自然を詠めば自然詠
社会を詠めば社会詠
短歌について詠めば短歌詠

短歌詠コレクション

〝作歌ライフ詠〟


掲出歌は順不同。見つけた順に各分類項目に割り振りました。

自然詠・社会詠といった言葉はよく使われますが、「短歌詠」なんて聞きませんね。
短歌そのものが歌の題材になっていることはあまり意識されていないのですが、短歌詠はけっこう多いんです。
歌人にとって、常時募集中の題詠みたいなもの、といっても過言ではないようです。

短歌詠の分類(目次)

「短歌詠」はざっくり次のように分類できます。

1 歌人たる自分や自分の歌について詠む

  ②〝作歌ライフ〟 このページです。

    作歌生活の出来事、喜怒哀楽の報告 

2 歌人について詠む

   歌人名が入っていない〝歌人詠〟

 「歌人」は「うたびと」とも読み、少し「詩的存在」というイメージが強まります。

①〝たんかポエジー〟

  「短歌」という詩型そのものに詩情を見出す新感覚短歌ポエジー メタ短歌も

   〝歌論詠〟〝持論詠〟もここに含めます。 

〝歌レポ〟 短歌作品の鑑賞詠

  短歌作品を対象として、その姿、雰囲気の描写、鑑賞や評。
  (
実在する短歌作品に対するものはほとんどなく、ほぼ架空の作品が対象。)

