聖痕十一話

ぷるるるるる……

物音一つもしない部屋に無機質な音が響く。

ぷるるるるる……

手元のメモを眺めながら、相手が出るのを待つ。

お兄ちゃんの遺書の中から出てきたメモ。それに書かれた、一人の女性の電話番号。

神田沙耶

お兄ちゃんが外にいたときの、恋人。

本当なら電話なんてかけたくない。声どころか、名前すら見たくない。そんな、自分の恋敵にわざわざお兄ちゃんの死の知らせと遺書を届けてやる必要なんて、本当ならないんだけど。

他の誰でもないお兄ちゃんの頼みを、無視するのも胸が痛んだのだ。

もう10年近く前の恋人に、突然押しかけたらどんなことを言われるだろう。迷惑がられるだろうか、怖がられるだろうか。聖痕保持者が、押しかけて。

お兄ちゃんの悪口を言われたりしたら、お兄ちゃんの遺志がないがしろにされたらどうしよう。不安と嫉妬と、恐怖は頭から離れない。

ぷるるるるるる……

無機質な音と、静かな部屋はわたしの心を削る。

早く出てほしいけれど、どうせなら留守電になってほしい。そうすればもうかけなくて済むのだ。電話をかけた、その事実だけ残れば、あとはお兄ちゃんに謝るだけでいいのだ。

ずるい思考に嫌気がさす。それでも隠し通した恋心に免じて許してほしい。

ぷるるるるるる……

うるさいくらいに心臓の音が響いて、耳の内をぴんと糸を張ったように耳鳴りがかける。

ごくり、とつばを飲み込んで緊張も最高潮と言うところで、それは来た。

『――――もしもし』

「っ!」

とっさの事に反応が遅れる。

女の人の声だ。高くも低くもない、落ち着いたソプラノ。

声だけでは年はわからない。子供ではないけれど、けして老けてるわけでもなく。

「あ、あの、神田さんのお宅ですか?」

電話をかけるなんて何年ぶりだろう。このやり方で合ってるだろうか。失礼になってないだろうか。

色々な種類の緊張が入り混じって、少し気持ち悪くなる。

『はい、そうです』

「わたしっ、天野由井って言います! あの、ええと」

勢いがつきすぎて挙動不審になる。顔に火が付きそうな思いをしながら小さく息をついて、もう一度落ち着いてから続ける。

「神田沙耶さんは、いらっしゃいますか?」

『沙耶はわたしですが…』

どちら様でしょうか? 困惑する声が続く。相手が困っているのも気にせず続ける。早く電話を切りたいのだ、こっちは。

「朝木智久を覚えていますか? わたしはその義妹です」

『っ!』

今度は相手が息を飲む番だった。お兄ちゃんの名を出した瞬間相手の雰囲気が変わる。

外の人にお兄ちゃんの義妹だとかバディだとか言ってもあまり理解はしてもらえないかもしれないけど、お兄ちゃんの知り合いであることはわかってもらえたはずだ。

「おにいちゃ……兄から、手紙を預かっています。お渡ししたいので、近いうちにお会いできませんか?」

相手からの返事はない。電話の奥から誰からー? と家族のものらしき声が聞こえてきた。受話器からは向こうが見ているテレビの音が遠く聞こえるだけで、はっきりとした声は聞こえない。

