二五年前の「かばん」歌会。私は三一歳。六五歳のもの静かな杉崎さんと、その凝縮度の高い短歌に出会った。
①雪ぞらの浸透圧なすさびしさはガラス一重を透りくるらし
(「かばん」1985年5月号より)
まるごと一瞬でわかる歌。だが、まるごとを語るのは難しい。
「雪空のさびしさ(=冷気)は、浸透圧(濃度の違う液体が半透膜で隔てられたとき同じ濃度となろうとして浸み込む圧力。――まるで意志を持つかのよう―)でガラスを透過し、(同じ濃度になるまで)部屋に(私に)浸透する。」
と説明できるようになるまで何年もかかった。
杉崎さんの歌はわかりやすい。凄腕の歌職人の手になる歌の優しさが、それこそ「浸透圧」をなして読者を魅了する。そして、その優しさには意志がある。一貫性がある。どこまで意識していたかわからないが、生涯かけての連作ともみえる。杉崎さんの歌を、その意志に行き着くまでキーワードでたぐってみよう。この文章はその過程を実況する。
どこから手をつけようか。とりあえず、杉崎さんの歌が、物の形状やふるまいにしばしば言及することに注目してみる。杉崎さんが得意とする「見立て」の手法(噴水の立ち上がりを噴水のくるぶしと見立てるなど)も、単に表現の〝うまさ〟ではなくて、物の形状などへの強い関心(優しさを含んだ)から自然に出てきていると思えるのだ。
まずはシンプルな次の二首。入れ物と中身の関係を詠んでいる。
②手袋の中なるかたち思わせる指は手袋のたましいだから
③透明な秋の空気はフラスコのなかでフラスコのかたちしている
②の歌に「たましい」とあるので、「たましい(タマシイ)」を含む歌を探してみたところ九首あったが、そのうちの五首が入れ物らしきものに言及している。それらは別々の時期に発表されていて、形状や関係性の似たものを何度も描きかえしていることが窺える。
④透明なガラスの部屋を入れ替わる砂と砂時計のたましい
⑤晴れ上がる銀河宇宙のさびしさはたましいを掛けておく釘がない
⑤の「銀河宇宙」は、入れ物が大きすぎる状態と考えてピックアップした。晴れ上がる(見通しが良く広大な)銀河宇宙に「たましい」は拠りどころがない。それが銀河宇宙という場の「さびしさ」だということだろうか。
③のフラスコの歌の「空気」も追ってみる。そうしたら、「パン」の歌に行き着いた。
⑥アンパンの幸福感をふくらます三分の空気と七分のアンコ
「アンパン」は、「空気」がパン生地に混じってふかふかと成形した「パン」にアンコも入って、幸福を具現化している。
⑦気の付かないほどの悲しみある日にはクロワッサンの空気をたべる
気の付かないほどの悲しみ(幸福感の対極?)があると、クロワッサンを食べるときに空気が意識される(幸福感の補給も?)、という歌だと思う。先の歌①⑤の「さびしさ」と、この歌の「悲しみ」との関係が気になるので、ざっと確認しておく。
「さびし(さみし、淋、寂)」を含む十三首と、「かなし(悲)」を含む九首を比較。「さびし」は、「⑧グラムもて量るこころのさみしさはまつかさなどを拾いて帰る」など、個の心情も表すが、①の「雪ぞら」、⑤の「銀河宇宙」、「⑨銀紙を圧せば飛び出すカプセルは蛾の産卵に似てさびしきを」のように、対象のありさまから感じとる場合にも使われている。それに対して「かなし」は、どちらかといえば個の内に生じる感情、個の側に立つ表現に見える。厳密にでなく無意識に詠み分けされているようだ。この先注意して進もう。
身体はどう詠まれているのか。ふたたび形状の歌を追う。次の歌は、老身を詠む歌(と決めつけては失礼か)として、最高にかっこいい歌いっぷりだと思う。
⑩ねむりゆく私の上に始祖鳥の化石のかたち重ねてみたり
その始祖鳥は別の歌で、傘が骨ばってバリバリいうさまの比喩として使われているが、骨を持たない水はどうかというと、自在に体を成形するものとして描かれている。
⑪捩れつつ立ち直りつつ噴水を支えいるのは水の軟骨
水に死骸はない、と、ここで唐突に思った。死骸を詠んだ歌の多さに気づいたからだ。
⑫ひとかけらの空抱きしめて死んでいる蝉は六本の脚をそろえて
死骸の歌は十首(化石も入れれば十三首)、うち六首が蝉の歌。「⑬バレリーナみたいに脚をからませてガガンボのこんな軽い死にかた」などの代表作を含む。
特徴は、死骸がいたましくないことだ。「死」のたたずまいへのこの歌のまなざしには、安堵が宿っていないか。生前の名残が哀れではあるが、もう安心して目を向けられる、という感じが。
ではその逆の歌、生きている身体のいたましさを探してみよう。
⑭雪ふればふるとてかなし理髪屋のねじりん棒の無限上昇
理髪店の赤と青の螺旋は、動脈と静脈を表す。血の循環は身体の基本の仕組みであり、その無限上昇を「かなし」く感じるとすれば、身体そのものの根源的な悲しみを見ているのだろう。ねじりん棒の無限上昇は、まるで、生きる身体の祈りのようだ。
