聖痕十四話

四日ぶりの学校に足を踏み入れる。

お兄ちゃんの死は、やっぱりまだ受け入れがたいけれど。するべきことを終えた今、直後よりはずっと心の整理がついていた。

神田さんに会えたことが一番大きいかもしれない。

不安定だった恋心が、ただの敬愛に変わって。死んだ後にやっぱり恋とは違ったなんて失礼な気もするけど、それでも生きてる間に告白しないでよかった、なんて。

静かだけど笑い声が教室から漏れる廊下を歩いて、久しぶりの教室へ向かう。

セナは怒ってるだろうか。随分休んだからなぁ。

そんなことを思いながら自分の教室の扉を開ける。15にも満たない机のおかげでいつも教室は少し広く思える。

「ユイ!!」

「おはようございます、セナ」

戸を開けてすぐにセナが駆け寄ってくる。その先には若林もいた。

駆け寄ってそのまま飛びついてくるセナに戸惑う。髪からはいい匂いがする。

「よかったぁ、もう大丈夫なんだ!」

「心配かけてすみません。やっと一区切りつきました」

「待ってたんだよ~。ユイいないとつまんないしさぁ」

「こいつ、いない間うるさかったんだぜ? いつもだけど」

「なにをー!?」

机にかばんを置いているとさらりと若林も入ってきた。

いつもうるさい二人のやりとり。たった4日、見ていないだけでなんだか懐かしく感じるから不思議だ。

「ユイ! ひさしぶり~」

「思ったより元気そうだなぁ。4日も休めて羨ましいぜ」

「うーわ不謹慎~。ねね、先生の部屋ってどんな感じなの?」

「あんたも遠慮しないやつねぇ……」

真っ先にあげたセナの声で、いつのまにか若林だけでなく教室にいた全員から囲まれていた。

誰もが優しく、明るく声をかけてくれて、苦しかった胸が少しずつ和らいでいくのがわかる。

お兄ちゃんの死を、悼んでくれる。それだけで気持ちが楽になる。

シスマの死など数えていられない。いつ誰が狂暴化して、いつ誰を殺すかわからないこの街。

そのせいか、いつの間にか死が過ぎ去ったあとはなかったもののように扱うことが多くなっていた。

それは、自分の心を守るための自然な習慣。初めは違和感こそ覚えたけれど、今となってはわたしも死を自然と流すようになっていた。

そんなみんなが、お兄ちゃんの死を悼んでくれる。わたしのことを心配してくれる。その心が身にしみて、頬がゆるむ。

それくらいお兄ちゃんがみんなに愛されていたのか、心配せざるを得ないくらいわたしの傷心が酷かったのか。

「心配をおかけしてすみません。もう、大丈夫です」

ざわついていたクラスメートたちがぴたりと止まった。

それから、みんな顔を見合わせて微笑んだ。

なら心配いらないね。そう、クラスメートの一人が言った。

それでみんなの気持ちも収まったのか、再びそれぞれのグループで分かれておしゃべりに戻る。わたしの隣には、セナと若林だけ。

それから、お兄ちゃんの代わりの先生は誰になったとか、いない間に初めのテストの範囲が言われたとか、そんな話をして、ホームルームの時間が近くなってきた頃。

そこでようやく、違和感に気づく。

赤いキャスケットの彼女がいない。

「そういえば、マナは今日はおやすみですか?」

ぴん、

と空気が凍る音がした。

セナの表情は微笑みのまま暗く止まる。隣の若林の表情もまた、笑顔から一転して無表情となった。

その態度の変貌に気味の悪さを感じながら、そっと教室を見回した。

感情の籠もらない無機質な目が、ただじっとわたしを見つめている。

見回す限り、ガラスのような目。時が止まったような光景。

マナになにがあった? なぜ彼女の名でこんなにも態度が一転する?