女性の家族が笑う声がする。女性はどんな顔でこの言葉を飲み込んでいるのだろう。どんな思いで朝木智久の名を聞いただろう。

電話を通じて世界から二人だけ隔離された気分になりながら、相手の返事を待った。

それからどのくらい待ったのだろう、ようやく女性が小さく息をつく。

『……トモの、義妹さん。……って、言ったわね。名前は、』

「天野由井です」

トモ、という呼び方に胸がちくりと痛む。

わたしにはできない、特別な呼び方。表に出さないように、相手の出方を待つ。

『天野さん。明日、会えますか?』

+++

そう告げられたのは、とある大学院。

三日も連続して学校を休んでしまったけれど、セナは怒っているだろうか。

買い物以外で外に出るのは久しぶりで、そして苦痛だ。

周囲の、腫物に触るような視線や、殺意や、恐怖が、突き刺さる。好きで来ているわけじゃない、本当は帰りたい。

外に出たくなんてないし、お兄ちゃんの恋人に会うなんてもっといや。

だけどお兄ちゃんのお願いを、無視できるわけなんてなくて。

少し、お兄ちゃんを恨む。わたしが無視できないって、わかってて書いたでしょう。

そう少し悶々としながら地図に照らし合わせて大学院へとたどり着く。

その大学と隣接したその土地は酷く山奥にあった。外の世界を見るのなんてまったく何年ぶりだっけ。初めて見る大学というものに少し心が躍る。

シスマよりは狭いけれど、大学と言うのも一種の隔離都市かもしれない。そう直感的に思う。学生たちを隔離する、山奥の都市だ。

コンビニもあるし、学食もある。これであちらこちらにそびえ立つ建物をマンションに置き換えれば、そのまま都市として機能しそうだ。

そんなだだっ広い大学の中を好奇心に任せて練り歩いたあと、神田さんにいい加減会いに行こう、と入口へ戻る。

それから、ああ、なんて馬鹿なことに気付くんだろう。

神田さんの見た目も知らない。携帯は持ってないから連絡もつかない。

知ってるのは、声と、お兄ちゃんの彼女だったことと、聡明な女性だってこと。

いくら指定通りに大学に来たって、連絡が取れないんじゃしかたがない。待ち合わせは校門だから、待っていればいずれ会えるだろうか。

気付いてしまったことに途方に暮れる。行動が浅はかすぎた。

向こうだって朝木智久の義妹とか名乗る意味の分からない存在に会うのは怖いだろうし、ああ本当にどうしよう。

そんな風に挙動不審に校門付近をうろうろする。

時々通りかかる大学生の視線が痛い。聖痕保持者の証のワッペンを見た人は恐ろしげに、見なかった人は、何故子供がいるのかとただ不思議そうに。

早く神田さんに会ってさっさと帰りたいけれど、もしかしたら一日待っても会えないかもしれない。

そう考えて悲嘆に暮れていると、一人の女性がわたしの隣へ立ち止まる。

「……あの、」

「あなたが、天野由井さん?」

唐突な問いかけ。驚いてただこくこくと頷けば、女性は安心したようにふっと笑った。

清廉そうな雰囲気を纏った女性だ。長くまっすぐな黒髪が良く似合う。優しそうな顔立ちに、どこか芯のある人のような気がした。

ほんの少しだけ、お兄ちゃんが好きになったのがわかる気がした。

「はじめまして、神田沙耶です。……細かい話はあとにしましょう、ここだと目立つから」

ちら、とわたしの腕につけたワッペンを見る。

この人はわかっている。そう直感した。外の人が聖痕保持者と長話をするつもりなのだ。

いくらお兄ちゃんと付き合ってたからって、それはなんだか奇妙で、こういうところが、この人の鋭いところなのだと思った。

優しげな顔をして、きっと全部見抜いてるのだ。

大学の敷地の奥の奥、城壁のように大きくそびえ立つその建物が大学院。

神田さんは迷わずその中を歩いて行くから、少しおどおどしながらわたしも続く。

誰にも会いたくない、と怖がりながらついていくと、やがて一つの研究室の前に神田さんが止まった。

躊躇いもなく警戒もなく、彼女はドアを開けて手招きをする。そっと中を覗けば、そこにはいくつか書類が机の上に置かれているばかりで誰もいなかった。

神田さんがイスに座り、向かいの席を示す。ゆっくりドアを閉めて、中に入った。

「ごめんなさい、散らかってるでしょう。……いつもこうなのよ?」

神田さんは人間科学を学ぶ大学院生なのだと言った。人間科学っていうのはそのまま、人間を科学に基づいて研究することだと言うけれど、おおざっぱすぎてよくわからなかった。

大学の学科を、待ち合わせる前に適当に見たりもしたけれど、どうしてあんなに細かく学問が別れているのだろう。シスマでの勉強は基礎的なものばかりだしせいぜい六教科なのに。文字が読み書きできて簡単な計算さえできれば十分なのに、こんな山奥までなにを学びに来るんだろう、考えると少し興味がわいた。

「それで、トモから手紙だっけ」

「はい。あの、…これなんですけど」

おもむろに問われ、鞄の中から手紙を取り出す。

色気もそっけもない茶封筒。神田さんはそれを見て、小さくほほ笑んだ。

「妹さんに届けさせるなんて、トモったらずるいのね。自分で渡しに来ればいいのに」

シスマから出たくないのはわかるけど、と呟きながら封筒を切っていく。なんと言えばいいのかわからなくて、躊躇していると言うタイミングを逃してしまう。

神田さんの目がゆっくりと右から左へ動いていく。一行目から彼女の表情は曇り、読み進めるほどに悲しみに歪んでいく。

たった2枚の手紙に乗せた、9年間の想いとはどれほどの密度なのだろう。

その心情を察することは難しくて、声も出さずに泣く神田さんの涙を見ることしかできなかった。

「よかった……幸せだったんだ」

読み終えた後、手紙を抱いて涙をぬぐう。じっと、感情を飲み込むように。

その反応を見て、どこかほっとする自分がいる。お兄ちゃんのことを、今も大切にしてくれているのが、嬉しかった。

お兄ちゃんと同じように神田さんも9年間、きっと思い続けていてくれたんだ。

そう思うと、どんなにがんばったって、嫉妬したって、この二人の間に入ることはできない。悲しいけれど、妙に納得ができた。

お兄ちゃんと恋人になると言うのは考えられないから。女として見てもらうより、妹としてずっと隣に居たかった。

「わたしね、トモに恨まれてるんだろうなって、ずっと思ってた」

「お兄ちゃんが? まさか」

その告白に目を丸くする。

お兄ちゃんは人を恨むような人じゃない。ましてこれほど、ずっと想い続けている人を恨むなんて。

そんなんじゃないって、わかってるんだけどね。と神田さんが悲しげにほほ笑む。

少し考えるように手紙を見下ろして、目を閉じる。

「トモ、死んじゃったんだね」

「……はい」

「トモのこと、好き?」

「もちろん」

「そっか」

そっか。呟く。

じっと、見つめあう。優しい眼をしている。お兄ちゃんがわたしを見る時と同じ目。

恋人も似るものなんだろうか。神田さんにお兄ちゃんを重ねてしまって、胸が締め付けられる。

「あのね、トモが保持者になったの、わたしのせいなの」

「!」

「トモからは、聞いたことある?」

ゆっくり首を横に振る。

保持者になったきっかけは、相手が言わなければ聞かないのが無言のルール。

お兄ちゃんがシスマに来た理由をわたしは知らないし、お兄ちゃんもわたしがシスマに来た理由を知らない。

来た時期を聞けば簡単にニュースを割り出すことはできるけれど、そんなのは無粋すぎるから誰もしない。なにより情報操作のせいで、何一つあてにならない。

聞きたい? 神田さんの唇が動く。

聞いていいんだろうか、こんな形で。こんなの、お兄ちゃんに失礼な気がする。

右手で左手を強く握りしめる。

どうしよう、どうしよう。

動かせば軋むほど固まった首を、動かす。