この星に投身をする少女のように海底へ降りてゆくレジ袋
2020年「かばん」題詠「塵も積もれば」に出詠して最高点獲得
この星に投身をする少女のように海底へ降りてゆくレジ袋
2020年「かばん」題詠「塵も積もれば」に出詠して最高点獲得
短歌の鑑賞は、短歌を作るのと同等の文学行為だと思います。
ここには、さまざまな機会に書いた短歌鑑賞を集めてあります。
必ずしもその歌人の代表作であるわけでなく、
評言の長さや口調も一貫しません。
内容はアップする際に手直ししていますので、
評論等の掲載時と異なります。
掲載順序等は多少考えてはいるものの、
全体としては寄せ集めです。
なお、このページは随時更新しています。
新規の記事だけでなく、
過去の記載に追記や修正を加えることもあります。
★歌に添えた絵は、高柳の勝手な解釈によるものです。
このページの歌一覧 (ジャンプしません)
Ⅰつまみぐい
◯青い海まっ青な空どこにも所属していないスタッフジャンパー
『スーパーアメフラシ』
◯この星に投身をする少女のように海底へ降りてゆくレジ袋
『世界同時かなしい日に』
Ⅱスーパーアメフラシ
◯白鳥さん悲しいほどに麗子です海のあおさは削除しました
◯この子がおまえの子だと先生に言われ教室の端に立つ参観日
人間はちっぽけなものだと五合目で言うな父さん富士山顔で
張りぼてのような五月の空に流体力学みたいな父さんの鯉
大人用オムツ履かされ父は鯵のひらきのように自己を投げだす
南天をついばむ鳥を追うような残尿感で父は逝きたり
父さんの電動式歯ブラシがわらってとまる洗濯機の裏
パーマネント・プレスされた父さんの背広を窓にぶら下げてみる
ないよりはだいぶいい虫コナーズ ぶらさげているヒロシマの鐘
◯目蒲線沿線にスーパーアメフラシあらわれ青でぬりつぶす
とつぜんのスーパーアメフラシ父さんの見る海にボクは棲めない
いっこうに片付かないごみ屋敷のようなこころにふりつづく雨
どの場所からでも流されてしまう生活は下りの速い流水算
夏の海のたうつごとく天皇が食べたむらさき色のアメフラシ
◯とつぜんのスーパーアメフラシ父さんの見る海にボクは棲めない
◯社会には食うためだけの情熱や努力の後の盛り塩がある
◯大人用オムツ履かされ父は鯵のひらきのように自己を投げだす
◯撒き散らされたもののため捨てられてキャベツ畑で体をひらく
とうめいな無主物たちは賜りものでわずかに滲む水母のように
びかびかの星にもなれぬ水煙をあげて来たりし象は倒れき (あ)
◯かたわらに折り畳み式一生があり展がるたびに水がこぼれる
キッチンに紅ずわい蟹バラされて半島のように身をひろげたり
正義と書かれたパラシュートが葛湯みたいに開く北スタジアム
なれている子供みたいに柵のあるベッドのなかでパジャマをたたむ
暗闇に折りたたまれていた鶴をほどくと鉛 三月の空
◯わたしはロボットではありません。わたしには番号があります
◯パーマネント・プレスされた父さんの背広を窓にぶら下げてみる
つぎつぎと夜のプールの水面を飛びだしてくる椅子や挫折が
順番に十階のフェンスを越えて子供が落ちる 飛べないのだ
ボツボツの黄色い線のうえを歩きつづけて世界の外側にでて行く
特快はもうありません酸素ボンベわすれた人は帰ってください
たんぽぽのぽぽひとつひとつに分散しぽぽそれぞれが春の軍隊
◯お魚をきれいに食べるあなたの口にボクの恥骨はみだしている
◯安全な家庭環境とその周辺にふたりでそだてているアコヤ貝
◯あたらしい少女はふるい雲には乗らない海岸線のある無人駅
◯言いわけの蟬蛻として五万年ぶんの愛情地下に埋める
◯ゴキブリの出てゆくまでを遠巻きにわが家の持てるすべての力
閉じられた鎖のようにくちびるを押しあてている窓のサッシに
パーマネント・プレスされた父さんの背広を窓にぶら下げてみる
ないよりはだいぶいい虫コナーズ ぶらさげているヒロシマの鐘 (世)
Ⅲ『世界同時かなしい日に』
これから追加していきます
◯ないよりはだいぶいい虫コナーズ ぶらさげているヒロシマの鐘
パーマネント・プレスされた父さんの背広を窓にぶら下げてみる
◯燃えながらサイレンを鳴らす緊急車両 お母さんあれが勝鬨橋
◯どの位置からでもパトラッシュの具合がみえます弱っているのが
◯「どうか私の顔を食べて」アンパンマンからみんなで逃げた授業中
◯赤く光ってて〈なんだ〉どこにもつながっていない非常ドアですね
◯国連が届けてくれたウーバーイーツ戦場でも崩れない豆腐
第一歌集『あふりかへ』の鑑賞は準備中です
書肆侃侃房 四六判、並製、208ページ
定価:本体2,000円+税
ISBN978-4-86385-647-9 C0092
編者:飯島章友・沢茱萸・高柳蕗子・土井礼一郎
装幀:山田和寛+竹尾天輝子(nipponia)
栞:坪内稔典 伊舎堂仁
●帯の歌より
この星に投身をする少女のように海底へ降りてゆくレジ袋
(題詠: 塵も積もれば)
水銀の海に溺れてユニクロの試着室から出られぬアリス
(題詠:鏡)
これは食べ物ではありません口から溢れだす倫理です
ないよりはだいぶいい虫コナーズ ぶらさげているヒロシマの鐘
ふらふらと母飛んできて蛍光す説明ばかりの映画みたいに
世界同時かなしい日に雨傘が舗道の上をころがる制度のような驟雨
●山下一路(1950~2023年) 略歴
中央大学在学中全共闘に参加。
闘争でなだれ込んだ教室で、黒板に大書された
福島泰樹の短歌を目にしたのが短歌との出会い。
そこころに氷原短歌会に参加。
1976『あふりかへ』を出版
だがその後企業戦士となって短歌は中断。
50代なかば、心身を患って退職し短歌を再開。
2006年「かばん」入会
そのころスワンの会や岡井隆の講座にも参加。
2017『スーパーアメフラシ』
2023年4月、脳梗塞により永眠
2024『世界同時かなしい日に』(有志により刊行)
青い海まっ青な空どこにも所属していないスタッフジャンパー
『スーパーアメフラシ』
山下一路さんは2023年4月9日に逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
血の涙にじむ辛辣な風刺。
--山下さんの歌は、普通の社会詠を超えて、より根源的なものに根ざした使命感を感じさせます。
短歌との出会いは学園闘争のさなかだったそうです。全共闘の戦士としてなだれ込んだ大学の新聞部の部屋で、壁に書かれていた短歌※を目にして詩心に目覚め、その後の数年で第一歌集『あふりかへ』を刊行。山下さんは当時を回想して
