自然を詠めば自然詠
社会を詠めば社会詠
短歌について詠めば短歌詠

短歌詠コレクションⅠ

〝わがうた詠〟


掲出歌は順不同。見つけた順に各分類項目に割り振りました。

自然詠・社会詠といった言葉はよく使われますが、「短歌詠」なんて聞きませんね。
短歌そのものが歌の題材になっていることは
あまり意識されていないのですが、短歌詠はけっこう多いんです。
歌人にとって、常時募集中の題詠みたいなもの、といっても過言ではないようです。

短歌詠の分類(目次)

「短歌詠」ざっくり次のように分類してみました

1 歌人たる自分や自分の歌について詠む

  ①〝わがうた詠〟このページです。

    持論や短歌愛表明


2 歌人について詠む

   歌人名が入っていない〝歌人詠〟
  「歌人」は「うたびと」とも読み、少し「詩的存在」というイメージが強まります。

①〝たんかポエジー〟

  「短歌」という詩型そのものに詩情を見出す新感覚短歌ポエジー メタ短歌も

   〝歌論詠〟〝持論詠〟もここに含めます。 

〝歌レポ〟 短歌作品の鑑賞詠

  短歌作品を対象として、その姿、雰囲気の描写、鑑賞や評。
  (
実在する短歌作品に対するものはほとんどなく、ほぼ架空の作品が対象。)

わがうた詠〟ピックアップ その1

我が歌はかくかくしかじか

ほとばしる短歌愛。歌人としての態度や作風の表明。

〝わがうた詠〟には、自己紹介、自己アピール的な意識が働いていると思えてならない。
じゃあ、誰にどんなときにする紹介やアピールなのでしょうか。


「歌人」専用のあの世に着いたとき自己紹介を求められて詠む歌
っていう題詠みたいな感じの歌も少なくない。

わが歌は朝ゆふべに比叡が嶺に向ひて吐ける息に似しもの

ルビ:朝【あした】

吉井勇(出典調査中)

薔薇もゆるなかにしら玉ひびきしてゆらぐと覚ゆわが歌の胸

山川登美子(出典調査中)

老もなく死もなき国に常楽のゑみとほこりをまもれわが歌

九条武子(出典調査中)

わが歌は鴿にやや似るつばさなり母ある空へ鴿ち帰れと

ルビ:鴿【はと】 鴿【はと】

増田まさ子『恋衣』1905

我が歌はをかしき歌ぞ人麿も憶良もいまだ得詠まぬ歌ぞ

中島敦『和歌でない歌』

※すべて「我が歌はかくかくしかじか』と詠みおこす連作。さまざまに歌を詠む場面や思を詠んでいる。そのなかの1首。

わが歌は苦楚のごときか快くたれたるのちにかたちを知らず

 苦楚=(くそ) 辛苦。 苦痛。

土岐善麿『冬凪』

わが歌に吾と涙をそそぐ時またあらたなる悲しみぞ湧く

柳原白蓮『踏絵』

わが歌は田舎の出なる田舎歌素直懸命に詠ひ来しのみ

ルビ:素直懸命【すなほけんめい】 詠【うた】

宮柊二『純黄』

わがうたにわれの紋章いまだあらずたそがれのごとくかなしみきたる

葛原妙子『橙黄』1950

わが秀歌半旗のごとし黃昏をしろたへの秋風にむかひて

ルビ:黃昏【くわうこん】

塚本邦雄『詩歌變』

からうじて一つづつ書くわが歌よこの原稿のきたなかりけり

三ケ島葭子『三ケ島葭子全歌集』

我がうたは耳と目を閉じ透明な壁に裂け目をさがすがごとし

神﨑ハルミ 月刊短歌通信「ちゃばしら」2002年10月

信ぜざることばを賭けて逐はれゆく禽獣のごとわが歌ふなれ

須永朝彦『定本須永朝彦歌集』

はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば

ルビ:態【ざま】

齋藤史『朱天 』

わが歌は風に放たむ 山国の狭き谷間に捕はるるなよ

齋藤史(出典調査中)

