評論を書くついでに思いついた短歌鑑賞。

いずれ作者別等に振り分けるつもりですが、

まだ鑑賞文が少ないので、

とりあえずここに放り込みます。


現在は、歌の傾向によってなんとなく以下の振り分けをしています。

投げ込み箱1 いろいろ 

投げ込み箱2 マイナスアルファ

投げ込み箱3 フェイクモード

投げ込み箱4 青(ブログひょーたん)

投げ込み箱3

フェイクモード

最近は、はぐらかしの味わいのようなものに興味がある。

とりあえず、フェイクモードと呼んでいる。


フェイク感の例

何かで読んだジョークにこういうのがあった。

「その時なら私はここで飲んでたわ。

同時に二ヶ所に存在するわけないでしょ、小鳥じゃあるまいし。」

小鳥だって同時に二ヶ所に存在できないんだが・・・・

木造のアパートから出てまた戻る異人たちの芝居のように 

ユノこず枝 「かばん」2019年8月号

聞き返せば、「え、私そんなこと言いましたか」と、とぼけそう……

「異人たちの芝居のように」は、通常の比喩「AはBのようだ」が頭に入ってくるゲートを、同じ姿で通過するけれど、今どさくさに紛れて何か微妙なものが通ったな、という感じが残る。その怪しさに注目した。

この歌には現実の根拠がないわけでもない。最近、外国の人が身近に増え、周辺のアパートにたくさん住んでいる。先日、十人ぐらいで家具を手に手に歌いながら引っ越ししている外人集団とすれ違った。そういう種類のちょっと異世界感のある行為などを目にすることがある。「木造のアパートから出てまた戻る」が「芝居のよう」にと展開したとき、日常のどこかで体験したそういう淡い異世界感に通じる手応えがあるにはあるにはある。

だが、〝その感じを表した歌だ〟と言い切らせてはくれない。

言葉の連結がいい具合にふやけていて、聞き返せば「え、私そんなこと言いましたか」と、とぼけそうな風情。これもフェイクモードのひとつだ。

うさぎ顔の女に逢いに木枯らしに向かって歩く小金井の午後 

河野瑤 「かばん」2019年8月号

夢じゃないから何も起きない……

うさぎ顔の女に逢いに行く。木枯らしに向かって歩く。この二つが重なるとき、実に淡い〝あおり〟が生じる。それは、「ここが夢の中ならこの微弱な挑発力が増大してすごいことになる」というふうに感性をくすぐる。

小金井という地名が振動しはじめ、異界が横付けになり、人々のはみ出す半身みな葉っぱ、――のような異変の数々は、ここが夢じゃないから、どうにか起こらずに済んでいる。

かきくもりあやめも知らぬ大空にありとほしをば思ふべしやは

紀貫之『貫之集』

地面の蟻を空の星へとそれとなく持ちあげ

この歌には伝説がある。

 紀貫之の乗っていた馬が急病になった。〈蟻通しの神〉がそのあたりの神だと聞いた貫之が、ひざまづいてこう詠んだら、馬が治り先に進めるようになった。(『古今著聞集』)そういう話だ。


 この歌、「ありとほし」が「蟻通し」と掛けてあって、「曇天でお星様に気づかぬように、蟻通しの神様がいらっしゃるとは気づかなくって」と、掛け言葉で地面の蟻を空の星へとそれとなく持ちあげている。この婉曲なおだてがほほえましい。

 〈蟻通しの神〉は地元の有力者のような神なのだろう。

紀貫之の歌に心を動かされて(おだてが効いて)、馬の病気を直し通してくれた、ということから考えて、この神には、威信をくすぐられると弱いみたいな人の良さみたいなものがあって、逆にいえば、紀貫之の人の悪さも見えて、おもしろいエピソードだ。

 

 この歌を読むと、掛け言葉によって、「蟻」と「星」とが視覚的にも重なりあうわけだ。伝説のほうに気を取られて、歌の視覚効果はあまり意識していなかったが、この歌を読んだときには、勝手に「蟻」と「星」が視覚的にだぶって見えていたのだ。

 紀貫之も、「アリトホシ、アリトホシ」とつぶやいてこの歌を詠んだだろう。そのとき、地面に散らばる蟻と天に散らばる星という視覚的類似に気づきながら、この見立てで神の機嫌をとる歌に仕上げたはずだ。

以下準備中

あたらしい死体におにぎり売りつけてわたしの死体さがしにいきます

瀬戸夏子 『そのなかに心臓をつくって住みなさい』