「あらゆる制度に加担する自分を否定することでしか世界に繋がれないと思った」
と述べています。(「かばん」2017年12月山下一路歌集『スーパーアメフラシ』特集)
山下さんの歌から彼の世界観のようなものを想像して、
「人は『社会』という逃れられないものを通して間接的に『世界』に所属していて、その『社会』の歪みが人間自らを傷つけている。」
という構造で「世界」を捉えているように、私には思えます。
それを考え合わせると、上記の歌の「どこにも所属していないスタッフ」とは、作歌という行為を「社会」に所属せず「世界」そのものに直接所属するスタッフの仕事、と捉えたものではないかと思えてきます。
※パルチザンひとりのおれをゆかしめよ此処よりながき冬到来す
愛と死のアンビヴァレンツ落下する花 恥じらいのヘルメット脱ぐ
福島泰樹『エチカ・一九六九年以降』構造社(1972)
山下さんそっくりの埴輪。
東京博物館にあります。
この星に投身をする少女のように
海底へ降りてゆくレジ袋
(題詠: 塵も積もれば山となる)
『世界同時かなしい日に』
私のデータベースの短歌中、もっとも美しく悲しく詠まれたレジ袋である。
「かばん」の題詠イベント(題「塵も積もれば」)に出詠して最高点をとった歌である。(イベントでは54首出詠された中で1位の得票だった。)
哀切で美しいが、「塵も積もれば」という題を考えると、このレジ袋は海に蓄積する汚染物質であると思い当たり、それを「投身をする少女」に見立ることの意味が、じわじわじわじわと解凍されてくる。
「投身をする少女」という擬人化は、哀れなレジ袋の無念を感じさせる。が、その哀れは粗末に捨てられたためだけだろうか。
環境汚染の言説におけるレジ袋は、いつも「悪者」扱いだ。が、もとは石油という地球のまっとうな成分であり、人間によって、土にも海にも還れぬ汚染物質に変えられたのだ。「投身」という言葉選びには、そのことへの幽かなあてつけが含まれないだろうか。
しかし、「投身」の哀れさ無念さは、人間にも跳ね返って来るかもしれない。環境破壊は自滅行為だからだ。そう知っていてもやめられぬ人類の矛盾。そのチリツモ。一人ひとりは望むと望まざるとにかかわらず、この自滅行為に加わる。投身のレジ袋たちは、私たちの細分化された自殺の図ではないのか……、という深読みまでいつのまにかしてしまった。
山下一路は「社会派」とヒトコトで片付けられない。いわゆる社会派的なステレオタイプではない。社会悪を糾弾したり、その犠牲を悲しんだりするだけではない。その罪を細分化して人々が分け持つ仕組み。それがこの社会の根本にあって、免れ得ないものとして悲しんでいる。
故人である作者の意図はもう問えないが、山下一路の他の歌にも、こうした手の込んだ悲しい諷喩がたくさんある。
「福耳短歌店」で販売
★『スーパーアメフラシ』(第2歌集)
山下一路 第2歌集 青磁社刊(2017/5/17) 1200円
一見明るいタッチ。でも実は恐ろしい諷喩がいっぱい。
この平和の底に潜むディストピアをテーマに、ときに昔の落首のような機知を働かせつつ、そこに詩心がたらす血涙が、歌に血を通わせている。
※山下さんより文フリ等で販売するため預かりしたもの。古書程度の値段にしてあります。
☆豆歌集『よりぬきスーパーアメフラシ』残部わずか
山下さんの歌に惚れ込んで、『スーパーアメフラシ』の豆歌集を、生前に作らせていただきました。東京文フリ、および、ネット通販サイト「福耳短歌店」にて販売しています。残部はわずかです。
★トレーディングカードサイズ ★よりぬき50首 ★350円
山下一路 『スーパーアメフラシ』(2017 青磁社)
白鳥さん悲しいほどに麗子です海のあおさは削除しました
★白鳥さんはなぜ麗子?★
●牧水の歌「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」が下敷きであることは誰でもわかる。
●で、「悲しいほどに麗子です」とは何だろう?
ここからちょっと高柳流。
むむ、麗子といえばもしかして、岸田劉生の麗子像のことではないだろうか。………と思い当たって吹き出した。
まじか、色かよ! 色が真反対※ってか?
※牧水の歌は青に白。麗子像は黒に赤だ。麗子は真っ暗な背景に黒髪で、赤い着物に赤っぽいストール。背景が黒い絵は、レンブラントなどいくらでもあるが、麗子像は黒と赤で、牧水の歌と真反対の配色である。
●白鳥も麗子も弱いもの、守ってあげたい感じのものだ、という共通点もある。その共通点を軸にして、世界の色が暗転してしまったかのようだ。その暗転を見る悲しみのまなざしが、すごいユーモアとセットで提示されている。
●「海のあおさは削除しました」という言い方にもひとひねりある。これは自主規制のニュアンスかもしれない。
このセリフの主体は、何かを忖度し、すすんで「あおさ」を削除してしまったか、とも思える微妙な表現だ。
●なお、空の青のイメージ領域の一角に、「戦後の青空」というのがある。
私は戦後生まれ。親の世代から聞いた戦後の「青空」は、「もう空襲を恐れなくてよくなった」という実感をもたらした。戦火、黒煙、多くの死をすべて飲み込んで、何事も無かったかのように澄みわたる青空の青が、「悲しいほどに目にしみた」そうだ。
●ただし! もっとまっとうな連想脈として、
『白鳥麗子でございます!』(鈴木由美子の漫画)がある。
白鳥麗子は高慢なキャラだから、これも牧水のけなげな白鳥のイメージが悲しいほどに変貌しちゃってる、海の青さどころじゃない、というふうに符合しそうだ。
でも、個人的には色が真反対という解釈のほうが好き。
★★追記
実は、作者にそれとなく聞いてみたことがある。
ふつーに『白鳥麗子でございます!』を念頭に置いて詠んだのだそうだ。
でも「岸田劉生の麗子像」という連想は気に入ったようだった。
ワタシ的には色が真反対という解釈のほうが、詩歌的には楽しめると思うんだよね。
2018・4・19
カンケーないけど、麗子像、
……レイコゾウって冷蔵庫に似てるかも。
山下一路 『スーパーアメフラシ』
この子がおまえの子だと先生に言われ教室の端に立つ参観日
★このきまりわるさは何だろう?★
●「まさか、あれが我が子か」と参観日に恥じ入る親を描いている歌かな。
いや、そうなのだろうか?
