「桜」(さくら・サクラ・櫻)という語を含む短歌から、
お気に入りをピックアップして作成しています。
可能な限り、感想などのコメントをつけます。
桜は大人気の題材で、桜を詠む歌は数が多く、しかも、「桜」という語を含まずに桜を詠む※こともあります。
ここには、原則として「桜」という語を含むものを置いています。
※桜を婉曲に「花」という場合や、表現の工夫で「桜」と言わずに詠む場合がある。そういうものは、データベースのテキスト検索では見つけられず、桜を詠んでいるかどうかの判別が難しいので、ここでは対象外とします。
ただし、偶然発見した場合にここに置きたいと思ったら、例外としてここに含めます。
目を開いてもほら桜の闇のまま 足四本やわらかく眠ろう 高柳蕗子
あおぞらからひとつまみずつのさびしさを絞りだしたる桜のさかずき
井辻朱美『クラウド』2014
この作者には桜の歌がいくつもあ、格の違いを感じさせられるようなる。空と関わる歌をもう1首あげておく。
何度目のさくらふぶきを抱きかかえあの人が往くそらの石段
井辻朱美『クラウド』2014
桜のうしろの空にもさくらが累なりきのふとはそちらのはう
平井弘『振りまはした花のやうに』
青鮫がりうりうと泳いでゐる海へ、崖の上から桜が吹きとばされる
前田夕暮『水源地帯』1932
「ちるさくら海あをければ海へちる 」 (高屋窓秋「 白い夏野」1936)がちょっと思い浮かぶ。
時期が近い。時代の空気が似た発想をさせたのだろうか。
ともだちのいないセンスのお姫様ですものさくらはマナーも最悪
杉山モナミ ブログ「b軟骨」2018・12・31
さくらが牙むくときにそのましろなる全身狂るるばかりの落下
ルビ:狂【ふ】
渡辺松男『自転車の籠の豚』2010
お先にと黙って一枚の花びらが落ちてゆくなり桜満開
奥村晃作『鴇色の足』
夕闇に手をさし出せばこぼれくる桜は乳歯のほの明るさで
服部真里子 『遠くの敵や硝子を』
モウスコシガンバリマショウが降ってくる桜並木の下をゆくとき
穂村弘『水中翼船炎上中』2018
まあすわれすわれと枝垂れ桜ゆれ、ゆきゆくひとの肩をかすめる
東直子「現代短歌新聞」2013・05
終はつてから行つてみた桜のしたには見かけない人が出てゐる
平井弘『振りまはした花のやうに』
さくらばな光子を帯びて剥き出しの配線を持つてのひらにふる
吉岡太朗 『ひだりききの機械』2014
まはだかの空間がひとつ右にありしずかに桜のおもいでを汲む
井辻朱美 「かばん」2011 /6
この歌には「短歌鑑賞 投げ込み箱2」でコメントをつけています。
足元をしとどに濡らし立つらしい桜の霊の番人の霊
魚村晋太郎『銀耳』2004
さくら花吹き寄せられて生涯の終りに首都の車輛を止める
加藤治郎『しんきろう』
フラスコに桜はなびら満ちてゆく時間と思う君の沈黙
吉野裕之 HPに近作として掲載(2016・9更新分)
ものもらいとは誰が名づけし桜ひとひら入りたるごときまなこの痛み
花山多佳子 現代短歌文庫『続花山多佳子歌集』
桜ふぶき浴びつづけている狛犬の暗き口よりほう、と声する
井辻朱美「かばん」2018・6
さくらふぶき流れて茂吉胸像の丸き眼鏡にレンズはあらず
吉川宏志『青蟬』1995
ふいにやまとたけるを恋うなるはしきり桜のふぶくただなか
加藤克巳『遠とどろきの』
地の修羅を天にあげんと渾身のさくらの四肢がふぶきはじめる
井辻朱美『クラウド』2014
桜ばないのち一ぱい咲くからに生命をかけてわが眺めたり
ルビ:生命【いのち】
岡本かのこ 『浴身』
実際には音もなく咲いて散るものだが、だからなのか、幻の音や声を詠む歌がある。
腿ふとく風の男に騎られてはみどりの声を帯びゆくさくら
佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』2006
桜吠音なき吠えの痛切のひたひたとして俺に迫るも
ルビ:桜吠【さくらぼえ】
依田仁美『異端陣』2005
さくらしづかにしづかに散れり (亡きつまのくつおとだけが聞こえてゐるよ)
