ウェンディには羽がない

退屈していた。

秋本は退屈していた。

はぁっ、と大きくため息をつく。今日もなにも変わらない。

死刑囚の檻の街、シスマでは今日も平穏に、それでいて物騒に、子供たちが過ごしている。

彼方が亡くなってから、市役所を用なく訪れる奇特な人物は現れないでいる。

だから今日も秋本は、退屈に縛り付けられながら役所の椅子に座っていた。

「あー。暇ですねー、佐々木さん」

「……」

気まぐれに、背後に座っている同僚の佐々木に声をかけてみるが返事はない。

彼女は今日も、淡々と時の流れを見つめていた。一体どうしたらほとんど仕事のないここで退屈せずじっとしていられるのか、コツを教えて欲しいほどにうらやましい神経をしている。

佐々木と一緒にいることになって、もう四年が経つ。

相変わらず彼女と話せたことはなく、彼女がどんな人間でどんな背景を持ってシスマに来たのかを秋本は知らない。

秋本が殺人鬼という冤罪によって外で働けなくなって、国家の情けで働かせてもらえているならば、佐々木はどうしてシスマに来たのだろうか。

――――あなたがなにも罪を犯していないから

――――彼らと同じになれなかった

ふっ、と佐々木の忠告が蘇る。

彼方と親しくなる秋本に対して、佐々木が言った詩的な忠告。

あのときは忠告の真意がわからず苛立たしく思ったが、振り返れば酷く気にかかる言葉だった。

聖痕保持者をピーターパンに例えたり、彼方を羨んだり、佐々木はちらちらとシスマに対するあこがれのような感情を見せている。

普通、そんなことはありえない。

シスマとは極悪人の子供たちが暮らす場所、いわば魔界のような扱いをされている。

保持者は凶悪な殺人鬼で、近づけば殺して腸を引きずり出す残忍な性格だと外では思われている。

もちろん、そんな性格の子供など一人もいないというのは、秋本にもわかっていた。マスコミの情報操作のなれの果てだ。

だがそんな情報ばかりをつかまされている外の人間が、シスマにあこがれることなどあるだろうか。連れてこられる当の子供たちでさえ、どんな恐怖の場所だろうとびくびくしながらシスマに入るのに。

考えれば、おかしな話だ。どうやったらネバーランドに見えるのか。

好奇心がむくむくと湧いてくる。下衆な想像だとはわかっていても、彼女がどうしてここにいるのか考えずにはいられない。

シスマがネバーランドに見えるほど、彼女の生い立ちは暗いのだろうか。

湧いてしまった想像は止められず、彼女なら聞けばあっさり吐いてくれそうとさえ思う自分にやや辟易する。いい年して中学生のようだ。

「なんですか」

「えっ」

「さっきからこちらをずっと見ていますが、なにかついていますか」

「あー、いやー…………」

佐々木に声をかけられてぎょっとする。

どんなに見ていても、佐々木がこちらに振り向くことなどないと思いこんでいたかもしれない。どうしても、彼女が振り向き声を発する、という発想に至れない自分に秋本は頭を抱える。