それにしては少し不自然だ。これがもし「こんな子に育てた覚えはない」ならドラマで聞きそうだし、授業参観で我が子のふるまいに恥をかくことならばあり得るし、先生が内心「あんたが親か。ずっと親の顔が見たいと思っていた」と思っていることもあり得るだろうが、親に「この子がおまえの子」と言いはしないだろう。
●つまり、この歌にはかすかな不自然が仕掛けてあって、深読みを誘う。
これは諷喩ではないだろうか。この歌の「子」は、
親の世代の〝負の遺産〟のことかも、
という推理が生じ、みるみる確信が強まる。
●例えば原発。日本最初の原子力発電から約五〇年、なんと五四基も出来ていた。
昨今の温暖化を招いたCO2の排出も然り。危険性を知りつつ個人に止める力はなくて恩恵を受けてきた。
その責任のうんと小さな一端は自分にもある、というきまり悪さ。個々の小さな責任の集積は、未来で待ち受ける何かに育っていくのだろう。
●これがうちの子? こんな子に育てた覚えはない。
ふつうに育てたはずなのに。どこがどう悪かったのか、何をどうしたら良かったのか。この事態は避け得たのか。わからないが、「この事態の責任の一端はおまえにもある」と言われれば否定できない。
と、これが「この子がおまえの子だと先生に言われ教室の端に立つ参観日」という歌から私が思い浮かべた場面である。
2025・3・31更新
ついでに
山下の歌に出てくる「父」は、個人の父にとどまらず、「父の世代」をも表しています。
「父」は、その価値観等はすでに破綻しているが気づかずにまだ威張っているような感じです。
たとえばこういう歌。
人間はちっぽけなものだと五合目で言うな父さん富士山顔で
張りぼてのような五月の空に流体力学みたいな父さんの鯉
山下は(「ボク」という語を使うときは特に)、「父」と相容れないものとして自分を位置づけて詠む傾向があります。
そんな父も、ついに
大人用オムツ履かされ父は鯵のひらきのように自己を投げだす
という状態になってしまい、そしてこうなります。
南天をついばむ鳥を追うような残尿感で父は逝きたり
父さんの電動式歯ブラシがわらってとまる洗濯機の裏
たとえ負の遺産でも、子の世代はそれに頼るしかない、という面もあります。
パーマネント・プレスされた父さんの背広を窓にぶら下げてみる
一人暮らしの女性が防犯用に男物の服をアパートの窓に吊るす場面みたいです。それは父が改まったときに着た一張羅の背広でしょうか。父の世代が遺してくれた「パーマネント・プレス」(型崩れしない加工)の大義みたいなものを掲げて身を守るしかない、そんな状況の諷喩の歌のようです。
なお、「父さん」という呼び方は、「父」という語の神聖さを消臭し、自分と同じ生身の人間として受け入れてもいます。山下は人間の弱さを前提にしており、批判にも自嘲にもいたわりが含まれます。
そして、この「父さんの背広」の歌は、
ないよりはだいぶいい虫コナーズ ぶらさげているヒロシマの鐘
『世界同時かなしい日に』
へと、さらなる発展を遂げました。
山下一路『スーパーアメフラシ』2017
目蒲線沿線にスーパーアメフラシあらわれ青でぬりつぶす
【ご注意】
この絵は高柳が勝手に描いたもの
泣いていることも
アメフラ親子の情景も、
高柳の解釈でしかありません。
★ところでスーパーアメフラシって何なの?
雨雲怪獣?
人間の矛盾が怪獣化したもの?
その雨は涙なの?
とつぜんのスーパーアメフラシ父さんの見る海にボクは棲めない
目蒲線沿線にスーパーアメフラシあらわれ青でぬりつぶす
『スーパーアメフラシ』2017
スーパーアメフラシは歌集の表題になっていますが、どういう位置づけのものなのか、実はあやふやなのですが、私は次のように解釈しています。
雨雲怪獣みたいな感じかな。
ぼよんと重く上空に兆し、ものすごい雨を降らすやつ。
山下さんの「怪獣」のイメージは円谷プロの『ウルトラQ』で培ったと推定されます。(私は年が近いからそう思う。)
円谷プロの怪獣のなかには「お金に執着する人間が変身したカネゴン」のようなものが存在しており、スーパーアメフラシも、そのように人間の矛盾が怪獣化したものではないか、と思えるのです。
「矛盾」ですから、必ずしも「悪」と言って切り捨てるわけにはいかない。
山下さんが描く現在の日常は、表面は華やかで平和でも、底にはとんでもないディストピアが潜んでいる、という恐ろしいものであり、しかしその原因が、直接的な「悪」だけでなく、人間が備えている「矛盾」にも根ざしているという認識があると思われます。
だから、スーパーアメフラシの雨は涙である。
そう思って以来、なにげないこんな歌も意味を増してみえるようになりました。
いっこうに片付かないごみ屋敷のようなこころにふりつづく雨
どの場所からでも流されてしまう生活は下りの速い流水算
なお、この歌集にはスーパーじゃないけれどアメフラシが出てくる歌があと1首あります。
夏の海のたうつごとく天皇が食べたむらさき色のアメフラシ
夏といえば昭和20年(1945)8月でしょう。
山下一路『スーパーアメフラシ』2017
とつぜんのスーパーアメフラシ父さんの見る海にボクは棲めない
★異形の海?★
●この歌は、解釈が分かれると思うが、私は、父と自分が相容れないものになったと意識した瞬間、自分が(怪獣に変身したみたいに)スーパーアメフラシになっちゃった、という決裂を詠んでいる、と思っている。
●自分は得体の知れないアメフラシになり、もはや父の海には棲めなくなってしまった、という悲しみに加えて、たかがアメフラシでも何かが「スーパー」バージョンに強化された自分は、「父さん」に理解されぬまま自力で自分の存在価値を見つけねばならない、という悲壮な覚悟をしようとしている。
★参考:さっきも書いたが、同じ歌集にあるアメフラシの歌
目蒲線沿線にスーパーアメフラシあらわれ青でぬりつぶす
夏の海のたうつごとく天皇が食べたむらさき色のアメフラシ
2018・4・19
山下一路『スーパーアメフラシ』2017
社会には食うためだけの情熱や努力の後の盛り塩がある
★独特の風刺のセンス こういう言い回しに注目!★
●山下の歌にはこういうふうに、言い回しそのものに含みのあることが少なくない。上記は構造がおもしろい、皮肉な歌だ。
この歌には「Aがある一方Bがある」と、二つのケースが例示されている。
この歌の二例の関係について、実は最初に読んでから数年間、対極の関係(利己的な情熱/理想などのために尽力したのに忌まれて盛塩で清められるような努力)だと思い、ここにもそのように記しておいた。ところが最近読み直して、異なる解釈に傾いた。以下併記しておく。
