発端は、2016年11月、「きらきら」「しんしん」など二音反復型のオノマトペの使用頻度を調べたことでした。
思いつく限りのオノマトペをリストアップし、当時のmyデータベースの短歌を使ってで、用例をカウントしました。
なお、当時のデータベースの短歌収録数は約7万5千首でした。 (現在、2024年8月は約13万首)
当時の使用頻度ベスト20
1位 106首 きらきら(ダントツ)
2位 70首 つぎつぎ
3位 64首 しんしん
4位 63首 あかあか
5位 59首 しみじみ
6位 57首 さらさら
7位 53首 ほのぼの
8位 50首 だんだん
9・10位 44首 ほろほろ
ゆらゆら
11位 42首 ふかぶか
12位・13位 40首 いろいろ
ぼろぼろ
14位 37首 いよいよ
15位 36首 さやさや
16位 35首 ひらひら
17位 33首 ばらばら
18・19位 31首 くるくる
なかなか
20位 29首 ありあり
使われ方の比較をしたらおもしろそうだと思い、ざっと見て特に「ぼろぼろ」に惹かれたので、
(なんか聖人っぽさがあると思いませんか?)
以下を文フリのフリーペーパーとして書きました。
※ここに掲載するにあたって文言を数か所訂正しました。
■春のぼろぼろには風情がある?
この歌は、「行く春」という晩春の既存の抒情に「ぼろぼろ」をプラス。そして、「ぼろぼろ」は、落ちぶれた一家が去っていくかのような風情を加えていると思う。
「風情」というのは、風流・風雅の趣を感じさせる情趣で、詩歌などによって時間をかけて培われたものだ。
■「行く春」という抒情?
去ってゆく春には、「行く春」という季語まであって、
行く春や鳥啼き魚の目は涙 芭蕉
ゆく春やおもたき琵琶の抱心 蕪村
などと親しまれてきた。
そして、詩歌の世界で親しまれるというのは、常に募集中の題詠みたいなものである。そんなふうに詠み重ねられて、今も「行く春」の抒情は培われ続けているようだ。
それに「春」といえば、桜という、はかなく散るものがつきもので、それもこの「ぼろぼろ」と間接的には多少響き合うかもしれない。うーん。どうかなあ??
■「衰えてうつろいゆく」ことに風情?
「落ちぶれた一家が去っていくかのような」にはなぜだか風情がある。
関連しそうなものを記憶の中でまさぐると、教科書に載っていた人麻呂の長歌を思い出した。
かつて都だった場所に草が茂りおもかげもないと嘆く歌だ。
「大宮はここと聞けども 大殿はここと言へども 春草の茂く生ひたる 霞立つ春日の霧れる ももしきの大宮ところ 見れば悲しも」
「衰える、うつろいゆく」ということが、こういうふうにたくさんの詩歌に詠まれてきたことで、情趣としての価値が生じたんじゃないかと思う。
日本語の詩歌の世界では、都と、そこに暮らしていた宮廷人が、早くから「衰え、うつろいゆく」ものとして、題材になった、ということもこころにとめてたい。「都落ち」のあわれとも少し通うと思う。
杜甫の「春望」(国破れて山河あり)も、内容は、有為転変の世の中と変わらぬ自然を対比した感慨を表す詩だ。
国破山河在/城春草木深
感時花濺涙/恨別鳥驚心
大きな変化に翻弄された当事者は抒情どころではないと思うが、詩歌に詠まれるとソフトになって抒情が付加される。「衰えてうつろいゆく」情趣には、こういうものからの影響もありそうだ。
■ところで「ぼろ」や「ぼろぼろ」って昔からある言葉だっけ?
一方、「ぼろぼろ」の「ぼろ」はどうだろう。
「ぼろ」といえば、これも教科書で見た、山上憶良の貧窮問答歌(風交じり雨降る夜の雨交じり……と始まる長歌)に、
綿もなき布肩衣の海松(みる)のごとわわけさがれる襤褸(かかふ)のみ肩にうち懸け
と、ものすごく哀れな様子が描かれていた。
でも、この襤褸は、「ぼろ」でなく「かかふ」と読む。それに、この長歌は〝詩的〟な書き方なんかで美化せず、あえて身も蓋もない書き方をしている。万葉集の時代はボロは貧しくみすぼらしいだけだったようだ。
『徒然草』には「宿河原といふところにて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに……」という記述がある。この「ぼろぼろ」は、虚無僧の旧称の梵論(ぼろ)であるらしい。
■ボロはかっこいい?