彼女だってロボットではないのである。見ていたら気付くに決まっている。

なんと言おうと逡巡して、決意を固める。

どんな反応を返されようと、この際暇つぶしの会話ができればなんでもいい。

「佐々木さん、前にシスマがネバーランドに見えたって言ってたじゃないですか。それってなんでかなーって、気になって」

「…………」

「すみません無理して話さなくていいんで! 下衆なこと言ってすみません」

沈黙。

できるだけ明るく聞こうとしたのが仇になったか。暗いものが眠ってるだろうことに明るく聞いたら嫌な気もするか。

だったらどう聞けば正解だっただろう。佐々木との関わり方がどうしてもわからない。

「………今日、六月二十日でしたっけ」

「え? そうですね、はい、そうだったと思いますよ」

唐突に聞かれた日付に、やや挙動不審に返す。

役所のカレンダーには携帯もテレビも持たない秋本が日付を忘れないために、終わった日には斜線が引いてあるため見ればすぐにわかるようになっている。

たしかに、斜線は十九日で終わっている。今日は二十日だ。梅雨のわりに外はさわやかに晴れている。

佐々木は、日付を聞いたかと思えば少し遠くを見て、懐かしそうにつぶやいた。

「ああ……――――今日、父と母の命日なんです」

+++

佐々木は追想する。

ネバーランドを夢見た日を。

+++

「……ただいま、お母さん」

学校が終わってから、佐々木はどこにも寄らずに帰る。

友達はいない。作ることができなかった。

佐々木は入ったばかりの高校で早々に浮いて、いじめのようなものに合っていた。

特に苦に思ったことはない。むしろ家にいるよりも、そっちのほうが楽だった。

「お腹すいたね。すぐごはん作っかんね」

居間に眠る母に、独り言のように声をかける。返事はない。することができない。

なぜなら、意識などとうにないからだ。

去年交通事故に遭い、下半身不随。そのせいかもわからないがすっかり呆けてしまって、今はずっと眠り続けている。起こせば起きるが人形のようなものだ。

世話は、佐々木がしている。

佐々木がしなければ、母はずっと寝たまま、知らないうちに死んでしまうのだろう。だから、友達と遊ぶこともできないまま、佐々木は家にいなければならないのだ。

本当は高校受験をすることさえ反対されていたのだから、行かせてもらえるだけよかった。

しんとした家の中、火が鍋を熱する音だけが佐々木の耳に届く。

もう咀嚼もできない母のための、栄養だけが入った味気ないスープが煮えていく様子を感情なく見つめる。

この一年、すっかり、佐々木の感情は摩滅してしまった。

疲れたという言葉も出ない。いじめられている時間のほうが楽しいとさえ思えた。

いじめられているのは、楽しい。なぜなら感情が来るからだ。

それで自分が生きていると思えるからだ。相手にとって自分は存在していて、自分の言動行動が、相手にきちんと伝わるからだ。

それを確かめることが、楽しかった。確かめるために学校に行っていると言っていい。勉強をしに行くというよりも、生きていることを確認しに行っているのだ。

そう思えるのは単に、いじめとも言えないほどぬるい悪ふざけであるとわかっているからだが。

だが、母の世話は、あまりにも無為すぎて。

もう声を出すのもままならない母への世話は、まるで一人で人形遊びでもしているような気分だった。

食事を口に流し込み、おむつを変えて、体を拭いて。毎日毎日、たったそれだけを家でやっている。

掃除をして、料理をして、食器を洗って、洗濯をして、勉強をする。

そんな行為の中に、佐々木の感情が入ってくることは一度もない。

母から感情が返ってくることは一度もない。

そんな空しさに気付いてしまってから、母に一日のできごとを言うこともやめてしまった。恨み言さえ湧いてこなかった。

植物状態でも生きていてほしいと願ったはずなのに、どうしてあのとき死んでくれなかったのだろうと思うことさえやめてしまった。

もう、なにもかも意味がないのだ。

すべてが無為だった。

無為という言葉さえ、適当でないほどの虚無だった。

ため息も出ない。

「お母さん、ごはんできたよ」

健康だった頃の面影もない、死にぞこなった母のそばに座る。

寝たきりになってから、すっかり痩せた。感情なく、時々うめくだけの姿はゾンビによく似ている。揺すり起こすと、何の感情もない目がゆっくり開いた。

哀れだという、その気持ちだけは湧いてくる。

母の体を起こし、閉じられることのない口に冷ましたスープを流し込む。噎せないように、慎重に少量ずつ入れるから、母の食事はいつも一時間かかる。

その間ずっと支えていないといけないから、佐々木の左腕はいつも筋肉痛だった。

本当は、介護施設かなにかに入れてしまった方がいいのだ。そうできなくとも、介護用のベッドを買った方がいい。背もたれを起こすことができるベッドがあれば、少なくとも佐々木の負担はぐっと減るはずだった。

しかし、できない。

佐々木は、奨学金で高校に行っている。

本来なら奨学金などいらなかったはずだった。けれど母が働けなくなった以上、父一人の給料では佐々木を高校に通わせることもできないのだ。

そんな経済状況で、介護道具など揃えられるわけがない。

せめてアルバイトでもできればいいものを、介護があるからそれもできない。

八方塞がりだった。それを恨む時期はとうに過ぎた。

ただ無為に、無力に、佐々木は母の介護をした。

それができるのは自分だけだったから。

母の食事を終わらせた後、佐々木は掃除と洗濯をする。それでも夕飯まで時間はあまるから、そのあと予習と復習をした。

勉強は好きでなかったが、なにもしないより苦ではなかった。

おかげで前期試験では学年上位を飾ることができた。

それを報告しても、母は喜んではくれなかった。

そうやって勉強をして時間を潰した後、父が帰る時間に合わせて晩ご飯の用意をする。帰る時間を見誤って、帰ってくるまでにできていないと父は酷く怒る。

昔はそうではなかった。それが始まったのは母が事故に遭ってからだ。

だから佐々木は父を恨みはしない。父も疲れているのだ、佐々木を学校に行かせるために、以前より仕事を増やしているから。

感謝しているくらいだ。だから、どんなに罵倒されても、佐々木はなにも反抗しない。

感情は摩滅していた。

それを悲しいことだとは思わなかった。

ぐつぐつ煮える鍋を横に、佐々木は時計を見る。

もうすぐ十二時を回る。確認して、背筋を伸ばす。

来る。

「ただいま」

「おかえり、お父さん」

乱暴に扉を閉める父を出迎えて、その鞄を受け取る。

くたびれた父からは今日も酒のにおいがした。仕事帰りはいつも、そうやって酒のにおいを漂わせていた。

それでも、食事は佐々木のものを食べに帰ってくるのだ。これを律儀と言うのか、優しい父と呼ぶのか、佐々木には判断がしがたかった。

父が帰ってくる寸前に、テーブルに並べていたシチューを父は無言で食べる。乱暴に、流し込むように。

食事というよりは義務というような動作で苦しげに。

最近父は汁物しか食べなくなっていた。汁物でさえ、食べるのが辛そうにしていた。

それを見ても、佐々木は心配するような言葉をかけない。

かけたら、罵倒が返って来るに決まっているからだ。酷いときには暴力を振るわれることもあった。

苦痛ではないが、面倒だから、結局父子の間の会話は事故以来なくなってしまった。

それを悲しいと、誰も思うこともない。

「…………お父さん」

だが、今日は違った。

佐々木は聞こえるか聞こえないかほどの小さな声で、語りかける。

「今日、わたし、」

「あ?」

ぎろり、父の浮き出た目玉だけが佐々木に向く。

石みたいに固くなっていた背筋が、余計に固く縮こまったのを自分でも感じた。それでも、これだけは言ってほしかった。

佐々木は覚悟を決めて、続きを言う。

「今日、わたし誕生日やけん、だから、」

「あぁ? だからなんや、これ以上おまんに金使えってか? なんか買うてくれってか? お母さんがこんな状態になったあとに、誕生日なんてくだらんもん言いだしよってこの恩知らず!」

「ちゃうの、お父さん、ちゃうの………痛い、痛いよ」

まだ熱かったスープを佐々木にひっかぶせたあと、父は乱暴に佐々木の髪をひっぱる。

違う、違うという言葉は父には届かず、執拗に腹を殴る父の拳を防ごうとすると、弁解さえも口にはできない。

腹を守るために体を伏せると、無防備な背中に何度も何度も拳が落ちた。ハンマーで殴られるような、上から備品が大量に落ちてきたような、そんな衝撃に佐々木はうめき声もあげずに耐える。

