寄せ集め短歌鑑賞
短歌の鑑賞は、短歌を作るのと同等の文学行為だと思います。
随時更新中
平井 弘
ここには、さまざまな機会に書いた短歌鑑賞を集めてあります。
(一部描き下ろしも)
必ずしもその歌人の代表作であるわけでなく、
また、評言の長さや口調も一貫しません。
なお内容はアップする際に手直しすることがあり、
評論等の掲載時と異なります。
短歌の鑑賞は、短歌を作るのと同等の文学行為だと思います。
ここには、さまざまな機会に書いた短歌鑑賞を集めてあります。
(一部描き下ろしも)
必ずしもその歌人の代表作であるわけでなく、
また、評言の長さや口調も一貫しません。
なお内容はアップする際に手直しすることがあり、
評論等の掲載時と異なります。
若い時に平井弘の歌を読んで衝撃を受けました。
戦争体験のない私が、どういうスタンスで平井の歌を読んだのか。
そしてなぜ、今もなお重視し続け、惹かれ続けているのか。
そういったことをこちらのエッセイで説明しました。よろしかったらお目通しください。
なお、平井の歌の手法は婉曲で風刺的であり、童話などを詠み込みながら含意をひそませてあるようです。
解釈考察ではその含意をネタバレします。
ネタバレを嫌う方は、読むのは掲出歌一覧だけにしてください。
掲出歌一覧
男の子なるやさしさは紛れなくかしてごらんぼくが殺してあげる
ねえむうみんこつちむいてスコップのただしいつかひかたおしへます
ひと夏の鬱でもいいがくさかづらつぎの駅名くらゐ読ませろや
まもりのための家でも石なので投げるものだつたらなんとかなる
杭のかぶるゴム手袋が来てみろといふいいからなにもないから
木蓮は白でよかつた庭さきに青いのがあんなにきてたまるかよ
なにか撃たれやしなかつたかぽぽぽぽと鰯雲その集まるあたり
葉の下にはげしくつるむかたつむりわれに無音の音域のもの
とにかくこのままでゐてはいけないと蛞蝓の跡がみちをわたる
いいですかおはきな足にあふ靴ですあなたにも履いてもらひます
そこまで食べてしまつたのならしかたがないそこで蛹になつたら
平井弘豆歌集
『ねえむうみん』
「福耳短歌店」
で購入できます。
50首収録350円
(送料込440円)
代表作のひとつ。
こんな不気味な内容なのに、「愛唱されている」とさえ言えそうなほど、しばしば引用されている。
何かを殺さねばならないが手をくだせずにいる少年に、誰かがこう話しかけている、というシチュエーション。
平時でも家畜を殺すことならあると思うが、戦時だったら対象が人間にもなりうるだろう。
(海外の紛争地の映像にはしばしばあどけない顔の少年兵がいる。)
それゆえに、「かしてごらんぼくが殺してあげる」と、当然のように手を貸す親切なおじさんっぽい口調が恐ろしいのだ。
→その出処をさぐるべく、歌の言葉を読み直し、脳内を通過した軌跡をたどる。
そういう順序で鑑賞がはじまる。(この作者の歌はしばしばそうなる。)
スコップにはさまざまな用途があるけれど、日常ではあまり使わない道具である。
花壇の手入れならシャベルでじゅうぶんだし、この状況がわからない。
スコップを何に使うのか、歌には示唆する要素がない。
いや、要素は、なくはない。ある。
婉曲表現というものは、「何か口にしにくい事柄(性的なこと、不祥事などの禁忌事項)であることを示唆していないか……」という方向に想像の舵を切らせるのだ。
そのため、
「スコップって、墓穴掘りじゃないかな、いやまさか、でもまさか、そうなのか」
というふうに、いったん考えて打ち消しながら、迷いつつ、だんだん確信に至る。
〈スコップ→墓穴〉という連想脈は、普通ならうんと幽かでしかないのだが、上記の婉曲さによって強められている。
※スコップについては下に補足しました。
ムーミンといえば平穏な暮らしの象徴だ。
ムーミン村で、まだ子どもであるムーミンまでが、教わって墓穴を掘るような事態とはどんなものなのか。
この歌は、一瞬の異臭のように、恐ろしいものの気配を嗅ぎ取らせ、しかも、「気のせいかな」と通り過ぎるぐらいに薄めてもあって、いわゆる正常バイアス(心理学用語。自分にとって都合の悪い情報を無視したり過小評価したりすること)を誘発する雰囲気まで表現している。
『遣らず』には、こういう怖い歌が他にもいくつもある。
なお、この歌は、さっきの
「男の子なるやさしさは紛れなくかしてごらんぼくが殺してあげる」(『前線』)
という歌と共通点があり、より婉曲になっている。
スコップは穴を掘る道具だが、現実生活で穴を掘るのは、工事や農作業でなんらかの必要が生じたときであって、墓穴掘りなんかめったにしない。
だが、イメージの世界は現実とは違う。テレビドラマでスコップで穴を掘る場面といえばたいてい殺人の遺体隠しだ。
短歌のなかではどうなのか?
