自然を詠めば自然詠
社会を詠めば社会詠
短歌について詠めば短歌詠
短歌詠コレクションⅡ
〝作歌ライフ詠〟
掲出歌は順不同。見つけた順に各分類項目に割り振りました。
掲出歌は順不同。見つけた順に各分類項目に割り振りました。
「短歌詠」はざっくり次のように分類できます。
歌人名が入っていない〝歌人詠〟
「歌人」は「うたびと」とも読み、少し「詩的存在」というイメージが強まります。
〝歌論詠〟〝持論詠〟もここに含めます。
短歌作品を対象として、その姿、雰囲気の描写、鑑賞や評。
(実在する短歌作品に対するものはほとんどなく、ほぼ架空の作品が対象。)
作者自身の実生活のこととは限りません。
聞いた話か、空想か、短歌はいろいろなスタンスで詠まれます。
「歌ひとつ覚えるたびに星ひとつ熟れて灯れるわが空をもつ」(寺山修司)という歌もある。
ルビ:二十年【はたとせ】
※塚本邦雄の短歌詠は〝うたびと詠〟の章に特にたくさん集めてあります。
追悼歌などを詠むのは歌人だから当然として、それを詠む自分を詠むというのはすごく歌人的な発想ではないでしょうか。
歌人であることを誇るような歌がある一方で、なんだかその裏返し的みたいな、謙遜・自嘲を詠む歌もけっこうあります。
(個人的には苦手。)
松木秀には自嘲的な〝作歌ライフ詠〟がよくあるようです。もう少しあげておきます。
この感じ。しっくり来る人もいるのでしょうが、私はあまりふさわしい読者ではないかもです。
個人的には、こういう屈折感、どういう相槌を期待されているのかわかりづらくて。
これは自分自身のためのモノローグなのかもしれない。
でも、発表したら人が読むかもしれないっていう未必の故意がある……。
短歌ではしばしば自分を実況します。つまり短歌には自分で作る〝自分ドキュメンタリー〟みたいな領域があります。
「自分を実況して歌を詠みたい作者」(供給)と「それを読みたいと思う読者」(需要)が、つり合うように存在しているようです。
ここまでとりあげてきた〝わがうた詠〟〝作歌ライフ詠〟は、その〝自分ドキュメンタリー〟のなかでも、読者との関係が特殊です。
〝わがうた詠〟〝作歌ライフ詠〟が読者として想定しているのは、どんな人なのか?
短歌の多くは短歌の結社誌・同人誌に発表されますから、読者の大半は歌人です。同じ歌人なら共感を得られる、ということが前提になっていると思います。
〝わがうた詠〟〝作歌ライフ詠〟は仲間意識が前提が前提で成立する内輪ドキュメンタリージャンルであり、「わたしの健康法」みたいに当たり障りなく、雑談掲示板ふうに歌人が交流できる題材、という面があると思います。
それが悪いというのではありません。
そういうのもあっていい。内輪ドキュメンタリーも良い。歌人の雑談掲示板という交流的なノリもちっとも悪くない。
そして、短歌というものの裾野の広さを考えれば、別の裾野には違うのもあるだろう、短歌詠にはもっといろんなものがあるだろう、という期待がふくらみます。
たとえば、歌人どうしの交流があるんなら、人が短歌と交流するとか、短歌が短歌と交流するとか、そういうような領域もあるはずだ、とか。