まだ、腹じゃないから耐えられた。痛くないわけではない。だが背なら骨が折れなければ後につながらないからいいのだ。

以前腹を殴られたときは、血尿が出て病院に行った。それでまた殴られたので、それからは腹だけはまもるようになった。

どん、どん、と衝撃に耐えて動かない佐々木に、やがて父は飽きて風呂に行く。

「ふぅ…………ふぅ…………」

どっ、と来る疲れに小さく息を繰り返す。

殴られていたときは感じなかった痛みと、ぞわりと体をなめる冷や汗に、すぐに体を起こすことができない。

今日は、いつもよりも長かった。

時計を見ると一時をまわろうとしていた。今日はいつもより帰りが遅かったから、きっとそれもあって父は苛立っていたのだ。

――――誕生日おめっとうって、言ってほしかっただけなんやけどな…………。

ぼんやり、時計を見ながら佐々木は思う。

母が事故に遭ってから、なにもかもが変わってしまった。

佐々木は無気力になり、父は暴力的になり、母は置物同然となってしまった。

みんな、疲れてしまっているのだ。生きることに必死で。

事故があっても誰も助けてはくれなかった。自分たちで救急車を呼んで、慰謝料を請求して、保険金を受け取って、それでできるだけの治療をした。

それでも、入ったお金のほとんどを使うまでもなく母に打つ手はなくなってしまった。

代わりに、そのお金を集りにいろんなところから親戚が来るようになった。今は落ち着いたが、それは佐々木の受験前後まで続いた。

詐欺のように、強奪するように、あの手この手でお金はむしり取られて、今では事故前よりもお金がない。

みんな、疲れてしまっているのだ。

母を、佐々木を、養わなければならない父は、きっと誰よりも疲れているのだ。

そう思えば、暴力も耐えられた。

暴力は嫌だが、父を嫌いになったことはない。むしろ感謝して有り余るほどだ。だから、佐々木は反抗しない。

「おい、俺の着替えはどこだ!」

「今、持っていくよ」

怒鳴り呼ばれて、走り立つ。

背中は痛かったが、父の用件のほうが重要だった。

+++

背中が痛い。

ひりひりする背中を我慢しながら、佐々木は机を見つめる。

騒然とする昼休みの教室で、一人静かに座っている佐々木の姿は酷く浮いている。本を読むわけでも、自習をするわけでもない。ただただ、机を見つめる。

特にそれを退屈だと思ったことはない。

むしろまっさらな頭で時を眺めているのは、なによりも時間を早く感じさせた。

こうやってぼんやりしていると、気がついたときには授業が始まったり、終わったりしているのだ。

たまに眠気に負けて寝ることもあるが、睡眠と同じくらい、ぼんやりしているときの時間は早い。

「次体育やん、着替えいこー」

「あ、待ってやあかねちゃーん」

ぴくん、と佐々木は顔を上げる。

停滞していた雑然が、動くのを感じた。

次は、体育。

時計を見る。昼休みが終わる十分前。そろそろ着替えにいかなければならない。

机にかけていた体操着袋を持ってロッカー室に移動する。ぎりぎりの時間なのもあって、入っている人数は多くない。

ブレザーを脱ぎ、スカートを下ろして、人目も気にせず佐々木は着替え始める。

他の同級生のように体を隠すための着替え方が煩雑だっただけである。同性に見られる分には気にしない。

ただ、高校での着替えは、中学よりどうしてか視線が集まっている気がした。

それでも淡々と着替えて、自分のロッカーに制服を仕舞う。

ぱたん。

「…………」

そこで振り返って初めて、ロッカー室にいる同級生がみんな、佐々木を見ていることに気がついた。

どこか、心配そうに。不審そうに。

なにか佐々木がしただろうか。首をひねっても思いつかなかった。

「……どうしたん。わたし、なにかしたっけ」

「えっと、その……」

佐々木が声をかけると一斉に顔を逸らした。

言いづらそうにこそこそとなにかを相談する。佐々木は首を傾げるばかりで、彼女たちがなにを言いたいのかさっぱりわからない。

いじめは、どちらかというと男子にされているほうが多かったと思うのだが。これからは女子にもされるのだろうか。

想像したが、それでなにかが変わるとも思えなかった。

彼女たちが動こうとしないのを見て、佐々木は体育館に向かおうとロッカー室のドアノブを掴んだ。回した。

けれど開いたドアから出ることはできなかった。

「……なんか用?」

「あ、あのさ、佐々木さん」

佐々木の手首を掴んだ同級生が、おそるおそると口を開く。

その目線は合わない。じっと、佐々木の胸から下の部分を苦しげに見ている。

今まで同級生が話しかけてくることなんてなかったのに。佐々木は異例の事態に首をひねる。

「その……辛いこととか、ない? 実は男子に隠れて暴力振るわれてるとか……」

「……ないけど」

暴力、という単語に思わず身がすくむ。

だが男子に暴力は振るわれていない。もし振るわれていても、同級生たちには関係のない話だ。

「どうしたん、急に。今までなんも言わんかったやん」

「う、うん……無責任やって思うけど」

佐々木の言葉に同級生は目を泳がせる。

このままだと授業遅れるだろうなぁ、と佐々木はぼんやり思った。なにが用だかわからないが、早く終わらせてもらえないと授業に遅刻してしまう。

不意に、挙動不審に目を泳がせていた同級生が意を決したのか顔を上げた。

「でもさ、佐々木さん、中学まではもっと友達おったやん。みんなと話しとったやん。明るかったのに、高校入って佐々木さん、雰囲気変わった。うち、佐々木さんと同じクラスなったん今年が初めてやけど知っとるんよ、佐々木さんのこと……友達からも聞いとったもん。ねぇ、ほんまになんもない? 今からでも、佐々木さんの力になれない?」

「……大丈夫、なんもないよ。ありがとう」

中学のことを出されて驚くも否定する。

苦しいことなどなにもない。

ただ、佐々木がクラスに馴染めないだけで。

馴染むための努力をするだけの時間も余裕もないだけで。

佐々木がどうにかできることしか、今佐々木の周りにはない。だから気持ちだけを受け取る。

彼女は友達にはなってくれないけれど、見てくれている人がいることは佐々木にとって喜ばしいことだった。

「じゃあ……その体の傷、どうしたん? 男子やないんやろ?」

「……」

ぴくり、体が固まる。

さっき、見ていたのは背中の痣らしい。

少し、顔がこわばるのがわかった。

「虐待とか、されてるんじゃ…………」

「されてないよ」

凛、と答える。

こればっかりは否定しなければならなかった。

不快感が佐々木の中に湧いてくる。眉根を寄せる佐々木に同級生が少し怯えた顔をした。

「虐待なんかされてない。お父さんは、わたしとお母さんのために働いてきてくれとんの。だから、疲れてるお父さんを怒らせちゃうわたしが悪いの。そんな言い方しないで。虐待するような家族、わたしにはおらんよ」

「ご、ごめん……」

ようやく同級生が手を離す。

それを見て佐々木は口を押さえた。これではまるで虐待されていることを肯定しているようだった。

違うのだ。父はそんな人じゃない。本当はそんな人じゃない。

みんな疲れているのだ。父も母も佐々木も。

疲れているから、父は少しイライラしてしまうだけなのだ。そんな父を気遣えない佐々木が悪いのだ。

だから虐待なんかじゃない。

繰り返したかったが、繰り返せば繰り返すほど、父の尊厳を誤解されてしまうとわかっていた。

悔しい。

だが佐々木の今の家庭環境は、一介の女子高生である同級生たちに暴露できるものではなかった。

本当に正しく父を理解してほしいのに、してもらえないことがもどかしい。

「……でも、アキちゃんのこともあるから、佐々木さんのこと心配で……」

アキちゃん。

全身の血ががあっと沸騰する。

それまでぼんやりしていた視界が、急にクリアになっていく。

ああ、たしかにこいつは中学にいた。なんにもするつもりのない偽善者だった。

「アキちゃんはもっと苦しかったんや! アキちゃんはずっと何年も苦しんでた! みんな知っとったのに誰も手貸さんかったやないか! 今更わたしのこと心配して正義面か、ならアキちゃんのときに動かんかい!」