「スコップ」という語を使った歌は私のデータベースに7首あった。。
うち、「墓」に言及したり、比較的はっきり暗示したりする歌は上記を含めて3首もある。
上記以外の2首は以下の通り。
突き刺され墓標のごときスコップとやさしき工事人夫の佇立
八木博信『フラミンゴ』1999
(この歌は工事をしているのであって墓穴掘りではないが、スコップが墓標に見えている。)
炎天の舗道を歩む妹は赤きスコップと金魚を握り
大野道夫『秋意』2015
(この歌では「墓」と言っていないが、死んだ金魚を埋めに行くらしいと思わせる。)
このほかさらに、墓とは言っていないが、なんだかものすごく遠回しに死を暗示していそうな歌が2首あり、結局、スコップを詠み込んだ7首中5首は、濃淡はあるけれど「墓」への連想脈があった。
犬はすぐいなくなるからスコップや皿や写真でかざられた小屋
佐藤弓生『モーヴ色のあめふる』2015
ほほえんでいるのは砂場 スコップのすばらしい突き刺さり具合に
笹井宏之『てんとろり』2011
うわぁ、婉曲だなあ! 作者は、こうした婉曲表現の魔法使いだから、これは深読みしなくっちゃ。
[夏の鬱]は、夏の暑さのことか、というセンもあるが、[くさかづら]があるため、『夏草や兵【つはもの】どもが夢の跡 芭蕉』がちらつき、『戦争』のイメージが強まる。
そも芭蕉の句は、草原に屍るいるいの場面を幻視して、婉曲に[夢の跡]と言っているかと思えるものだが、この歌の[くさかづら]はそれを強め、[くさかづら]に絡みつかれて屍から魂が解放されないことを、それとなく想起させる。
この作者には太平洋戦争を意識した歌が多いということも念頭におくべきだろう。太平洋戦争では兵士を送り出す際「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みへりみはせじ」(もとは万葉集にある大伴家持の長歌。天皇のため海や山の屍になることも厭わぬという意味)という歌を歌ったそうだ。
それらを総合して、この歌の[夏]は、1945年の夏(原爆・激化した各地の空襲・沖縄戦・そして終戦)を想起させる。
「つぎの駅名くらゐ読ませろや」とは、夢からさめるように復興していく戦後の時間を特急列車に見立て、過去の[くさかづら]に囚われたまま未来を見ることのない戦死者の立場から、悲しく皮肉っている表現と思われる。
(なお、「かづら」に関係ある駅名を探したところ、近鉄吉野線に[葛(くず)]という駅があります。ほかにも「葛岡」「葛生」「葛西」などがあります。歌に関係があるかどうかはわかりませんが。)
・「まもりのための家」というと「専守防衛」ということばが浮かんでくる。
・また、石の家というと、「三匹の子豚」という童話が連想の射程に入る。
(藁の家、木の家の兄豚たちは狼の餌食となり、レンガの家の弟豚だけが助かった、という話だ。)
豚は狼を襲うことなく身を守る。石の家は守りの家である。
童話は守りだけで解決した。が、石を投げるというと、少し話が違ってくる。
家を内側から壊しながら応戦するなんて、すごく心もとない状況だ。
頼みのものを自ら破壊する自滅のはじまりなのに、「なんとかなる」と、安心材料のように言いなだめる。それがいたたまれない。
関係あるようなないような ないっぽいけど
・石落とし:お城には籠城して外敵を攻撃するための銃眼があるが、同じく「石落とし」という窓もあり、石も籠城軍の武器だった。
・赤レンガ闘争:そういえば、すでに昔になってしまったが、60年代の大学紛争のころに「赤レンガ闘争」という東大病院精神病棟占拠事件というのがあった。その建物の外観からこう呼ばれたのだが、この名称を聞いて、籠城してレンガを投げるさまを思い浮かべない人なんているだろうか。