(自分でもこういう変化があるのだから、他の人が自分と全く異なる解釈をしていても驚かないようにしなければ。)
●まず前半。Aについて。
はじめは「食うためだけ」というのは、理想などとは無縁の利己的な情熱だと解釈していた。が、あとから、自分が死なないため生きるためのベーシックな情熱のことだと思えてきた。「情熱」というと「何か特別な理由、たとえば理想のために抱く情熱」のような文脈で使われるが、そういう立派な情熱でなく、もっと当たり前でシンプルな情熱のことではないかと。
●そして後半B。
まずは私の当初の解釈。
この「努力」は、本来ならねぎらわれるべき崇高な努力かもしれない。そういう努力に対して盛り塩(厄除け、魔除け、お清め)で応える、ということが、世間にはある、という意味として読んだ。
(この解釈をしたときは、たとえば海外の紛争地域などで亡くなったり捉えられたりしたジャーナリストに対して、国内には冷たく突き放す意見があることを想起していた。)
後から出てきた別の解釈。
この「努力」は、さっきの「生きるためのベーシックな情熱」とセットの「生きるためのあたりまえの努力」だとも考えられる。人に迷惑をかけずにまじめにつましく生きる努力だけをして孤独に一生を終える例がある。そんな孤独死のあったアパートは「事故物件」と呼ばれ、盛り塩で清められる。
●末尾の「がある」の含み
「がある」も意味シン。他のものはあるのかどうか、を考えさせる。
他のさまざまな情熱はどうなのか。生じる余地がこの世の中にあるのだろうか。努力のあとの盛り塩でなく、努力そのものを認めたり支援したり、しているだろうか。
●全体
当初の解釈=「自分のためでなく世のため理想のために努力したのに、それが盛り塩で清められてしまうことがある」という社会批判。
あとからの解釈=生きるためというベーシックな情熱と努力は誰もほめてくれず、ただ生きる努力をして死にました、という最低限のことに対して、盛り塩で清める。
この社会には、社会保障による生活支援はあるけれども、「生きる」ということへのイメージが貧困であるせいなのか、それとも人間の能力としての他者への思いやりの及ぶ範囲が狭いからなのか、諸々の結果として、この社会には変な冷たさがある、と思えてきた。
読者はどのように判断するのだろう?
2023・5・2
山下一路『スーパーアメフラシ』2017
大人用オムツ履かされ父は鯵のひらきのように自己を投げだす
★敗北の脱力・降参の姿としての「ひらく」 その1★
●山下の『スーパーアメフラシ』には「ひらく」という語を含む歌が多い。
「開く」はごく普通に用いる語で、口を開くとか花が開くとか、短歌にもごく自然に使われ、一般的にはちっとも悪いイメージではない。ところが、山下の歌では、屈辱的姿で降参すること、敗北の脱力を表すことが多い。
●「ひらく」という語が屈辱や敗北を表す例は、一般用例でも短歌でも、とてもレアである。やっとこの歌を見つけた。
膝ひらいて搬ばれながらどのような恥かしくなき倒されかたが
平井弘
●さて、掲出のオムツの歌。〝老いのみじめなありさま〟を詠んでいると言ってしまえば、まあその通りではある。
この歌を高齢者の多い短歌教室で取り上げたら、受講者は一様に嫌な顔をした。現在体験中の人(親を介護している人、介護されている親)にとっては、なまなましすぎて、思い浮かべたくない事実であるようだ。また、誰だって、将来こういうふうになる可能性はあるのだが、ならずに済む可能性がある限り考えたくないほどに、受け入れたくない現実なのだ。
●だが、この「鯵のひらき」の歌は、〝老いのみじめ〟をいたずらに強調して見せつけるような悪趣味な歌ではなかろう。
いつか衰えて「鯵のひらき」のような屈辱的な敗北の姿をとることは、命を得た瞬間から全員に予定されている。(どんな命もいつか必ず力尽きる。運のいい人は、それがほんの一瞬で終り、「鯵のひらきのよう」な姿をさらさずに済む。)
生物は、生きている間は当然のごとく、生きる努力をするようにできている。でも、その努力は必ず頓挫していつか力尽きる。そういう根源的な理不尽が命の仕様なのだ。
この仕様は、個としての一貫した意識をもち、それを交錯させて生きる人間という種にまで例外なく適用されている。
●こんな理不尽を一人ひとりが負わされねばならないという、すごくイヤーな摂理。それに対して、まじめに抵抗しまじめに敗北しようとすることが、山下の歌の重要なテーマの一つであると思う。
●作者山下がどこまで意図したか知らないが、山下の歌はなかなか頑丈で、この歌も少々強引な深読みにも耐えられる。
●それに! これこそが重要だが、
山下の歌の「父」という語は、自分の上の世代、または彼らが遺した現状、という意味で用いられる場合が多い。
この歌の「父」も、「いままで誇りに思ってきた親父のようなこの国」というふうに捉えることもできそうだ。
そうなると、この情けない父の姿は、ガラリと意味を変えてしまう。
2018・4・19
山下一路『スーパーアメフラシ』2017
撒き散らされたもののため捨てられてキャベツ畑で体をひらく
★敗北の脱力・降参の姿としての「ひらく」 その2★
●この歌も、屈辱的敗北の状態としての「開く」の用例。
●「撒き散らされたもののため捨てられて」といえば、福島原発事故のあと、放射性物質が撒き散らされ、汚染して、あるいは汚染が疑われて、いや汚染してないとわかっても結局売れなくて、農作物たちは畑に打ち捨てられた。
他の解釈もありえるだろうが、私はこの解釈でいく。
●「キャベツ畑で体をひらく」は、放置されたキャベツの葉が開くことを言っているのだろうが、「捨てられて・・・体をひらく」という言い回しは、不幸な女性っぽい(昔の歌謡曲の女性のような、例えば「夢は夜ひらく」みたいな)ニュアンスを加味している。 年配者なら「こんな女に誰がした」(戦争のため娼婦になった女の心情を歌う歌謡曲「星の流れに」にあるフレーズ。1947年)が思い浮かぶかもしれない。 2018・4・19
2022年12月追記
「撒き散らされたもの」といえば、上記の歌のすぐそばに、
とうめいな無主物たちは賜りものでわずかに滲む水母のように
という歌もある。
この歌は皮肉が少し不鮮明な気がするが、時事的な言葉を即座にキャッチするのもこの作者の特徴。
「無主物」とは「だれの所有にも属さない物」という意味でもとからある言葉だが、福島原発事故のニュースではじめて耳にした。東電の弁護団が「放射性物質は無主物だから賠償責任はない」という文脈で使ったのである。
お父さんのオナラの言い訳に使うならおもしろいが、空気中に撒き散らされ拡散する放射性物質に使うかな。軽すぎでしょう。
★若書きの頃から敗北の姿へのこだわりが? ★