「ご、ごめんなさい…………っ」

「……――――っ」

そこまで言って頭が冷える。

ただの女子高生に、なにができるわけもない。

思い返って、佐々木はもう一度黙る。こんなに激しい言葉を使ったのはいつぶりだろう。

久しぶりに感情というものが佐々木の中に湧いたのに、湧いてしまったことに嫌悪を抱く。こんなことを言うのなら感情なんてない方がましだった。

「……ごめん。授業行こう。遅刻してまうよ」

「佐々木さん……」

今度こそ、同級生の声を振り切ってロッカー室を出る。

ドアを閉めたと同時に、授業開始のチャイムが学校中に轟いた。

+++

アキちゃんという友達が、佐々木にはいた。

城島亜姫。いつも髪をサイドテールに結っていた、人とわいわい騒ぐことがなにより好きな女の子だった。

佐々木はよく一緒に遊んだ。なにかイベントがあることを聞きつけると、必ず二人で一緒に行って、写メを撮ってクラスに見せびらかしながら思い出話をするのが常だった。

親友と呼べる、間柄だったと思う。

だから、佐々木だけは、小学校の頃からずっと知っていた。

――――城島亜姫が虐待を受けていたことを。

彼女は父子家庭で、父と妹と一緒に暮らしていた。

母は、妹を産んですぐに亡くなったらしい。それから小学校を上がるまでは平和に、普通の親子としてひっそりと暮らしていたという。

だが、あるとき父親に彼女ができた。水商売をしているという、派手で嫌味な女だったそうだ。

その女に入れこんで、貢いで、それまでそれなりのマンションで暮らしていたのがちっぽけなアパートに引っ越すほどになった。

だが、父親がリストラされるとすぐに捨てられた。

虐待は、それからだ。

全て、アキが教えてくれた。当時小学五年生だった。

佐々木は何と言っていいかわからなかった。だからただ、もう帰ろう、を言わずにアキが言い出すまで一緒に遊んだ。

アキは人と騒ぐのが好きだった。遊び歩くのが好きだった。

それが家に帰りたくないという意味なことを知っていたのは佐々木ただ一人だった。

佐々木がアキの立場を知ってから数年、中学に上がってすぐ、アキの妹が失踪した。自殺したのだと噂が立ったが、今でも死体は見つかっていない。

けれどそこから父親の虐待の噂が広まるのはそう遅くなかった。

みんなが、アキに同情的になった。

そして、腫れ物に触るように接するようになった。

「もう、いやや。うちの人生、お父ちゃんにめちゃくちゃにされてまう」

妹が消えてから、アキはそうやって泣くことが多くなった。それまでどんなに殴られても、傷を見せて笑っていたほどだったのに、この頃からアキは笑うことがなくなった。

どんなに遊びに誘っても、来てくれなくなった。

そして思い詰めるようにどこか宙を見てぶつぶつ言っていることが多くなった。

「ねぇ、アキちゃん。苦しいなら、話聞くよ?」

そう言っても反応せず、ぶつぶつとなにか呟いていることがほとんどだった。

そのつぶやきを、単語だけいくつか聞いたことがある。

逃げた。

ずるい。

裏切り者。

守ってやってたのに。

うちを置いていって。

ひどい。

ずるい。

妹への呪詛だった。妹の失踪を悲しんでいるのではないと知ったとき、佐々木は本当のアキの闇を見てしまった気がした。

同じ被害者がいなくなって、一緒に立っていた相手がいなくなって、アキはなし崩しに壊れていった。

見ているだけでも悲しいほど、衰弱していった。

遊ぶことが大好きなアキはどこかに消えた。

そして、それから一年。中学二年生のときに事件は起きた。

――――聖痕保持者現る! 父を喰い殺す悪魔の娘!――――

冗談みたいな見出しのニュースが飛び交った。

中身も嘘八百のでたらめで、佐々木は見ていて腹が立つほどだった。

曰く、ちっぽけなアパートに住むことになったのは娘が湯水のように金を使ったからだとか。

曰く、それでも最低限の生活ができるように働いていた父を馬鹿にして、搾取して、いいように使うような娘だったとか。

曰く、一年前に失踪した妹も実はこの娘が殺しただとか。

曰く、父を椅子で殴り殺したあげくに喰ったとか。

曰く、娘は毎日のように夜遊びをして、援交もしていたとか。

涙が出そうだった。どこの小説の内容だろうかと、佐々木は何度もニュースを確認した。

それでも犯人はたしかに城島亜姫で、被害者はその父親だった。

そのニュースが流れる前、アキから電話があった。父を殺したと。

すがすがしい、明るい声で、前のアキの声で言った。

「やったよ! うち、お父ちゃんのことやっと倒せた! これで自由や! うちはやっと勝てたんや!」

初めはなんのことだかわからなかった。

だから素直に、おめでとうと言った。反抗して、欲求が認められたのかと思っていた。

そのあとにアキのニュースを見て理解してしまった。アキが父を殺したことで自由を手に入れたことを。

代わりに聖痕も手に入れてしまったことを。

それから、アキの名前は一度たりとも上がったことがない。さっき同級生が言うまでは。

――――アキちゃんのこともあるから、佐々木さんのこと心配で……。

アキは虐待を受けていた。

それは打撲のときもあれば、切り傷のときもあった。たばこを押しつけられたやけどの痕も見た。

人に見られないような場所に、幾重にも傷が重なって重なって、治り切らなくてぐずぐずになっている場所さえあった。

そんなアキの傷を、佐々木は知っている。

そんなアキの状態と、今の佐々木の状況は比べものにならない。佐々木はなにも辛くないのだ。

アキと佐々木の共通点は父子家庭であること、父から暴力を受けていること。

だが佐々木はどんなにうわべがそうであったとしても、佐々木とアキが同じ状況であるとは思わなかった。

父は、佐々木のことを愛してくれている。母のことを愛している。

アキの父親がアキをストレスの発散道具にしていたようにはされていない。

少し口数が減って暴力的になってしまっただけだ。父は本当は優しい人なのだ。

事故に遭った母を見捨てず、お荷物である佐々木を捨てず、母の世話や佐々木の学費のために仕事を増やしてがんばっているのだ。

そんな疲れた父を労わることができない佐々木が悪いのだ。

佐々木は、虐待などされていない。

アキはこれよりもっと酷い目に合っていたのだ。

アキを助けられなかった佐々木が、こんなことでめげていては駄目だろう。

「…………」

一人、誰もいない家の中。

考えれば考えるほど、泥沼にはまっていく思考に佐々木は気付いていた。

ぼんやり食器を洗いながら思う。

――――わたし、もっと楽しく生きてたのにな。

どろりとした感情が、ふっと湧いてきたと思うと次々に溢れてくる。

アキのことと一緒に、楽しかった記憶がよみがえってくる。

一緒に行ったカラオケ。二人してざんねん賞だったお祭りのくじ。スライムを作ってお風呂に入らないといけないほどべたべたになるまで遊んだこと。

遊園地で遊ぶのに夢中になりすぎて、その帰りに補導されかけて焦ったこと。神社の祭りのために一緒に遅くまでお囃子の練習をしていたこと。

どれも、アキが壊れてからなくなってしまった。

思えば、楽しかったと思う中学時代もアキがいた間ばかりだ。そのあともそれなりに友達はいたが、アキ以上に楽しいと思える相手はいなかった。

そして今、学校に居場所はなく、家では機械的に過ごしている。

――――わたし、どうしてこんなことしとるんやっけ?