もしかして、梵論と襤褸はボロつながり?
清貧は仏道の修行で、みすぼらしい着物は高尚な精神世界とセットのイメージを形成しちゃったんだったりして。
だって、良寛さんはこう言っている。
襤褸(らんる)また襤褸 襤褸 これ生涯(中略)月を看(み)て終夜嘯(うそぶ)き 花に迷うてここに帰らず
俗世の欲から無縁で、詩歌に親しむ風流な暮らしぶり。
こういうところから、ぼろ着がただのぼろじゃなくなり、ボロ=聖という感覚が生じたか。
そういえば「ぼろは着てても心の錦」というのがある。
これは、『老子』にある被褐懐玉(ひかつかいぎょく)という四字熟語から来ているそうだ。「褐」はぼろぼろの服のこと。外見は粗末な服だが懐には宝玉を隠し持っているという意味。すぐれた才能などを表面には出さないことだそうだ。
こんな歌も見つけた。
闇にまぎれて帰りゆくこのよるべなきぼろぼろをわれは詩人と呼ぶ 田井安曇
おんぼろでホコリまみれの扇風機きみこそ全てを領(し)った詩人だ 神﨑ハルミ
詩人とぼろは親和性があるみたいだ。
うむむう、いつからぼろを「ぼろ」と言うようになったかはわからないけれども、前川佐美雄の歌の「ぼろぼろ」のニュアンスに少し近づいたかな。
ま、他の歌もみてみようか。
■散る桜に通じる?
この歌の「ぼろぼろ」には、美意識が感じられる。そのあたり、よく読み込んでみよう。
この歌の「ぼろぼろ」は、もろく崩壊するさまを表していて、そして歌には「春」が出てこないが、それでも少し桜が散るさまへの連想を誘い得る。
で、それはどこから感じ取れるのだろう?
おそらく、「やさしさの扇の人」という言い回しの効果だ。
単に「やさしい人」というのでなくて、そよそよとやさしさを扇で送ってくるような人なのであり、その威力たるや、その人を想うだけで、そのそよそよしたやさしさによって、もろい「ふるさと」が崩壊してこぼれてしまうのだ。
「ふるさと」というものは、普通は心の拠り所だが、それをも崩壊させてしまうほどの「やさしさ」を備えた人。
そして、この、ちょっと危険なやさしさは、やさしい春風が桜を散らすのに似ていないだろうか。ヒトコトも「春」と言わずとも、この「ぼろぼろ」は、桜の伝統的な美しい抒情をこっそり喚起するのだ。
このように、「ぼろぼろ」は、ぼろぼろであるにもかかわらず、風情や美しい抒情の『ニュアンスを、こっそり添えることがあるようだ。
■「ぽろぽろ」と「ほろほろ」?
じゃあ、よく似た「ぽろぽろ」「ほろほろ」でも同じような効果があるんだろうか?
暮れなずむホームをふたりぽろぽろと音符のように歩きましたね 笹井宏之
吾の中の水平線にぽろぽろと零れ落ちてく春のくちづけ 井上法子
結び目がほろほろ解ける春の夜のさくらといふはうす気味悪し 永井陽子
おさなごの服のビーズのほろほろとほどけて散りぬ銀河みたいだ 富田睦子
「ぽろぽろ」「ほろほろ」にも散りこぼれるところから、桜に通じるところがありそうだけど、「ぼろぼろ」は襤褸のぼろとも通じるから、あわれでやつれた感じも備わるんじゃないかなあ。
■怪獣の弔いにふさわしいぼろぼろ?