状況に追いつかない思考回路。それにとどめを刺すように、セナが笑顔で言う。

「そんな子いたっけ?」

セナ知らなーい。

まるでいつも通り。そう、いつも通りのおどけた口調。

普段は心を癒すその声が、どうしてこうも恐怖を与えるのか。

この感覚を知っている。つい最近も体験したじゃないか。

――――セナが、暴動で男を殺したあの日。

あの日もこんな笑顔だった。

なにかを隠しているときの笑顔だ。いたずらみたいなかわいいものじゃない。もっと、押し殺した狂気。

「……なにを言っているんですか、セナ。今日はエイプリルフールじゃないんですよ……」

「嘘ついてないよぉ。ね、若林。マナって子知ってる?」

「知らねーなぁ。あ、そういやマナって名前のアイドルいたよな、あの子かわいくね!?」

「えー。セナはアヤカのほうが好きだなー」

さらりと話題をすり替えられる。なにを言っているんだ、彼女たちは。

息が苦しくなる。酸素が足りない。

凍った空気はまたおしゃべりで溶けて、明るくなる。――――なっているはずなのに。

どうしてこうも毒ガスを吸っているような気分なんだろう。

「あっ。ユイ、どこ行くの!? 朝の会始まっちゃうよ!?」

「お、天野やっとき……おいまた帰るのか!?」

朝のチャイムと同時に教室に入ってきた杉崎先生にぶつかる。

自分でもなにを言ってるのかわからないような謝罪をして、さっき通ってきた校門に向かって走り出した。

+++

ぴーんぽーん。

のんきな音が鳴り響く。全速力で走ってきた混乱した状態に、その音は酷く神経を逆なでする。

この感覚を知っている。

まるで体に聖痕が見つかったときみたいだ。

世界が反転したような。なにもかもが変わったあの感じ。

まだありありと覚えている。どうしてここでもう一度感じないとならないのだろう。

もう一度インターホンを押す。まさか学校に行かない間にパラレルワールドに飛んだわけじゃあるまい。

『はい』

「マナですか!? マナですよね!?」

『ユイちゃん……!? ちょ、ちょっと待って、今開けるね』

そう言ってからマナが玄関の扉を開けるのにたっぷり30秒かかった。扉の向こうからがんがんと音がしたけれど、一体なにを蹴ったのか。

「ユイちゃん、おはよう……」

「おはようございます、マナ」

扉から大きな眼鏡と赤いキャスケット帽を被った彼女が現れる。

それはあまりにもいつも通りだ。いつも通りどんくさそうで、子犬のようで、ひたすらに無害。

そんな彼女が何故学校に来ていなかったのか。セナたちにいないことにされていたのか。

「今日、学校に来てなかったですね」

「あはは、ちょっと気持ち悪くって……。ユイちゃんはやっと学校行けるようになったんだね。……あれ? どうしてここにいるの?」

「それは、中で話しましょう」

外で話すには長くなりますから。入ってもいいですよね?

そう問えば、マナはよくわかっていなさそうな表情で部屋の中へと扉を開いた。

+++

「えーっ。セナちゃんたちそんな風になってたのーっ?」

今朝のセナたちの態度をそのまま伝えると、あんぐりと口を開けてのんびりと驚いてみせる。

この抜けた感じは、彼女の演技だろうか素だろうか。思わず気を緩めてしまいそうになる。

「それでわざわざわたしの家に来たんだ。学校サボっちゃって大丈夫?」

「そんなことはどうでもいいんです。のんきに驚いたりしないでください。……なにがあったんですか」

「え……っと……」

つい、と目をそらす。

まったく今日はみんなして隠し事をする日だ。

「存在すらなかったことにされてるなんて相当ですよ。今日学校に来なかったのもそれが原因なんじゃないんですか?」

「まいったなぁ。なんでこんなにみんな鋭いんだろう、めんどくさい」

うーん、どうしよっかなー。

セナの態度がまったく重大ではないようにマナはのんびり考える。独り言のようにつぶやくそれは、わたしの質問への答えになっていない。

鋭い? めんどくさい? 彼女はなにを言ってるんだろう。

「わたしの存在がなかったことにされてるってことは、ユイちゃん昨日の話はなにも聞いてないんだね」

「え、ええ……」

「セナちゃんの態度からしてユイちゃんにあとで伝わるとは思わないんだよねぇ……。でも、もうしくじった後だしなぁ」

優柔不断に彼女は悩む。

しくじったとは何か。さっきから話が見えない。

たった4日でどうしてこうも世界は変貌できるんだろう。

散々ウーロン茶を飲みながらうなって、ようやくマナがわたしの目を見る。

「どのみちあそこにはもう通えないから言っちゃうね。わたし、聖痕保持者じゃないの」

「!」

なんでもないような言い方で重要なことを暴露する。

キャスケットを取って前髪を上げれば、そこにはたしかになにもない。

聖痕を隠しているのだと思いこませるためのダミー。実際は隠すためでも何でもない、ただの帽子。

「昨日、うっかりバレちゃってね。びっくりしたんだよ、まさか『みんなは人を殺したことがあるんだから』って一言で空気が凍るんだもん」

みんなは。じゃあマナは?

その光景がありありと想像できた。

わたしたちはいつだって聖痕と殺人に敏感だ。この閉ざされた街に、聖痕保持者以外がいてはならない。

誰が言い出したのか、きっと疑わしきは暴けとなったのだろう。

「女の子たちが服まで脱がしてきてね。さすがに男の子たちは廊下に出てたけど、あれは怖かったなぁ」

「そんなことが……」

「すごいよね、人ってあんな簡単に手のひら返せるんだね」

くすくすくす。マナはのんきに笑う。

そのときのことを想像しても怖いのに、どうして彼女はこうも笑っているのだろう。

セナたちの無機質な目も怖かったが、目の前であっけらかんと笑う彼女も怖い。

今日は一体なんだと言うのだろう。周りに恐怖ばかり覚える。

「まぁ、そんなところかなぁ。驚いた?」

「知ってました」

「え?」

「聖痕がないことなんて、知ってました」

今まで確信はなかった。でも初めからおかしいと思っていた。

お兄ちゃんも生前言っていた。

『保持者はいるのに事件がない』

あのときお兄ちゃんはただの気にし過ぎかもしれない、なんて言っていたけれど。

疑いは今ここで証明されてしまったのだ。あのとき考えようとして、あきらめた答えが。

「初めからおかしかったんです。あなたに該当する事件が一切流れていないなんて」

「あー……そこで感づかれちゃうんだ……。もっとちゃんと根回ししないと駄目なんだね。ありがとう、次はそうするね」

「次って、あなた何をしたいんですか?」

「えー、ユイちゃん知ってるでしょう?」

どんくさそうで、子犬みたいに無防備だと思っていた彼女はわたしの目の前にしっかりと座っていた。

少し困ったようなあきれたような微笑みを浮かべる。わたしの中のマナはもっと、追求されたらおどおどするような弱い子のように思えていたけれど。

「聖痕保持者を解放するんだよ」

崎守愛は、セナたちの敵意にもわたしの追求にも揺るがない、強い女の子だった。