・宇宙船地球号:資源の適切な使用について語るため、地球を閉じた宇宙船にたとえて「宇宙船地球号」ということがある。それとはやや違うが、頼みにしているものを自ら破壊しながら自滅していく点が共通。
棒杭にゴム手袋がひっかけてある。道端の家庭菜園などでよく見かけるものだ。
日常のなかに潜む薄気味悪いものを発見して詠んでいるが、実物はおそらく右の写真のように、さして不気味ではないものだろう。
ふつうに見ただけでは検出しにくい(例えば、洗い流したあとのまな板に残る血の匂いぐらいの)微量の要素を増幅しているわけだ。しかも幽かさはそのままに、感知可能なものとして表現している。
つまり、もとの素材から微元素を抽出し、言葉の表現の力で歌のボディを与えて実体化させた歌であり、この歌人がいなければ生じなかったものだ。
歌はこういうものであってほしい。※
棒杭って何かというと?
①なにかの標識。(海抜○メートルとか、県境とか)
②かんたんなお墓
③廃墟など、「かつてあったものの痕跡」という連想もある。
④手袋→人体→→→「生首orどくろを冠した棒杭」
というふうに連想をたぐりたくならないか?
そういう生首棒杭を映像か絵画か、とにかくどこかで見たことがある。
また、軍手なら土いじりなど普通の作業を想起するのに対して、ゴム手袋は主に水気のあるものを処理をする。
その連想をたぐると(なぜたぐりたくなるのか)、ナマ物→魚の解体→というふうに、凄惨なことへと連想が続いてしまいそう。
⑤「来てみろ」と招く〈棒杭+ゴム手袋〉の不気味
確かに、現実の〈棒杭+ゴム手袋〉はそのように見えることがあるだろうが、この歌には「それは表層のことにすぎないかもよ」というかすかな不気味さがある。
「これが何かの標識または痕跡だとすれば、『この先にはゴム手袋で処理するような出来事がある』と暗に予告するものだったりする?しないかな? 気のせいかな?」 と、連想のいとぐちに、ほんとうに幽かに一瞬触れてしまった気がする。
⑥客引きのあやしいノリ?
なれなれしく招くのはいかがわしい店の客引きのようでもある。
(お兄さん、来てごらん。3000円ぽっきり。ぼったくりじゃないよ、みたいな)
「来てごらん、ほら、ただの手袋だよ。ちっとも怖くないよ」
という怪しさが、なんだか「生首じゃないよ」とい意味もありそうな気がしてしまう。
これは絶妙に制御された婉曲表現であると思う。
次の二通りが考えられる。
A ゴム手袋だとすると、
「怖がらなくていいから、ほら、何も悪意はないから」
B 手招かれた人だとすると
「いいから構わないで。自分はおまえが欲しがるようなものを何も持っていないから」
というような意味になると思う。ABどちらにもとれる。決められないが、歌の流れからAかな、と思っている。
先にあげた「まもりのための家……」の歌には、状況を自ら言いなだめるいたたまれなさが感じられた。
この歌にも「言いなだめ」がある。が、こちらは自らをなだめるのではない。
この歌は、ゴム手袋のたたずまいは、不気味さと「これはなんでもないものだよ」という「なだめ」を併せ持つものとして描いていると思う。
むろんそのように書いてあるわけではない。この、暗示よりもっと婉曲な表現の繊細さに驚かされる。
※ことを荒立てる必要はないけれど、短歌をはじめてもう40年近くたってまだ釈然としないような、騙されているような感じがすることがある。
一般に通りのいい「歌は現実を映す鏡」という短歌観だ。
現実のレプリカを増やすことに何かすごく価値を見出しているようだが、それってそんなに価値があることなのか?
