寄せ集め短歌鑑賞

短歌の鑑賞は、短歌を作るのと同等の文学行為だと思います。

あ行の歌人

(まだまだ準備中ですが一部公開)

ここには、さまざまな機会に書いた短歌鑑賞を集めてあります。

必ずしもその歌人の代表作であるわけでなく、また、評言の長さや口調も一貫しません。

なお内容はアップする際に手直ししていますので、評論等の掲載時と異なります。

準備中

目次

あんずひろ  ★  君を見ているんじゃないよ昔その壁には伝言板があった

伊波真人       ★ダイバーの吐き出す息がサイダーの泡のひとつとして湧きあがる

君を見ているんじゃないよ昔その壁には伝言板があった

あんずひろ

飛び出す絵本を読むような臨場感!

「おっさん、なに見てんのさ。」

という感じで「君」(たぶん若い女性)に睨みつけられた。

叙述ラインに仕掛けがあって、この冒頭の「君」の表情は、歌を読み終えた時点でいきなりあきらかになる。

思い出の場所    個人の名所旧跡

ここは昔から待ち合わせの場所だった。そうだ、ここには伝言板があって、「ごめん、帰る」なんて書いてあった。でも、僕が大遅刻したとき彼女は帰らずに待っていてくれたっけな、などと思い出にふけって、はっと我に返れば、見知らぬ少女が「なに見てんのさ」という顔でこちらを睨んでいる。

いや、君を見ているんじゃないさ、君の後ろの壁に昔は伝言板があって、そこに僕の思い出がある。それを見ていたんだ。

少女の手には携帯電話がある。なるほど携帯電話が普及して伝言板がなくなったのか、なんてことを考えながら目をそらすおじさん。 

飛び出す絵本、みたいな臨場感

この歌は飛び出す絵本みたいだ。

開く。ドワッと飛び出す。わ、すごい。

そういう種類の臨場感がある。

私がここで言う「臨場感」とは、歌に詠まれている場面への臨場ではなくて、その絵本に臨場することだ。

「いままさにこの歌の言葉を読んで刺激されている」という種類の臨場感なのである。

睨む少女の表情、携帯電話などの小道具等々、歌にはヒトコトも書かれていない要素までも、読者はひとりでに思い浮かべて読む。

読むたびにこの情景が再現され、その飛び出す仕掛けにハッとする。だから飛び出す絵本だ。

ダイバーの吐き出す息がサイダーの泡のひとつとして湧きあがる

伊波真人 「かばん」新人特集号2010年

これはレトリックではなく、いわば自然描写である

イメージが重なればどこでもワープできるイメージ世界

  現実にはなんら接点のない無関係なものでも、イメージ世界では結びつくことができ、どこでもワープできる。 

 そのことを使ったレトリックの例ならいくらでもある。
いまたまたま目にしたのだが、松任谷由実の「ダイヤモンドダストが消えぬまに」の歌詞には、海中ダイビングらしい場面とおびただしい泡、そしてそれがシャンパンの泡とも重なる描写がある。
そんなふうに別物のイメージの類似点を重ねてワープさせるレトリックは、言葉や映像世界でいくらでも見ることができる。

●既存のありふれたイメージセット

そうしたレトリックのなかで、ダイビングと水泡と炭酸の泡という組み合わせは、かなりありがちである。

ダイバーといえば、(実際には危険で過酷な仕事も少なくないのだろうが、)一般的によく目にするのは娯楽番組の映像で、美しい海で色とりどりの魚にまじりなどして、いかにも涼し気な泡を吐く。そんな姿が印象的だ。そして、サイダーの泡のシュワシュワも、いかにもの清涼感を発散している。

これを重ねるような清涼飲料の宣伝などがいかにもありそうではないか。実際にあるかどうかはどうでもよい。そのぐらい、これは、イメージセットとして既存のものになっていると思う。

イメージのワープを事実として自然詠のように書いた

さて、伊波のこの歌をとりあげる理由は、ありふれたイメージセットを上手なレトリックで生かしているから、ではない。
見落とされやすいが、伊波のこの歌は、二つの異なる泡のイメージを重ねるレトリック表現ではなく、自然な描写である。

伊波は、ダイバーの息とサイダーの泡を別物としていない。あるイメージがワープして姿を変えるさまを、自然詠のように描写しているのだ。イメージがそうやって世界をめぐりめぐってゆくことを自然な現象のように捉え、そのまま述べているのだ。