疑問が鎌首をもたげる。

とたんに今の状況が馬鹿馬鹿しくなる。

本当なら、高校でも楽しく暮らせたはずなのに。

母が事故に遭ったせいで遊びに行くことも許されない。

学校なんて本当はどうでもいい。学校で友達とおしゃべりして、遊びに行く約束して、笑って、テストに喘いだり、将来に悩んだり、そういうことがしたいだけで。

母が事故に遭わなければ、自分が父に殴られることも、こんなに必死になって家事をやる必要もなかったのに。

それなのに。

それなのに。

がしゃん、と食器を投げ出して、泡を流してふらふらとリビングに戻る。

一瞬でも、今の生活を疎ましいと思ってしまった自分が嫌だった。父も母も大好きなのに、こんな風に一瞬でも思ってしまう自分が浅ましいと思う。

そう思ったらもう、家事に手が付きそうになかった。

黙って家事をしているから考え込んでしまうのだ。そう思ってちょっとした気晴らしにテレビのリモコンを握る。

テレビを点けるのはいつぶりだろう。そんなことも忘れてしまった。

夕方にやっているのはよくわからないドラマとニュースばかりで、佐々木は目的なくチャンネルを回す。

いくつか、テレビに一瞬だけ表示される番組名だけを見て、最後にぱっと目に付いたニュース番組を見た。

――――聖痕保持者出現! 父を襲う釘バット――――

冗談のようなタイトルだった。

思わず佐々木の手が止まる。

アキのときとよく似ていた。

簡潔に言えば、小学五年生の男の子がバットで父を殴り殺し聖痕保持者であることが判明した、という内容だった。

佐賀県の若林という男の子。父とは表面上仲良くしていたが、実はずっと恨みを抱えていて突然爆発し、父をバットで主に顔を殴り頭蓋骨を割ったらしい。

その恨みというのが、楽しみにしていたプリンを食べられたとか、サッカーの試合で負けたのを笑われたとか、大層くだらないものばかりだった。

偏向報道だと、佐々木は知っている。

アキのときもこんなでたらめなことばかり並べられていた。

マスコミはこうやって、聖痕保持者を理解不能の殺人犯に仕立てあげようと必死だ。そして意外と、こんなでたらめを信じてしまう人が多いことも、佐々木は知っていた。

佐々木もアキのことがなければきっと騙され続けていただろう。きっとこの若林少年もなにも悪くなかったのだ。なにかの事故のようなものだったのだ。

そんな、マスコミの被害者のような少年少女たちは、有無を言わさずにシスマに放り込まれる。

極悪犯を閉じこめている街、シスマ。

本当はそんな場所ではないであろう、シスマ。

アキのいる、シスマ。

そこで、ふっ、と思う。

―――――ネバーランドみたいや。

子供たちだけが暮らす街。

そう置き換えるとシスマは本当にネバーランドのように見えた。シスマの中身はけして報道されないからよく知らないが、昔テレビで見た話では子供たちだけが暮らす小さな街だったはずだ。