渡辺松男『時間の神の蝸牛』2023
音を一つずつ消しながら散っていく桜 夕暮れに近づく
原田洋子『風』
散りしきるさくらの音色やわらかにこの沈黙をうめておしまい
干場しおり(出典調査中)
いにしへの奈良のみやこの八重桜 けふこゝのへに匂ひぬるかな 伊勢大輔
桜には存在感がある。そして、前後上下左右、桜がそこにあれば、人は何かを感じる。
われにはみえぬ槍のささりてゐるといふらんまんと怖いまひるのさくら
渡辺松男『雨(ふ)る』2016
うはしろみさくら咲きをり曇る日のさくらに銀の在處おもほゆ
ルビ:在處【ありか】 ※「うはしろみ」は、表面の色が褪めて白っぽくなることだそうだ。
葛原妙子『薔薇窓』1978
誰かうしろになみだぐみつつ佇つごとし夕ぐれが桜のいろになるころ
花山多佳子『空合』
忘れられゐること百も承知にて郷里万朶のやよひのさくら
安永蕗子『賛歌』
雨。こめかみにふりかかり見あげれば桜のあばらあらわなる冬
佐藤弓生『薄い街』
陽を入れて袋のような雲がある日豊本線車窓の桜
吉川宏志『青蟬』
ひと年をかけて桜は大いなる肺活量の呼吸ひとつす
ルビ:年(とせ)
伊波虎英「短歌人」2015年6月号
散るまえの桜の表面張力を見てきて我ら胸重ねおり
吉川宏志『青蝉』
どんな人も受け入れますという面接 桜は脳のかたちに満開
雪舟えま 朝日新聞夕刊2012/6/26
※なるほど!桜は脳に似てる。そのせいか、桜を体感する歌にも「脳」がけっこうでてきます。
わが胸をのぞかば胸のくらがりに桜森見ゆ吹雪きゐる見ゆ
河野裕子『桜森』1980
君はしゃがんで胸にひとつの生きて死ぬ桜の存在をほのめかす
堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』2013
手には手袋を足には靴下を心には何がある今世紀のさくら
フラワーしげる 『ビットとデシベル』2015
※「心に今世紀の桜」があると解釈して、ここに置きました。心は身体じゃないけれど。
桜は見るだけでなく、体感するものとして詠まれる。
「ふくらむ」感じや、「脳」で感受することなど、かなり珍しい感覚を詠む歌が複数ある。
夕闇にとろりと門は融けはじむ背に膨らみてゆくさくらばな
永田和宏『短歌パラダイス ―歌合二十四番勝負―』(小林恭二 )
さまざまのことを忘れてひともわれも膨らむ桜のふくらみのなか
永田和宏『置行堀』
並んで歩くひと君なれば毛穴から世界が入る桜も入る
渡辺松男『時間の神の蝸牛』2023
花に逢ひはなを愛でたきこの春のわが大脳新皮質にてとらへたる桜
鎌倉千和『竜眼』
満開の桜けだるく同色の我が大脳をやわらかに食む
武富純一『鯨の祖先』2014
あなたから香る桜をいつまでも忘れずに済む脳を下さい
千種創一『砂丘律』2015
自分の性格がわからない川沿いの桜に首を絞められながら
笹川諒『眠りの市場にて』2025
ビル街にぞよぞよと桜冷ゆるなり上方ことばゆたかにつかふ
ルビ:上方【かみがた】
黒木三千代『現代百人一首』より
桜の多い街に住むひとだけだった 恋人はみな四月の季題
伊波真人『ナイトフライト』2017
家々に釘の芽しずみ神御衣のごとくひろがる桜花かな
ルビ:神御衣【かむみそ】
大滝和子『人類のヴァイオリン』
いま抜いた湯がすみやかに地下をゆくくらぐらと桜満開の町
魚村晋太郎『銀耳』2004
水流も銀の電車もひとすじのさくらのわきを流れるひかり
鈴木加成太 『うすがみの銀河』2022
死ぬばかり白き桜に針ふるとひまなく雨をおそれつつ寝ぬ
北原白秋『桐の花』1913
自販機みたいでどうもいけない夜どほしあかるいこのさきのさくら
平井弘『遣らず』2021
あかりなきところの夜桜といふは うつすらと白象のぶぶんぶぶんみゆ
渡辺松男『蝶』2011
だんらんのはてに沈黙のあるごとく 夜を森閑と咲きつぐ櫻
中山明『猫、1・2・3・4』
精神の外の面の闇に桜咲きざくりと折られゆく腕がある
ルビ:外【と】 面【も】
岡井隆『天河庭園集」
一本だけぽつんとある桜は孤独なナルシスト?