こんどは雪か。
さて、言葉の世界の「雪」は、鎮魂と癒やしのために降ることが多いんだよね。
たとえば「雪の上にいでたる月が戦死者の靴の裏鋲を照らしはじめつ(香川進)」は、雪が屍を覆っていて、覆いきれなかった靴を月が癒やすかのように詠んでいる。
右の井辻の歌でも、雪は倒された怪獣たちの骨を弔うために降っているようだ。
「ぼろぼろの雪」は、淡雪とか細雪とかと異なるがさつなイメージで、怪獣にふさわしい雪だろう。
ところで、怪獣といえば空想の産物で、子どもにも親しまれているものである。そして、この雪が「都会」に「しずむ」という部分にも注目したい。
▲都会=自然よりも人工物が多い場所。人々の空想世界も人工的に構築されて、そこに所属している傾向が強いと思われる。(そういえば映画やドラマの中の怪獣は都会に現れやすいなあ……。)
▲しずむ=普通なら雪は「覆う」ものなのに、「しずむ」と言っていることで、この雪は都会の空想世界に吸収されるみたいに感じられる。
だから、この歌には、
「怪獣は都会の空想世界の中で消費され、親しまれた末に消えてゆく」
という、「衰える、うつろいゆく」系のあわれな情趣が含まれ、この「ぼろぼろ」は、人々の夢がはかなく消費されるさまをも喚起し得ているとも思う。
■言葉の綾でそそる?
この歌のほとんどの部分は、アルバムの外見を叙述している。
ただし、空想を〝そそる〟ところがある。
「空白の多いアルバム」というのは、古くなって写真が剥がれ落ちたのかもしれないし、何らかの理由で剥がされた可能性もある。
また、「ぼろぼろの家族」は言葉の綾。心離れてばらばらに暮らしているのか。その思い出をつなぎとめるアルバムが、写真があちこち剥がされて、思い出も穴あきで、そんなぼろぼろ状態を、金具がかろうじて繋ぎ止めている、という描写。じっさいにこういうアルバムがあるのか、あるいは家族の状態を視覚化したものか、ドラマでたまに見る家族のような空想を〝そそる〟。
例1:遺品整理業者が廃棄物の箱詰め作業をしている。その遺品の中のアルバム。
例2:大災害など何らかの理由で分散した家族の一人が現地に残り、思い出にひたっている。その人は金具のようにバラバラのメンバーをつなぎとめたいと思っている。
災害などの実例が起きたあとは、例2のような解釈をする人が多くなる。
こういうふうに空想はいろいろできるが、むろん答えはない。読者がさまざまに思い描くであろういろんな物語のどれかが正解というわけではなくて、〝そそる〟こと自体がこの歌の力である。
この「ぼろぼろ」には、「衰えてうつろいゆく」情趣を感じさせる面がある。また、散る桜のはかなさも少し添え得ていると思う。
■力強い涙?
「ぼろぼろ」は、このように、傷ついたり崩れたりした究極の状態を表すこともある。この歌の「ぼろぼろ」は、風流ではない。落ちぶれる姿の情趣ではないし、散る桜のはかなげな様子とは全く別のこぼれかただ。
ぶどうがこぼれるさま。それも「ぼろぼろぼろぼろ」と重ねてあって、大粒の涙がとめどなくこぼれ続けているようだ。
また、あまり意識化されないかもしれないが、日本列島の少し反った形がぶどうの房の形状と重なりもして、日本列島が涙をこぼすかのような視覚効果もそれとなくあると思う。
これは、めそめそした涙でなく、力強い涙である。この悲しみはくじけず妥協せず涙をこぼし続けそうだ。果物は土地の恵みで育つものだということも関係があるかもしれない。
ところで、さっき、杜甫の詩のところで、詩歌に詠むと直接当事者が感じた深刻さが薄れることがある、という意味のことを書いた。それは抒情表現でやわらいでしまうということもあるのだが、加えて、時がたって視点がもとの事実から遠ざかるために、似ている事象をも呑み込んで、それらに共通する本質的なものを、歌が表すようになる、という要因もあると思う。
みながあの東北の震災を覚えていて、この歌を見て読者のほとんどが想起できるうちは、この歌は東北震災の歌である。
が、この先50年ぐらいたったら、その間には他にも大災害や大事件が起きて、この歌は、あの東北震災に限定した読み方をされなくなるだろう。
そのとき「東北の膨大なかなしみ」は、直接的な出来事を離れて意味を広げねばならなくなる。災害だけでなく、「東北の膨大なかなしみ」と呼べるものを包含すべく、この歌はきっとがんばるだろう。
「ぶだうぼろぼろ」はそのとき、普遍的な、強くくじけない悲しみを表す効果を保ち、「東北の膨大なかなしみ」と呼びうるものを指し示そうとし続けるだろう。
■既存の情趣を返上?
