寄せ集め短歌鑑賞
短歌の鑑賞は、短歌を作るのと同等の文学行為だと思います。
な行歌人
(まだ準備中ですが一部公開)
ここには、さまざまな機会に書いた短歌鑑賞を集めてあります。
必ずしもその歌人の代表作であるわけでなく、また、評言の長さや口調も一貫しません。
なお内容はアップする際に手直ししていますので、評論等の掲載時と異なります。
パネーコメントは、ここにアップする際に付けています。
短歌の鑑賞は、短歌を作るのと同等の文学行為だと思います。
(まだ準備中ですが一部公開)
ここには、さまざまな機会に書いた短歌鑑賞を集めてあります。
必ずしもその歌人の代表作であるわけでなく、また、評言の長さや口調も一貫しません。
なお内容はアップする際に手直ししていますので、評論等の掲載時と異なります。
パネーコメントは、ここにアップする際に付けています。
この万札が手持ちの最後なのか、この店の勘定を済ませたらくずれてしまうのか。大晦日のファミレスに一人でいるらしく、金銭的困窮に加えて、孤独も深刻そうである。
注目したのは「ずっとさわっている」という部分だ。
「ずっとさわる」という動作は、単に札を手放したくない以上のこだわりを感じさせる。頼みにしていたものの最後の一枚を手放したら、決定的な局面をむかえてしまう。
そういうハードルがそこにありそうな感じを受ける。なんだかBGMが聞こえてきそうなドラマっぽさ※。
その緊張感は、何か決定的な変化、後戻りできない境界を越えるとか、たとえば「今夜を境に犯罪に手を染めざるを得なくなる」みたいな予感を、「気のせいならいいけど」という程度に感じさせる。
ところで、「お金ない状態」プラス「ずっとさわる」とくれば、啄木の「ぢっと手を見る」という歌と、響き合う※※だろう。
じっと見る手とは、すべて失ったあとに残る自分の手だ。
啄木は、その手を見て清貧の誇りが湧いてきそうな展開で自愛の歌を仕上げたわけだが、永井の歌は、啄木の有名な歌と別の展開で自愛の歌を仕上げてある。それだけでも手柄があると思った。
ドラマの場面っぽい歌は、かつてはわざとらしいものだった。
そして、
かつての価値観では、「わざとらしさ」は悪だった。
でも今はむしろ自然であり、逆にプラスイメージさえあると思う。
このごろ、オリジナリティに興味がなくなった。自分は世の中の一部としてありとあらゆる借り物で構成されている、と考えるほうが事実に近くて自然だ。
私たちは、この世の中のことの大部分を、現実じゃなくてドラマその他の作り物から学ぶ。カタチが用意されていて、それに近づくこと、キャラとして完成することが成長、と言える面もある。だから、あるカタチに自分がどはまりすることがあっても、わざとらしいとは限らなくて、自然な展開である場合もあるのだ。
例えば、うちの近所のタバコ屋のおばあさんは、見た目も物腰も、まるでドラマから抜け出したように「近所のタバコ屋のおばあさん」である。あのおばあさんは何十年もかけてあの完璧なフォルムに到達したのだ。
ここにいるこの私もかなり作り物である。(こりゃ失敗作と思うようなブサイクな仕上がりだな。)
そもそも私たちが成長と呼ぶことの半分以上はインストールである。話し方、物腰、ものの考え方などを「身につけること」が、成長の一大要素である。
……この話をして通じる人、通じない人は、ほぼ半々だ。
こういう鑑賞は、ある程度歌を読み慣れた人にしか通じないものだが、本歌取りほどじゃなくても、似たシチュエーションで似た言葉がある歌、それも歌の中の言葉の位置が同じ(冒頭とかどまんなかとか結句とか)ならなお、響き合いは強まる。
まだかきかけ
一見、「帰宅しておいしい夕飯を食べる幸福感」を詠んだかと思わせる。
が、しかし、「なんておいしい冬の大根」という部分は、かすかにわざとらしい※母親口調であり、主体のセリフではなさそうだ。
歌の前半の、「電車の外の夕方を見る」は、「自分は夕方に属していない」という位置関係を少し強調している。
