

この国がすべてよくなり短歌など亡びゆくべきことも楽しも

木暮政次(『現代百人一首』岡井隆 著)


「短歌+滅びるというモチーフ、まだまだ歌が足りません。

この詩的連想脈はいまのところ世間話程度にしか開拓されていない。
詩的に詠みこなされる
まであと100年ぐらいかかるのかもしれません。

たんかポエジー その

短歌の擬人化・人間の擬短歌化

擬人化・といレトリックは、短歌表現においてほぼ無意識に使うごくありふれたものです。

じゃあ、短歌というもの擬人化するでしょうか。

――例は少ないのですが、興味深い歌があります。

注目ポイントは、擬人化等をされるたび、短歌というものがふっと実体をまとう、ということです。
実体のないもの実体化する、抽象的なものが具象化されることで、対象化しやすくなります。

もうひとつの注目ポイントは、比喩は双方向に開通する面があり、短歌の擬人化は人間の擬短歌化につながるということです。

それが詠み重なると、作者というもの短歌というものの全体の関係が変化し、短歌が作者の従属物※でなくなり、人と短歌、作者と短歌は対等の関係へと少し変化すると思うのです。

なお、短歌を擬人化することは、この章末尾の〝歌レポ詠〟にも関係します。ご注目ください。

※作者の従属物とは

①レベル1 手軽な日用品
「短歌は作者自身の気持ちの描写や表出する道具」と単純に捉えるポピュラーな短歌観。よく「鏡」だの「器」だの言いますよね。あれは従属物的な捉え方です。
②レベル2 仏壇
多くの歌人は、短歌が「鏡」や「器」程度の従属物の概念に収まるものでない、ということを、体験的に知っていますし、歌人はふつう短歌というものを重要視し、大切に扱い、和歌の歴史や伝統に濃淡はあるにしろ少しぐらいは敬意を払っています。私は、このレベルでもまだ、短歌が従属物として扱われていると思います。

は仏壇に似ています。大切にして敬意を払っているけれど、その敬意は私の心の都合で払っている。仏壇は私物。仏壇の中におわしますご先祖の霊も、ある意味私物で、生きている私の心の都合に依存するしかないものです。
でも短歌というものは死んではいない。人が思い思いに詠んだ歌たちは、作者の意図を超え、言葉の世界で呼び合い応じ合い混ざり合いひとりでに発展する現象があります。いわば生きている霊。私有できない霊。この詩型は、作者の思いどおりにならない不思議な生命力を帯びていて、作者と渡り合ったり寄り添ったりする存在、となり得ると思います。

■比喩でどんどん擬○○化……

短歌は、いろんな事象に擬○○化されます

連作をとかれし一首A4の白い用紙にひんやりと立つ

東直子 短歌日記『十階』

歌と歌身を寄せ合ひてゐるごとし封書で届く秋の詠草

田村元『北二十二条西七丁目』2012


■擬人化⇒人間の擬短歌化

次の歌は、短歌の擬物化ですが、擬人化につながる面もあります

ただ一挺の天与の楽器短歌といふ人体に似てやはらかな楽器

永井陽子『ふしぎな楽器』

「人体に似て」と言っていますが、たしかに短歌にはボディ感がある。
比喩というものには双方向に開通する性質があり、「短歌は人体に似て」は人体は短歌に似て」という擬短歌化の発想に転じる一歩手前です。


幽玄というべき歌器に有限のわたくし一基据えるしばらく

依田仁美『正十七角形な長城のわたくし』2010

「『歌器』に『わたくし一基』を据える」というのは、歌と人間が重なりあいます。
「幽玄」と「有限」
のダブらせ感も効いているし、一基というとお墓のイメージですから、そういう捻りりますね
(ただし、この歌は「五重塔」という特殊な一連のなかにあり(後述します)、五重塔の擬人化というか人間
の擬「塔」化というか、その「塔」と短歌「一基」は五重塔


降りだした雪ごと君は僕を抱く 口語短歌のようにふるえて 

 詞書)雪は火のくちづけにふれて溶ける、/そなたの心はわかれのくちづけに溶ける/レミ・ドゥ・グルモン/上田 敏 訳

千葉聡『微熱体』2000

君」が「僕」を抱き、そして「君」と「僕」ふたりしてふるえて抱きあう図が思い浮かびます。
口語短歌のように」から文語みたいな威厳がないこと・未成熟感が、そして「ふるえて」※からは寒さプラス、心細さが伝わってきます。