子供たちだけのための刑務所。中は報道禁止。大人たちは入れない。

ネバーランド。夢の国。子供だけが暮らす街。

行ってみたいと、思った。

湧き出る感情に世界が明るくなる。テレビの音はもう聞こえない。

聖痕保持者になるための条件はただ一つ。人を殺すこと。

そんなことはいけないと、佐々木の中の常識が叫ぶ。だが、今の環境はなんだろう。

母はどうせ生きているのか死んでいるのかわからない状態だ。

父もミイラのようにやせ細って、苦しみながら、ただ生きるためだけに仕事をしている。

こんな状況で、これ以上生きている必要とはあるのだろうか。佐々木は悩む。

母はもう動かない。父は見るだけで苦しそうで、その姿を見るのは辛い。

みんな疲れているのだ。

もう楽になってもいいじゃないか。

ふつふつと湧いてくる想いが止まらない。

こんなに苦しんでいるのになにも救われないのだ。だったら、助けてくれない法律など守っている必要などあるのだろうか。

父も母も楽になる。佐々木はシスマに行って自由になる。

ネバーランド。きっとそこは楽しいだろう。

みんな疲れているのだ。

全部なくしてしまえばいいじゃないか。

テレビの電源を落として立ち上がる。人の殺し方などよくわからないが、暴力で勝てるとは思わない。

だからぴんと思いついた。身近にあって、人を殺すのに手っとり早いもの。

ストックしてあるたばこのカートンを見つめる。

普段、触ると怒られるが、今となってはどうでもいいことだ。

開けられたカートンからたばこを一箱取り出す。

きっとそこに未来があると思った。

+++

ガチャ、と大仰な音を立てて鍵が開いた音がした。

そしてすぐに入ってくる痩せぎすの男に佐々木は声をかける。

「おかえり、お父さん」

「ただいま」

乱暴に扉を閉めながら、父は佐々木に鞄を押しつける。

いつも通りの行動。しかし、鞄と一緒に白い箱も渡されたことに気が付く。

佐々木もよく知っている、駅前のケーキ屋の箱だった。

「お父さん、これ……!」

「昨日はすまんかったな。お父さん、疲れて気ぃ立っとった。お誕生日おめでとう……いつもお母さんの世話してくれてありがとうな。遅れてごめんな」

「ううん……うれしい……! お父さん、今日はスープカレーなんよ。食べやすいようにしたから、いっぱい食べて」

ありがとう、ありがとうと言いながら父はリビングに歩いていく。

暴力をふるった次の日は、こんな風に優しくなる。優しい、元の父に戻ってくれる。だから佐々木は暴力にも耐えられるのだ。

それにおめでとうという言葉と、ケーキで全てが報われた気がした。

今日はいい日や。

佐々木は喜びを噛みしめながら、父にとっておきのスープカレーをよそう。

カレーの日は、いつもに比べて父はたくさん食べてくれる。香辛料のおかげか食欲が進むらしい。

ごはんは付けない。父の食事はいつもスープだけだ。

スープの中に、散り散りになっている葉が浮いている。人参なども小さく小さく、あまり噛まないでも大丈夫なように工夫した。おかげでじゃがいもは溶けてしまったようだ。

「はい、いっぱい食べてね」

「ありがとう。おまえの料理はいつもおいしそうや……今日は一段と、具を小さくしてくれたんやな」

「お父さん、具を噛むの苦しそうやったから。工夫したんよ。ね、食べて食べて」

父がスプーンを持って、スープを飲み始める。

一口。

二口。

だんだん、スプーンを運ぶ手がゆっくりになっていく。

三口。

四口。

かたん。

スプーンを落として食べたものを一気に戻す。消化される前に出てきたせいでまだ人参も葉も原型をとどめていた。

つん、と胃液独特のにおいが鼻につく。

父の顔は、ただでさえ顔色が悪かったのがまるで死人のようになっている。目がふらふらと揺れて落ちつきなく、暑くもないのに不自然に汗が浮いてきた。

見ていられなくて、佐々木は落ちたスプーンを拾ってスープを父の口に運んだ。手にゲロがつくのも気にせず、飲もうとしない父の口をこじ開けてスープを口の中に押し入れる。

「あかんよ、お父さん。ちゃんと飲まなきゃ。ただでさえあまり食べてないのに、がいこつになってまうよ?」

「な、なに……いれ……」

父が苦しそうに佐々木を見るのに笑顔を返して、なにか言おうとするの無視してスープを口に流し込む。

スープが口から漏れるのも気にせず。

吐こうと噎せるのも気にせず。

ただ淡々と、父の頭を掴んでスープを流し込んでいく。

「大丈夫よ、お父さん。今に楽になるから。ちょっと苦しいかもしれないけど、我慢して、飲んで」

もがこうとする父の力は弱く、佐々木でも容易に押さえつけることができた。

頭を掴んで仰向けにさせて、開けっ放しの口にちまちまとスープを流し込む。スープが流れ込んでいくのと代わるように、唾液が父の顔を舐めていく。

父の体温はどんどん低くなっていくのを感じた。代わりに押さえつけている手にじっとりと汗が伝わる。

やがて、噎せて吐こうとする父が不憫に思えて一旦離して水の入ったカップを渡した。

手足が震えてろくに力も入らないはずなのに、父はカップを一気にあおった。

そんなに辛かったのか、もう少し早く渡してあげればよかったと、少しかわいそうに思う。

「お父さん、大丈夫?」

「なにを……いれ…………」

「お父さんの大好きなものよ。気に入らなかったかなぁ」

スープに浮いている、小さな草の破片。

父がいつも家に欠かさずに置いている、箱の一つをすべて入れたのだ。

おかげでカレースープがずいぶんと黒くなった。それなのにどうして気付かなかったのだろう。疲れすぎて目も悪くなっただろうか。

「たばこって、おいしいんとちゃうの? お父さん、ごめんね、もっと楽にできると思っとった……」

「こ……の……っ!」

父が、立ち上がる。

力のない拳が振りあがって、すぐに父がどたんと倒れた。

避けるまでもない。立ち上がれないのだ。体を起こすと同時に一気に食べたものを吐き戻す。

それを佐々木は慈しむように見つめる。そして戻してしまった分をもう一度皿ごと流し込んであげた。もう吐く体力もないようだ。

吐いたり、飲まされたり、苦しそうな父が楽になるように背中をさすってあげると睨まれた。

悲しく思ったが、父が何度も説明を求めるので少しだけ話すことにした。

「あのね、殺そうと思ったんだけど、うまくやり方が思いつかなくて。本当は、洗剤を入れようと思ったんよ。でも、洗剤って混ぜると毒ガスが出るって思い出したからやめたの。わたしまで死んじゃったらシスマに行けないやろ?

そんでね、お父さんのたばこを見つけたん。たばこって、吸ってるだけでも毒やんか。ちょっと調べてみたら、たばこ二、三本食べると人って死ぬんやって。すごいねぇ、お父さんそんなん吸ってたんね。通りで肺を悪くするわけやね。健康診断いっつも引っかかってたもんね。

そんでね、たばこのニコチン。ただ食べるだけなら、そんなに吸収よくないからそこまで辛くないみたいなんよ。ニコチンのおかげで吐いちゃうから、あんまり酷いことにならないみたい。

だけど、水に溶けちゃったら、だめ。水に溶けると吸収がすごーく早くなるって。だから、重い中毒症状起こすんやって。ニコチン中毒って言うて。

カレーならお父さんいっぱい食べてくれるし、カレーの辛さでなにが入ってるかなんてそんな気にならんし、大丈夫かなって思った。昨日シチューだったし、似たメニューで怒られるかなとも思った……でもお父さん機嫌がよくてよかった。ケーキ、本当にうれしかったよ。あとでゆっくり食べるね。

ああ、お父さん、毒回ってきた? 大丈夫よ、一人でなんか逝かないから。お母さんも一緒よ、わたしはこっちに残るけど、向こうでまた昔みたいに仲良うしてね。

あのね、誤解しないでね、わたしお父さんのこと大好きよ。どんなに暴力振られたって大好きよ。だってお父さんはわたしとお母さんのために毎日無理して働いてきてくれてるんだから。熱出しても無理に行ったよね、わたし止めたのに、結局倒れて同僚さんに送ってもらってきたよね。お母さん動けなくなって、一番悲しかったのに、一番早く立ち上がったお父さん、かっこよかったよ。

お母さんのお世話、あまりお父さんはできないけど、毎晩お母さんに話しかけてたのわたし知っとったよ。お母さんのこと大好きなお父さんのことが、わたし大好き。だからわたし、今まで我慢できたの。ううん、これからも我慢できたはずなの。

でも、ごめんね。わたしシスマに行きたいの。アキちゃんにもう一度会いたいの。わたし、アキちゃんのいない学校なんて行く意味ないことに気付いちゃったの。アキちゃんがお父さんから解放されて、どんな気持ちでシスマに行って、今どう過ごしてるか知りたいの。

だからごめんね、お父さんたちのこと生け贄にするみたいにしちゃって。でも、お父さん。もうがんばらなくていいんよ。お母さんと二人で、いつまでも仲良く過ごしてていいんよ。

みんな疲れてるんだよ。もう解放されちゃおう。お父さんもお母さんもわたしもみんな疲れてるんだよ。だから終わりにしよう。こんな終わりの見えないものもうやめちゃおう。これでみんな幸せになれるんよ。