ちらっとでも強調されたことは無視できないわけで、「なんておいしい冬の大根」も、歌の主体者は、そういう言葉の文化圏(季節感を共有し味わう幸福な文化)の部外者であることがうかがえるのだ。
そして、部外者だけれども、主体者はそこにいる。
夕方の景色の中を通過し、異文化の家で異文化の母親と、異文化ではあるがおいしい大根を食べる。そういう「ちょっと浮いたような在り方」が詠まれている歌だと思う。
こういう歌には、語句の表面的な意味内容から一歩踏み込むための「目印」として、かすかなわざとらしさ、かすかな不自然、みたいなものが仕掛けてある。それを見つけると、いきなり歌が変化する。
・喫茶店で二時間ばかり待ちぼうけをくらったか、あるいはつまらない長話につきあい、グラスを片付けられてもまだ話を聞かされているのか、と、日常にありそうな場面に帰着するユーモラスな歌だが、ユーモアの中心はそこではない。
・冷たい飲み物を入れたコップを片付けたあと、コップの丸い痕が残る。手持ち無沙汰な指が無意識にその丸の一部をこすって消すわけだが、 主体は、この指のどうでもいい行為に対して、「○をCにしてみた」という、妙にあどけなくて、やや知的な、どうでもいい認識を示す。
・そのあどけない知的さというかすかな不釣合いが、頭脳の一部だけ動いているようなぼんやり感を出している。そういう表現方法に宿るユーモアが味わいどころだ。
・もうひとつ、「してみた」という終わり方は、「どうだ、どうなる」と次の展開への期待を含むが、この期待がコップの痕というどうでもいいものには不釣合いであるところからも、ユーモアが滲み出ている。
※なお、「してみた」はとぼけた味が合う語らしい。
※全く余計なことだが、人は、手持ち無沙汰で他に何もできない場合、こぼれている水があれば絵を描く。雪舟の逸話にそういうがある。(雪舟が小僧時代に絵ばかり描いて和尚に叱られ、閉じ込められた。和尚が許してやりに行ったら、雪舟にネズミが飛びかかろうとしているではないか。追い払おうとしたが、よく見たらそれは、涙の水で描いたネズミだった。)
・この歌は、悪魔を詠んでいない。「破裂した水風船の結び目」から「悪魔のへその緒」を連想している。ただそれだけである。
「じゃありません」としている最後のヒネリ、「一度思い浮かべさせてから打ち消す」は、短歌では昔からある、ややおちゃめなレトリックだ。
駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ (藤原定家)
しかし、それだけじゃなくて、読後にはもう少し複雑な味が残る。
「水風船の結び目」は確かに見た目が妙なもので、ヘソのようだが出っぱってやや醜悪だ。
ぎゅっと縛って中身が出ないようにしたという連想から、「封じる」ということにも少し通じないわけではなく、そこに「悪魔」との親和性が微かにないわけでもないし、「破裂した」も少し意味を帯びないわけでもなさそうだ。
そして、この「ないわけではない」程度の連想の淡さが、「じゃありません」と言いたくならせたような、そういう種類の必然性があるような、気がしないでもない。(笑)
これは深読みと言われてもかまわないけど、「悪魔」といえば、「悪魔の囁き」は内なる声だとか、人は悪魔性を内包しているだとか、要するに「内なるもの」というイメージがある。
で、そこから、「水風船の結び目」を「悪魔のへその緒」になぞらえることは、人が胚胎した悪魔を子宮ごと取り出して、母体(人)から切り離して口を結んだ、みたいな連想脈が生じ、それが「破裂」しちゃったということは、悪魔が生まれちゃったあとの「臍の緒」みたいだ、というふうに、淡い連想が淡いまま、なんだか妙にうまくつながっていってしまいそうだ。
で、それを「いやそれじゃ空想がつるつるとすべり過ぎちゃうし」と、少し打ち消すための「じゃありません」が必要だったのではないだろうか。