※「ふるえる」という語は、短歌において、誕生・命やたましいの震え、みたいなピュアな感じを表す用例がいくつもあります。古代の呪術で振るとか揺らすとかいうのもあって、あまり意識されていないけれども、この感覚は普遍的であるのかも。


さて、この歌は口語短歌の擬人化なのか人の擬短歌化なのか微妙です。
比喩(
擬人化もその一種)というものは双方向に作用する良い意味の曖昧さ・可能性をはらんでいます。
  短歌が人間のようにふるえて人間を抱く  ≒人間が短歌のようにふるえて人間を抱く
  ≒短歌が人間のようにふるえて短歌を抱く  ≒人間が短歌のようにふるえて短歌を抱く

むろん、この歌はこんなことまで言ってはいません。
が、短歌を擬人化する・人を擬
短歌化する歌が詠まれるたびに、言葉の世界で短歌と人間のイメージの縁が強まっていくと思います

たんかポエジー その

新感覚たんかポエジー・メタ短歌詠など

いやいや、擬○化なんてものでなく、もっと不思議な詠み方もあります。

「新感覚」というか、コレクションのなかには20年ぐらい前のものがあるし、私が知らないだけで、もっと前からあるのかもしれないので、ほんとうはちっとも「新」じゃないのかも。

このうたでわたしの言いたかったことを三十一文字であらわしなさい

斉藤斎藤『渡辺のわたし』2004

じゃあこれは短歌でしょうか「     」←正直者にしか見えません

千葉聡『短歌は最強アイテム』2017

一首より多くの文字の印された切符が導く夕日の街へ

ルビ:印【しる】

千葉聡『微熱体』2000

全体重のせてください(交差点)ここがわたしの歌枕です

東直子「小説すばる」2012・1

灯台を建物として貸出す なおこの歌は自動的に消滅する

我妻俊樹 ツイッター @agtm_botより

たんかポエジー その4

鈴木有機の新感覚たんかポエジー・メタ短歌詠など

このガラスの靴がぴったり合う一首はこの家にいらっしゃいませぬか

この歌の句跨がりにはチャーハンをパラッとさせる秘密があります

「かばん」に一時期在籍し注目に値する歌を毎号発表してた鈴木有機という歌人がいました。いつのまにか短歌をやめてしまったようですが、埋もれてしまうのはもったいない歌も少なくありません。

マニアックな〝たんかポエジー〟を数多く手掛けていましたのでここには多めにピックアップします。


2001年7月「創作」という筆名で「かばん」に参加、2002年9月から「鈴木有機」に改名。ここでは「鈴木有機」に統一します。

・「かばん」誌は創刊号から2004年3月号までデジタル化されており、そこからデータを拾いました。そのあとの分はほとんど拾っていません。

・もともと横書きの作品があります。

 短歌はふつう縦書きですが当サイトはすべて横書き表記です。鈴木有機作品にはもともと横書きになっているものも少なくありませんが、当サイトでは区別なく横書きにしています。

・短歌詠だけでなく、言葉や詩について詠む歌も多く、右のAA(アスキーアート)のような視覚表現試みを伴うこともありました
(右は「かばん」2004年2月 号。特別作品ページは順番制で会員が1ページを自由に使えるというもの。)

鈴木有機「かばん」2002・11 「サニーサイダー」より抜粋

「これと同じ一首をもう一首お付けしてお値段そのまま!」
「まあ素敵」

「これと同じ一首をもう一首お付けしてお値段そのまま!」
「まあ素敵」


鈴木有機「かばん」2003・1 (新年号。慣例として全員2首でタイトルなし)

この一首には遺伝子組み替え大豆は使用しておりません

愛を予防する成分が含まれています(国立がん研究所しらべ)


鈴木有機「かばん」2003・3 「まちがいさがし」より抜粋

お豆腐のタテヨコ高さの比率引きまたボブ・サップに説く幸福論

右の歌と左の歌にはまちがいが五カ所あります。みつけてみよう。

お豆腐のタテヨコ高さの比率引きまたボブ・サップに説く幸福論

まちがいなんて、ないみたいだけどなあ……


鈴木有機「かばん」2003・5 「3月20日(木)『笑っていいとも』放送中止 」より抜粋

(詞書)「お友達』は枕詞です

ことだまの80bytesは全角で40文字まで空爆無料


鈴木有機「かばん2003・9 「着信短歌 」より抜粋

「このガラスの靴がぴったり合う一首はこの家にいらっしゃいませぬか」

ここまでは三十一文字の提供でお送りしました/意味に降る雪


アイドリングストップ短歌
停 車 時 に イ ミ が と ま り ま す


「あんなもの飾りですよ」とラクガンを短歌のかたちに齧り残して


鈴木有機「かばん」2003・10「 1Tk」 (全)