もしかして逆ではないだろか。歌に詠めば歌に詠む価値があると現実の事象をランクアップできる。自分を読めば自分がランクアップする。つまり、自分の価値をアップする手段としての短歌の価値でしかないのでは。。
共通点や関連を感じる歌
茄子紺のなす薯などの土けいろふさわしくして招ばれおりしよ 平井弘 『前線』
やわらかく茎立つ性の子は騙しいよ まあだだよまあだだよ 平井弘 『前線』
※ところで「騙しいよ」ってなんだろう? だましておけ? 「だまし」に、「いたましい」や「たましい」が混ざってる気もしてきて。
参考:案山子
杭になにか載せると、カカシのようになることがある。
案山子といえば、のどかな農村風景というイメージが圧倒的だ。
しかし、人の形をしているから、特別な任務をおびていそうだったり、少し不気味だったり、と、特殊なイメージで描かれることもある。
路地裏のブリキバケツは棒杭の先に干されて首を傾ぐ
ルビ:首(かうべ)佐藤通雅『強霜(こはじも)』2011
この歌のバケツにもカカシっぽさがある。
「干されて首を傾ぐ」は不気味だが、書いてある通りの不気味さであり、上記の平井弘の歌の婉曲な不気味にくらべれば〝安全〟である。
目鼻無き案山子ばかりに出会ふ秋暗号送る風かせわしく
宮原望子『これやこの』1996
茶畑の案山子の首は奪われて月の光のなかの十字架
木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』2016
要素その1
★なぜかふっと2.26事件が頭をよぎる。
これは説明しにくい。春の庭に青年将校……。だなんて、ぶっとびすぎだ。
が、読んだ瞬間に思い浮かんだところをみると、目立たないトリガーがあるようだ。
おそらくトリガーは「青いの」だ。
この〝意味ありげなあいまいさ〟は、それとなく、幽霊とかひとだまとか、ちょっと気味悪いものかもしれないとほのめかし、庭じゅうにそんなのが来たら怖いだろ、という冗談めかした歌になっているけれど、庭に霊がいっぱい、からの連想範囲から意味を持ちそうな事柄を探すと、2.26事件が思い当たってしまうのだ。
※「青」のイメージは普通、美しく爽やかで純粋な感じだが、このように、怖いものや禍々しいものを表すことがまれにある。
要素その2
★実は上記と並行して、
「梅咲いて庭中に青鮫が来ている(金子兜太)」
という俳句が思い浮かんだ。
詩的プラスアルファとして、この句を本歌取り的にかすっていないだろうか。
批評性の強い人は往々にして照れ屋であり、婉曲表現を用いる傾向がある。中でも特に詩的技術の高い人は、こういうオマケを惜しげもなくつけてくれる。
この句についての私の解釈は以下の通り。
--そもそも花には授粉等で虫を集めるという目的がある。その色・香など花の魅力はさまざまであり、この句は、梅の魅力の特性を、「青鮫みたいなものを呼び寄せる性質」と捉えているのだと思う。
万葉の昔から、梅と青柳はセットで「惹かれ合う男女」という連想脈を持ち、この句では、その「青柳」が「青鮫」へとシフトされている。
つまり、箱入り娘のような庭の梅に青虫がつく程度ならいいが、青鮫がいっぱいとは……。--この句はそういった面白みを読み取れる句だと思う。
余計な深読み 青と、こまかい白、散らばる白について
「青のなかのこまかい白」という図について考える。
