寄せ集め短歌鑑賞

杉山モナミ







ここはまだ準備中ですが一部公開しはじめました。

杉山モナミの歌はすごいとしか言えない。

とにかくぶっとんでいる。

なんじゃそりゃーと脳細胞の半分以上がのけぞるなか、
脳内の隅の治外法権の領域でやんやの大歓迎が起きている。

歌の解釈はまさにひとそれぞれ

「あら、いま何を読んじゃったのと、驚くだけでいいのかもしれない。


でも、私は性分で、自分なりに反芻して意識化しながら鑑賞しなおさない気が済まない。

そんなふうに意識化してみると、もう一度驚く。

杉山の歌は確かにぶっとんでいるが、夢の中の感覚的な論理性が置いた淡い飛び石があって、けっこう精密にぶっとんでいることに

これは、まじかるともいうべき喚起力を帯びた表現だ。

ことば、しかも短歌のことばに、こういうことができるのか、と心地よく驚かされるのだ。


感情面の既存のシナリオにおさまる共感は求めてこない作風であり、そういった要素から読み解こうとするとわかりにくい歌だと思う。

「出典調査中」とあるものは「かばん」誌から拾ったものですが、掲載号を省略してデータベース収録してしまったため、時期が不明です。

杉山モナミ豆歌集

『蝶は迷子』

杉山さんの歌に惚れ込んで、豆歌集を作らせてもらいました。
通販サイト「福耳短歌店」で販売しています。

この顔は「パネー!」という驚きを意味します。

お気に入りをピックアップ

ピックアップのつもりがどんどん増えている……。

天の川って義憤に似てるひかりの波しゅるるる消えるまで抱きしめる

杉山モナミ 「かばん」201908

言葉の創作料理?
変な言い方だけど、この人の歌は生ゴミが出ない。
それほどに徹底的に精製されてるんだ。

天の川。
考えてみると〝現物〟をじかに見たことなんてめったになくて、詩歌や文学からインプットされたイメージはやたら豊富である。

古典和歌・近現代短歌に詠まれる天の川は、ほとんどが七夕伝説やギリシャ神話のミルキーウェイなどを踏まえて、いわば〝知〟にまみれてしまっている。

そんな中でこの歌は異質だ。「天の川って義憤に似てる」は、既存の〝知〟に頼っていない。天の川というものに自分の感性で向き合って、自分で見つけ出したイメージレシピであるだろう。

〔天の川≒義憤〕という結びつきは、意識化できていない領域に潜む何かを今にも呼び起こしそうだ。こういう言葉の料理をもっと食べたい。

押しの一手のひとたちおぼろの空を押して指圧のようにきみがとどく日

杉山モナミ(出典調査中)

偶然と必然の入り混じった結果として押し出されてくる

この歌の独自性は一目見ればわかるけれど、似たテーマのなかで読めばもっともっとわかります。

「空」の「圧」というは、実は無意識題詠※でけっこう多くの人が詠んでいます。
  ※無意識題詠とは各自は思い思いに詠んでいて意識していないが、なぜか結果として多くの人が競うように詠んでいるテーマのこと。

「空」の「圧」に係わる歌をまとめ詠みできるコーナー空と生きるを作ってありますのでぜひ御覧ください。


みんなが無意識に詠みたくなる要素には普遍性があるわけですが、普遍性だけじゃ歌はもの足りないから、みんな自分独自の要素を付加して歌を仕上げています。

そのなかでも杉山が付加した要素は独自。

押しの一手のひとたち」が(満員電車のような、そんな世の中みたいな……)、
「おぼろの空を押し」(押し合っても誰の思い通りにもならないような……)、
指圧のようにきみがとどく」(そういうもろもろの偶然と必然のまざった状況から揉みだされ君が現れた)