 ルビ:Tk【タンカ】


この銀の短歌を5〜6首集めると金の短歌と交換できます


この金の短歌の中はメロンパン入れになっています、ちなみに


ワタクシが落とした一首は金のでも銀のでもなくただの短歌です


(詞書) 缶の中にコーンが残ってしまったときの名残惜しさ=1cN【コーン】 一首の中にコーンが残ってしまったときの名残惜しさは13cN【コーン】

ちなみに東京タワーーーーーーの縦書きさは333Tkです

ルビ:Tk【タンカ】


→右側を空けているのは定型の未来に急ぐ人たち用です

※もとは縦書きで冒頭の矢印は右向き


この一首を短歌以外の用途にご使用にならないで下さい


納豆の糸だけたべて生きてけるわたしたち無敵


鈴木有機にとっての短歌詠は、必ずしも特別なものでなかったらしく、短歌詠も他の歌も当たり前のように並んでいることがありますが、この「 1Tk」という一連はすべて短歌詠。

なお、鈴木有機の歌はほぼすべて、現実の事象の次元と言葉の次元とが混在する層のなかで詠まれていて、その特殊性に注目するなら、彼の歌はすべてが連作みたいなものだったと言えると思います

最後の納豆の歌のように短歌が出てこない歌も、短歌や詩歌、あるいは言葉に接点を持ってもいる、と思って読むほうがおそらく歌をよりよく味わえます。

鈴木有機「かばん」2003・11 「3D短歌 」(全)


この一首は42.195kmのさいごの三十一文字

※高柳注:

横書きで 同じ歌が3行書きで書いてあり、中央に、矢印で挟まれたアスタリスク。


只今、詠草が乱れております。このまましばらくお待ち下さい。

只今、詠草が静止しております。このまましばらくお待ち下さい。

昨日の詠草事故(定型内)

  死亡O

  負傷135

二月二十九日のあとにこの一首が四年に一回はさまってます。


この一首は四十五億五干万年のさいしょの三十一文字

鈴木有機「かばん」2003・12

鈴木有機「かばん」2004・1 (新年号は慣例によりタイトルなしで2首掲載)

この歌の句跨がりにはチャーハンをパラッとさせる秘密があります


勝新太郎の手形に勝新太郎の小便溜まったまんま

勝新太郎は何かのドラマで立小便をする有名なシーンがあったと思います。

だからそれ以上の深読みはいらない、――かもしれない。
けれども、鈴木有機
やっぱりたんかポエジー

すごく深読みですが、手形といえば「その人が存在した証」みたいなもの。短歌も同じことを期待されがちだし、しかも、短歌はいわゆる「自分を流し込む器」です。だから「器に液体ずっとが残っている」という内容が実にイミシンに見えます。

「自分を流し込む容器」という言葉を見聞きするたび、私には検尿の紙コップが思い浮かびます。
これはべつに悪い意味ではありません。「小便」にはその人の健康状態や生活が反映されているからこそ検査するわけですよね。
でもこのことは口には出せません。多くの人は小便を卑しんでいるから、短歌が検尿コップだなんて言ったら気を悪くするでしょう。
事象イメージにはいわれなき貴賤ランクがあります。
私にとってこの歌は、そんな貴賤意識につきあわされる抑圧が一気に吹き飛ぶような痛快な一首でした。


「かばん」CDROMのデータはここまで。この先はバックナンバーを紙媒体で探さねばならず、私のデータベースにも少ししか収録してありません。めおいおい追加したいと思っています。とりあえず今みつけたものだけアップ。


詠みかけの一首が冷蔵庫のなかに鈴木の詠むなと大書きされて

「この短歌、ケータイみたくにカニが近付くとちかちか教えてくるのー」

鈴木有機「かばん」掲載時期調査中(「かばん」CDROM収録以降)