短歌全体として「空」は人気の題材で、おもしろいのは、作者は無意識だろうが、空のかけら(割れた鏡に映る青空とか)を詠む歌もしばしばあり、それにかすかに通じるようなこまかい青、散らばる青を詠む歌も少なくない。申し合わせたわけじゃないのに、この時代の歌人に課された無意識の使命ででもあるかのように詠んでいる。
近代になってから、歌の中でなんとなく「靑」と「白」の勢力争いがある。面積の比率とか、どちらかがもう一方を囲むとか、そういう歌がかなりある。
(牧水の「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」の歌など。拙著『青じゃ青じゃ」に詳説。)
青と白の関係を詠む歌には、作者が自覚していない心情感覚が反映されているかもしれない。
作者は自覚していないことを見つけようという私は悪趣味だが、そうしたことを踏まえてこの「木蓮は」の歌を見ると、「白」が散らばっている図である。そこに、この作者ならではの特別な意味を見出している可能性もある。
参考:禍々しい青について
古典時代の「青」は、「青葉」などの植物の緑のあざやかな生命感あふれる美しさをあらわすことが多かったけれども、ものすごく稀に、「怖い青」の用例もある。
ついでに:青が領域を侵害する感じの歌
たとえばこれ。
あをぞらがぞろぞろ身体に入り来てそら見ろ家中【いへぢゆう】あをぞらだらけ
河野裕子『母系』2008
青空の青が自分の領域(身体や家)に侵入してくる。この歌は爽快感をあらわしているともとれるが、言い回しの中に、青空の過剰に対する警戒感のようなものも含まれている。怖い青の歌はいつかちゃんと集めてみたい。
鰯雲を詠む短歌は実にたくさんある。どこか遠くまで続いていく雲の群れの姿はさまざまな抒情を引き出す。その多くは平和な抒情であり、銃で何かが撃たれたという連想をする歌は初めて見た。
また「ぽぽぽ」というオノマトペも、短歌にときおり見られるものだが、多くは平和でとぼけたような雰囲気で用いられていて、その平和なオノマトペに、「銃で撃った跡」という見立てを重ねていることも、併せて注目に値する。
(そういえば花火大会の日は昼間のうちに「決行します」の意味で、パンパンと号砲を打ち上げ空にはぽぽぽぽがあがる。それを、戦争かと思う外人がいると聞いたことがある。)
初見で読み取ったのは、
「ここは戦争をしていないが、この空のしたのどこかで、たったいまも銃撃戦をしている場所がある。そして、いま戦争をしていない国の空の下にいても、戦争を想起する」
ということだった。
地続きならぬ空続き。過去未来の時空がつながっている、というような歌だと思ったのだ。
もう少し冷静に読み返すうちに、少し印象が修正された。
今も時空をさまよう霊(誰の、というのでなく、戦争の記憶みたいなものが浮かばれぬ霊みたいに空中をただよっている)が、「ぽぽぽぽ」に反応して、「なにか撃たれやしなかつたか」とむらむらと寄ってくる。そういう気配が描かれている、とも思えてきた。
寺山修司の鰯雲と比較
この平井の歌には、見た目以上にどきっとする要素があるとも感じられ、そのあと何日も考えた。
そういえば、寺山修司作詞の「戦争は知らない」に「鰯雲」が出てくる。
(歌詞は安易に引用できないので、ぜひググってください。)
