寄せ集め短歌鑑賞
短歌の鑑賞は、短歌を作るのと同等の文学行為だと思います。
や行の歌人
(まだ準備中ですが一部公開)
ここには、さまざまな機会に書いた短歌鑑賞を集めてあります。
必ずしもその歌人の代表作であるわけでなく、また、評言の長さや口調も一貫しません。
なお内容はアップする際に手直ししていますので、評論等の掲載時と異なります。
パネーコメントは、ここにアップする際に付けています。
短歌の鑑賞は、短歌を作るのと同等の文学行為だと思います。
(まだ準備中ですが一部公開)
ここには、さまざまな機会に書いた短歌鑑賞を集めてあります。
必ずしもその歌人の代表作であるわけでなく、また、評言の長さや口調も一貫しません。
なお内容はアップする際に手直ししていますので、評論等の掲載時と異なります。
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次の歌人は個人別ページがありますのでそちらを御覧ください。
→山下一路
目次
山田航『さよならバグチルドレン』2012年
蛇口を上向きにして「空」を濡らそうとするのは、雨の反対であるし、お返しするみたいでもある。
天を模倣する行為、そして、〝天に唾する〟という反抗への連想を少し含む。
また、すぐ頭上に空がありそうな錯覚は、江戸小話の星取竿を思わせもする。
雪舟えま『たんぽるぽる』2011年
●とりあえず普通に解釈
要素1 臍の緒など母系の連結ヒモを連想
要素2 赤ん坊が乳首に吸い付く感覚
聴診器が胸に軽く吸い付くひやっとした刺激が、乳児が乳首に吸い付く連想を喚起し、それは母乳を促すようなぐあいに作用する。母系ヒモつながりで、「母、祖母、曾祖母」というふうに吸い出されてくる。
このつながりは、普通なら血縁みたいなもので表現するんだろうけど、そういう使い古された「縁」のイメージを超え、ふとした一瞬に配線がひやっとコネクトしちゃって覚醒する感じがすばらしいと思う。
●踏み込んだ解釈
この先は相槌を期待しない。
私は「吸い付く」のごく軽い能動性にも効果が少しあると思っている。
聴診器側の吸引力が能動的であることを増幅すると(しなくていいが)、この吸引には抗えないような感じも少し検出できるではないか。
抗えないとは、例えば、USBを挿されたパソコンが中身をさぐ られる、みたいな。そういえば、吸盤⇒宇宙人⇒記憶を走査、みたいな……いやそこまでいかないけど、一瞬で通電しちゃうような感じ。
雪舟えま『たんぽるぽる』2011
はじまりから雨がふりつづく星ってどこだかわからないけれど、たぶん快適ではないだろう。
そして、「みんなの代わりにゆく」は自己犠牲的な感じ、
――たとえばテレビの「鉄腕アトム」の最終回でアトムが地球を救うため核融合阻止装置を抱えて太陽めがけて突っ込んでいった、的に、--
カタツムリなら湿気を好むし、しかも幌馬車みたいで雨をしのげて長旅できそう、というわけで、みんなになりかわって何かの使命を果たそうとしている、という場面だな、きっと。
そういう役目をカタツムリに見出していることがおもしろくて、違和感もない。
おそらく、赤鼻のトナカイ的な心温まり系のシナリオ(ふだんあてにされない者が役に立つ、まじで猫の手を借りる)がひそかに作動しているのだと思う。
吉田恭大「早稲田短歌」43号 2014年
上句は、主体が〝まず名前を識り、次に現物を見る〟という順序でこの世界に覚醒していくものであることを表し、
(こういうとき人は予めデータをインプットされたロボットに似ている)、
下句は、現物である「鳥」と主体が金網で隔てられ、主体は現物の側に行けない、という図を描いている。
うまい比喩だし、こういう隔たりをもっと意識したいと思った。
言葉と人間の関係は、むろん良好だが、人間側が勝手に期待していることも多い。
人は言葉をこどものときから使い慣れていて、言葉が世界の全てに対応しており、言葉を使うことで世界のさまざまなものに触れた気になっている面があると思う。
それがどういけないかというと、人間というものの過大評価、むかしふうにいえば〝おごり〟に通じるからだ。
この歌を超えてしまうが、人と言葉は対等というか、人は言葉を支配できない。言葉も人を支配はしないがすごい影響力があって、人が言葉に頼ったり委ねたりしている要素もかなりある。
そういうことを冷静に考えたい。
与謝野晶子『舞姫』1906年
■この歌には、爽やかさと若馬の元気を感じる人が多いだろう。