びかびかの星にもなれぬ水煙をあげて来たりし象は倒れき
山下一路『あふりかへ』1976
第一歌集『あふりかへ』
を鑑賞する章は
現在準備中です。
●この歌は、山下が若い頃に出した歌集『あふりかへ』にある。
水煙をあげて来て倒れる象。病死などではない。これは例えば、家族を守ろうとした父象がハンターに向かって突進したところを頭を撃ち抜かれて倒れる、みたいな凄絶な場面であるのだろう。
なぜなら、この象は「びかびかの星にもなれぬ」という無念を抱いて倒れるからだ。
●英雄的な死なら心に星の勲章をつけて逝けるし、死後も遺族らから星として見上げてもらえそうだが、それがピカピカじゃないどころか「びかびかの星」にさえなれない。――というのはつまり、 無駄死にでしかないのだ。
この無念の表現が、「この象は、家族を守るなどの使命を果たせずに死ぬのではないか」と、そんなことはちっとも書いてないにもかかわらず推理させるのだ。 2018・4・19
山下一路『スーパーアメフラシ』2017
かたわらに折り畳み式一生があり展がるたびに水がこぼれる
●老人のしわだらけの身体は、まるで長かった一生が折り畳まれているようだ。昔話をするたびに涙ぐむ老人を描写した歌。私はこのように解釈した。
●なお、この歌には「展がる」がある。
山下の場合は「ひろがる」「ひろげる」も、「弱点を見せる」という意味を帯びやすいようだ。 いくつか拾ってみると、多少ニュアンスが異なるものもある。山下の「ひらく」はおもしろい。
●ピックアップ「ひらく・ひろげる」
キッチンに紅ずわい蟹バラされて半島のように身をひろげたり
正義と書かれたパラシュートが葛湯みたいに開く北スタジアム
●ピックアップついでに「畳む」も
なれている子供みたいに柵のあるベッドのなかでパジャマをたたむ
暗闇に折りたたまれていた鶴をほどくと鉛 三月の空
※ルビ 鉛(なまり)
以上、山下一路『スーパーアメフラシ』より
2018・4・19
山下一路『スーパーアメフラシ』2017
わたしはロボットではありません。わたしには番号があります
○「番号があるから(個々が区別されるゆえに)君はロボットでないんだよ」と言い含められたロボットが、そのままにしゃべっているような感じ。山下特有の強い「うがち」を含んだ風刺歌だ。
おそらくマイナンバーカードが作られた当時の歌なのだろう。
普通の人は、「番号による識別はロボットのようだ」という程度の皮肉にとどまるが、山下はそこで収まらない。
一歩すすめて、番号で識別されるようになったあと、人々が「番号で識別できるから自分はロボットではない」と言いだす段階を詠んでみせている。
○ただ、私が注目した「うがち」要素は、マイナンバー批判ではない。この歌はマイナンバーの話題が廃れても、まだ別の意味を帯びて生き残る気がする。
「番号がある」という究極の差異を気にするのは、すごくロボットっぽい不安に基づくと思う。
マイナンバーカードを発行される前は、ナンバーをつけられることを嫌がった時代があった。それを過ぎた次の段階は、ナンバーによって違いを証明しなければ個を見失う時代だったりしないか。
そういう少し怖い近未来を思い浮かべそうになる。
◯何かの映画で、主人公のロボットが、自分と同じ顔同じ姿のロボットが大量生産されたことを知って傷つく場面があった。
むろんそのロボットにも識別番号はあったけれど、「識別番号」じゃないことで自分が独自な存在と思いたかったわけだ。視聴者はその悲しみに共感してロボットを憐れむ。
この山下の歌は、それより先を詠んでいる。
人間は、そもそもひとりひとりがすごい数の遺伝子の組み合わせの結果なのだから、独自性の喪失を恐れなくてもいいはずだが、独自性の喪失への恐れは、自覚している以上に強い。独自性をことさらに証明しようとするのは、個の絶対性が危うくなった兆候かもしれない。
もしかして、識別番号以外に自分がロボットでないと証明するすべのない世の中になるかもしれない。今そういう世の中のはじまりの地点かもしれない、ということを、ちらっと考えそうになった。
なお、私は通常、短歌の作者を気にかけない。そのかわり、独自性・個性による署名のような要素があってほしいと思う。作者という人間でなく、その個性の絶対性が歌を支えていてほしいのだ。
しかし、逆に、うんと普遍的な内容を大勢の人が、自分の現実の具体的な事象から書き起こしているようなケースでは、逆に独自性はいらないとも思う。
そういう歌では、作者名は署名(何かに賛同を示す意味合いの)として付されている情報であり、誰であるかは重要ではなく、誰かであれば十分なのだと思う。
山下一路『スーパーアメフラシ』2017
パーマネント・プレスされた父さんの背広を窓にぶら下げてみる
解釈はさまざまあろうが、私には、一人暮らしの女性が防犯用に男物の服を窓に吊るす様子が見える。
「父さんの背広」とは、父が対外的に改まったときの服装だろう。父の世代が遺した「パーマネント・プレス」(型崩れしない加工)をされて揺るがぬ大義みたいなものを掲げて身を守る私たちの現状、の諷喩になり得ると思う。
歌にはドラマ性が潜んでいて、父親の一張羅の背広を御守りに、頼れる人もなくつましくアパート暮らしをする女性、みたいな情景がひとりでに思い浮かんでくるが、これは山下特有の語りである。
山下は「父」を糾弾したり自世代を自嘲したりはしてはいない。「父さん」という呼び方は、「父」という語の神聖さを消臭し、自分と同じ生身の人間として受け入れている。この複雑なニュアンスこそが、山下の真骨頂なのだ。
そして、もうお気づきかもしれないが、この「父さんの背広」は、
ないよりはだいぶいい虫コナーズ ぶらさげているヒロシマの鐘
『世界同時かなしい日に』
へと、さらなる諷喩的発展を遂げたと思われる。
山下一路 『スーパーアメフラシ』2017 そのほかの歌
つぎつぎと夜のプールの水面を飛びだしてくる椅子や挫折が
●人々が眠る夜には、モノ(例えばおもちゃ)たちが活動する。夜のプールからは水面下に隠されていたものが表面化。挫折はそのままの意として、椅子はおそらく挫折の逆のもので、頼みにしている安泰の拠り所のようなものか。
順番に十階のフェンスを越えて子供が落ちる 飛べないのだ
●「誰がさせているのか、やめさせろ」というべきところ、「飛べないのだ」という妙に批評家っぽいコメント。こういう変な(同じ現実にいるはずなのに妙に冷たい)コメントがときどきテレビなどからこぼれてくる。その冷たさを風刺していると思う。
ボツボツの黄色い線のうえを歩きつづけて世界の外側にでて行く
●黄色い線(障害者を誘導する安全なはずのライン)をたどってたら、いつのまにか世界の外に誘導されちゃう?