ねぇ、お父さん。お父さん。…………もう、寝ちゃった?」

長い長い、種明かし。

終わった頃にはもう、父は呼吸がずいぶんと少なくなった。だが息はまだあるようだ。

瞳孔が開いて、瞬きもできない父の姿は悲しいほど哀れに思えた。

もっときれいに殺してあげたらよかった。もう少し殺し方を調べてみればよかった。がんばった最期が、娘に毒殺されるだなんて、犯人は佐々木だが本当にかわいそうに思えた。

うつぶせになっていた父を転がして天を向かせる。手を胸の前で合わせてあげて、ぽんぽん、と二回叩いた。

――――ごめんねお父さん。そろそろ終わらせてあげるからね。

その上に乗って、父の首に手をかける。体がなんだか冷たい。そして汗ばんでいる。まだ死んでいないのに、死体のようだ。

「…………」

父の口が、動くのに声は聞こえない。

だがなんとなく意味はわかった。

佐々木はほほえみを返す。

名前を呼んでくれたの、久しぶりやね。

「おやすみ、お父さん。向こうでお母さんと仲良うね」

ぐ、と喉仏に乗せた指に力をかける。

もううめき声さえあげられない、父の首が絞まるのはとてもあっけないものだった。人形に触れているような、ゴムのような肌の触感。

愛おしいと思った。

ぐり、と父の目が上を向く。鼻の下に手を当てて、息がないことを確認する。

もう少し寝るように殺してあげたかった。だがもう、これで父が苦しむこともないのだ。

すがすがしい気持ちで佐々木は父の上から立ち上がる。

アキが父を殺したときも、こんな気持ちだったのかもしれない。

なにもかもから解放されて、全てが愛おしいように思えてくる。その未来がどんなに暗いものであるとわかっていても、振り切ってしまえばこんなに世界はすばらしい。

人を殺すことのあっけなさに、その弱さに、たまらなく愛しさがこみ上げてくる。殺したことによる万能感が湧いてくる。

あのすがすがしい爽やかな声は、きっとこんな気持ちから出てきたのだ。佐々木にはよくわかった。

自由を手にするために動くことに、こんな快楽が潜んでいるだなんて思わなかった。

「お母さん、ごめんね晩ご飯遅くなって。カレー、お母さんには刺激が強いかもしれないけど我慢してね」

父に飲ませて空になった皿にもう一度カレースープを注いできて、今度は母の隣に座る。

いつものように体を起こさせて、右手のスプーンを口に含ませる。従順な母は逆らうことなく、一口一口飲んでいく。

ビクンッ。

と、体を跳ねさせながら。

「お母さん、大丈夫。すぐに楽になるからね」

言って、佐々木は跳ねる体を押さえつけながら母にスープを押し込んでいく。

がぼっ、と一度胃液が戻ってくるのを見たが、顔を仰向かせていたせいで中途半端に口から漏れて、もう一度のどの奥へと戻っていった。

口直しにスープをつっこむ。また体が跳ねる。

母を父の後にしたのは、単純に、母には熱いものを食べさせることができないからだ。だからこの一年、母だけはいつも別メニューを作っていた。

今日、久しぶりに父と母が同じものを食べる。

そして一緒に死んでゆく。

なんだかすてきだと思った。

病めるときも健やかなるときもけして互いを見放さず一緒に居た夫婦は今日、一緒に死ぬのだ。娘の手に看取られて。

すてきだと思った。

だから、母の頬を久しぶりに涙が伝うのもうれしいからだと思うことにした。

「お母さん、ずっと、苦しかったやろう? 疲れちゃったよね。もう、解放されるんよ。お父さんと仲良うね。向こうでまた事故に遭ったらあかんよ。ねぇ、お母さん、おいしい?」

ビクンッ、ビクンッ。

頬を涙でぬらしながら、母が無表情に体を跳ねさせる。

ただでさえ白かった顔が、蝋のように白くなっていく。それでも母は口を閉じることができない。本当に可哀想な体になった。

母は、こんな状態でも、感情というものがあるのだろうか?

だとしたら、佐々木の行為をどう思うだろうか?

少し、聞いてみたくなったが、聞いても母にはわからない。

死ぬ間際にもう一度だけ母の声を聞かせてほしかった。でも母にはもう声を出せない。

スープが空になっていくところで、一旦母を前のめりに起こしてその背中をさすってあげる。かろうじてまだ息があるらしい母は、深く息を吸った。

ニコチンの致死量はたばこ二、三本。

二人分のスープに一箱入れたのだが、なかなか、死なないものだなぁと佐々木は思う。

苦しんでいる姿はあまり見たくない。ぽんぽんと背中を叩く。

急激に冷えていく体と不自然な汗。父と同じ症状を出し始めたところで、ようやく効いてきたかと安心する。

母は動けない分症状がわかりづらくて、もう一杯飲ませる必要があるかと考えてしまった。ただ、仰向けに寝かせてみると今まで見たことがないような険しい顔をしていた。

鼻の下に指を当ててみる。もう呼吸は止まっていた。

母も父のように途中で吐いてしまうかと思ったが割合きれいに飲んでくれて助かった。吐くより先に重い症状が出たらしい。吐いたものの処理はさすがに佐々木もやりたくなかった。

「お母さん、長い間、お疲れさま」

目も口もかっと開いてしまっているのを閉じてあげて、母に最期のねぎらいを言う。

ずっとずっと苦しかったのに、最期も苦しく死なせてしまったのは申し訳ないが、これで全部終わったのだ。

一年、ずっとみんな苦しかった。

みんな疲れていた。

だが今日で終わりだ。

父と母を殺すのは佐々木だって苦しかった。だがこれで全部終わりだ。

佐々木はシスマに行って、罵られながら罪を償い続けるだろう。

しかしそこにはアキもいる。だからもう、苦しくない。

「…………ああ、警察に連絡せんと」

立ち上がって、電話の子機を取る。

期待を込めて、一一○番を押した。

+++

「結論から言うと、わたしは聖痕保持者にはなれませんでした」

ぞっとするような佐々木の語りが、そこでようやくひと段落する。

佐々木の背後に、恐ろしいものが眠っていることは、わかりきっていたことだ。

だが秋本は後悔する。どうして佐々木の背景に好奇心など見いだしてしまったのかを。

佐々木の顔は徹頭徹尾いつも通りの無表情で、父を殺したときのことも、母を殺したときのことも、ただ淡々と語りきった。それが逆に恐ろしかった。

彼女は何度も、死んでゆく両親を可哀想だとか、愛おしいだとか、苦しんでいる様子を見るのは辛いだとか言っていたが。

一度も殺すことに疑問を抱いていないのだ。

まるで、それだけが解放の道であるかのように。まるで、その先に救いがあると信じきっているように。

殺すことで、佐々木はたしかに家族全員が救われると信じきっていた。

虐待をしてきた父の様子を心配し、動けない母の世話を文句なくする、当時の佐々木の話は絵に描いたような親孝行な娘だったが、全員を救う手というのを、殺人に求めることが本当に正しいことなのか疑わないところが異常だった。