これは反戦歌に分類され、高校生だった私もギターを抱えて歌っていた。
父を戦争でなくして戦争を知らない娘の立場から、「自分はこれから母になり、命をつないでいくから、お父さん見ていてくださいね」というような内容である。
平井の上記の歌を読んでどきっとしたのは、寺山の歌詞にくらべてぜんぜん甘さのないからだった。
寺山の「戦争は知らない」という歌は、戦死者を「慰霊」しつつ「じゃ、先に進むよ」という通過儀礼的なものである。受け取り方は人それぞれだが、私には、「はるかな父さん」をちょっと拝み、「じゃ成仏してね」とばかり明るく歌い流してしまいそうな軽さがちょっと気になる。
※ついさっきニュースで、ウクライナのゼレンスキー大統領が、戦死した兵士の遺族に「この国はあなたの息子を決して忘れない」みたいな意味のことを言っているのを見た。
今は本気かもしれないが、それはいつか嘘になる、と思った。日本だって戦中は「国は戦死者のことを決して忘れない」つもりでいただろう。
全く別の話。
前の歌のところにちょっと書いたが、この歌こそ、「青のなかのこまかい白」である。
牧水の海と空の青と白鳥の歌をはじめとして、こういう図の歌がときおりあり、少しずついろんなパターンを描いている。
むろん作者個人たちはそんな動きに参加している意識はないのだが、短歌というジャンルの言葉が、意志なき意志を帯びていま、この図のイメージを模索している気がする。引き続き歌を集めよう。
「無音の音域」で「はげしくつるむ」もの。
通常なら気づかないのだが、でも聞こえない耳鳴りのように、密かに激しく繁殖している気配。
他の人はその無音領域を気にとめていない。「われに」とわざわざ限定している。
この作者は、戦争を意識した歌が多い。そう思って読めば、これは、平時においても次の戦争が準備されていく気配を自分は感知してしまう、という歌かしらん、と解釈してしまうけれど、しかし戦争に限定しなくても、何か不気味なものが密かに増殖し続けている気配を感じている、というふうに読んでもいいかもしれない。
●余計なコレクション 自分ひとりだけ何か聞いている歌 (コレクション中)
生くるもの我のみならず現(うつ)し身の死にゆくを聞きつつ飯(いひ)食(を)しにけり 斎藤茂吉『赤光』
われひとり寂しく聞けり山かげに石切る音がこだまし居(を)るかな 斎藤茂吉『あらたま』
踏切を貨車すぐるとき憂(うれ)ひなくながき響きをわれは聞きゐし 佐藤佐太郎『帰潮』
竹林に目まいのような蝉の声聞きおり我は一本の竹 俵万智『サラダ記念日』
「このままでいてはいけない」という事態にまで追い詰められ、危険だが仕方なく道を渡った。
「蛞蝓がみちをわたる」と「蛞蝓の跡がみちをわたる」の違いは僅かなようだが、大きな違いにもなる。
「跡が」の3音で、ナメクジが道を渡ったのは過去であり、その結末を現在の人は知り得る。それが今ここにいる作者や読者であるような臨場感を強める効果もあるし、なによりもこの微妙な時間のズレのせいで、単なる過去のエピソードを聞くのでなく、跡を見届けて考えろという重さが加わる。
以下実話
私の行く手を横切っていくイモムシがいました。よいしょよいしょ。
すごく元気に体を運んでいます。なにか確かな目標があるかのような足取りです。
が、その前方にあるのは、……車の行き来する道路!