歌レポ詠

短歌を客観的に描写する

食レポには2つの〝表現努力〟がある

〝歌レポ詠〟は私の造語。食べ物の感想を言う食レポみたいに、歌の姿やあじわいなど短歌の感想を歌に詠むことをコンセプトとしている詠み方、と思ってください。

テレビの食レポ番組、味や食感という映像音声では伝わりにくいものをあえて伝えるというコンセプトで成立していると思います。食レポはただの〝表現〟でなく〝表現努力〟であって、それが見どころなのではないでしょうか

その〝表現努力〟には二種類あります。
ひとつはリポーターの主観的な生のリアクション。人気タレントさんなどが何かを口に運んで味わい「うん、おいしい!」などと言います。その表情・声・しぐさの映像と音声によって、視聴者に食の感動を伝える〝表現努力〟です。

食レポにはもうひとつ、味や食感を対象化して言葉で描写するという要素もあります。映像を見るだけの視聴者にとっては「おいしい!」というリアクションだけでは情報が不十分だからです。リポーターは食感という主観的なものを頭の中で対象化し、味の特徴舌触り・香り具体的にあるいは感覚的に、言葉を工夫して視聴者に伝えようとします。伝わるかどうかはともかく、その〝表現努力〟を感じ取ることも、食レポを視聴する楽しみでしょう。

そして、食レポとして特に特徴的なのは後者の〝表現努力〟のほうだと思います。


レポという可能性

短歌を詠むときも、ただの表現ではなくて、なんらかの〝表現努力〟がなされるのが普通ではないでしょうか?

ここまで紹介してきた〝短歌詠〟の多くは、自身の心情や言動を描くことをコンセプトとして、「よし、描いた!」という手応えを得たことで成立させていると感じます。

〝表現努力〟もそこに力点があって、読者としてもそれを感じて「わかった!」と受け止めるわけです。

〝わがうた詠〟〝作歌ライフ詠〟は作者自身が表現の中心だから当たり前。「歌人」について詠む〝うたびと詠〟〝うたびとポエジー〟も、多くは感情移入など心情的裏付けによって歌が成立しており、それが自然な詠み方です。

この章は、短歌そのものを対象化して詠む歌を集めています。それでも主観的な語に重きをおいて人間の情感を軸に据えるジューシーな歌がけっこうありました。

このような主観中心の〝表現努力〟は、食レポにおける〝表現努力〟のひとつめに近いと思います


が、この章には、新感覚のものや、変わった擬人化のように、見せ場の異なる歌もあるようでした。

もっとよく探せば、食レポにおける〝表現努力〟の2つ目「味や食感を対象化して言葉で描写する」のように、短歌そのものを対象化して言葉で描写するという方法で詠むケースがあるのではないでしょうか。

コレクターの魂がうずきます。

歌集まるごと短歌詠

『正十七角形な長城のわたくし』依田仁美歌集

短歌の擬人化、擬、歌論詠、〝歌レポ詠〟などなど満載

★歌集まるごと短歌詠

依田仁美の『正十七角形な長城のわたくし』という歌集は、歌論的なエッセイと短歌作品群とが交互に配置されています。


・構成としては、エッセイの従属物としての歌か、それともエッセイが歌の詞書なのか、と迷いそうになりますが、読んでみると、主従でなく、両者は協力的に別のパフォーマンスをしていると思います。作者自身が「第一辺 歌はもともと軋轢の産物である」の終わりの方にこう書いています。
論と作はそれぞれ形の違った芸術思想の発露である。(中略)作が論による「自爆性」の被害に遭わぬよう、少しばかりの統制を加えているつもりである。つまり、両者にはほどほどの相関しか与えていないことにご留意いただきたいのである。


・エッセイのほうは、法話を正座をして聞くような不思議な味わい。
(悪い意味ではなく、親戚がお寺さんで、夏の法事で蝉の声のなかで聞く法話の雰囲気をなんとなく思い出します。)


・歌の方は、歌論的エッセイを直接的・間接的、あるいは発展的に反映しているようで、すべて短歌詠(わがうた詠・作歌ライフ詠・歌人詠、歌論詠など)と言ってよいでしょう。
そして歌には
すごく遊び心があるります。感覚観念の遊びであって、理論を実践してみせるという関係ではないようです。(散文を読み飛ばしてとりあえず歌だけ読んでしまいましたが、おもしろかった。ごめんなさいごめんなさい。)

