寄せ集め短歌鑑賞

短歌の鑑賞は、短歌を作るのと同等の文学行為だと思います。

雨谷忠彦

(まだ準備中ですが一部公開)

ここには、さまざまな機会に書いた短歌鑑賞を集めてあります。

必ずしもその歌人の代表作であるわけでなく、また、評言の長さや口調も一貫しません。

なお内容はアップする際に手直ししていますので、評論等の掲載時と異なります。

2018年9月公開開始 以後随時更新

目次

無主物にそらみつやまとしきしまのみちの表土をすこしけづつて

かくばかりわれをもとむるいのちあり網戸を隔て蚊の裏をみつ

調理法のおもひうかばぬ食材のおほき生簀のまなかをあゆむ

掃溜めのあをいライトのしたにゐて静脈をもうさがしだせない



★時事ネタや掛詞をさりげなく使い、背を向けてニヤーとしているような雨谷忠彦の歌。

非常にわかりにくいけれど、一度この人の歌の特異さに気づいてしまうと、目がはなせなくなる。

無主物にそらみつやまとしきしまのみちの表土をすこしけづつて

雨谷忠彦

言葉愛による反応がハンパネー!

■私の解釈は以下の通り

原発事故を起こした電力会社によると、放射性物質は〝無主物〟(誰のものでもないもの)なのだそうだ。それが堆積して汚染され人が住めなくなった地域では、地表を剥ぎ取る〝除染〟作業が行われている。

妙な言い回しで責任回避する電力会社を皮肉る気持ちが少し見えるが、しかし、歌の目的は時事の風刺だけではなさそうだ。

そもそも、 無色透明で誰のものでもなく空に満ちて降り注ぐものといったら、「言葉」である。

真に〝無主物〟と呼ばれるべきものは、放射性物質なんかではなくて、「言葉」なのだ。(だのに、言い逃れなんかに使って〝無主物〟という語が汚れてしまったじゃないか。)

「言葉」は、目に見えず、誰のものでもない。人々の言語活動から生じたさまざまなイメージは空に(人が共有しているイメージ空間に)満ち、その成果は時間をかけて「言葉」に堆積する。

空に満ちるといえば「そらみつ大和」、大和といえば「敷島の道」(和歌の道)である。人は、(自分も)言葉に堆積するイメージの濃度の濃いところを削って歌を詠んでいるのだ。

という趣旨の歌であると思われる。

■「無主物」は耳慣れない言葉だった

2011年3月11日の原発事故によって飛散した目に見えない放射能物質を、東電は「無主物」(漂う霧や海の魚のように誰のものでもないもの)と呼んで、責任回避しようとした。

ニュースで初めてこの言葉を聞いた時、「無主物? なんだそれ、ざっけんな、オナラじゃあるまいし」と呆れた人が多かったと思う。

江戸時代の狂歌師は、不祥事があると、だじゃれなどで皮肉り、笑いの対象にすることで縁起直しをする、という動機で歌を詠んだ。雨谷の詠み方はそういう狂歌の詠み方にやや似ていると思う。

■時事への皮肉で終わらない

しかし、この歌は、「社会詠」「時事風刺」などとかんたんにはくくれない。

たしかに「無主物」という妙な言葉を使って責任回避する電力会社を皮肉る意図はある。

だが、この歌のコンセプトは、原発事故という社会問題への対処ではない、と思う。

■作者の動機は、

「無主物」という語を救う、いわば言葉の除染?