特快はもうありません酸素ボンベわすれた人は帰ってください
●戦争の毒物攻撃か何かが近づき、避難列車はすでに発車してしまい、駅だったここは今や酸素ボンベを持って毒をしのげる人がたてこもる場所となったのだ。
装備のない奴はここで死なれちゃ迷惑だから去れ。しっしっし。
――乗るはずの列車がもう出た、と言われたときの突き放された衝撃と心細さ。
平和な日常でもときどき、こういうふうにいきなり「自己責任で生き延びろ」と言わんばかりの冷たい突き放しに出会いませんか?
たんぽぽのぽぽひとつひとつに分散しぽぽそれぞれが春の軍隊
●春にみなぎる生命力、そのパワーががたんぽぽの綿毛のひとつひとつにも宿る、ということを詠んでいると思う。
ただ「ぽぽ」は、春歌で聞いたことがある※ので、「春の軍隊」は深読みもできるかもしれない。
※「ぽぽする」という語をsexの意味で使う春歌を聞いたことがある。隠語で女性器を表す「ぼぼ」の、婉曲表現なのか、それとも東南ナジア系の訛なのか、語源はわからないのだが。
その連想で、慰安という任務で「従軍」する女性がいたことを想起した……。
お魚をきれいに食べるあなたの口にボクの恥骨はみだしている
●この歌、言葉通りにとれば、シュールでおもしろい歌だ
鑑賞はそれで十分だろう。
けれども、深読み体質の私には、〝ナショナリズムと国民の犠牲〟という風刺画が見える。少なくともそういうふうに解釈し得ると思う。
「魚をきれいに食べる」ということは、よく日本人の誇りみたいな文脈で語られないだろうか。国民はそんなことでおだてられながらいつのまにか骨までしゃぶり尽くされはしまいか。
ひところ「美しい国」を連発した政治家がいた。私も日本が好きだ。確かに日本には美しい景観があるし、国民性に美徳もある。けど、なんであんたがそれをふりかぶるかなあ。日本を賛美して、誰をおだてているのかなあ、と感じた。
昨今あれやこれやと日本を賛美するいろんなものがあることも連想の射程に入ってくる。
安全な家庭環境とその周辺にふたりでそだてているアコヤ貝
平和な日常、ささやかな幸せを営む権利。多くの人はそれを求める。私もだ。
でも、そうやって大切にして育てたものは、ある日、真珠を取り出すために切り裂かれてしまわないだろうか。
「真珠貝」でなく「アコヤ貝」とわざわざカタカナで書いたのは「吾子」とかけてあるからだろう。
戦争になれば大切に育てたこどもたちは戦場に送られ、むごたらしく命を奪われる。
(かつて日本の国民は国に命を捧げるべきものだった。国を賛美している問題ないが、ナショナリズムの針がへんに振り切れると、戦争にゆきつく。)
そういう連想をせずにいられない。
「アコヤ貝」という掛詞は、山下にしては露骨だと思って、再読してみたところ、やはり微妙な要素が隠されていた。
海辺で幸福な家庭を営む情景というのは幽かに万葉集っぽい(人麻呂の「石見相聞歌」など)ことだ。
このこと気づくなら、この願いは古代から続くものという幽かな含みも感じ取れるし、
ちょっと浮いていた「吾子・アコ」という文語の違和感を減じるし、
防人の歌などへの連想脈が開通する。
(私の世代は、上の世代から「戦争を知らない」とバカにされてきた。
一方、きょうびは下の世代の人から「平和ボケ」とバカにされているらしい。
でも、人のことをバカにしている場合ですか?)
あたらしい少女はふるい雲には乗らない海岸線のある無人駅
「海岸線のある無人駅」というのは、なんとなく究極の場所の光景のように思える。海は陸の行き止まりだし。
そのうえで、この歌の「海岸線」は、電車の「◯◯線」のイメージとも重なっているだろう。
この、海岸線の見える「無人駅」には、電車でなくて雲がくるのだ。
(そういえば、細長い列車のような形の雲もあるでしょ。)
そして、ホームにたつ「あたらしい少女」は、「ふるい雲」が来ても乗らず、自分にふさわしい雲を待っている。
そういう光景だと思われるが、いかが?
