寄せ集め短歌鑑賞
短歌の鑑賞は、短歌を作るのと同等の文学行為だと思います。
夢野久作
(まだ準備中ですが一部公開)
ここには、さまざまな機会に書いた短歌鑑賞を集めてあります。
必ずしもその歌人の代表作であるわけでなく、また、評言の長さや口調も一貫しません。
なお内容はアップする際に手直ししていますので、評論等の掲載時と異なります。
2018年9月公開開始 以後随時更新
短歌の鑑賞は、短歌を作るのと同等の文学行為だと思います。
(まだ準備中ですが一部公開)
ここには、さまざまな機会に書いた短歌鑑賞を集めてあります。
必ずしもその歌人の代表作であるわけでなく、また、評言の長さや口調も一貫しません。
なお内容はアップする際に手直ししていますので、評論等の掲載時と異なります。
2018年9月公開開始 以後随時更新
夢野久作の探偵歌をピックアップして鑑賞を書いた※ら、それはたまたま春と秋の歌だった。
※上記の鑑賞文は2025/5の東京文学フリマでフリーペーパーとして配布。そのpdfがこちら。
ここでは、夏と冬の、探偵は出てこないがテーマが共通する点があると思える歌についても鑑賞。
春風が
先づ探偵を吹き送り
アトから悠々と犯人を吹き送る
夢野久作 『猟奇歌』(「夢野久作全集3」ちくま文庫1992)
※「猟奇歌」は1927~35年に雑誌に発表されたもの。著者没後『夢野久作全集』(三一書房1970)その他の全集にまとめられて掲載。
現在、中公文庫『猟奇歌』2025(900円)でも読める。
その世界はアダムとイブでなく、
「探偵と犯人」の追いつ追われつを基本原理として開始されるのだろうか
哲学的発想の並行世界
「探偵」という語を短歌の中ではじめて見たのはこの歌だった。
春は始まりの季節。過去を葬り新たに始める季節。この春風は世界を新しく目覚めさせる役目なのだろう。
その春風が新しい世界に最初に送り込むものが「探偵」だというのもすごく示唆に富んでいるが、次に「犯人」を送り込むことも衝撃的だった。その世界はアダムとイブでなく、「探偵と犯人」の追いつ追われつを基本原理として開始されるのだろうか。
いやいやいや、この歌が書かれたのは昭和初期。調べてみると、恐慌などで経済状況は悪化。日本軍が満州を占領し、軍部が政治に影響力を持って言論統制なども強まった時期である。
「探偵と犯人」という設定は、そういう時代の空気の反映であるととるのが順当だ。
しかし、短歌鑑賞は作者の事実や思いをわかってあげるだけでいいのか? 具体的事実にとどまらぬ本質的な普遍性を備えているかもしれない。この歌には、状況を俯瞰して本質を見抜いて「探偵と犯人」というものに変換した、強い知性が感じられる。現在の感覚による鑑賞も受けて立ってくれそうだ。
自分はSF好きで、世界を外から見る視点に親しんでいたため、この歌を見た途端、並行世界的な解釈をせずにいられなかった。しかもこれはサイエンスじゃなくて哲学的発想の並行世界だ。「探偵と犯人」以外にも、別のセットで開始する世界をいろいろ想定できそうだ、なんてことまで考えたくなった。
「探偵」が「犯人」より先、というこの順番は何だろう。捕食者に獲物を与えるように「犯人」を放つ。このことも、当時の社会を皮肉ったものなのかもしれない。しかし、そこから世界が動き出すこの感じは、それ以上の何かとてつもないことを示唆していそうだし、特定の時代にとどまらず、圧が時空を超えて届く心地がした。
感動はMAXだったが、その理由を説明しようとすると、当時、そして今も、「何かとてつもない示唆」という言葉で行きどまってしまうのだ。とてつもない示唆……。 2025年5月12日
透明な硝子の探偵が
前に在り うしろにも在り
秋晴れの町
夢野久作 『猟奇歌』(「夢野久作全集3」ちくま文庫1992) ※「猟奇歌」は1927~35年に雑誌に発表されたもの。
街が人間を監視・客観する装置に
人は自ら「探偵」を放って、見つつ見られつしているのか
街が探偵だらけとは、先に書いた当時の社会状況を考えると、思想を取り締まる特高警察や、人々の相互監視などで息詰まる生活実感かと思われる。
しかし、それだけでは読めた気がしない。この歌では「探偵」だけでなく、「秋晴れの街」も気になる。街は秋の爽やかな晴天のもとにある、という、一見当たり障りなくありふれた表現だが、他の語との関係や置かれた位置の効果などから、「秋晴れの街」がなんだか水槽みたいに感じられて、このフレーズが歌のただならぬ空気感を担っている気がしてならなかった。
「街」にはそこここにガラスがある。秋晴れの澄みきった空気のなか、ガラスは、街にあふれる人影を映しながら、光を鋭く反射する。「透明な硝子の探偵が前にうしろに」とは、「秋晴れの街」という透明な光の水槽のなかで、「探偵」たち(=人々の分身)が、人々自身を捜査対象のように尾行し、立ち居ふるまいを窺うさまだ。金魚鉢の金魚が増幅した自分の視線を四方八方から浴びるように、人々は自分を見ながら見られている。――街(世界)がそういうふうに人間を監視・客観する装置になっているかのように、歌は描いていないだろうか。
最初に引用した「春風が……」の歌では、探偵は世界の外側から送り込まれたが、この歌では空間が普通の幾何学を超越して歪み、世界の内側のそのまた人間の内側にある視点が、自ら「探偵」を放って、見つつ見られつしている。そうした空間の歪みの中に身を置く感覚表現は、社会が変化したとしても、新たな意味を帯びて読み替えが可能なのではないだろうか。
2025年5月12日
【改作実験】 ところでこれが「探偵」でなく、例えば「きらめき」だったら?
改作 透明な硝子のきらめきが前に在り うしろにも在り秋晴れの町
あれま、人好きのする「いい歌」になっちゃった。(-_-;) 念の為申し添えますがこれは皮肉です。
美しく毛虫がもだえて
這ひまはる硝子の瓶の
夏の夕ぐれ
ルビ:硝子【ガラス】
夢野久作 『猟奇歌』(「夢野久作全集3」ちくま文庫1992) ※「猟奇歌」は1927~35年に雑誌に発表されたもの。
これは「探偵」の歌ではない。「探偵」の歌がたまたま春と秋だったので、夏冬の歌も検索してみたところ、テーマや空間把握が通底していると思えるこの歌を発見。
さっきの「秋晴れの街」から水槽を想起したのは、もしかすると自分だけの深読みかもしれない、という不安もあったが、これを見て、大当たりだったかもと思った。
この歌も、透明な容器に閉じ込められるような閉塞感を書いている。
中で毛虫は苦しんで出口を求めて這い回るが、外から見ているぶんには、それが、美しくもだえているように見える。
冬空が絶壁の様に屹立してゐる
そのコチラ側に
罪悪が在る
罪悪の側、犯人の側という宿命を負っている側がある
上記と同じく、冬の歌を検索してみて、これもテーマや空間把握が通底していると思った。
「冬空が絶壁の様に屹立してゐる」なら、冬空は障壁であり、向こう側には行けない。
そして、コチラは「罪悪」の側として隔てられているみたいだ。
最初に上げた「春風……」の歌(探偵が送り込まれ次に犯人が送り込まれた世界)とも符合する。
空間的閉塞もあるが、そもそも罪悪の側、犯人の側という宿命を負っている側があるという世界把握にドキッとする。