この歌を事実の報告として読むならば、「へえ、珍しいこともあるもんだ、どうやって蝶が入ったんだろ」という話になるけれど、「妙なところに蝶が出現する」というシチュエーションに見覚えがあり、探してみたら、それは俳句だった。
葎からあんな胡蝶の生まれけり 小林一茶
人ごみに蝶の生まるる彼岸かな 永田耕衣
ランボオの肋あらはや蝶生る 高柳克弘
まぼろしの蝶生む夜の輪転機 寺井谷子
まだたくさんあった。調べたら「蝶生る」は季語だったのだ。それで俳句にはが多いが、短歌ではあまり見かけないのだろう。
それはともかく、蝶の出現は、あえかな妖精が出たような明るい驚きであるのが普通の感覚だろう。(ゴキブリの出現とは大違いでしょ?)そして「蝶生る」が季語なら、俳句の言葉の言葉の世界では、そうとう情趣を蓄積しているのだろう。
でも、この歌の蝶はエアコンに閉じ込められてぼろぼろになっちゃってて、ちっとも風流じゃない。
「落ちぶれた妖精」としてのあわれさもあるのだが、期待された冷風のかわりに出てきて汚げな鱗粉を振りまきそうな、そんな嫌悪感のマイナスイメージで相殺される。
つまり、この歌の「ぼろぼろ」は、普通の見苦しい「ぼろぼろ」に近い。こそっと、既存の情趣を返上するところがある。そういう点で注目した。
■〝聖〟の「ぼろぼろ」?
日常語では普通の意味で平気で使っていても、短歌のなかでは普通の意味で用いにくい言葉がある。
そのことをあまり意識しない人が多いようだけれども、昔から培われた情趣を拒絶したら、短歌に詠みこみにくくなるし、また、情趣を完全に拒否すると、その部分はそっけなく味気なく、無粋に感じられやすい。
だから、既存の情趣の力を返上するだけでなく、新たな情趣を見つけながら使う場合があるだろう。
いくつか歌を拾って検証してみる。
で、まずは、右の「一千万円」の歌。この「ぼろぼろ」は何だろう?
みんなに自分の富を配り自分はぼろぼろのカーディガンを着ている、という状態は、いわば〝聖(ひじり)〟である。
ということは、昔の仏道修行などの清貧にちょっと似ているかもしれない。
ただし、このごろ、自分自身を〝聖〟だと思っているらしい歌をみかけるようになった。むろん作者個々はあまりそんなことを意識していないだろうが、総合すると、
「自分は羽をもがれてやむなく地上で劣化していく天使みたいな存在だ」
という気分が下地になっているのではないか、と思う。
この〝聖〟メンタリティは、昔の清貧の高僧にちょっとだけは通じるが、かなり違うものだとも思う。
仏教に限らず、既存の宗教の概念とも異なるようだし、それに、一番の違いは、かすかないらだちが含まれているように感じられる点だ。
宗教だったら、理念に基づいて贅沢を排除し、清貧に納得して「ぼろぼろ」を実践するだろうが、最近の〝聖〟感覚はそういうわけではないのだ。
辞書や雑巾の尊さ?
右の二首は、内容は違うけれども、何かしらがんばったり耐えたりして、自分の身を削って生き、その結果ぼろぼろになることを詠んでいる。
こういう「ぼろぼろ」には、〝聖性〟への期待が感じられないだろうか。
私が連想したのは、雑巾とか辞書とか(例が古いけど)、「ぼろぼろになることは尊い」という感覚である。
「ぼろぼろ」をねぎらって謝罪?