わが歌はスーパーリアリズム平べたい言葉をつづるのみのわが歌

奥村晃作『キケンの水位』

われはもや「わが歌」得たりひとみなの得がたくあらん「わが歌」得たり

奥村晃作『空と自動車』

当たり前を当たり前として懸命に歌ふわが歌、認識の歌

奥村晃作『父さんのうた』

わが歌を突き出だすべしあをあをとかぜのわたらふ宙のもなかに

ルビ:宙【そら】

阿木津英『巌【いはほ】の力』

否み、否み、否む炎にわがうたを突き入れては打ちにまた打つ

阿木津英『黄鳥』

微生物よわたしの短歌はよい短歌意味なく意図なく浮遊あるのみ

依田仁美『乱髪~Rum-Parts』

〝わがうた詠〟ピックアップ その2

我が歌のゆくえが気になる

〝わがうた詠〟のなかには、歌を「放つ」ことや、その歌の「行方」について詠むものがしばしばあります。

放った歌は遠いところへいってしまい、行方がわからないという歌が多いようです。

いわば椰子の木が椰子の実を心配するような感じ。
島崎藤村 作詞の「椰子の実」の歌では、椰子の実からもとの木に思いをはせている。

わが残す歌の行方も知らねども思ひ重ねてみ冬うつらふ

斎藤史『うたのゆくへ』1953

今日といふここに火をたきつとめつつ残すわが歌の行方はしらず

斎藤史(出典調査中)

星まばたけば 野ばらの夢しなだれかかる わが歌よ湖をさまよひ行け

太田靜子(出典調査中)

秋つばめ紺にうるみてわが歌の數千來し方ゆくへを知らず

ルビ:數千【すせん】

塚本邦雄『されど遊星』

わが歌は今どの町をゆくらむか鳥の切手を付けて発ちしが

中畑智江『同じ白さで雪は降りくる』2014

わが歌よどこへ行くのか雨のなかくら闇坂をゆく人のある

岡部桂一郎『坂』

わが悲歌は海恋うままに吸われゆき奥眼の魚の奥眼となれり

依田仁美『骨一式』

※依田仁美は短歌を意識した歌をたくさん詠んでおり他の章でも掲出します。特にたんかポエジーの章でたくさん紹介します。


自分の死後の我が歌を思う歌も、ゆくえを思う歌と似ています。

一つ一つ吾が魂の緒の精をうけよ逝きての後のわが歌生きよ

柳原白蓮『踏絵』

こうしてみると、歌の行方を詠む歌には、自分の歌の実際の行方(自分の歌が現実の世の中に吸収されていくことなどを想像)を思う歌もあるけれども、より空想的で抒情的な「短歌ポエジー」とでも呼びたいような歌が多めではないかと感じます。
「短歌ポエジー」はこちらにまとめます

〝わがうた詠〟ピックアップ その

我が歌の評判など

前項では、放った歌の行方はわからない、という境地が詠まれていました。

しかし、読者の反応が聞こえてきたら、それはある意味、行方がわかったケースです。

そういう場合の反応がこちら。

わが歌を悪しと云ふ人世にあるにあしたうれしき夕さびしき

与謝野鉄幹『むらさき』

わが歌に苦しみのみを見るらしき友に言ひたき事言はずやむ

高安国世『真実』

わが歌をあかる過ぎるといふものありくらきになれし眼をとぢながら

土岐善麿『春野』1949

わが歌のこき落されゐる雑誌伏せ洗濯に立つわが日日のこと

ルビ:落(おろ)

斎藤史『うたのゆくへ』

有無を言はさぬ時代知らねば〈好き嫌い〉などで取り上げらるるわが歌

齋藤史(出典調査中)

隣にて小便をする男不意にわが歌の批評を始めたり

永田和宏『饗庭』

ネット上に「千葉の短歌は未熟だが熱い」とあり、ただじっと見つめる

千葉聡『海、悲歌、夏の雫など』


素朴な感想。ずいぶん静かな、当たり障りないリアクションばかりだなあ。(笑)


★ダメージは大きいが言葉にならないのかも。

百人一首にあるよく似た内容の次の2首は、960年に村上天皇が開いた「天暦御時歌合」で競った歌です。

題:忍ぶ恋

しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで 平兼盛

恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか 壬生忠見

甲乙つけがたく判ができずにいたところ、天皇が「しのぶれど」とくちずさんだので、兼盛の勝ちになりました。
負けた壬生忠見は落胆して元気がなくなり、とうとう亡くなってしまった、という話が伝わっています 。