的なところが味わいどころでしょうか。

そして「とどく」の暗示。

「とどく」ものはいろいろあるが、一般的にはプレゼントなど何か心待ちにするニュアンスがある。

また、最後の一文字の「日」効果。
「きみがとどいた」「きみがとどく」などではない。

「きみがとどく日」としたことで、始まりの予感のニュアンスが強められている。でも。

--でも、まだ届いていないし、期待していいのかどうかもわからない淡い期待の段階だ。


このことを深読みしながらうんと平たくいってしまえば、いわゆる「運命の人」との出会いを空想している歌である。
だが、その出会いは、個人の思惑を超えた偶然と必然の「おぼろ」から押し出されてくる結果なのである。


杉山モナミの歌は感情を直接的には扱わないが、精製された砂糖のような上質な表現でそれとなく描かれているのである。

お相撲さんとすれちがう度にんげんについてハッと考えてきた

杉山モナミ(出典調査中)

考えさせるのでなく、一瞬で感じ取らせちゃう

○お相撲さんは普通じゃない巨体である。純粋な肉体そのものを意識させる。

すれちがいざまだから、肌感覚で、「にんげん」というものを、「生きた強い大きな物体としての肉体」のように感じる。それはけっこうレア※な感覚であり、にんげんについてハッと考えた、ということには、なんとなくうなづけてしまう。

物体としての肉体、というとなんとなく生きていない。死体みたいだ。スポーツなどの身体を見るときは、肉体そのものよりも動きや技能に意識が向かいがち。この歌のように肉体ははち切れんばかりに元気な物体感はレア。

○もうひとつ。--「にんげんとはなんだろう」なんてめったに考えないが、きっかけがあれば考える、という着眼がおもしろく、しかも、この歌そのものがそのきっかけになるということだ。

「にんげんとはなんだろう」と書いたって無駄。そんな言葉はきっかけにならない。「考えましょう」と言われて考えるほど脳は素直じゃない。

この歌の優れている点は、考えようと言わずに、しかも考えさせるのでなく、一瞬で感じ取らせちゃうことだ。

「にんげん」の定義はいろいろありえて、そのなかの珍しい一つとして、生きた物体としての肉体という捉え方があるんだな、と。


杉山の歌には他にも「にんげん」がでてくるものが数首ある。
そのなかで次の3首がお気に入り。

にんげんのあたまの縫い目がどんなかを描きやすいボールペンですよ

にんげんの蓋を外したままにして水の匂いの月にふりむく

人間も人形も超えたらお正月 こどものころよりそらいろうすい

サルトルがタンスを内側から閉めるみたいなちから 秋はおかしい

杉山モナミ(出典調査中)

なんだこりゃ!!!

タンスにサルトルが!!

なんだとー!サルトルがタンスを内側から閉めるみたいなちから」だとー!

わっかるかよ、と思った瞬間に、しかしとにかく目に浮かんじゃってる。
私にとっての「サルトル」はそういえば遠い昔に読んだっけ、な人であり、もはや「ゆーめーなふらんすの哲学者」で、「ジツゾンシュギっけかなあ」ぐらいに霞んでいます。
が、それでも、〝哲学者が自ら内側から引き出しを閉める〟っていうと、学者が持論を引っ込めるような感じかいな、ぐらいは考えますよね。

そのとき、なにげなく、ついでみたいに、内側から閉めるみたいなちから、特に「ちから」という一言から杉山さんの魔法が発動しちゃうんです。
そもそもタンスって内側から閉められる? どういうふうに力を入れる?

ここに何らかのプッシュ効果があります。
ヒトコトも言ってないのに、なぜかサザエが内側から蓋を閉めるさまが目に浮かんでしまった。
サザエかどうかは人によるでしょうが、私は、哲学者(頑固で気難しくて内向的な感じ)の人が内から閉める、という図にサザエが直結しちゃいました。
(昼間に棺の蓋を開けられそうになって抵抗する吸血鬼とかでもいいです。そこはお好みで。)