今走り出すと言っていないけれど、若馬たちの群れにエネルギーがみなぎる。
「若」という字の効果もむろんあるが、加えて、「耳ふかれ」の部分に「何事か囁かれてそわそわする」という連想脈がある。
夏という時期がめぐってきて若馬の耳に「今でしょ」と囁く。
この日のために育った若馬たちはいっせいに、(そして否応なく)駆け出しそうだ。
■この歌は単に夏の風景と若馬のエネルギーを描いた歌ではない。それならもっと臨場感を盛り込むはずだ。そうでなくて、遠い冷静な視点で書いているような口調に押さえてあるように見える。
その効果で、若馬たち、そして人間の若者も、「さあいよいよ君たちの季が来た」という囁きによっていっせいに走り出す、ということを、必ずしも感動だけではなくて、現象として捉える冷静な洞察が入っているのだと伝わってくる。
若者は一定年齢に達することで、そのように促されるものだろうし、ときには時代の風が吹いて若者たちを突き動かす場合もあるのではないだろうか。
こういう屈折がそれとなく隠されているために、どこか見た目以上の「深み」を帯びた歌に仕上がっているのである。
【ついでの考察】
夏のイメージというと、草木が茂り爽やかに命を謳歌する季節である。秋になったら衰えが始まるから、命たちはそれぞれに夏にやりとげるべきことをやりとげる。「夏草やつわものどもが夢のあと」という有名な句も、そのイメージの一部を支えている。
しかし、夏といえば、昨今の現実の猛暑は耐え難い域に達している。そのせいなのか、あるいは言葉の世界で「夏」のイメージが少し成熟し(古典和歌の時代から夏の歌は少なめだった)たのか、夏の元気を詠むこのごろの歌は、当たり前のように目立たない屈折を含んで、かすかにつらそうに見えるようになってきた。
公園のすべての青を洋服に吸わせて夏のぼくらは跳ねる 田中ましろ
『かたすみさがし』2013年
知らぬ間に解けてしまつた靴紐がぴちぴち跳ねて夏がはじまる 山田 航
『さよならバグ・チルドレ』2012年
一見、夏を謳歌する歌に見えるが、これらは夏を迎えた自分たちをかなり冷静に客観する歌のようである。
人生のステージは 季節のように否応なく巡ってくる。夏という季が来てしまえば、いっせいに頑張るしかないが、やがて季節が移ろえば「つわものどもが夢」はかなったりついえたりするのだろう。
また、上記の歌にはどちらも「跳ねる」という動作がある。自力で地面を蹴るというけなげな行為だ。その現実的動作感からも「跳ねる」という語は「まじめな努力」を暗示できるが、それ以前にも、柳にとびつく蛙など、まじめな努力を象徴する既存のイメージがある。
【見比べてみよう】
以下2首は人聞きの悪い心情が詠まれている。
どちらも、やや「人聞きの悪い」心情を詠んでいる。そしてどちらも少し安全化して書いてある。
安全策その1 過去形で書く
啄木の歌は過去形で、「ある時期こういう思いを抱いたことがありますが、今はもう冷静になっています」と、読者にいらぬ心配をさせない書き方なっている。
安全策2 ブラックユーモア
対して、夢野の歌は、「こんなことで頭を下げるぐらいなら盗むほうがましだ」という瞬間的な強い屈辱感が、読者が読むたびに臨場感を持って再現され、短歌としてはかなり過激表現である。しかしながら、屈辱感を効果的に増幅するこの書き方 は、とても冷静さが感じられ、理性が制御しているブラックユーモアとして、許容され得るだろう。
■こういう工夫がほかにもあるはずだ。人聞きの悪い歌を
【むやみでなさ】
公序良俗に反する願望や暴言みたいなものは、むやみに言ったり書いたりしてはいけない。
先にお断りしておこう。意図的な誹謗中傷差別のようなものは、もとより詩歌表現ではないわけで、この考察の対象外である。
むろん心の中で何を思おうと自由だが、むやみに口にしたり書いたりしてはいけないものはある。
そうした表現をする場合、「むやみでなさ」こそがだいじだ!
プライベート空間で相手や雰囲気をわきまえれば本音を表出できる場合もあるが、短歌はプライベート空間でない場所で不特定多数の人の目に触れるものだから、むやみに書いてはいけない。しかし、本音で捉えた心象はだいじなものだし、思考過程のシミュレーション、比喩・暗示などのイメージ操作において、公序良俗に反する願望や暴言は重要な表現要素となりえる。
良識を失うことを恐れるのでなく、上記の二人のように、「むやみでない」書き方を工夫すべきだ。
おじぎの歌をいつか集めてみたい。→集めました