自然を詠めば自然詠
社会を詠めば社会詠
短歌について詠めば短歌詠
短歌詠コレクションⅠ
〝わがうた詠〟
掲出歌は順不同。見つけた順に各分類項目に割り振りました。
掲出歌は順不同。見つけた順に各分類項目に割り振りました。
「短歌詠」をざっくり次のように分類してみました。
歌人名が入っていない〝歌人詠〟
「歌人」は「うたびと」とも読み、少し「詩的存在」というイメージが強まります。
〝歌論詠〟〝持論詠〟もここに含めます。
短歌作品を対象として、その姿、雰囲気の描写、鑑賞や評。
(実在する短歌作品に対するものはほとんどなく、ほぼ架空の作品が対象。)
ほとばしる短歌愛。歌人としての態度や作風の表明。
〝わがうた詠〟には、自己紹介、自己アピール的な意識が働いていると思えてならない。
じゃあ、誰にどんなときにする紹介やアピールなのでしょうか。
「歌人」専用のあの世に着いたとき自己紹介を求められて詠む歌
っていう題詠みたいな感じの歌も少なくない。
※すべて「我が歌はかくかくしかじか』と詠みおこす連作。さまざまに歌を詠む場面や思を詠んでいる。そのなかの1首。
〝わがうた詠〟のなかには、歌を「放つ」ことや、その歌の「行方」について詠むものがしばしばあります。
放った歌は遠いところへいってしまい、行方がわからないという歌が多いようです。
いわば椰子の木が椰子の実を心配するような感じ。
※島崎藤村 作詞の「椰子の実」の歌では、椰子の実からもとの木に思いをはせている。
※依田仁美は短歌を意識した歌をたくさん詠んでおり他の章でも掲出します。特にたんかポエジーの章でたくさん紹介します。
自分の死後の我が歌を思う歌も、ゆくえを思う歌と似ています。
こうしてみると、歌の行方を詠む歌には、自分の歌の実際の行方(自分の歌が現実の世の中に吸収されていくことなどを想像)を思う歌もあるけれども、より空想的で抒情的な「短歌ポエジー」とでも呼びたいような歌が多めではないかと感じます。
(「短歌ポエジー」はこちらにまとめます。)
素朴な感想。ずいぶん静かな、当たり障りないリアクションばかりだなあ。(笑)
★ダメージは大きいが言葉にならないのかも。
百人一首にあるよく似た内容の次の2首は、960年に村上天皇が開いた「天暦御時歌合」で競った歌です。
題:忍ぶ恋
しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで 平兼盛
恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか 壬生忠見
甲乙つけがたく判ができずにいたところ、天皇が「しのぶれど」とくちずさんだので、平兼盛の勝ちになりました。
負けた壬生忠見は落胆して元気がなくなり、とうとう亡くなってしまった、という話が伝わっています 。
短歌ズボン??
「我が歌」じゃなくて「我が言葉」という言い方もあります。
人と言葉の一体感があって、短歌愛は自己愛なんだなあ……。
この他にも、歌などの語を使っていない〝わがうた詠〟があると思いますが、探しにくいので省略します。
短歌というものについて述べるものは〝短歌詠〟に分類すべきですが、強い信念のようなものを述べる歌は〝わがうた詠〟に近いと思います。
なかには賛成しかねるのもあるけれど、持論ですから。
**以下2023.1追加**
ですって。
〝わがうた詠〟には何か魅力があります。あるからコレクションしたのです。
でも、〝わがうた詠〟ってちょっとクセが強い面があり、読者がいいと思ってくれるかどうか、微妙なラインがあるかもしれません。
ただし、私のデータベースのデータは読者から選ばれた歌が多い(データ収集についてはトップページに詳細)し、少なくともここに掲出する段階で私が選んでいて、その「微妙」はかなりクリアしていると思います。
「わがうた」と振りかぶることは、堂々とやって似合う作者もいます。
私は少し抵抗を感じなくもない。
〝わがうた詠〟にはややステレオタイプな熱さがあります。
自尊心。それと表裏一体みたいな自嘲歌。なんだかみんなで口裏を合わせたように似ています。
(自嘲的な〝わがうた詠〟は〝作歌ライフ詠〟の下の方に置いてあります。)
歌人ひとりひとり、歌との接点やリスペクトの仕方が違うはず。
より冷静で個性的な〝わがうた詠〟はこれから詠まれるのかもしれません。
〝わがうた詠〟(や次項の〝作歌ライフ詠〟)は、作家が書く自伝や小説作法、文章読本のようなもの(三島由紀夫の『小説読本』、谷崎潤一郎の『文章読本』など)や、作家が主人公である小説などと同じようなものなのか?
――なんだか異質なものだと思えます。
私はアシモフの『アシモフ自伝』、スティーブン・キングの『小説作法』がお気に入りです。
私は作家ではないけれど、それらは具体的な示唆に富んでいて、参考になったと感じることが多い。
ところが、〝わがうた詠〟は、参考になるのでしょうか?
(個人差もあるでしょうが、私も歌人のはしくれだけれど―――参考にはならないなあ。)
でも、とにかく、〝わがうた詠〟には何らかの魅力があります。あるからコレクションしたのです。
〝わがうた詠〟の魅力。何なのでしょう?
手放しでリスペクト感を表明すること、でしょうか。
それも、
「歌人専用のあの世に着いたとき自己紹介を求められて詠む歌」
っていう題詠みたいな感じ。
その感じが〝わがうた詠〟の魅力ではないか、と思います。
他の短歌詠(作歌ライフとか歌人に関する歌とか)も集めてみましょう。
自分は〝わがうた詠〟みたいなものは詠まないと思っていました。
私は人一倍自己満足的性格です。そしてそれを自己嫌悪しています。それに、誰が私の〝わがうた〟に興味を持つでしょう。
私が「私の歌はどうのこうの」語ったとしても、他者にとってなんにも価値はない。
そうわかっている以上私がそういうものを詠んじゃいけない……。もし詠んでも発表しない……、と思っていました。
―――ところが!
今回いろいろ集めてみて仰天。
私もいつのまにか、〝わがうた詠〟に見える歌を詠んでいたではありませんか。
どうでもいい歌なんですが、もしかして、「おまえも詠んでいるじゃないか」と気づく読者がいないとも限らないので書いておきます。
死んでいる父という父さかさまに覗いて通るあたしの短歌
高柳蕗子『あたしごっこ』「あたしごっこ」
留意して輪郭なぞれ 力詠が離発着する両肩はここ
高柳蕗子『あたしごっこ』「あいうえおごっこ」
どちらも特殊な趣向のある作品※で、自分の歌を語るという意図はぜんぜんなく、趣向の結果として〝わがうた詠〟的なものになりました。
※「死んでいる……」のほうは、「あたしごっこ」という連作の一首。
この連作の「あたし」は私であるようなないような。自己中心的な強い語感の「あたし」という語を独楽の軸のように据えて、フレアスカートみたいにイメージを振り回すような短歌的体感を楽しんだもので、いわば「あたしポエジー」でした。が、結果としてこの歌は〝わがうた詠〟ですね。
「留意して……」はいっぱい韻を踏む言葉遊びの連作「あいうえおごっこ」の中の1首。この歌では「り」を多用。はつらつと弾む「り」の語感で短歌がいきいきと生じるさまを描こうとして「両肩はここ」と強く踏み切りました。自分の肩という意識はなかったけれど、こちらも結果として〝わがうた詠〟ですね。