〝わがうた詠〟ピックアップ その4 

「我が歌」という語を含まないけれど、自分の歌について語っている歌。

我が歌へのいろいろな思い

ささやかに生きたあかしの歌一首弥生の街に残さむとする

永井陽子『小さなヴァイオリンが欲しくて』

三十一文字積み重ね崩し積み重ねわがたましひの砦を築く

小川真理子『母音梯形(トゥラペーズ)』2002

江戸前に短歌たたきて一本気有終とおきわがクロニクル

幽玄というべき歌器に有限のわたくし一基据えるしばらく

依田仁美『正十七角形な長城のわたくし』2010

歌に詠み続けよう 今ここにある光、ため息、くちぶえなどを

千葉聡『今日の放課後、短歌部へ!』

短歌とはわが自画像の一刷けきのふ一刷けけふも一刷け

大森益雄『歌日和』

抑圧されたままでいるなよ ぼくたちは三十一文字で鳥になるのだ

萩原慎一郎『滑走路』

短歌しかつくれぬおとこの耳がさみしきこの耳を 見よ

高瀬一誌『火ダルマ』

歌を詠むビョーキの熊がをりまして棒立ちをして講義してます

坂井修一『青眼白眼』2017

わが希ひすなはち言へば小津安の映画のやうな歌つくりたし

小池光『梨の花』

自らの歌読み返し疲れ果つうたは私の影武者である

道浦母都子『花高野』

神の足から落ちし短歌を穿きて行くそれまでのもの手にぶら下げて

上野久雄『炎涼の星』

  短歌ズボン??

嘘を付きまた嘘を付き感傷にずぶ濡れになる歌人か俺は

福島泰樹(出典調査中)

歌はわが不肖の嫡子 罌粟咲くとこころざし水のうへを奔る

塚本邦雄『豹變』

無名者の無念を継ぎて詠うこと詩のまことにて人なれば負う

坪野哲久『人間旦暮・春夏篇』1988

独り異質の短歌を詠み来て変らざる我の短歌を我はよしとす

奥村晃作『八十の夏』

ホームランそれも場外ホームランのようなドデカイ歌が詠みたい

奥村晃作『造りの強い傘』

ウタビトと名のる逆説それゆえに世紀の終り詠わねばこそ

ルビ:詠【うた】

藤原龍一郎『花束で殴る』2002


「我が歌」じゃなくて「我が言葉」という言い方もあります。

水くぐる青き扇をわがことば創りたまへるわが夜へ献る

ルビ:献【おく】

山中智恵子『みずかありなむ』

つねに虚の側より希へばわがことばいつか大虚につきぬけゆかむ

ルビ:希【ねが】 

山中智恵子『玲瓏之記』



■自分の死後のわがうたは?


短歌死ぬよりはやくおのれの死は來る こは確なる大きしあわせ

齋藤史『秋天瑠璃』

死んでのち五十年ほどたつたころのこる歌一首あらば幸せ

安立スハル(出典調査中)

水のんで、歌に枯れたる、我が骨を、拾ひて叩く、人の子もがな。

与謝野鉄幹『むらさき』



人と言葉の一体感があって、短歌愛は自己愛なんだなあ……。

この他にも、などの語を使っていない〝わがうた詠〟があると思いますが、探しにくいので省略します。

〝わがうた詠〟ピックアップ その

短歌とは○○だ!

と、持論を強く主張する歌も〝わがうた詠〟に近いかも

短歌というものについて述べるものは〝短歌詠〟に分類すべきですが、強い信念のようなものを述べる歌は〝わがうた詠〟に近いと思います。
なかには賛成しかねるのもあるけれど、持論ですから。

歌といへばみそひともじのみじかければたれもつくれどおのが歌つくれ

土岐善麿『を仰ぐ』1925

些事詠んで確かなワザが伴えばそれでいいんだ短歌と言うは

ルビ:些事【さじ】

奥村晃作『造りの強い傘』2014

定型のちから自在に引き出して乗り越え行かん短歌の危機を

奥村晃作 Twitter作者アカウントのプロフィールより

短歌とは今だけの今のこの子らの吐息のあたたかさをうたうこと

千葉聡『短歌は最強アイテム』2017

**以下2023.1追加**

ふだん着のこころで歌ふこと大事あとはなあんにも考えるなよ

才能は歌殺すゆゑ才八分くらゐにとどめ歌ふこと大事

以上2首 喜多昭夫『夜店』2003

鶴は羽を抜きて織りしよ人は心をむしりて歌をつくるならずや

稲葉京子『花あるやうに』


ですって。

〝わがうた詠〟の魅力とは

〝わがうた詠〟には何か魅力があります。あるからコレクションしたのです。

でも、〝わがうた詠〟ってちょっとクセが強い面があり、読者がいいと思ってくれるかどうか、微妙なラインがあるかもしれません。

ただし、私のデータベースのデータは読者から選ばれた歌が多い(データ収集についてはトップページに詳細)し、少なくともここに掲出する段階で私が選んでいて、その「微妙」はかなりクリアしていると思います。


