「かばん」2020年12月号 杉崎恒夫1首評特集

ねむりゆく私の上に
始祖鳥の化石のかたち
重ねてみたり

杉崎恒夫 「かばん」86年10月号p8 (『パン屋のパンセ』p70)より

 86年10月の歌会、この歌を読んでおもわず杉崎さんのきゃしゃな身体を盗み見た。

 なるほど、入眠感覚には死に似たおごそかさがある。そして、始祖鳥の化石(教科書で見たあれ)は、そういえばいかにも「この命は完了しました」という形だ。この歌は、「眠りに落ちるたび身体は死に近づく。命が完了したとき始祖鳥の化石に重なる。」という夢想を詠んでいる。自分を見下ろす視点(死者の魂が体から抜け出た直後のような)で始祖鳥の化石を自分に重ねている言い回しも効果的だ。なんてかっこいい歌だろう。

 杉崎さんは、若者の多い「かばん」のなか、ぽーんと年の離れた長老だったが、歌はまったく年齢を感じさせなかった。初めて会った人はみな驚きを隠せず、自分と同年代と思っていた……、などと感動まじりに語るのが常だった。体の老化に心を付き合わせなくていい。杉崎さんという歌人の、物静かな老紳士の姿は、それを体現していたのである。

 「歌を通して作者を理解することはほぼ不可能」という考えは、私の短歌観の重要な柱の一つである。ゆえに歌の内容と作者を安易に結び付けることはないのだが、この歌には圧倒された。杉崎さんの〝歌人だましい〟が体を張って詠んだ――体を言葉に変えて歌に挿入したかに思えた。

 私の祖母は、晩年まさに始祖鳥の化石そっくりになり、「こんなに老いさらばえて」と毎日嘆いていた。だが、杉崎さんの歌は、「かたち」を「重ね」るという冷静さで、太古からの命のシステムに連なることに軸足を置きながら、老いの悲しみや死への恐れという率直な心情をも決しておろそかにせず、そして「老い」も「始祖鳥」も貶めることなく、詠み勝っているではないか。(何に? 短歌は、言葉は、何に勝てる? 何に負けない?)

 私は、近現代短歌をデータベースにして評論の参考に使っている。その約十一万首のなかには、杉崎さんの歌が六百首ほど含まれている。データベースで単語検索をすると、その語を含む歌がぞろぞろ出てきて、近現代歌人による時空を超えた題詠みたいな様相になるのだが、そのとき杉崎さんの歌は、居並ぶ名歌のなかでたいていいちばん魅力的であり、いちばん平易で、かつ、見かけによらず奥深い。最善の言葉、最善の配置。整理された数式がシンプルであるように、多くの情報と複雑なニュアンスが一瞬で読者に伝わる。

 杉崎さん、ステキなお手本をありがとう。

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