落ちていた枝を使ってイモムシさんをすくい上げ、すぐそこのマンションの庭に移動させました。
■ある日いきなりこう言われ、見回せばみんな拍手している。世の中に合わせて自分も拍手に加わる。
「平和ボケ」という言葉を耳にするけれども、私たちっていつも現状ボケではないだろうか。
平和な時は平和がフツーだと思っている。だが平和でないときは平和でないことがフツーになる。どんなときもフツーを生きる。
■平井はしばしばおとぎ話を皮肉の隠し味に用いる。
この「おほきな靴」の対極にシンデレラの靴があることにお気づきだろうか。
王子は、ガラスの小さな靴を持って国中の家をたずね、すべての女性に靴をはかせてみて、その靴に合う小さい足の特別なたったひとりの娘を見つけ出すし、めでたしめでたし。娘は幸せになる。
ではこの歌の「おほきな靴」はどうだろう。いろんな意味で、シンデレラの靴とは違うようだ。
誰も彼もに、サイズが合わなくても履かせるみたいだし、それはめでたくも幸せでもなさそうな感じがする。
どういうシチュエーションだろう。手がかりが少ないなあ。
しかし、手がかりが少ないからこそ、連想の触手は遠くまでまさぐる。
■まず思い当たったのは、黄泉戸喫(ヨモツヘグイ)だ。黄泉の国の穢れた物を食べてしまうと、黄泉の国の住民となり、この世には戻れなくなる、というルールである。
古事記の話。死んでしまった妻イザナミノミコトを黄泉の国から地上に連れ帰るべく、イザナギノミコトは黄泉の国に行った。しかし、妻はすでに黄泉の国のものを口にしていて戻れないと言われる。イザナギは、「そこを曲げてなんとか」と黄泉の神に頼み……この続きはすごくおもしろい。知らない人のためネタバラシはしないでおこう。
--とにかく、この歌に、黄泉戸喫が思い浮かんだ。
少し食べたぐらいなら、イザナギのミコトのようになんとか連れ帰る努力もするだろうが、腹いっぱい食べて動けないほどになったら、見捨てるほかない。
そういう情景みたいだ。
「腹いっぱいで動けないほど」は、次に出てくる「蛹」一文字からなんとなく視覚的に連想した絵である。
■この連想をしながら、「蛹」といえば、黄泉の国で蛹になるとは、何を意味するのだろう、と、ちょっとひっかかりを覚えてもいた。
黄泉の世界から、何かの虫になって羽ばたき出る?
このとき、この「蛹」に、放射性廃棄物の容器(キャニスタ)が重なって見えてしまった。
高レベル放射性廃液は、高温のガラスと溶かし合わせて固体化してキャニスタに詰め、300メートル以上深い地層に埋設することになっている。
うんと深ければ、こちらの世界に戻って来やしないだろうと思われる。
が、しかし、無害化するまでに10万年ぐらいかかるとのこと。その間には大きな天変地異もあるだろう。
なにかの拍子に、黄泉の国の蛹が羽ばたきでるようなことが起きるかもしれないではないか。
※こんなこと、歌には書いてありません。すべては私の勝手な解釈に過ぎません。
■第1部 講師 小塩卓哉氏(音短歌会)
■第2部 講師 塚本青史氏(「玲瓏」発行人) 平井弘氏(歌人) 林進一氏(元岐阜新聞文化部長、文芸担当)
コーディネーター・小塩卓哉氏
平井弘氏 小塩拓哉氏 澤村斉美氏 寺井龍哉氏
空襲か何かで被弾して倒れるところかしら。--平井弘の歌は、戦争体験を多く詠んでいる、と知られており、そうした予備知識からそういう解釈が浮かぶ。
けれど、もしその予備知識がなかったにしても、歌のなかに実に微弱なサインが仕掛けられているから、そうした含意はある程度読み解けるのではないかと思う。
予備知識がなくても婉曲表現に導かれる
・まずは、「膝折って崩れるまでのふしぜん」という言い方の効果で、読者はスローモーションで場面を想像する。
・次に「ふしぜん」が気になる。体が不自然な形になるのは、骨折とか死とか深刻な状況だったりしないかな。
・「念のためこの眼で見ておく」は、「通常なら見ておかない場面」であることをほのめかす。
もしかして、緊急性や危険性があって見てる場合じゃないけれど、振り返って見ておく、みたいなことかしら?