そういえば、前からこの歌が気になっていた。「ぼろぼろ」をねぎらって謝罪している。
純粋な人がぼろぼろになりながらがんばっている。そういうとき、ねぎらって謝罪されたらうれしいだろう。
この歌を読んだとき、雑巾でも辞書でも聖でもなんでもない私までもふと癒やされそうになり、「やべえ」と感じた。※
※ワタシ的には、意図せぬ癒やしが恐ろしいため。
新しい〝ぼろぼろ聖〟がゆく新時代
上のような歌の「ぼろぼろ」は、〝新しい聖〟系ではないだろうか。
新しい世の中に向かって、新しい〝ぼろぼろ聖〟がスタートする感じがする。
この「ぼろぼろ」は、伝統の情趣と無関係の、最近のメンタリティから生じた情趣によってプラスイメージを獲得している。
歌の好き嫌いは別問題で(といってもキライなわけではない)、この〝ぼろぼろ聖〟は新しいメンタリティに基いていると思う。
新しけりゃ良いわけじゃなくて
既存イメージは、新しいものに触れながらまだ成長している。千年モノの伝統的なイメージだって、まだ成長過程にある。
新しく生じたイメージたちも、既存イメージたちと関わりあいながら、だんだん「既存」に移行しながら成長を続ける。。
最初にあげた前川佐美雄の歌は、70年以上前の歌だ。その他の歌は2000年以降のもので、変化を感じるが、しかしまるっきり途切れているわけでもない。
「ぼろぼろ」は、そんなに多く詠まれるわけではないが、こんなふうに新旧のイメージが採用されていて、混ざりながら、いま健全に成長しているようだ。
とりあげきれなかった「ぼろぼろ」
順不同。見つけた順に並べておきます。
眠りより死に移りゆく境界をぼろぼろと蝶は樹下にこぼれぬ
稲葉京子(出典調査中)
比喩として夜更けのピアノ ぼろぼろの肉体をもう脱ぎ棄てたきに
藤原龍一郎『19××』1997
逆上の果てぼろぼろになる君を性欲もなく抱くということ
吉川宏志『青蝉』1995
死者たちの命なかばに断たれるそのあとを継ぐ ぼろぼろの旗
岡井隆『テロリズム以後の感想/草の雨』
イナッフと似ている名前のパンかじりぼろぼろこぼれる皮をはらって
柳谷あゆみ『ダマスカスへ行く 前・後・途中』2012
われに来る鬼まだ見えずぼろぼろと白歯(しらは)をこぼす夜の桜は
小島ゆかり『憂春』2005
うつつには許せざるものあるゆゑにぼろぼろとむく秋の唐黍(もろこし)
佐藤通雅『襤褸日乗』
ぼろぼろの大き翼をもつ天使骨董屋のいうままに立ちおり
杉﨑恒夫『パン屋のパンセ』
鶏小舎に飼われていたのはマルケスのぼろぼろ天使二月ふる雨
杉﨑恒夫(出典調査中)
ゆで卵の殻ぼろぼろと モザイクに蝕(をか)されてゆく男優の首
魚村晋太郎『銀耳』
昨日の夜の酔いはぼろぼろ 脈絡の何処に君の笑いいし声
永田和宏『饗庭』
猫の毛のぼろぼろとなりしものぞ行き路地のおくにてカラオケきこゆ
小池光『草の庭』
言の葉の葉のぼろぼろの拓かれる多言語地帯の素直なる空
鈴木英子『油月』2005
人間はぼろぼろになり死にゆくと夜ふけておもふ母のかたへに
永井陽子『てまり唄』
ぼろぼろのギターケースにぴかぴかのギターが見えた 宝の箱ね
林あまり『LOVE&SWEET』
我もはや逃げずと決めてぼろぼろの足どりもすこしおちつくらしき
齋藤史『うたのゆくへ 』
ぼろぼろのロシアおそらく歴史上見たこともなき強敵ならむ 香川ヒサ(出典調査中)
鶫(つぐん)のごとき自傷の少女ぼろぼろの古自転車のわれ 共に見る海
伊藤一彦(出典調査中)
朝が来て集中力はぼろぼろの横断歩道のように途切れる
千種創一『砂丘律』2015
いよいよに衰えはててぼろきれのごとき父なりしかと見つめよ
大島史洋『ふくろう』
あれ、あれと呼べない距離に近づいて、これ、ぼろぼろのこれは、こどもだ
木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』2016