ちょっとビミョーだと感じるの点


1 ふりかぶることに抵抗感

「わがうた」と振りかぶることは、堂々とやって似合う作者もいます。
は少し抵抗を感じなくもない

2 なんだかステレオタイプ

〝わがうた詠〟にはややステレオタイプな熱さがあります

自尊心。それと表裏一体みたいな自嘲歌。なんだかみんなで口裏を合わせたように似ています。
 (
自嘲的な〝わがうた詠〟は〝作歌ライフ詠〟下の方に置いてあります。

歌人ひとりひとり、歌との接点やリスペクトの仕方が違うはず
より冷静で個性的な
〝わがうた詠〟これから詠まれるのかもしれません。


3 小説家の自伝的エッセイ等とは異質

〝わがうた詠〟(や次項の〝作歌ライフ詠〟は、作家が書く自伝や小説作法、文章読本のようなもの(三島由紀夫の『小説読本』、谷崎潤一郎の『文章読本』など)や、作家が主人公である小説などと同じようなものなのか

――なんだか異質なものだと思えます。

私はアシモフの『アシモフ自伝』、スティーブン・キングの『小説作法』がお気に入りです。
私は作家ではないけれど、それらは
具体的な示唆に富んでいて、参考になったと感じることが多い。
ところが、
〝わがうた詠〟は、参考になるのでしょうか?
(個人差もあるでしょうが、
歌人のはしくれだけれど―――参考にはならないなあ。)


〝わがうた詠〟の魅力

でも、とにかく、〝わがうた詠〟には何らかの魅力があります。あるからコレクションしたのです。

〝わがうた詠〟の魅力何なのでしょう

手放しでリスペクト感表明すること、でしょうか。

それも、

歌人専用のあの世に着いたとき自己紹介を求められて詠む歌」
っていう題詠みたいな感じ

その感じが〝わがうた詠〟の魅力ではないか、と思います。


他の短歌詠(作歌ライフとか歌人に関する歌とか)も集めてみましょう。

おまけっていうか……、

だけど、自分も〝わがうた詠〟的なものを詠んでいた!!


自分は〝わがうた詠〟みたいなものはまないと思っていました。

私は人一倍自己満足的性格です。そしてそれを自己嫌悪しています。それに、誰が私の〝わがうた〟に興味を持つでしょう
私が
「私の歌はどうのこうの」語ったとしても、他者にとってなんにも価値ない

そうわかっている以上私がそういうものを詠んじゃいけない……。もし詠んでも発表しない……、と思っていました。


―――ところが

 今回いろいろ集めてみて仰天。
私もいつのまにか、〝わがうた詠〟に見える歌を詠んでいたではありませんか。

どうでもいい歌なんですが、もしかして、「おまえも詠んでいるじゃないか」と気づく読者がいないとも限らないので書いておきます。


死んでいる父という父さかさまに覗いて通るあたしの短歌

高柳蕗子『あたしごっこ』「あたしごっこ」

留意して輪郭なぞれ 力詠が離発着する両肩はここ

高柳蕗子『あたしごっこ』「あいうえおごっこ」


どちらも特殊な
趣向のある作品※で、自分の歌を語るという意図はぜんぜんなく、趣向の結果として〝わがうた詠〟的なものになりました

※「死んでいる……」のほうは、「あたしごっこ」という連作の一首。
この連作の「あたし」は私であるようなないような。自己中心的な強い語感の「あたし」という語を独楽の軸のように据えて、フレアスカートみたいにイメージを振り回すような短歌的体感を楽しんだもので、いわば「あたしポエジー」でした。が、結果としてこの歌は〝わがうた詠〟ですね。

「留意して……」はいっぱい韻を踏む言葉遊びの連作「あいうえおごっこ」の中の1首。この歌では「り」を多用。はつらつと弾む「り」の語感で短歌がいきいきと生じるさまを描こうとして「両肩はここ」と強踏み切りました。自分の肩という意識はなかったけれど、こちらも結果として〝わがうた詠〟ですね。