作者の強靭かつ自在なウイットが駆使する言葉遊び(もじり、本歌取り・パロディetc)の一例をあげます。
こんな感じ
です

半世紀ペテンのうちにくらぶれば破れの風骨かぶれの奇骨

依田仁美『正十七角形な長城のわたくし』2010

単独なら社会批評詠に見えます。
でも
、この歌集のなかで読むなら〝短歌詠〟と思って鑑賞するのが妥当でしょう。
自身の半世紀に及ぶ歌歴のことを詠
んでいるのか、それとも現代短歌の半世紀を評したものなのか、迷って鑑賞を試みるのが楽しいです。

『正十七角形な長城のわたくし』の歌は他の章にもたくさん掲出しました。この歌集そのものの魅力についてはここでは伝えきれません。ぜひ現物を読んでいただきたいです。

★〝歌レポ詠〟 短歌が風とあそぶさま


私がこの歌集で特に注目したのは〝歌レポ詠〟です。
〝歌レポ詠〟というものはとてもレアです
が、この歌集には「これは歌レポとして読もう」と思ってもかまわない歌がいくつもあって、それだけですごいと思います。

よくぞ 五月の鯉の空きっ腹 風と呑み込んで覇と吹きぬけ

ルビ:風【ふう】 覇【は】

依田仁美『正十七角形な長城のわたくし』2010

「【第一角】風の中の存在」という一連のなかの歌。

鯉のぼりを描写している歌として普通に読めるのですが、言葉が鯉のぼりを吹き抜けるような短歌構造を描写したものかとも思えます。

この一連の前に「第一辺 歌はもともと軋轢の産物である」というエッセイがあり、その末尾に【第一角】は「風と遊ぶ腰折れ」だと書いてあるからです。

※「腰折れ」とはへたな詩歌文章、あるいは自分の詩歌文章を謙遜して呼ぶ語。


【第一角】の一連腰折れ短歌が風とあそぶさまを詠んだものならば、それはつまり〝歌レポ詠〟ではないだろうか。


この歌、一瞬「序破急」という語が読者の脳をかすめる仕掛けになっていないでしょうか。「そんなことどこにも書いてないとあくまでとぼけるような、言葉のみぶりのおもしろさもあります。こういうウイットの好きな読者にはたまらない一首です。

もうひとつ。

須臾の愁 風に毅然とひるがえす倅の背中は男一匹

ルビ:倅【せがれ】

依田仁美『正十七角形な長城のわたくし』2010【第一角】風の中の存在


普通に読めば倅を背後から見ている歌ですが、「倅」は短歌の擬人化ともとれる歌で、これも実に鑑賞が楽しい歌だといます。


★融合する短歌と歌人

この一連の歌ぜんぶが〝歌レポ詠〟というわけではありません。
そも、短歌に関することを詠む歌を、〝わがうた詠〟〝作歌ライフ詠〟〝うたびと詠〟〝歌レポ詠〟等に分けるのは、本稿を書くにあたって私が勝手に考えた鑑賞実験的な区別でしかありません。作者が詠む段階ではそんな区別をしていないでしょう。
しかも
歌人はしばしば、自作歌と自分自身を一心同体のもののように捉えがちですが、この作者も同様です。また、さっき擬人化は双方向、ということを書きましたが、それも関係しており、短歌詠は、作者と歌が混然としてのりうつり合うような混然とした視点から詠まれやすいようです。

たとえば次の歌。

春風にふわわの尾なる犬牽いてそぞろの夢をぶん流しおり

依田仁美『正十七角形な長城のわたくし』2010【第一角】風の中の存在

 〝うたびとポエジー〟的解釈 =歌人が犬を牽いてそぞろの夢をぶん流している
 〝歌レポ詠〟的解釈 =歌が犬を牽いてそぞろの夢をぶん流している
  混然一体的解釈 =「
ふわわの尾なる犬」みたいな歌を牽いて歌人が「そぞろの夢をぶん流し」ている

このように短歌と歌人が融合している歌は、その融合ぶりも味わいだと思います。
解釈次第ともいえますが
、鑑賞実験としてもう少しおつきあいください。


複雑な擬人化 五重塔 


〝歌レポ詠〟には擬人化擬○化がしばしば見られます。
短歌という現物は
一行の文字列でしかありませんが、歌のなかの言葉たちは緊密に関わり合ってパフォーマンスをしています。そのパフォーマンスをレポートするには、擬人化などして姿や身振りを描写する方法がもっともかんたんで有効でしょう。