以上2016年11月 東京文学フリマ フリーペーパー
2024年8月11日追記
その後の「ぼろぼろ」
上記フリーペパー作成のあと収録したデータより
(データベース収録短歌数約13万)
ぼろぼろにひび割れし顔をさらし歌ふ森進一を存外好む
小池光『思川の岸辺』
ぼろぼろの地図・磁石・水・不可能の文字のない辞書・蜜入り林檎
穂村弘『ドライ ドライ アイス』1992
クッキーのかけらをぼろぼろこぼしつつ喧嘩したこと子は言い始む
森尻理恵『グリーンフラッシュ』2002
注意力がわれからぼろぼろ抜けていく運転と測定十時間続けて
森尻理恵 『S坂』2008
神さへも見失ひつつ何もなき裸形をつつむぼろぼろの衣(きぬ)
大野誠夫『薔薇祭』1951
形見としてあなたにぼろぼろの燕尾服を、あなたに底の抜けた水甕を、あなたに褪色したドライ・フラワーの緋薔薇を
松平修文『トゥオネラ』
ぼろぼろの封筒はまだいいとして沈むしかないぼろぼろのバス
木村友 201711東京文フリ フリーペーパー(第63回角川短歌賞予選通過作「オフライン」)
ぼろぼろに朽ちたり燃えあがつたりする薔薇がいとしき戦士であつた
木下こう「詩客」 2018・7・7
もう値段つかないほどのぼろぼろの家の中へと入ってほしい
東直子「かばん」2017・7
ランドセルぼろぼろ落ちている道の隙間をわたり歩くいもうと
久真八志「かばん」2013・2
なぜ蟬はぼろぼろ死ぬのこんなにもスギ薬局のあふれる町で
岡野大嗣『サイレンと犀』
ぼろぼろのからだをひきずってあしたまたぼろぼろになるためにねる
岡野大嗣『たやすみなさい』
ぼろぼろになった骨片無秩序な増殖による変形が見ゆ
廣西昌也『神倉』2012
なんとなく気に入らないな突き刺してひねって抜けばぼろぼろの鍵
工藤吉生 作者ブログより短歌研究「うたう★クラブ」採用作品から
ぼろぼろの傘にたやすく化けるからあなたはそれを見て笑うから
山階基『風にあたる』2019
あこがれに思ひ至らず両手から葉物野菜がぼろぼろ落ちる
山階基 「風にあたる拾遺」2012-2015
ぼろぼろになりたい念が呼びよせるインフルエンザしばらく囲う
山階基 「風にあたる拾遺」2017-2019
空港の果てに逃げ水なるのならセックスでぼろぼろになりたい 山階基
風にあたる拾遺「未来」2016年9月号
人間はぼろぼろになり死にゆくと夜ふけておもふ母のかたへに
永井陽子『てまり唄』
ぼろぼろと岩ぞくづるる崖に立ち百年ひゃくねんの生いきは誰たがねがふらむ
前川佐美雄『大和』
ぼろぼろと光を零してはつ夏のきゅうりを交互に囓りあう朝
柴田葵『母の愛、僕のラブ』2019
梳きおればぼろぼろ抜くる白髪も捨つるほかなし可燃物として
染野太朗『あの日の海』
真っ青な空に浮かんだ採石場ぼろぼろの鉄・鋼・生きたい
鈴木智子『砂漠の庭師』2018
からだからぼろぼろの孔雀うちいでて歩まんとしてたおれはてたり
正岡豊『四月の魚』1990
いのちといふ粘着質のいきものがぼろぼろの身体をまだ死なしめず
詞書;命とは、身体でもなく、魂でもなく
日高堯子『水衣集』
何の木だこの木ぼろぼろしかれども《ボロボロノキ》に強壮効果
依田仁美『異端陣』2005
母が喰い荒せしものを死にがいのみずばしらたつまでのぼろぼろ
平井弘『前線』1976
熱っぽさに何を抱えて愛しゆく 椿ぼろぼろ咲いてごめんね
鈴木智子『舞う国』
ぼろぼろな心の窓の蝶番なおそうとすれば邪魔をする風
松木秀『色の濃い川』
密教寺院とわが家を分けるいっぽんの道の舗装はぼろぼろである
松木秀『色の濃い川』
射的屋の二段目にいるぼろぼろのあのぬいぐるみ売ってください
岡田美幸『グロリオサの祈り』2024
「ふるさと」っていう名前のお菓子を作るなら
落雁みたいにほろほろぼろぼろしたようなのにすると思うよ。