身体は祈る装置。
これは⑭の歌の言葉をはみ出す私の深読みでしかない。しかし、偶然だろうか、煙突などの棒状のものを詠んだ十一首(棒状の定義は曖昧)のうち五首に、「祈り」や「神」が出てくるのだ。そのひとつである「⑮バゲットを一本抱いて帰るみちバゲットはほとんど祈りにちかい」を傍証としておこう。
さて、降る「雪」は、ねじりん棒の無限上昇(祈り)に応えてくれているだろうか。「雪がふればふるとてかなし」とは、決して満たされぬ無限の営みがそもそも悲しいし、まして天からの応答が無言の冷たい雪であるということだろうか。
⑯人の名を呼んだりしない秋天の星は無限の吸音装置
この「無限」を、⑭の「無限上昇」に呼応させると、存在の無限の営み(祈り)を星が無限に吸い消す、という構図がうかんでくる。地上の声に対して天や宇宙は応答しない。人の名は人間どうしで呼び合うほかないのだ。
「星」は悲しみを負わないものという把握は、「⑰星のかけらといわれるぼくがいつどこでかなしみなどを背負ったのだろう」にも見える。流星群に精霊(しょうりょう)が乗っている歌もあるから(ジェットコースターかい)、星が人間くさいものを乗っけることはあるようだが。
「雪」の歌は⑭のほか四首ある。美しすぎて気づきにくいが、杉崎さんの「雪」はほとんど悪役なのである。次の「雪」は、「来る明日」の「品切れ」に関与しているらしい。
⑱ああ雪がふっていますね 来る明日は品切れですと神さまがいう
また、次の二首では、雪の冷たさと正反対のものとして「あたたかさ」に言及している。
⑲あたたかき毛糸のような雪ふればこの世に不幸などひとつもない
⑳三月の雪ふる夜にだす手紙ポストのなかは温かですか
⑲は「ふれば」を「ふるので」ととれば、「あたたかい毛糸のよう」に見える「雪」を詠んだ歌、「ふるなら」ととれば、「雪があたたかい毛糸のようでないからこの世に不幸があるんだ」という裏返しの歌である。あたたかい雪は現実にはないから、結局、〝雪は悪役〟ということにならないか?
⑳の歌には、ほんわかとした優しさ以上のものがある。微量のそれは、「ポストのなかが温かでなければ地上が凍えてしまう」たぐいの冷気(さびしさ)への対抗意識だ。人は多かれ少なかれその冷気に心当たりがあり、その心当たりが歌を深く受け止めるのだ。
発表時期がバラバラの歌を集めて立てた仮説だが、杉崎さんの「さびしさ」は存在の悲しみを受け止めない世界のありようを指すことがあり、「雪」の冷たさは、地上の悲しみや不幸を癒さないことで、その「さびしさ」を具現化しているように見える。
星も雪もダメ。天に味方はいないのか。陽光なら暖かく照らしてくれるのでは? ところが、そういう陽光の歌は見当たらないのだ。「㉑陽を浴びるカナヘビの子よやわらかいシッポにちょっと触っていいかい」は解釈しだいで該当するかもしれないがで、他にはない。
㉒観覧車は二粒ずつの豆の莢春たかき陽に触れては透けり
この歌では、観覧車が陽に触れていて、太陽が照らしている詠み方ではない。夕日は、逃れられない終焉を暗示し、「㉓夕日から逃れられない高架駅、内ポケットの中まで明るい」「㉔アフリカの大き夕焼けはバオバブのどんな巨木も沈めてしまう」などと描かれている。当然だが、ここにもあたたかさや幸福感はない。
杉崎さんのなかで「雪」(さびしさ)に抗し得る「あたたかさ」は、天にはなさそうだ。それは地上にある。「ポストのなか⑳」、そして「パン」と「母」にある。
㉕あたたかいパンをゆたかに売る街は幸せの街と一目で分かる
㉖この夕べ抱えてかえる温かいパンはわたしの母かもしれない
この世界に個性豊かな姿で存在をアピールしている事象に目を向ける。世界の側から感知されることのない、そのけなげな姿をねぎらう。そして世界に「さびしさ」という意味を供する。そうしたことに、杉崎さんは歌人としての役割を感じていたはずだ。
杉崎さんの歌はパンである。杉崎さんはパン屋さんである。世界の朝食用のパン。たとえ杉崎さんが出てきて「いえいえ」と言っても、これだけは絶対に譲らない。
杉崎さん。一面だけ捉えた文でごめんなさい。「棒の祈り」は乱暴でしたか。バゲットも棒、短歌も棒。そして人間も棒だなあと思えてきました。(笑)
――折々いただいたお手紙に返信しなくてすみませんでした。だからでしょう。私はだいぶ「さびしさ」にやられて、ちかごろ腰痛がひどいです。
「かばん』誌掲載の文ですが、ここにアップするに際して、歌に振った番号の誤りを訂正し、ややわかりにくかった表現を少し修正、さらに、パソコン等の画面で読むことを考え、数カ所改行を増やしました。