『正十七角形な長城のわたくし』の「第五辺 信頼へ」には「短歌は五重塔である」ということが力説されていて、続く「【第五角】五重塔」には、その考えの周辺に漂う思念などが歌に詠まれ、〝歌レポ詠〟に近いと思われる歌がいくつか含まれるのですが、その擬人化擬○化ぶりが複雑で、その点だけでも鑑賞が楽しめます。



おお短歌五重塔は白南風にゆらりと堅実し志のちいささよ

ルビ:白南風(しろはえ) 堅実(かた) 志(し)下の句は前田夕暮のひまわりの歌の〝もじり〟。日向葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ  前田夕暮 (ルビ:日向葵【ひまはり】 傍点:ゆらり)

胸奥の五重塔を揺さぶりて疾駆の辣兎天へ抜けたる

ルビ:胸奥【きょうおう】

依田仁美『正十七角形な長城のわたくし』2010【第五角】五重塔

「おお短歌」の歌。前田夕暮の本歌の「ひまわり」の立ち姿にもかすかな擬人化があると思いますが、それが更に五重塔と短歌の姿に重ねられていますし、「胸奥の」の歌では更に、五重塔が人の身体と結びついています。

そして、この連作には、擬人化の項でも引用した次の歌も含まれています。

幽玄というべき歌器に有限のわたくし一基据えるしばらく

依田仁美『正十七角形な長城のわたくし』2010【第五角】五重塔

「『歌器』に『わたくし一基』を据える」で短歌と人間が(作者が、歌人が)重なりあいます。「幽玄」と「有限」のダブらせながらの対比も有効です
基」はお墓など(塔・棺・鳥居・原子炉・ピラミッドなど)を数える助数詞で、この一文字は、擬人化をより複雑にして短歌と人を融合する仕掛けなのです。

その他の〝歌レポ詠〟ピックアップ

この歌集には〝歌レポ詠〟に見える歌、そのように鑑賞することが可能な歌がたくさんあります。
目についたものだけ少しあげておきます。

滾滾とト調の水はあふれつつ身を真っ青に浸し了んぬ

ルビ:滾滾【こんこん】

金色の恨事一式陽にさらし非春の龍は眠りおりたりき

原注:「非春」世の中の辞書には載っていない。「若くない」と言おうとしている。

自立語と従属語とをこき混ぜて短歌一本ひょろと立てにき


依田仁美『正十七角形な長城のわたくし』2010【第五角】五重塔


身体の正中に沿いなみなみと髄液はあり きりと立つべし

ふかぶかと水桜ひらく水なかに地上におらぬ蝶がふたひら

ルビ:水桜【すいおう】

依田仁美『正十七角形な長城のわたくし』2010【第六角】Galaxy

〝歌レポ詠〟の短歌は擬人化擬物化で立ち姿など細長いものが多い気がしますが、この歌が〝歌レポ詠〟だとするならば、水中花を上から覗き込むようなかんじのレア物です。

刀身は正しくおれの歌枕過言を封じ清く反り映え

木刀に条あり痕あり輝りもあり秋は戸外に立て掛けるべし

依田仁美『正十七角形な長城のわたくし』2010【第十角】讃

短歌の評でよく「等身大」というのを見かけるが「刀身」はそれをかすっているかもしれません。


さっきも書きましたが、この作者は『正十七角形な長城のわたくし』以外の歌集でもさまざまな短歌詠的な試みをしています。興味のあるかたはぜひ歌集を御覧ください。

なお、依田仁美の一部の歌集データは下記で読むことができます。
 作者
サイト

  『骨一式』全作品  『乱髪-Rnm Parts』全作品  『悪戯翼』全作品

昔もあった〝歌レポ詠

歌合の判歌って〝歌レポ詠〟だよね

歌合の判歌

「小鳥はとっても歌が好き、かあさん呼ぶのも歌で呼ぶ」

じゃないけど、和歌が好きすぎて、和歌バトル的な催し「歌合」(うたあわせ)の判詞(判者がどっちの歌が勝ちか決めて理由などを述べる)まで和歌にしちゃった例があります。