興奮して、結句「秋はおかしい」を忘れそうになりました。

季節感として、春と夏は外向きに発散、対して秋は吸い込み感がある。吸込むといえば「吸い込まれそうな青空」というものも、一般的には秋の空ではないでしょうか。
それは浮島のようにあやういイメージでしかないけれども、そこをチョイと飛び石にしつつ、「サルトルがタンスを内側から閉める」ようなことが秋には起きかねない、だから秋はおかしい、という結論に落ち着く。
このスタイル、迷走したボートがもとの砂浜に乗り上げるような感じのユーモアですよね。


★どうでもいい追記:サザエってどんな顔だっけ? いろいろ画像を探しましたが、これが顔ですとはっきりわかる画像が見当たりませんでした。ウィキペディアに「頭部には1対の触角があり、その基部近くの外側には眼が、内側には眉毛のような肉質のひさしがある。 」と書いてあり、「眉毛のような」にすごく惹かれますが、どんなのだろう・・・・。

ムコスタくん推定1歳コンビネゾンふわわ 夏の夢に落ちくる

杉山モナミ(出典調査中)

意味プラス語感イメージを増幅。言葉を意味&物という両面から活かす特殊表現

こういう歌は読んだ一瞬にすべてを凝縮して感受してしまうため、何を受け取ったのか説明できないのですが、巻き戻しして、以下、超・超・超スローで再生してみます。

(1)まずは「ムコスタくん」が夢に落ちてくる「ムコスタ」は胃薬の名称だから、胃袋に落ちるイメージもある。

「夢」と「胃袋」が重なるのはかなり奇抜な図だが、そんなこと感心してる場合じゃない。幼い子どもみたいな名称の幽か語感を捉えるや推定1歳」と、そのイメージをいきなり増幅するとは、おいおいおい。

「ムコスタくん推定1歳」というフレーズ、1歳の赤ちゃんイメージから逆流して、一粒の錠剤が胃袋夢に落ちる途中で卵になる。落ちながら孵って1歳ぐらいに育つのを高速度撮影 したかのような短い動画を見た気がする。

赤ちゃんと言ったがどんな姿のものかわからない。なにしろ「ムコスタ」という語感から生じたイメージですから。

(2)さて「コンビネゾン」。これは袖付のトップスとボトムスが一体となった衣服のこと。(トイレがめんどう--なんていま関係ない。)

 つまり、身体に近いかたちの服である。するっと体が宿れば完成よ、さあどうぞといわんばかりの服だ。

(3)おぼろげな身体を得たばかりの1歳の「ムコスタくん」、そのあとから「コンビネゾン」が夢に落ちてくる、という順番。ここにもなんとなく意味が生じそうだ。
 歌ではヒトコトも言っていないが、「この服にムコスタくんが宿れば、何かが完成する」と、私はなんだか了解しそうになっていて、いいじゃん夢だからさっさと了解しちゃおうよ、という気分なのである。
(4)この歌には恋の予感も含まれるだろうか。

なぜそこを迷うかというと、「夏の」だけが必然性が弱い気がするからだ。恋の予感プラス不思議なことが起きるという広い意味でもシェークスピアが、まあまあ結びつくわけだが、決め手に欠ける気がしている。何かを見落としているかも。

ていねいなクシャミはたぶんいつだってマイケル・ジャクソンのたまごです

杉山モナミ(出典調査中)

小さくたたまれて出てきたクシャミが展開してマイケル・ジャクソンになる

私は、人一倍、似ている言葉に反応するタチで、「ジャクソン」「ハクション」という音の結びつきだけで何の抵抗もなくするっと読んだ。

が、一般的には、この音のつながりに気づくとは限らない。ちょっと苦しいかな、と思ったが、ちょっと調べてみた。

有名なコミックの場面に、「はくしょん!」「まいけるじゃくそん!!」という会話みたいなやりとりがあって、それもけっこう知られているらしい。それなら、一定割合で通じるネタですね。

さて、丁寧なくしゃみというのは、控えめに小さくたたまれたような感じ。(このフレーズだけでもすごく秀逸では?笑)