・かつ、こうも婉曲な言い回しをしていること自体も、「こんなに婉曲に言わなければならないような、何か忌避要素(死の場面とか、すごく酷いとか)のある事柄なんだな」と思わせる。
・最後の「この眼で見ておくために」にこめられている〝含み〟も尋常でない。
「『ために』何をしたのか?」と想像するように促される。
これらを総合して、もしや、自分が見届けるべき人の死だから振り返って見届けた、という場面だろうか。何らかの理由で助けに行けない状況(災害や戦争などで自分にも危険が迫っている等)で、やむを得ず自分は逃げながら、それでも振り返って誰かの死の瞬間を見とどけた」というような場面じゃないかしら、などと考えそうになる。
どこにもそうは書いていないが、いくつもの「婉曲」が、こういう空想をするように仕向けてくる。
歌には詳細は書いていないから、災害か戦争か、といった具体的な事情まではわからない。けれど、「婉曲」とは、あまり表面化しない普遍性を刺激する伝達法であって、事実抜きで普遍的要素だけを伝えてくる。
※だから個人的には「予備知識」に頼りたくないのだが、しかし、人はみんな忙しい。「婉曲」表現につきあいきれない読者も少なくないわけで、「予備知識」という簡易キーを世に広めておく意義はけっこうあるとも思う。
★似て非なる歌の例
優劣の話でなく、共通要素はあるけれども、表現法が全く異なる歌をあげておく。
まず膝が地にふれ指の先がふれ右頬ふれて我倒れたり 東直子『十階』
スローモーションで身体感覚を自覚しつつ動きを捉える。そんなふうに身体感覚や動きを言葉で味わい、その最後の衝撃や痛みを想像させる、いわば体験型の趣向であり、婉曲要素はない。読者がスローモーションで場面を想像するという点ぐらいしか共通点はない。
改まつていはれるとどうなんですかのつぺらぼうとちがひますか
平井弘『遣らず』2021
どのような闘いかたも胸張らせてくれず闘うたたかうだなんて
前線
倒れこんでくる者のため残しおく戸口 いつから閉ざして村は 表記ゆれ:込んで 要確認 前線
ここはひとつ順接でよろしからう春のひかりへむけるおしつこ
平井弘『振りまはした花のやうに』2006
だいぶ褪せて陶犬とわかるのがかれこれ二ふんこちらむいてゐる
平井弘『遣らず』2021
酸漿ほどだつたといふがどんどんふくらんでこのさきをろちの目
平井弘『振りまはした花のやうに』2006
兎そのほかの硬ばるいくつかの顔のうしろのしょうめんたあれ
平井弘 『前線』
どのような闘いかたも胸張らせてくれず闘う たたかうだなんて 平井弘 『前線』
死ぬことを怒りつつ死ぬ 兄たちの今もとほうもなかりし希い 平井弘 『前線』
戸口から奥へのたぐいなきとおさ膝ついて気がついて死にしや 平井弘 『前線』
膝ひらいて搬ばれながらどのような恥しくなき倒されかたが 平井弘 『前線』
まだ他に数えていないいくつもの顔のことそのいるはずのなき 平井弘 『前線』
身にしみて解るようには繰りかえさざりしゆとりよことあるたびに 平井弘 『前線』
朝になるまでに忘れておかないとよくわからなくなって死者らよ 平井弘 『前線』
真一文字に征きたるに手応えの召したるもののそこにはあらぬ 平井弘 『前線』
匍匐するような藁たばるいるいと危うきものは擬しておかむよ 平井弘 『前線』
メモ
戦争やその凄惨な死を詠んだ歌は世に少なくないが、平井弘はそれを身体感覚から詠むことが多いように思う。気のせいかもしれない。
死が軽んじられ、純真無垢なものが殺戮を手伝わされ。
はね毟ることより鶏の生きかえることが怖ろしくていもうとよ 平井弘 『前線』
村、人の集団、本来なら味方で守ってくれるはずの、国、ふるさとなどが、そうでない。
味方が味方でなくなる。そんな異常な空気のたちこめる向こう側で、そうしたすべてを統べる悪魔みたいなものがあるのかどうか。たぶんいなくて、うしろの正面にいるのは自分かもしれなくて、だからよけい怖く思われてくる。
兎そのほかの硬ばるいくつかの顔のうしろのしょうめんたあれ 平井弘 『前線』