「私の孤独」 (Ma Solitude 1966年)というシャンソンがあって、自分には「孤独」がいつも寄り添っているから寂しくない、というような歌詞だったと記憶する。「孤独者には孤独が寄り添う」という、心の自給自足的な状態から転じうる心理のひとつに、ナルシストというのがあると思う。
夏かげの青垣淵に花見えてひとりしづけき山ざくらかな
加納諸平『柿園詠草』1853
加納諸平(1806~1857)は江戸時代後期の国学者。
ナルシストの桜?
近世の終わりごろの歌だが、古さはあまり感じない。
ぐるりと囲む樹木の緑を映す淵に、ひとつだけの桜が美しく映える。淵はまるでナルシストの桜専用の鏡ででもあるかのようだ。
――99%そういう情趣を詠んだ歌なのだろう。そして1%、底しれぬ深さを思わせるかすかな翳り感がある。
「青垣淵」という言葉は、古来ある「青垣」(青々と茂る山々に取り囲まれること)と「淵」をつなげたものか。
一方、「青淵」という語も古くからあり、恐ろしいイメージで使われていた。ゆえに、もしこれが絵であれば、水面を薄い暗色でそっと一刷毛なでて仕上げるような目立たない効果を添えるかもしれない。
21代集までは、「青」の多くは青柳とか青葉とか、植物の緑をさしていたが、近世の歌では水の青にふれることが増えたみたいである。この歌、当時は新鮮な美意識で詠まれたかっこいい歌だったのかもしれない。
さくらからさくらをひいた華やかな空白があるさくらのあとに
荻原裕幸『リリカル・アンドロイド』
もうここにいないさくらとうちよせあう音が聞こえる ふしぎな潮騒
井辻朱美『クラウド』2014
ある日醒めし桜はおのが鼻目さへ喰ひてしろがねの虚無になりゐつ
米川千嘉子 『一夏』1993
濠に沿う桜並木の濃きみどりあるいは声の墓かと思う
(千鳥ヶ淵)
加藤治郎
葉桜の下をくぐるに渇きたる心にひびく言葉は真水
外塚喬『真水』
桜の根折り重なりて蒸し暑き夕暮れどきの舗道に御座る
東直子 短歌日記『十階』
さくら花かつ散る今日の夕ぐれを幾世の底より鐘の鳴りくる
明石海人『白描』1939
わが佇つは時のきりぎし今生の桜ぞふぶく身をみそぐまで
上田三四二『鎮守』
天空をながるるさくら春十五夜世界はいまなんと大きな時計
永井陽子『樟の木のうた』
死は人を偸盗のごとうかがへり老桜の花白き夕闇
大野誠夫『水幻記』
※偸盗=とうとう(「ちゅうとう」と読むこともある) 盗むこと、盗人
生まれえざりしおみなごあまた山に咲きこわいからわれら桜と言えり
渡辺松男(出典調査中)
まんかいのさくらゆ次のまんかいへあゆまば十歩待たば一年
渡辺松男『蝶』
満開の桜ずずんと四股を踏み、われは古代の王として立つ
佐佐木幸綱 「アニマ」1999
満開の桜に圧され少しずつ少しずつペニスが膨らんでくる
永田和宏『風位』
雨という命令形に濡れていく桜通りの待ち人として
虫武一俊『羽虫群』2016
さくらさくらいつまで待っても来ぬひとと/死んだひととはおなじさ桜!