以下、個人的な深読みだが、この歌を見てふとこれは「終着駅と女性」といううらぶれたモチーフを刷新してもいないかなと思った。
歌謡曲などで培われた抒情的風景のなかでは、往々にして夢やぶれ愛を失くし人生に疲れた女性が描かれがち。そのため、いつのまにかそういううら悲しい抒情をベーシックなものとして刷り込まれていなかったか。
山下の歌のここはゆきどまりの終着駅でなく、到着した女性は、新しい少女になり、新しい雲にのって(筋斗雲かい)空へと出発する。そういう明るくて新しい抒情が提示されていると思えてならない。
それと、サイモン&ガーファンクルの歌の「明日にかける橋」に、〝銀色の少女(silver girl)〟が輝いて船出をする、というくだりがある。歌の中で突然出てきて「誰?」という感じ。(もしかすると特別な意味のあるコトバ、隠語みたいなものかもだが。)
でも、全体がカンネン的な内容のなか、この少女が濁流の中にぽつりと輝いてけなげに船出する絵になるから必要だと思う。
で、山下のこの歌を見るたびに、〝銀色の少女(silver girl)〟を思わずにいられない。
言いわけの蟬蛻として五万年ぶんの愛情地下に埋める
山下一路『スーパーアメフラシ』2017
※「蟬蛻」(せんぜい)は蝉の抜殻。世俗を抜け出るという意もある。
資源エネルギー庁HPによれば、高レベル放射性廃棄物はステンレスの容器に詰めて「地層処分」にするという。
「放射能レベルが十分に減衰するまでに非常に長い時間を要する」が、「何世代にもわたって安全に管理し続ける」のは難しいので、「人間による管理に委ねずに済むよう」、「地下深くの安定した岩盤に閉じ込め、人間の生活環境から隔離する」と説明されている。
歌はこの説明の、さも人類の未来を思うかのような口ぶりを、「愛情」と言って皮肉っていると思う。「蟬蛻」も容器を思わせる。
また、なんだか歌謡曲ふうと思う人もいるはずだが、それは、砂に愛の形見を埋めることを歌った「砂に消えた涙」(1964年 訳詞:漣健児)をそれとなく掠っているからだ。
古い歌謡曲は忘れられていくから、そこが伝わらなくなるのが残念だ。
ゴキブリの出てゆくまでを遠巻きにわが家の持てるすべての力
こういう歌もある。遠巻きにして「出ていって」と念じるばかりの非力を皮肉っているように見える。
いや実際皮肉ではあるのだが、だからといって、スリッパや箒を手に蛮勇を振るえとも言ってないだろう。
そういう方法では解決できないものを相手にするときの非力なさまを描き、現状のジレンマをあらわしていると思う。
※直接関係ないが、すごく日本的。すごく古い呪文歌に「しし虫はここにはななきししらははかししにしづがとにゆきてなきをれ」というのがある。
古代の呪文で意味がわからない部分もあるが「しし虫はここで鳴いてくれるなよ。向こうの家の門前に行って鳴いていなさい。」というような意味。
しし虫とは馬追虫のことらしい。「しし」と鳴くのが「死々」と聞こえるので、縁起が悪いため、この呪歌を唱えたと思われる。
死を連想させるような虫でも、ただ「あっちに行きなさい」というだけで、ゴキブリを追いかけてスリッパでたたくような野蛮人はたまにしかいない。これは残酷なことを好まない平和的な国民性、とも言えるのだろうが。
閉じられた鎖のようにくちびるを押しあてている窓のサッシに
鎖みたいなくちびる。珍しい見立てだ。
山下本人聞いたわけではないが、この歌は、おそらく、次のような歌、
まりあまりあ明日あめがふるどんなあめでも 窓に額をあてていようよ
ルビ:明日【あす】
加藤治郎『昏睡のパラダイス』1998
を意識して詠まれただろう。
「外界と直接的に関われないシチュエーションの窓」の歌は、〝無意識題詠〟※といえるほど、けっこう詠まれ続けている。
たくさん歌集を読んでいた山下は、おそらく無意識でなく意識して、自分なりの歌でそこに参加したのだと思う。
窓の歌といえばこういうのもある。
パーマネント・プレスされた父さんの背広を窓にぶら下げてみる
『スーパーアメフラシ』
おそらくこの歌も同類。
一人暮らしの女性が男物の服を外から見えるように吊り下げておくような感じ。
そして、この発想は、
ないよりはだいぶいい虫コナーズ ぶらさげているヒロシマの鐘
『世界同時かなしい日に』
に引き継がれたと思う。
※無意識題詠=誰も申し合わせたりせず、しかし多くの人が同じテーマで、自分なりの歌を詠んでいる現象。そういう現象を私は「無意識題詠」と呼ぶ。
人が詠んでいるとつられて詠むのが歌人の習性なのか、あるいは「時代」が歌人の詩心にそう仕向けるのか、とにかく無意識題詠という現象があることは確かである。
なお、「それは意識していたら『本歌取り』か? そういう区別か?」とよく聞かれる。
いや、厳密に言えば無意識題詠は、意識して参加する場合もある。意識するしないでなく、そもそも本歌でなくテーマを意識して参加するわけで、「本歌取り」とは呼びにくいケースが少なくないと思う。
準備中
終わりだと気付きはじめてガタガタと身を震わせている脱水機
ゴーグルの迷彩服が降りてきてボクにたずねる平和ですかと
『スーパーアメフラシ』
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パネー!
山下一路 『世界同時かなしい日に』
ないよりはだいぶいい虫コナーズ ぶらさげているヒロシマの鐘
これが風刺ってもんだよなー!
それでいて、おもしろがったり溜飲をさげたりせず、悲しんでいるみたいだ。
「この国は賛同しません」という一連の冒頭にあった歌。
二〇一七年に核兵器禁止条約が国連で採択された際、唯一の被爆国日本は、核の傘に守られる立場上賛同しなかった。
一方、「虫コナーズ」は虫が入って来ぬよう窓などに吊るす虫除け薬。その効果は、CMによれば「ないよりはだいぶいい」という微妙なものである。
広島の鐘は、原爆の大きな犠牲を忘れず核兵器も戦争もない平和を希求することの象徴である。
国が核兵器禁止条約に賛同しないことは、それを軽んじることだ。
この国のいわば生身の戦争体験をないがしろにすれば、その結果である平和は形骸化してしまう。
「虫コナーズ」という皮肉は強烈だが、ここにはひとカケラも笑いがなく強い憂慮がにじんでいる。
時事詠は賞味期限がすぐに来てしまう。
将来意味不明になりそうな要素について補足しておく。
※広島の鐘とは
「すべての核兵器と戦争のない、まことの平和共存の世界を達成することをめざし、その精神文化運動のシンボルとしてつく」られた。
※「この国は賛同しません」とは?
2017年7月に核兵器の開発・保有・使用などを法的に禁止する国際条約が122か国・地域の賛成多数により採択されたが、核保有国など賛同しない国もあった。被爆国として注目された日本は、核の傘に依存しているため賛同しなかった。
●「虫コナーズ」とは?
入り口、窓、ベランダ等に吊るす虫よけグッズ。本当に虫よけ効果があるのかどうか疑問視する声も少なくない。2,015年にはメーカー4社が消費者庁より景品表示法違反(優良誤認)による措置命令を受け、パッケージの表現を変更した。
●「ないよりはだいぶいい」とは?
今年の夏のテレビCMは、以下のような、二人の男女の会話のあとに示される。
女性:虫コナーズがほんまに効いてんのんかどうか、いっぺん外してみるわって、去年言うてた吉田さん。
男性:ほぉ。
女性:どうなったと思う?
男性:どうなったん?