秋本は思う。

佐々木は母の事故をきっかけに壊れてしまっているのだと。

「聖痕保持者になれなかった理由はわかりません。殺し方が悪かったのか、十六歳はもう子供でないと、誰かが……神様が、判断したのか。もしくは、シスマと聖痕保持者にあこがれを抱くこの心がいけなかったのか。聖痕が現れていないと知ったとき、まるで地獄に堕ちた気分でした……。自分の欲望のために両親を殺すのが悪かったのでしょうか。だとしたらどうしてアキちゃんは聖痕保持者になれたのでしょう。ずっと考えているけれど、今でも答えは出てきません。……秋本さんは、どう思われますか?」

「……え」

突然振られた話に秋本は反応しきれない。

答え方もわからない。聖痕保持者になろうとなど、秋本には思えないからだ。アキという少女と佐々木との違いもわからないからだ。

どちらも同じ親殺しで、同じように虐待からの解放を願った行動で。

どちらも、外部に助けを求めることはできたはずで。

そこまでするほど思い詰めていたのかもしれない。想像できないが元は明るい少女だったらしい佐々木が、こんな人形のようになるほど環境は悪かったのだから、その精神的負担は想像に難くない。

だがそこで親を殺そうとなる思考はわからなかった。

同情しようと思ったができなかった。彼方のときはできたのだが、佐々木にはただ恐ろしさだけが湧いてきた。

「考えてみれば、ウェンディはピーターパンが部屋に影を落とさなければ、ネバーランドには行けなかったんですよね。……聖痕保持者にとっての迎えとは、どんなものだったのでしょう。どうしてわたしには、迎えが来てくれなかったのでしょう。今でも時々考えるんです。シスマに来るという夢が叶っても。聖痕保持者が、わたしにはうらやましい……」

秋本の返事も待たず、佐々木はつらつらと語りをやめない。

台詞の一つ一つに怨念がこもっていて、聞くのも辛い。だが耳を塞ぐこともできず、秋本は苦い顔をするしかない。

父に虐待を受けてきたこと、母の介護に追われていたこと、学校で友達を作る余裕もなかったこと。そのどれか一つだけ取っても同情をしたくなるような要因なのに、どうしてこうも恐ろしく思えるのだろうと秋本は思う。

彼方のときとどう違うのかと考える。二人とも殺人犯だ。

答えは単純だ。

佐々木は殺したことになんの呵責も感じていないからだ。

死にゆく両親の姿になんの悲しみも見せていないのだ。

それがただ恐ろしかった。これだったら聖痕保持者の方がずっとかわいいものだと思った。

彼方を思い出しながら、思う。秋本は聖痕保持者が聖痕保持者たる理由を一例しか知らない。

だがそれでも思う。

聖痕保持者たちは本当に幼い子供たちだ。一時の衝動によって全てを壊してしまうような、子供っぽい激動の果てに聖痕保持者になってしまったのだ。彼らはそれをきっと死にゆくまで後悔するのだ。

だが佐々木はどうだ。彼女は殺すための手段として毒殺を選んでいる。

それは用意周到な、明確な殺意だ。確実に殺すための手段だ。激動にかられた子供たちはそんな手段をきっと用いない。

毒殺とは大人の用いる手段だ。聖痕保持者との違いはそこにあった。

佐々木は子供としての、聖痕を持つための資格を持ってはいなかったのだ。

死の向こうに救いなど、求めてはいけなかったのだ。

「……俺は、こう思いますよ」

ついに秋本は口を開く。

語らせてしまった責任として、佐々木に答えを返す。

佐々木の世界観に合わせて言うならばこうだろうという答えを、丁寧に練り上げて、慣れない単語の選択をする。

「子供っていうのは一時のことしか考えない。先のことなんて考えられない。ピーターパンがそうですよね、その日その日を楽しく生きることに必死なんですよ。だから殺した時、殺してしまうかもしれないなんてことは考えてない。彼方がそうでしたよね、あいつはケーキを取られたことに怒っていただけだった。それがたまたま、殺してしまうことに繋がっただけなんです。だけど、佐々木さん。殺しの先に未来を見ること、ネバーランドで幸せに暮らすことを考えることは、大人の、フック船長のすることだ」

佐々木が息を飲む音がした。

佐々木の感情が動く瞬間を、秋本はここで初めて見た。

目に感情がにじむことがあっても、いつも表情は動かさなかった佐々木が、初めて目を見開いた。

そんな感情の動きを、こんな形では見たくなかった。

「未来を見るために行動するのは、大人のすることなんですよ。だから、佐々木さんは絶対に、聖痕保持者になんてなれない。聖痕保持者になることは救いじゃない」

「…………」

つい、と佐々木の頬を水滴が流れる。

目を見開いて、まるで世界の終わりを見ているような表情だった。

秋本はそれを見ながら、思ったほど自分が動揺していないことに気付く。女の子を泣かせてしまったのに、そんな感覚がどこにも湧いてこない。それほどまでに、秋本は佐々木のことを人として認識していなかったのだ。

ロボットのようだと、今までは思っていた。

だが今は違う。彼女を人として認識しないのは佐々木がなんの感情も動かさないからではない。

人殺しだと、明確に認識してしまったからだ。

もう秋本の感情は、佐々木に対して好意的には動かないだろう。彼女がどんなに天使のような人になったとしても、もう彼女の異常性が頭から離れることはないだろう。

同僚に対して、こんな気持ちを抱くのは失礼かもしれない。

だが耐えられないのだ、殺人者と同じ職場にいることなど。

「話、無理に聞いてしまってすみません。ちょっと外行って来るので、その間おねがいします」

がたり、と立ち上がる秋本に佐々木は反応しない。

親を殺してまで欲しがったものは手に入らず、罪だけが残った彼女の姿は本当にかわいそうなものだった。

返事も待たず、秋本は外に出る。財布だけ持って、近くのバス停に行く。さっき時計を見たらバスの時間に近かったから、そんなに待つことはないだろう。

――――ケーキを買ってこよう。

お祝いなのかお詫びなのかわからないが、とにかくそうしようと思う。

佐々木から少し距離を置きたかった。自分の中に湧いてくる感情が把握できなかったからだ。

無意味に、彼女に優しくしたかった。彼女を正しく人と認識できなくなったせいだと思う。優しくして、ただ優しくして、彼女の異常な殺意が秋本に向かなくしたいのだ。

それと別に、壊れてしまった彼女に純粋に同情した。だからケーキを買ってこようと思う。

彼女は当時のまま止まっている。夢想の中で生きなければならないほど壊れきっている。だが彼女はネバーランドへの切符を手にすることが不可能だったことを知ってしまった。そんな彼女が哀れだった。

ネバーランドへ行けなかったウェンディに現実の幸せを。

「――――……毒されてるなぁ」

つぶやいて、バスに乗った。