林あまり『MARS☆ANGEL』1987
※「夜桜お七」(2008年 作詞:林あまり 作曲:三木たかし 歌:坂本冬美)にも使われたフレーズ
さくら色に衣はふかくそめてきむ花のちりなむのちのかたみに
紀有朋『古今和歌集』
桜色のかたみのころもぬぎかへてふたたび春に別れぬるかな
雅成親王(出典調査中)
はくれんが遠く桜を見ているは充電のように青き夕暮れ
梅内美華子『若月祭』
さくまへにさくらあらざりであふまへひとあらざりしああひとの手や
渡辺松男『時間の神の蝸牛』2023
許すとき 許されていることにまだ気づいていないとき 咲く桜
千葉聡『グラウンドを駆けるモーツァルト』2021
さくらからさくらに架けし春蜘蛛の糸かがよへるゆふべ過ぎつつ
小池光 『バルサの翼』
ガス蒼く燃ゆるたまゆらそのかみにさくらを焚けば胸を照らしき
小池光 『バルサの翼』
散つてゐた桜がだんだん咲いてくる魔法のやうな春の特急
逢坂みずき 『虹を見つける達人』
ふるさとの炬燵の足はすべっこく桜の幹でくみ立っている
山崎方代『迦葉』
桜狩のときの写真に亡霊が写つてゐたら結婚しよう
荻原裕幸『甘藍派宣言』
お祭りが偶然あってそこにある空間へ透けてゆくさくらばな
阿波野巧也『ビギナーズラック』2020
残された桜も発光する窓も春の設計図どおりにあれ
千葉聡『飛び跳ねる教室』2010
熊のあけた穴をいくつも蔵すらん桜の揺れる山は大揺れ
安藤美保(出典調査中)
山ゆ来たる山桜の花じつと観ればどの一輪もかんがへてゐる
伊藤一彦『遠音よし遠見よし』
体重を一キロふやすにさくら食ふ祖国しづかに消化されゆく
仙波龍英『墓地裏の花屋』
桜みる人に紛れて探偵がゐてもいいならなりたいわたし
馬場あき子 『鶴かへらず』
母のいない桜の季節父のために買う簡単な携帯電話
穂村弘『水中翼船炎上中』2018
さわれる位置のはさわらないでさわれそうにないさくらへ手を伸ばす
岡野大嗣『たやすみなさい』
西風に/内丸大路《うちまるおほぢ》の桜の葉/かさこそ散るを踏《ふ》みてあそびき
石川啄木『一握の砂』
人身事故で電車が動かなくなって外にある桜を撮っている
阿波野巧也『ビギナーズラック』
おなじみ古典和歌の桜も
【古典】高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ
大江匡房
【古典】さくら花ちりぬる風のなごりには水なきそらに浪ぞたちける
紀貫之 古今
いつまでもいつまでもとはわらふべきわれにて候 桜に病めば
紀野恵
抱【いだ】かれてこの世の初めに見たる白 花極まりし桜なりしか
稲葉京子『槐の傘』1981
まあまあと言い合いながら映画館を出てからしばらくして桜ある
永井祐『日本の中でたのしく暮らす』
それは誰かが照らした桜 何回も死んだあと2人で見上げたい
永井祐『日本の中でたのしく暮らす』
三月のさくら 四月の水仙も咲くなよ永遠の越冬者たれ
福島泰樹『バリケード・一九六六年二月』1969
林檎むく幅広ないふ【ないふに傍点】まさやけく咲き満てる桜花【はな】の影うつしたり
岡本かの子『浴身』
ふしくれ立つた胴ひとねぢりふたねぢり桜の大樹は生きてくるしゑ
浦河奈々『マトリョーシカ』