 これって〝歌レポ詠〟ですよね。

古い例では、延喜末年(九二二)ぐらいの「論春秋歌合」で黒主・豊主の歌を番わせたものに凡河内拐恒が判歌を添えた、というのがあるそうです。

折句判

千五百番歌合(1203年)では後鳥羽院折句歌で判をしたというのはけっこう知られています。

でも、なかなかテキストが見つからず、ひとつだけ発見。
これが代表というわけではないかもしれないけれど、こんな感じ。

「千五百番歌合」秋二
 六百四番左 公継卿
武蔵野にこれもむつまじ女郎花わか紫のゆゑならねども
 右勝 寂蓮
野辺までもたづねて聞きし虫の音の浅茅が底にうらめしきかな


 判歌 後鳥羽院 (折句判「虫はよし」)

葎はひしげき真恣の原の下に夜すがら嗚くかしののめの虫


折句ではない判歌

これもテキストが見つからなくて、代表例かどうかわからないのですが、以下は、「女四宮歌合」(九七二年 村上天皇第四皇女・規子内親王家で催された歌合)の例。
こちらは、歌で判をしたのでなくて、
判詞は判詞としてあり、そこに源順が判歌を添えた、という例だそうです。

題 虫の音

浅茅生の露吹き結ぶこがらしに乱れても嗚<虫の声かな  但馬の君
秋風に露を涙と嗚<虫の思ふ心をたれに間はまし  橘正通

  判詞(省略)


判歌 源順

鳴く虫の涙になせる露よりも草吹き結ぶ風はまされり


おわりに

歌人の誇り

説話などには、和歌にまつわる逸話がたくさんあります。歌人がすぐれた和歌で状況を好転させた、というような逸話がすごくいっぱいあって驚かされます。

古典時代和歌神聖視されている面があり、歌人はそんな和歌の歴史に連なることを誇りにして、和歌というものを敬いながら歌を詠んでいたようです

短歌を道具とみなすのはポピュラーな思い込み

和歌の時代と違って、近現代は「短歌で自己を表現する」というコンセプトが広く重視されているため、短歌という詩型その手段捉える傾向があると思います。

たとえば「短歌は自己を流し込む器、自己を映す鏡」と歌を道具に例える言説実によく耳にしますね。

しかし、自分が歌人になってみてわかったのは、短歌を道具のように位置づけるのはポピュラーな思い込みであるということです。
「器」だの「鏡」だのと言うのは歌を詠まない人であって、歌人なら、
自分と短歌の関係そんなかんたんな比喩でかたづくとは思わないでしょう。

新たなリスペクト感をもって和歌・短歌の歴史に参加

今回コレクションしてみた短歌詠たちはそれを裏付けるように、歌人それぞれの短歌へのリスペクトがあらわされています。

近代の人など、やや前の時代では少しステレオタイプと感じる面がありましたが、短歌詠はすごく進歩していて、短歌へのリスペクトが個別の独自のものになってきているのがわかります。

若い歌人の短歌詠はわずかしか見つけられませんでしたがおそらく短歌という詩型新しい形のリスペクト感をもって和歌・短歌の歴史に参加してきていると思います。


その手応えを感じ、本稿はいったんここで終わります。
これからの短歌詠を楽しみするということで、コレクションは引き続き行
、機会があれば補足追加などをしようと思っています。


なお、時代の変化をもっと具体的客観的に追いたかったのですが、歌人の生年を調べて歌を並べ替えて考察するなど、体力気力がついてきませんので省略しました。
(参考程度ですが、歌集の発行年はできるだけ
添えました。)

おまけというか蛇足というか 歌レポ・短歌鑑賞詠の試み

架空短歌鑑賞詠の歌合

2022年2月「ねむらない樹」8号掲載

自作で恐縮ですが、一度やってみたかった。まだまだやりたい……。

現代の判歌の例はたぶんほとんどない

歌合の判歌は、実際そこにある歌の鑑賞や評価を歌のかたちで示したものですが、現在は、現実に存在する歌の鑑賞や評を〝歌でする〟というのは、見た記憶がありません。
(私が知らないだけで稀にはあるのかも。

鑑賞詠の歌合

でも〝歌レポ詠〟という方法なら、実際の歌でも架空の歌でも、その鑑賞詠を詠むことができます。

だったらそれで歌合ができるでしょう。

やってみました!


歌合でなく題詠で短歌鑑賞詠というのもおもしろそうなので、いつかやってみるつもりです。ひとりで。

2022・8・20 高柳蕗子