寄せ集め短歌鑑賞
短歌の鑑賞は、短歌を作るのと同等の文学行為だと思います。
藤原龍一郎
まだ準備中
ここには、さまざまな機会に書いた短歌鑑賞を集めてあります。
(一部描き下ろしも)
必ずしもその歌人の代表作であるわけでなく、
また、評言の長さや口調も一貫しません。
なお内容はアップする際に手直しすることがあり、
評論等の掲載時と異なります。
準備中
ここはGooglesite。別のページを更新して公開すると、まだ公開したくない準備中のページもいっしょに公開されちゃって、見える状態になってしまう仕様みたいです。
歌一覧
韻文をわが武器となし見あげれば積乱雲の翳の濃密
家庭内歌人とは何?バスタブのふちに玩具のアヒル並べて
韻文をわが武器となし見あげれば積乱雲の翳の濃密
藤原龍一郎 『202X』2020
弾圧されて地下壕に隠れ住んでいる歌人がマンホールの蓋をずらして空を見上げたときの歌かしら、ぐらいの、悲壮感がただよってる!
歌人はしばしば自分の〝作歌ライフ〟を詠みますが、この歌は〝作歌ライフ〟と言ったら軽すぎで、歌人としての自覚と誇りを強く感じられるので、〝うたびとライフ〟っていう感じです。
こういう歌に限らず、藤原龍一郎の歌には悲壮感が漂っているものが多いと思います。
この歌も、普通に、歌人としての自覚と誇りと読める内容ですが、その誇りに少し悲壮感があって、その悲壮感を増幅すると、
(増幅しなくていいのですが、隠し味の香料ってつい深く嗅いで「これはセージかしら」なんて思いませんか?)
次のような物語になるのではないかしら。
「それは歌人というものが弾圧される時代である。空港や主要駅にはコロナの検査所と歌人検査所(人麻呂やら茂吉やらの肖像を踏ませる踏み絵)が設置された。歌は詠まないと宣誓書を書いたにもかかわらず、元歌人は歌人狩によってむごたらしく殺され続けた。
歌人たちは地下にもぐった。(「ターミネーター」の未来の人類みたいに。)
地下壕で歌を詠み、日本語を護るべく、日夜詠唱を続けている。
この歌はそんな地下生活のなか、マンホールの蓋をずらしていっとき空を仰いだときの気持ちを詠んだものである。」
なーんて。
冗談みたいに思うでしょうが、これってかなり本気の深読みです。
映画っぽさも決して悪くない。そもそも悲壮感というものは少しおおげさで演出的な面があるわけで、この歌はその点さりげなくて気になりません。
家庭内歌人とは何?バスタブのふちに玩具のアヒル並べて
藤原龍一郎『東京哀傷歌』
散らばった言葉をあつめ、心はいつも歌人として出家
子どもが出たあとの湯にちらばる玩具のアヒルを拾い集めて並べる。そんな日常的な行為にも、散らばった言葉をあつめて五七五七七と整列させる歌人の思考と重ねているようで、とてもおもしろい歌です。
最初の「家庭内歌人」は造語だろうと私は解釈します。
(もしかしたらこういう言葉が歌集の評などに使われた例があったかもしれないけれど、この歌の中では藤原龍一郎自身がこの言葉の意味を独自に考えていると思います。)
子どもが出たあとの湯にちらばる玩具のアヒルを拾い集めて並べる。そんな日常的な行為にも、散らばった言葉をあつめて五七五七七と整列させる歌人の思考と重ねているようで、とてもおもしろい歌です。
最初の「家庭内歌人」は造語だろうと私は解釈します。
(もしかしたらこういう言葉が歌集の評などに使われた例があったかもしれないけれど、この歌の中では藤原龍一郎自身がこの言葉の意味を独自に考えていると思います。)
★ついでながら、藤原龍一郎には、詩歌の言葉によって時代と向き合う歌がたくさんあり、そのように詩歌に携わることを役割として強く意識していると思います。歌人について詠む歌も多いのですが、藤原の歌に出てくる歌人は、本人の詩的決意を増幅したものなのか、「歌人」というより、「うたびと」という、それ自体が詩情を強く帯びた存在(個人的にはなぜかスナフキンを連想)であるように見えます。