作者は「無主物」という耳慣れない言葉に惹かれたはずだ。

でも、だから、それが責任逃れなんかに使われたことが不快だった。

歌人など、言葉にたずさわる人ならば、言葉を責任逃れに使うという行為を格別に嘆かわしく感じる。

その上、この新しい「無主物」という魅力的な言葉は、放射性物質なんかとセットでデビューさせられて、いきなり汚染されてしまった。

おもわず、真に「無主物」と呼ぶべきものはそれじゃない、こっちだ! と言いたくなってこの歌ができた。

「無主物」という語を救うべく「そらみつやまとしきしまの」という呪文的フレーズが出てきた。

つまり、言葉愛による反応だと思う。

2018年9月17日

※目前の現実だけが現実ではない

被災されて過酷な現実に苦しんでいる人は、「言葉を救う? 今それどころじゃない」と思うだろう。

今の現実をどうにかするために尽力している立場の人も、言葉愛によるこうした反応は、ちょっとずれていると感じるだろう。

だが、目前の現実だけが現実ではない。歴史的な長大な時間をかけて進行するものも現実であり、その中で言葉が果たす役割は小さくない。

誰かが目先の都合で言葉を悪用して汚したら、こまめに言葉を除染しようとする、という感性も、存在意義はある。

かくばかりわれをもとむるいのちあり網戸を隔て蚊の裏をみつ

雨谷忠彦

捕食者と被捕食者は同じ土俵にたてない

■蚊は真剣だ

蚊はひじょうに小さいものだが、普通の肉食のケモノと同じく他の生物の身体を糧とする。

その真剣さは、体が小さくとも、というか、むしろ小さいからこそけなげである。

■蚊を腹の側から見る機会はあまりない

飛んでいる蚊をじっくり観察するのは難しいし、止まって刺しているときは上から見るのであって、裏(腹の側)から見るのは珍しい体験だ。

また、「腹見せ」はケモノだったら無防備だが、蚊は無防備もなにも、そもそも自分の身を守るという発想をしないから、慎重さがない。

まさになりふりかまわない真剣さである。

■共感しながら冷めた観察

この歌の面白さは、蚊という生き物の真剣さを感じつつ、実害がなく安全な状況(網戸)で、異種族である蚊の真剣さを、とても冷めた観察をしている点にあると思う。

人と蚊では人が圧倒的に優位である。もしライオンに喰われたら大変だが、蚊に喰われたってどうということもない。

しかも網戸で隔てられているから、こちらは完全に安全な状態で、「そんなに俺の血がほしいのか」と、相手がふつうなら見せないはずの「裏」を見ている。

■決して同じ土俵に立てない捕食者と被捕食者

ライオンと人間、蚊と人間など、同じ地球の同じ空間にいて、互いの存在を知ることができ、ある程度は共存もできる。そして、少なくとも人間側からは、勝手にさまざまなイメージをいだいて娯楽や芸術のなかで親しむことがある。

けれど、捕食者と被捕食者である関係は、土俵上の二人の力士のような関係とはひどく違う。

対等ではない。対立でもない。関係を表す一般的な語があてはまらない。(もしかしたらこういう関係に、学問的な名称があるのかしら。)

■掛詞というか縁語というか

言い忘れていたが、初句の「かく」は蚊を意識している。当然。

■余計かもしれない連想

「かくばかり」ではじまる有名な歌のひとつに、四方赤良の

かくばかりめでたくみゆる世の中をうらやましくやのぞく月影

があり、月がこちらを覗いている、という共通点がある。

詠むときに少し意識したかもしれない。

*****

捕食者と被捕食者に関わる歌をもうひとつとりあげます。次項「調理法のおもひうかばぬ食材のおほき生簀のまなかをあゆむ」をごらんください。

2018年9月17日

調理法のおもひうかばぬ食材のおほき生簀のまなかをあゆむ

ルビ( 調理法=(ルセット)

雨谷忠彦 「かばん」2010年 10月号


水族館で魚を食材として見る人間

その人間を魚たちが左右からはさんで見ている、奇妙な位置感覚

■水族館の吟行

水族館の吟行の歌。という情報がないとわかりにくいだろう。

■水族館なのに食材として見ている

「調理法が思い浮かばない食材」とは、学術的視点でなく、その生物を「食べる」立場から攻略できていない、という見方である。

生物を見る視点はいろいろあるなかで、捕食者の視点で水族館を見てまわるのは、いっぷう変わった楽しみ方だ。

(普通なら水族館では、命のしくみなどを学んで、むしろ生き物として同じだという気持ちになるんじゃないの?)