そしてクシャミは、姿ただしく放たれたハクションは、パラシュートが開くように、卵が孵るように、マイケルジャクソンになって踊りだす。
そんな動画(小さく産んで大きく育て、っていう感じ?)を見る感じ。 


つまり、「ハクション」→「ジャクソン」という語呂合わせだけではない。ちゃんと絵になっているし、「ていねいなクシャミ」などの表現もかなり精密で、さすが、小ネタも手抜はせずに仕上げるんだな、と思った。

梨の匂い この世にきっと想像もつかないような友情がある

飛躍は、飛躍先だけでなく、途中でそっと蹴った浮島のような微弱のものもだいじ

他の果物は匂いがはっきりしてわかりやすい果物が多い中、 そういえば梨は匂いが淡い。りんごやみかんに比べると静かな匂い。

世界の果に近い、といったら大げさすぎるが、そういった薄れ感のある淡さではないだろうか。


この歌は「梨の匂い」からいきなり、「想像もつかないような友情がある」へと飛躍する。

この2つは直結しないもので、飛躍の途中で軽く蹴った飛び石、というか、蹴った感じのしない浮島ぐらいはあったはず、と思えてきて、その浮島をさがしてみる。

「梨の匂い」に、「既存の枠をリセットする」という暗示力はが、あるかしら。ありそうな、なさそうな、という微妙さなのだが、なくはない。

既存の領域の境界は、あからさまにでなく、そのぐらいのかすかさで変容する。そんな気がしてきて、考えるたびに強まってくる。

バッグから今日も四方にうっとりのレコンキスタがはみ出している

杉山モナミ「かばん」2010・4

レコンキスタという語の魔法的利用。明るく描かれたマイナスの立ち位置。

レコンキスタはスペイン語で「再征服」の意で、イベリア半島でのキリスト教勢力がイスラーム勢力を排除する国土回復運動。11世紀から15世紀末まで続いたそうだが、知らずに聞けば外国野菜みたいなひびきだ。レタス・レンコンがまじったような姿が目に浮かびそうになる。

で、それがバッグからはみ出している、というのは、世の中に対してなにか回復する・挽回する、といった気持ちであるだろう。ただし恨みなどのダークでありがちな感情でなくて、「レコンキスタ」という明るい語感に似つかわしく、「うっとり」夢見る野菜のように肯定しながら世界に参加していくような、そんな気分があふれていると思う。


この歌にはひとつ注目すべきポイントがある。俵万智のこの歌と見比べるとそれが明確にうかびあがる。

自転車のカゴからわんとはみ出してなにか嬉しいセロリの葉っぱ

俵万智『サラダ記念日』1987 

どちらも、その時の気分を野菜っぽいもののがはみだしているさまで表現している。共通点が多く、かつ個性の違いがはっきり見える。

先行する俵の歌のなにか嬉しいセロリの葉っぱ」は、ゼロクリアしたような無邪気な明るさが当時新鮮だった。

杉山の歌は、自分の立ち位置を、ゼロ地点でなく、レコンキスタという語によって、マイナスの地点へとずらしている。
このことは注目に値しないか。

ともだちのいないセンスのお姫様ですものさくらはマナーも最悪

桜の孤高を詠む歌はあるだろうが、こういう捉え方はめずらしい

桜はみんなに好かれている花だから、普通に考えれば、「ともだちのいない」とは思えないわけだが、しかし、あの姿、スカートが迷惑なほど広がったピンクドレスのお姫様ファッションは、確かに友人と連れ立って歩くようなものではない。
「マナーも最悪」というのも、花びらをどんどん散らかすさまのことかと思い当たれば、わがまま放題に放任されて育ったさみしいお姫様のようなキャラを想起する。

むすびめに似ているからほどかれるひとがいて丹田とはなんですか?