ただし、別物るレトリックは、「ダイバー」と「サイダー」という音の似た語重ねるところに使われている。この歌の構造は見た目よりずっと複雑だ。)


●誤解されやすい

イメージのふるまいを自然描写するというのは、かなり独自な詠み方である。伊波の歌にはこれがときどきあるのだが、しかし、伊波のこの独自性は見落とされやすい。

自然な描写であると思ってもらえない。ありふれたイメージセットだから、読者の側が、ありふれて見慣れたレトリックだろうと最初から決めつけてしまいがちである。

実は自分も最初そのように誤解した。
どこかで「伊波の歌には既視感のあることがあえて多く詠まれていると思う。何番煎じかと思うような薄味に仕上げるのが伊波の特徴だ」というようなことを言ったことがある。

●ショートカットとしてのイメージセット

もうひとつ、イメージというものは人間の脳内の自由な働きであるという思いが一般的にあることも、誤解の理由になるだろう。

イメージは各自の自由にできるもの、各自の内面にあり自分の支配下にあるもの、となんとなく信じてしまっている。
しかし、本当はそういうものではない。既存のイメージセットとは、多くの人の脳内に、確立したショートカットとして刷り込まれて定着している。だから本当は、各自が自由な発想で重ね合わせるレトリックにはならないはずのものなのだ。

つまり、イメージは人の内面のものと思いがちだが、実は外にもある。むしろ、イメージたちはいつもいつも外側から人に働きかけ続けている。

私は、この歌を読んでそのことに気づいた。迷信からひとつ解放された気がした。

この歌については、当初、ありふれたイメージの重ね方だが、でもうまくできている、というふうに好印象をいだいたが、読み込んでいくうちになんとなくそれでは済まないところがあると感じながら、どこかに評を書いた。そのときだったか別のところだったかもう忘れたが、この歌に関して、「イメージは人の内面のものと思われているが、実は人の外側にあって人に影響を及ぼしている」というようなことを書いた気がする

イメージの捉え方は伊波の注目すべき特徴

イメージ描写なら(心象を描くとか)フツーのことだが、イメージというもののふるまいを書くのは珍しい。

伊波の歌には後者のイメージの取り扱いがあり、その点は見落とされやすい。

しかし、批評家でなければ、見落としてもかまわない。普通はそんなことまで考えて読む必要はない。

何事も。読者の側に理解する下地があれば、意識化ないままに何かしら受け取ってそこに種はまかれ、何度か似た刺激を受けることで、芽を出して成長する。

伊波真人 の歌は、「イメージの働きは各自の脳内だけでなく外側の出来事でもある」という考え方の種になり得ると思う

鑑賞もショートカット

伊波の歌の独自性が見落とされやすいのは、鑑賞がショートカットだから、という面もある。

鑑賞がショートカット化するのは、いちいちの歌にニュートラルに向き合うなんて効率がわるいからである。

(歌人になってわかったことだが、歌人は人の歌を読むのが苦手であることだ。歌会で見ていると、かなりの歌人が、ほんのいくつかの類型に振り分けて感想を述べているようだ。歌には独創を求めるのに、鑑賞のほうはおそまつな貧しい語彙で無難なステレオタイプに頼り続けている、と思える。)

橋の名の駅をいくつもつなげては水を夢見る東京メトロ

伊波真人『ナイトフライト』2017

実際に東京メトロの駅名を見ると、銀座線の日本橋・京橋・新橋。東西線の竹橋・飯田橋など、「橋」のつく名の駅がぽつぽつとある。

「つなげては水を夢見る」の解釈


[橋]といえば架け橋のイメージ。実際にその駅のそばに川があるとは限らないが、[橋]という字は観念として[水]に縁がある。

[橋]のつく駅名の連なりは、メトロが観念の[水]のうえを走っているかのような視覚化を促す。

地下鉄は人を運ぶのが目的なのだが、[橋]のつく駅名が多いことに注目したこの歌は、都市の地下水のようにたまった夢のうえにかかる鉄道、というファンタジックなイメージを喚起。末尾の[東京メトロ]という名称までも、なんだか夢見るようなとろける語感として余韻を残す。


深読みついでに更に言えば、一筆書きの[7つの橋]も連想の射程に入ってきそうである。」


題材は馴染み深いが目の付け方がレアである

一般に、「橋」を渡ること、「水を越える」ことは、異世界に移動することを思わせ、そのことを詠む歌が多いわけだがが、この歌は異世界ではなくて、それらをつなぐ「橋」や隔てる「水」を詠もうとしている点で、実はけっこうレアな歌である。