〝作歌ライフ詠 ピックアップその1

作歌生活あるある・喜怒哀楽

者自身の実生活のこととは限りません。
聞いた話か、空想か、短歌はいろいろなスタンスで詠まれます。

お知らせがあります五月十五日今日から君を妻と詠みます

藤島秀憲『ミステリー』2019

引用の歌を怪しみ書庫へ行く明治三十一年へ行く
ドーナツはどこから見てもドーナツと思う心を捨ててから 歌
冬の日の電車に揺れる未消化の牛蒡てんぷら蕎麦と第五句

藤島秀憲『オナカシロコ』

うたびとの名をまづ消してゆくことを眠りにちかき君はとめたり

※連作の一首であるため、この歌だけではわかりにくいのですが、生まれてくる子どもの名前を考えている場面です。

光森裕樹『山椒魚が飛んだ日』

だから おまへも 戦争を詠め と云ふ声に吾はあやふく頷きかけて

光森裕樹『鈴を産むひばり』2010

詩人去れば歌人座にあり歌人去れば俳人来り永き日暮れぬ

ルビ:来【きた】

正岡子規『竹乃里歌』 1904

歌を量産して今日もまた夕茜さすむらさきの病鉢巻

塚本邦雄『魔王』1993

教室で歌教へつつわがこころ或る日岬のごとくさびしき

高野公彦『水苑』2000

夜にいりし他人の空にいくつかの星の歌かきわれら眠らん

寺山修司『空には本』

「歌ひとつ覚えるたびに星ひとつ熟れて灯れるわが空をもつ」(寺山修司)という歌もある。

すごいんだ!魚焼き焼きお洗濯化粧しながら歌を詠んでる

久保芳美『金襴緞子』2011

ねむれない夜にわたしたちには短歌があるじゃないというように愛そう

岡野大嗣『たやすみなさい』2019

杯を逆に振るいて昏昏と硬式短歌言い募りおり

ルビ:逆【さか】

この夜は仕事果てての歌あそびほろと魂口より出でつ

依田仁美『正十七角形な長城のわたくし』2010

それ、短歌ですか?といちど訊かれたりスパゲティー屋のカウンター越しに

大松達知『ゆりかごのうた』2014

ケータイを爪弾くさまをその隣の男が歌に詠むとは知らず

佐藤通雅『強霜(こはじも)』2011

「歌詠みに砂漠は合わぬ」簡潔に書かれし文にひとひこだわる

三井修『砂の詩学』1992

家出むと思ひしことの一度あれど歌に詠まねば思はざるごと

米川千嘉子『雪岱が描いた夜』

歌の友が集ひて歌を語るときわが病床に花咲くごとし

有沢螢『シジフォスの日日』

相聞歌なべて身に沁むこの夕べ一首残らず丸をつけおり

俵万智『サラダ記念日』

企画書のてにをはに手を入れられて朧月夜はうたびととなる

田村元『北二十二条西七丁目』2012

まごころを信じてこころを詠みにけり一人が一人へ歌贈りけり

佐佐木幸綱『テオが来た日』

若い人に短歌の魅力を伝えたい しめきり前夜に書く短歌評
俺が歌集二冊出しても「よし次は芥川賞だ」と言った先生

千葉聡『グラウンドを駆けるモーツァルト』2021

夫あらばかく詠はむと思ふ歌しばし惜しみてやがて忘れき

ルビ:夫【つま】 詠【うた】

富小路禎子『未明のしらべ』

はちやめちやに離別の傷を負ひながら花のあはさに歌人われは

岡井隆『E/T』2001

うたはざる歌びと我は南國の怪しき花々培ひてけり

ルビ:怪【け】 培【つちか】

須永朝彦 ブログ「明石町便り」2012年7月

現実を詠めと言はれて「老いを詠むな」まことに難し老いのうたびと

川合千鶴子「短歌」2011 年4月

見た者でなければ詠めない歌もある例えばあの日の絶望の雪

佐藤涼子『Midnight Sun』

体育系に詩歌は無理と言われてはジャージで短歌講座に臨む

小野田光『蝶は地下鉄をぬけて』

歌なんて滅多に詠んでをりませんで砂漠に貝が落ちてゐるくらゐのもんで

碧海「ゼロの花束」(ネットプリント 2000年生まれ合同)

短歌とのなれそめを聞きさしぐみぬ前傾にこころ語れるひとの

※「ガジュマルの息 」という一連より。どなたのことなのかは書いてありませんが、隣は「花束を受けとるひとと渡すひと水脈うつくしくひな壇に会ふ 」という歌

生活即短歌といふあまき言葉吾は二三分考へて止む

木暮政次『花』

詠草歌すべて出揃い明日の朝野に放つ馬のごとくありけり

橋本恵美『のらねこ地図』

死後硬直をいかなるかたちにととのへむわがつくる定型の歌短きに

齋藤史『風に燃す 』

わが歌の活字となりし一万首明治に始まり七十年を経ぬ

松村英一(出典調査中)

さびしさはわが詠まざれど空壜の口が鳴らせる風の音きく

篠弘(出典調査中)

〝作歌ライフ詠〟 ピックアップその2

歌ができる瞬間など

絶唱にちかき一首を書きとめつ机上突然枯野のにほひ

塚本邦雄『黄金律』

みちのくに霰ふれるかわが身よりゆゆしき歌ごころ湧きいでつ

塚本邦雄『詩歌變』1986

茴香畠に春の夕霜曰く言ひがたき歌境にわれさしかかる

塚本邦雄『魔王』

※塚本邦雄の短歌詠は〝うたびと詠〟の章に特にたくさん集めてあります。

ワープロに風邪と出でたる邪を消して春の一首の歌ならんとす

和田周三『春雷』1993

詩の揚力を風に吹かれて思うかな脳にうごめく歌の断片

幽玄というべき歌器に有限のわたくし一基据えるしばらく

依田仁美『正十七角形な長城のわたくし』2010

標的にほとほと逸る歌ごころ予の振り打ちは流鏑馬である

※「振り打ち」は空手のワザ

依田仁美『異端陣』2005『乱髪~Rum-Parts』1991

夢の中に得たる一首を書きとめぬ意味不明瞭なれどおもしろ

清水房雄「短歌研究」H23・1

何もかも失ひはてぬと思ふ日に歌ごころわきぬ道を行きつつ

稲森宗太郎『水枕』1930

ココロが諸肌脱いでバウンドし今だ!詠え!と騒いでおるよ

久保芳美『金襴緞子』

〝作歌ライフ詠〟 ピックアップその

歌人とその家族

歌人の家族・家庭に係わる〝作歌ライフ詠〟


生き生きと息子は短歌詠んでおりたとえおかんが俵万智でも

俵万智『未来のサイズ』

「刃を研がぬ奴に限つて歌なんか詠むのね?」沼津の姉は雪崩れ来

斎藤寛『アルゴン』2015

祖父の死後発見されし短歌にて月並みにわれ孫やっており

相原かろ『浜竹』

子がこゑに読むをし聞けばかな多きわが恋歌の下書きなりき

真中朋久『エウラキロン』

〈ゆりかごのうた〉をうたへばよく眠る白秋系の歌人のむすめ

大松達知『ゆりかごのうた』

寝太郎ほど寝てばかりゐるこの息子うす刃のごとき歌一首書く

河野裕子『紅』1991

非情なる息子にわれは成り果てて母の歌詠む一寸法師

佐々木六戈「草藏」第95


■家族を追悼する歌などを詠む自分を詠む

 追悼歌などを詠むのは歌人だから当然として、それを詠む自分を詠むというのはすごく歌人的な発想ではないでしょうか。

死後硬直をいかなるかたちにととのへむわがつくる定型の歌短きに

齋藤史(出典調査中)