ルビ:丹田【たんでん】

無抵抗に話を聞いていてはっとわれにかえる瞬間

読みながら考えたことを考えた順に書く。

「結び目に似ているからほどかれるという部分の微妙なひねりは、けっこう思い当たりる。

 誤解にもとづいてなにかされる、たとえば、まぎらわしい症状を誤診され不要な治療をほどこされる、みたいな大事もあるし、メンタル的な誤解から何かとんちんかんな慰めや助言を受ける、みたいな小さな出来事は日常的にある
そういう慰め等はたいてい親切心に由来するわけで、受ける側はだまって「ほどかれて」いてあげることが多いだろう。

「ほどかれるひとがいて」の視点は、そんなカウンセラーごっこをされている人を(あるいは自分を)傍から見ている感じ。

(これは人によるでしょうが)診察されるとき、聴診器を当てられているようなときって、すごく無抵抗であり、どういう心理機序かわからないけど、そういうとき幽体離脱的に自分を外から見ていませんか? 
そんなふうに、この歌には、自分で自分を見るような、視点のゆらぎが感じられる。

丹田」の語感

まず最初、意味よりも「タンデン」という語の結び目感がおもしろいと思ったし、こころを「ほどかれ」ながらもつい「それ何ですか?」と聞き返したくなるようなユーモラスな魅力があるではないか。

「丹田」の意味
意味はあとからついてきた。
中国の考え方で身体の「気」とかを貯める場所、ヨガのチャクラみたいな、身体の神秘スポットという程度の知識はあって、(ちゃんと知りたい人はググってください)

だとすると、歌の解釈は急展開。

「なんですか?」と覚醒

この場面は、なにか心に悩みを抱えていそう、と思われた人が、「心を癒やす呼吸法」みたいなな話を唯唯諾諾と聞かされていたのだが、そのとき耳にした「丹田」という言葉に反応し、はっと我に返った瞬間を捉えている歌だと思う。

じゃがいものめを1個ずつくりぬいてすべてが謎になってしまった

杉山モナミ ブログ「b軟骨」2010・12

よく読むとじつに筋が通っているじゃないか

現実の図を思うと、じゃがいもの芽をすべてえぐったら、ひどく不格好なへんてこなものになってしまった、という「あるある」に落着してしまう。
が、「芽」というものをすべて取ってしまう、という意味を考えると、それは成長できなくなり、それが何になるべきものだったのか、存在のもとからゆらいで、謎になってしまう、ということも言っているとも思えてくる。

こういうところ、歌のみかけよりはるかに筋が通っていないだろうか。

以下は鑑賞準備中で歌をピックアップしてあるだけです



ところてんのふりしてついておいで日々よ ふくふくおざぶの上に生まれよ

あたりまえのことわっと腹式で言われる試着室はがらんどう

202212かばん 要表記確認

6月は抱擁機械。だれもみな抱かれて歩くことを恥じない

(表記ゆれ 「8月は」とする場合もあるようなので確認中)

ひとりっ子のわたしがときどき来る丘のむこうにまんがの妹がすむ

長時間 というのはたぶんるるるるるるるるるほどけてく毛糸の鬱

星をみて星ではないものみるときのわたしのへん顔は海なんですよ

杉山モナミ「かばん」201911

砂丘には、/目が痛くなるほど光る呼吸が/必ず1つあって、/草月流がうまれる。
(要表記確認)