女性:どうなったかは知らんねんけど。
男性:知らんのんかいなっ。
女性:知らんねんけど……今年、またぶらさげてはるわ。
男性:ほぇ~。
ぶら下げないよりだいぶいい キンチョウ 虫コナーズ
2018・7・31
関係ないけど、このCM、「のん」「ねん」の使い分けが魅力的ですねん。
なお、別のところにも書きましたが、この歌は、
パーマネント・プレスされた父さんの背広を窓にぶら下げてみる
『スーパーアメフラシ』2017
の延長線上にあると思います。
山下一路『世界同時かなしい日に』
燃えながらサイレンを鳴らす緊急車両 お母さんあれが勝鬨橋
恐ろしい歌だ。悲しい歌だ。
燃える東京、燃える緊急車両。
そこに「東京だヨおっ母さん」※がオーバーラップ。
燃える救急車に瀕死の母を乗せ、焼け落ちる勝鬨橋を指差す。
恐ろしい歌だ。悲しい歌だ。
※「東京だヨおっ母さん」は島倉千代子の歌。母に東京の名所を案内する歌詞。昭和歌謡には他にも、東京の名所案内のような歌がある。
山下一路『世界同時かなしい日に』
どの位置からでもパトラッシュの具合がみえます弱っているのが
私たちの大切なもの、本来見えないぐらい当たり前のもの。
その姿が露わになってしまうほどに、それは重篤なのかもしれない。
「パトラッシュ」は、ウィーダによる児童文学『フランダースの犬』(1872)で、哀れな少年に寄り添ってともに悲しい結末を迎える愛犬だ。が、その衰弱が、誰に見えるのか、見えたらどうだというのか、と戸惑う。
しかしこのパトラッシュを「私たちにとってのパトラッシュ」とする解釈を試みると、「私たちの社会に寄り添ってくれてきた大切なものが衰弱している。そのさまがどこからでも見える」というふうに読み解けてくる。
すると、ただの説明のような「みえます」もいきなり意味を帯び、「大切なものは目に見えない」(サン=テグジュペリ『星の王子さま』)までも引き寄せそうになる。大切なものの衰弱は、本来見えないはずの姿が露わになるほど重篤だ。なのにその終焉をみんなで見まもるしかないのか。そういう危機感と悲しみの混ざった歌であると思う。
山下一路『世界同時かなしい日に』
「どうか私の顔を食べて」アンパンマンからみんなで逃げた授業中
この「みんな」のなかに私もいる。
私たちのこの平和は、残酷さを忌避している。戦争のニュース映像にはぼかしが入る。
平和と思って過ごすこの日常では、どぎついものから目をそらす。
もしかしたら、私たちは既に悲惨な状態だったりしないか。でも、アンパンマンの自己犠牲の申し出が、逃げ出すほどグロく感じる。
実感の薄い平和に順応したこの「みんな」の中に私もいる、という事実を、『世界同時かなしい日に』を再読するたびに噛みしめる。
山下一路『世界同時かなしい日に』
赤く光ってて〈なんだ〉どこにもつながっていない非常ドアですね
国連が届けてくれたウーバーイーツ戦場でも崩れない豆腐
社会の頼りなさ、あてにならなさ。
上記は内容はだいぶ違う歌だが、この2首は、社会の頼りなさ、あてにならなさ、という意味で共通している。
「非常ドア」というコトバだけで、非常時に役に立たないドア。
救済を期待したのに的外れでがっかりさせる救済。
以下準備中です
死体の映らない虐殺の場面で家族のため国を守るテロップ
うすい牛乳を頭からながしてヒロシマから歩いてきました
絶望して鳥になる酒に浸した米粒をつつき何度でも死ぬ
以下、山下一路自身が書いてSNSに残っているもの
2017年6月14日 山下一路facebookより
『スーパーアメフラシ』で、検索をすると、関悦史さんからの「十五首抄出」、さいかち真さんの、さいかち亭のブログを見れます。ありがたいことです。加藤治郎さん、歌友達からのtweetに感謝します。 嵯峨直樹(未来)さんからは
押入れにかくれているの 母さんはごそごそさせてやがてカナブン
を引いていただいて過分なお言葉をいただき恐縮しています。
藤原龍一郎(短歌人)さんからは
驛長愕くなかれ AKB慰問団南スーダンに搬ばるるとも驛長愕くなかれ睦月の無蓋貨車處女【をとめ】ひしめきはこばるるとも(塚本邦雄)
の本歌からはギリギリじゃないのというご指摘。しかし書かれたことの必然性についてはホローしていただきました。
「塔」の三井修さんからの「十首抄」は
キリストに臍あることのかなしみにつながっている夜の水道
どか雪のふりはじめから参加者がふえる友達募集掲示板
鯛焼きをふたつに割るとこぼれでる中指ほどの単三電池
突然の間違い電話のくせしてなすべきことをなせと言われる
かわたれの監視カメラに囲まれて公園にいる家族みんなで
泥酔をしたおんなのひととつぜんにホームの端で賛美歌うたう
カプチーノをトールでひとつ この町をボクの少年が出たがっている
ボツボツの黄色い線の上を歩きつづけて世界の外側にでて行く
冬鳥のあとツバメ飛来してミックスジュースのようなわかれ話
このメールアドレスはすでに登録されています。不幸な自分
「氷原短歌会」のスタート時に、憧れだった『うさぎにしかなれない』の吉沢あけみさんからも十首抄出をいただいた。
いちにちのはんぶんをかけ樹にのぼり鳥がくるのをまつ蝸牛
二本松IC男子トイレで掃除してたおばさんがボクの母です
水際に満足そうに浮かんでるホテイアオイは空虚に満ちて
フランクフルトのように蒲だけが立っている水の公園
樅の木は燃えているから油蝉あしをつけたりはなしたりして
老いるには上手下手なく食卓にお椀がひとつ伏せてあります
インコ探しています話せないけどP子と呼ぶと返事をします
待ち受けに海岸にいる猿をえらんだ 動物は自殺をしない
A・B二艘の船があります別れた理由を時速で書きなさい
水面をあおいでみればきらきらと断念のような青空がある
他にも多くの歌友たちから丁寧なお便りを頂いた。
残念なのは「今後も楽しみだ」というのが、無かったのは加齢のせいだろうか?『湖水の南』の批評会いらいご無沙汰をしていた斉藤芳生(かりん)さんからもお葉書をいただいた。
上の、傘をさした貧相なおじいさんは、高柳蕗子画伯が歌集の題名を荻窪の喫茶店でカバンの仲間と決めた際にストローの袋に描いたものです。
下の写真は絵葉書に『羽』を出版された森水晶(詩歌探究社「蓮」)さんが、拙歌を葉書に載せてくれたものです。
『スーパーアメフラシ』発行直後の文学フリマ東京
山下自作の宣伝幕とチラシ