■珍しい位置感覚

人類は捕食者という優位にあるが、それでも、この世界の生物は、食材として攻略しつくせない。

この視点は、一人の個人でなく、人類の視点である。

食べ物として攻略できていないものたちに左右の水槽からはさまれている人類。

「まなかをあゆむ」とわざわざ書いてあるのは、そういう変わった位置感覚の強調である。

■「見られている」ことの緊張と微量の滑稽感

両脇に大勢がいる中を歩くといえば、新郎新婦とか、花道とか、王様とか、特別に注目される場合である。

魚たちに見られる緊張。くすぐったいような感じ。……この微量の滑稽感もなかなかの味わいだ。

優越と畏怖と安堵

水族館には、わけのわからない異形の生物がいる。

でも彼らは、人が捕獲するなどして水槽に飼っているのだから、人はここでは優位に立っており、彼らは安全化されている。

水族館で人は、生命の神秘に畏怖をおぼえ、人知の及ばないワンダーな世界に自分が所属していることに感動しつつ、その世界において今安全な場所を確保できていることに安堵したりする。

水族館というのはそういうところだが、雨谷はあえて、捕食者と被捕食者という妙な関係を意識して歌を詠んでいるのだ。

2018年9月17日

掃溜めのあをいライトのしたにゐて静脈をもうさがしだせない

雨谷忠彦 「かばん」2010年 12月号

瞬間的には、もう生きて帰れないかというほど不安の針が振りきれた?

■繁華街の雑踏で道に迷っている、と解く

「掃溜めのあをいライト」って何だろう。と、実は最初からつまづいている。ごみ処理に青い光を使うとか、何か裏付けがあるのかしら? と。

なぜかといえば、この作者の場合は、心象か空想かと思わせ、実は現実にあるものを詠みこむ、ということがしばしばあるのだ。

■人混み→ゴミ→掃き溜め

しかし、その情報が見つからないので、プランBで読み解く。

人混みの「混み」を「ゴミ」に掛け、人工光であるネオンがいっぱいの繁華街の雑踏で道に迷ってしまった、

と私は解く。

■青は不自然でちょっと不安な色

加えて、青というのは不自然な光で、不安をかきたてる。


※ブルーライトとは、波長が380~500nm(ナノメートル)の青色光。ヒトの目で見ることのできる光=可視光線の中でも、もっとも波長が短く、強いエネルギーを持っており、角膜や水晶体で吸収されずに網膜まで到達する。目だけでなく人体にさまざまな悪影響があるという。※もっとも、「ブルーライト・ヨコハマ」という歌が昔大流行した。当時、はまだ青い人工光はなかったのだが、言葉としてはステキだった。

■静脈の青とルーツ

青の代表は空と海である。

で、海はいのちの根源だからなのか、多少関係すると思うが、海の青が静脈の青と結びついたり、地図の河川を静脈に見立てたりする歌がたまにある。

どの山の地図ひらきても静脈の色つばらかに川流れたり 大西民子唇厚きシーラカンスも揺れていむ青ぐらき海を静脈に持つ 井辻朱美 ルビ(唇=くち)

また作者たちは無意識らしいが、静脈はなぜか父系のルーツへの連想をくすぐるもので、これもたまに歌に詠まれる。


藍くらき手の静脈を眼にたどるちちとなり父に似てきたる手 成瀬有陰茎のあをき色素はなに故ぞ梅雨ふかきころ湯殿に洗ふ 岡井隆 ルビ(梅雨=つゆ)、(湯殿=ゆどの)

■静脈が見えない=生きて帰れない??

こういう暗示の中で生じた不安は理屈を踏み抜くほど深い。

静脈が見えない→地図がない、迷子になる、&命のルーツを見失う、生きた心地がしない

ブルーライトは、瞬間的には、生きて帰れないかもというぐらい、強い絶望的連想脈を引き寄せる。

一方、その大げさな言い方が、ユーモラスでもある。

2018年9月17日