にんげんの蓋を外したままにして水の匂いの月にふりむく

YouTubeの朗読動画より

夏のまんなか素足は体をすこしだけほうり投げる あおびょうたーん

人間も人形も超えたらお正月/こどものころよりそらいろうすい

よにんぶん買ってふたりで味わって星の内側ってのったりとしてる

冬生まれの小川先生革製のベルトはしっぽ焼く匂いする

めぐりきてここはしずかな銀歯世界おはなしは空からはじめましょ

人と人のあいだに人を そのように麦藁帽子あみ上げました

(カルシウム不足って季語?)このごろの句会に吸骨鬼はでるらしい

杉山モナミかばん2009・8

ゆめのように滅びるための野球帽こむらがえりのわたしを隠す

杉山モナミ かばん201807 YouTube「電気の精」

たくさんのコップ、/それぞれちがう量のミルクで、/おもしろいことばをつくる

7人でひとつの声を運ぶときニッコリはいつすればいいのだろう

お葬式で棺を運ぶところみたい

杉山モナミ 「b軟骨」20190505)『かばん』掲載 「蝶は迷子」、「にげる夫妻」、「2月と高慢と偏見」より

かなぶんを1匹どこかに投げますと闇夜はそのままキープされます

本歌取りというか、翻訳したようなかんじ

金亀子(こがねむし)擲(なげう)つ闇の深さかな 高浜虚子

ねぼうしたわたし高気圧の渦の向きにまわると君が降ります

であうべき幸運たちのやわらかい髪巻きこんだカセットテープ

いままでのみんなのひとりごとが手になってゆくよ そうだ、十五夜

いろいろなゆめからさめるまえにそっとそっときれいに光る膀胱【ぼうこう】

バラバラになってしまった宇宙人地球人子宮人。みな服を着る?

パーティーのはじまりそうな夕空のリフレインとしてくるさくらもち

「おんなじこと2回ずつ言うのおかしいな。」それからおんなじ上着も2着

やわらかな餅のなかから餅が出てわたくしたちは時の段をとぶ

乃木坂は移動空間風の中みんな四月の手話で話せる

ひとりっ子のわたしがときどき来る丘のむこうにまんがの妹がすむ

唐突に「ゆるされますか?」「ゆるされます。」筋肉質の闇に応える

叫びってたぶん記憶と同じくらいひとりぽっちで、もういちどくる 

点ひとつぎぎぎーっと右へうごく ・ このゆめを喪服とよぶのかしら 

点ひとつぎぎぎーっと右へうごく ・ このゆめを喪服とよぶのかしら 

牛乳に透けるどん底やわらかくわたしわたしの横顔をのむ  表記ゆれ:本誌では:わたし、わたし

質問というしごと終えた生きものがふりかえるとき薔薇があります

あのひとが自分の写真の右の目を切ってさかさに貼ってるパライソ  パライソ 天国、楽園

あなただけ真正面からみてあとのすべてのものは見下ろしてる 空

なまえさえしらないかたち抱きしめるキッチンまでは背泳ぎでいく

思いつきは思いつかれたままにしてアタマじゅうの鈴を雨に返す

本当らしいことってどんな型のけもの?ゴミ袋2匹転がらない

すべてすべて語ってもまだやさしくはなれない?ユニクロの「ク」に咳

どのような季節も小さな箱なので白い割烹着しまいましょうか

なんでもないのにこころ3倍ふくらみやすく姉はまたまたミトンを編んだ

電柱はそっとかぞえてゆきましょう それがメッセージとなるまえに

大きすぎてかわいいものは自由ですあんなところにいっちゃった はる

それでも愛を疑うひとの耳のおくうめぼしのたねくるくる落とす

へんてこな家でなが生き 入りづらいおふろで恋 時空を消す

昔のフォークで「○○のないXXで□□」というようなないないづくしの歌があったけれど、その杉山バージョンだ

かなしみはふたつあるのになぜきみはひとりなのかな/木の下の闇

ごきげんようサンキューおやすみ なんでもないところにふわっと屈辱がある 表記ゆれ:屈辱はある

風はみな拡大コピーされた耳よわたしは世界がめんどくさくない

目は距離の反復をのみこんでしまう ぬいぐるみから雲がでてくる

真昼間に折りたたみ椅子をぜいたくにひっくりかえしてるみたいな「え?」

(あなたには、いつも、全身豹柄のおともだちはいますか?)

喫煙所のはるのおぼろのかたすみにゆれてる思い出研究所です

かなしみは状況とはまた関係なくうまれるよ 鳥にだかれます

叫びってたぶん記憶と同じくらいひとりぽっちで、もういちどくる 

ナミダってどのくらい向こうからみればオンガクになるの?あしのうら?