家族にしか詠みてはならぬ挽歌あらむつつしみ思ふ遺影の前に

栗木京子『水仙の章』2013

昨日までそこに座つてゐた人の挽歌を詠んでゐるのか、われは

田村元『北二十二条西七丁目』

父となりたる友へ他界のわが父へ歌う、四月はしろがねの午後

佐佐木幸綱『夏の鏡』

〝作歌ライフ詠〟 ピックアップその

謙遜・自嘲……

歌人であること誇るような歌がある一方で、なんだかその裏返し的みたいな、謙遜・自嘲を詠む歌もけっこうありす。

(個人的には苦手。)


冷凍茘枝に舌しびるるを何がかなしくて職業欄の「歌人」

ルビ:茘枝【れいし】 歌人うたびと】

塚本邦雄『獻身』

歌なすはこころの疫病遊星にきぞ群青の水涸れにけり

ルビ:疫病【えやみ】

塚本邦雄『されど遊星』

わが身こそ世に降る長雨花結びおとめさびせる歌への依存

依田仁美『悪戯翼』

無原則を法典とする人生のたとえば短歌見よこの不様

依田仁美『骨一式』

半世紀連れ歌連れ舞ひとり舞無期懲役に歌を詠むかな

依田仁美『依田仁美の本』2012(書き下ろし「緑の歌」)

歌作るを意気地なきことと吾も思ふ論じ高ぶる阿房どもの前に

土屋文明『山下水』

山国に退きしより〈地方歌人〉と見下されたる年月ありき

斎藤史『風翩翻』2000

うすければ原稿用紙の一駒ごとに書く字にとまどうわがつたな歌

武川忠一 角川「短歌」H24・1自選作品

職業の欄に歌人と明記して犬にちんちんさせているなり

石田比呂志(出典調査中)

歌詠むと東京に出て四十年紙魚のごとくも経にけるものか

中川昭『百代』2004

我が心此一言に注ぎては十年悩めど歌に価無き

窪田空穂(出典調査中)

わが生に歌ありし罪、ぢやというて罪の雫は甘い、意外に

岡井隆『夢と同じもの』

わが病牀六尺の歌頭髪の脱毛始まれば笑ふほかなし

一ノ関忠人『帰路』

歌人てふ嫌なくくりだこんなにも君と俺とはちがふぢやないか

林和清『去年マリエンバードで』

私には短歌があるかも知れないと(午後を運命論にかたむく)
わたくしが短歌を詠みし十五年単なる空白の十五年
暑くても一首寒くても一首詠む暑さ寒さに著作権なし

松木秀『親切な郷愁』2013

 松木秀には自嘲的な〝作歌ライフ詠〟がよくあるようです。もう少しあげておきます。

これもまた振り込め詐欺の一種かと思いつつ短歌雑誌予約す

松木秀『RERA』

漂泊のうたびとは絶え漂白の俺は言葉であそぶしかない

松木秀『5メートルほどの果てしなさ』


この感じ。しっくり来る人もいるのでしょうが、私はあまりふさわしい読者ではないかもです。
個人的には、ういう屈折感どういう相槌を期待されているのかわかりづらくて。

これは自分自身のためのモノローグなのかもしれない。
でも、発表したら
人が読むかもしれないっていう未必の故意がある……。

歌人ライフという内輪ドキュメンタリー

短歌ではしばしば自分を実況します。つまり短歌には自分で作る自分ドキュメンタリー〟みたいな領域があります
「自分を実況して歌を詠みたい作者」(供給)と「それを読みたいと思う読者」(需要)が、つり合うように存在しているようです。


ここまでとりあげてきた〝わがうた詠〟〝作歌ライフ詠〟、その〝自分ドキュメンタリー〟のなかでも、読者との関係が特殊で

〝わがうた詠〟〝作歌ライフ詠〟が読者として想定しているのは、どんな人なのか

短歌の多くは短歌の結社誌・同人誌に発表されますから、読者の大半は歌人です。同じ歌人なら共感を得られる、いうことが前提になっていると思います

〝わがうた詠〟〝作歌ライフ詠〟は仲間意識が前提が前提で成立する内輪ドキュメンタリージャンルであり「わたしの健康法」みたい当たり障りな雑談掲示板ふうに歌人が交流できる題材、という面があると思います。


それが悪いというのではありません。

そういうのもあっていい。内輪ドキュメンタリーも良い。歌人の雑談掲示板という交流的なノリもちっとも悪くない

そして、短歌というものの裾野の広さを考えれば、別の裾野には違うのもあるだろう、短歌詠にはもっといろんなものがあるだろう、という期待がふくらみます。

たとえば、歌人どうしの交流があるんなら、人が短歌と交流するとか、短歌が短歌と交流するとか、そういうような領域もあるはずだ、とか。

この章では〝作歌ライフ詠〟を集めてきました。