聖痕八話

思い出していた。お兄ちゃんと出会ったあの日を。

お兄ちゃんと出会うことになったあの日を。

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「ねえパパ、ママ。明日はゆうえんち行くんだよね、ねっ」

あの日のことをけして忘れることはできない。

まだ8歳のとき。まだ、パパもママも生きていて、毎日が楽しくて仕方なかったあのとき。

全ては最悪の偶然で狂わされた、幸せな人生を歩むはずだった昔のわたし。

「そうよ、だから早起きしないとね」

「うん! あたらしい服きていくの!」

次の日は家族で遊びに行く予定で、浮かれきっていた。

どこにでもいる普通の女の子。どうしてそれが壊されると思うだろう。

深夜。よく眠っていた時だ。

誰かが怒鳴る声で目を覚ました。気付けば寝室の隅に隠されるようにママに抱きかかえられていた。

そのとき見上げたママの顔が、とても怖かったのを覚えている。

「ママ……?」

「静かに。お願い、じっとしてて……」

肩に押し付けられてなにも見えなくなる。入口の方からパパと誰かの怒鳴り声が聞こえた。

何が起こっているのかわからなくて、ママと二人で震える。

パパの怒鳴り声が怖い、ママの顔が怖い、暗くて、何が起こっているのかわからなくて、誰がいるのかわからなくて、怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

何を言っているのかはわからなかったけれど、とても怖い言葉だと感じた。とても怖い声で怖い言葉で脅し合っているのだけがわかった。喧嘩とは違う、なにか。

「パパ」

「し……っ」

きつくママの服を握り締める。暴言の応酬はいずれ殴り合いのような音に変わって、そして。

「が…………っ」

びちゃびちゃびちゃっ

パパのうめき声と、液体のこぼれる音。

隙間から見えた、首を掻き切られたパパの姿と、濡れた包丁。

「――――――――――――――――っ!!!!!!」

叫びそうになったわたしの口を必死にママが抑える。それでも声は抑えられなくて、超音波のような叫びにならない叫びが闇に響く。

パパを殺した男が、包丁を持ってこちらに来る。肩で苦しそうに息をして。

「――――――――――――――――っ!!!!!!」

「お願い、この子だけは、この子だけは殺さないで……っ」

ママが懇願しても、男は止まることがない。

「この子だけは、ユイだけは――――――!」

それでも刃は振り落とされる。

「………………ゃだ、やだ、こないで」

重くママの体がのしかかる。もうすぐ目の前に殺人犯は迫っていて、逃げ場はない。

死にたくない、死にたくない死にたくない!

ママの背中に手を回すと傷口に当たってぬる、とすべった。気持ち悪くて、すぐに手をどけた。

逃げられない。死にたくない!

男がもう一度刃物を振り上げたとき、どんとママを突き飛ばす。

男が驚いた隙に隙間を縫って逃げ出した。床は血で濡れていて、こけそうになりながら台所に転がり込む。

あのときどうしてわたしがそうしたのか、今でもわからない。外に出て助けを求めればよかったのに、あの時わたしはどうしてか、“自らの手で殺すこと”を選んだのだ。

「ったくちょこまかと……。あとはお前だけだ。逃げるなよ、お母さんとお父さんだって一緒だぞ」

「うるさい来るな! こっちに来るな!!」

手当たり次第に扉を開いて物を投げる。とにかく近づけちゃいけない、それだけが頭にあった。

今思えば、あのまま死んでおいた方が幸せだったかもしれない。

そうして台所にあるものを投げ続けていると、しばらくして包丁の閉まっているところを見つけた。

わたしが包丁を取るのを見て男はわたしを抑え込みに来たが、錯乱状態で包丁を振り回すわたしを捉えることはできず、やがてざしゅ、と音がした。

瞑っていた目を開くと、適当に振り回した包丁が男の腕に当たったのか、男がそこを抑えて後退していた。

今しかないと、男の腹部めがけて小さな体を突進させて――――

わたしの記憶は、そこで一度途切れる。

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翌日警察によって、男の死体と共に倒れていたわたしは保護された。

男はテレビで流れていた強盗殺人犯で、わたしの家に逃げ込んできていたらしい。

両親を目の前で殺害されたショックと人を殺したショックでその時のわたしは茫然自失の状態だった。

テレビでわたしは両親を殺されるも犯人を倒し一人生き残った女の子として扱われていた、気がする。

「ユイちゃん、大変だったわね。でも大丈夫、もう安全だからね」

やさしい婦警さんが語りかけてくれたことを覚えている。

みんな優しかった。たとえ殺人者となったとしても、同情して、憐れんでくれた。

背中に聖痕が見つかるまでは。

それは偶然だった。眠っていたときに服がめくれていただけだった。

服の隙間から見えた不自然な傷あとに婦警さんがわたしをたたき起こして服を脱がせたのだ。

背中いっぱいに広がる鎖のように絡み合った傷跡。それはたしかに聖痕だった。

それから周りの対応は一変した。

8歳の女の子をまるで怪物のように、猛獣のように扱い、恐れ、避けた。

入居するはずだった施設はとりやめ、すぐにシスマへ行くことが決まった。

ニュースでもわたしが黒幕だったかのような言いように変わっていて、幼いながらに寒気を感じたのを覚えている。

聖痕保持者が悪いもの。そういうことは知っていた。

けれど世界はこれほどまでに過敏で極端だったのか、そう思い知らされて、よりどころを奪われて、どうしようもない不安にかられたのを覚えている。

大好きな両親を失って、友達とも切り離されて、頼りになるはずの大人たちがみんなわたしのことを見捨てた。世界でたった一人になった気分だった。

そんな気分のまま車に乗せられ、シスマへ連行され初めに会ったのがお兄ちゃん――――朝木智久だったのだ。

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簡単な説明をされた後、市役所と看板の置かれた小さな建物の前に置き去りにされて、途方に暮れていたとき。

「こんにちは、天野由井さんですか?」

左頬に走った傷があまりにも印象的な男の人―――というには少し幼い人―――がわたしに話しかけてきたのだ。

「え……っ? 名前、なんで……」

「聞いてはいませんか? 今日からあなたと一緒に暮らすことになりました。朝木と言います」

目線が合うように朝木と名乗る男の人はしゃがむ。子供に向けるにしてはあまりに固い表情と、柔らかい雰囲気がなんだかちぐはぐだった。

「一緒に……?」

「はい。ここで、誰も知り合いがいないのに一人で暮らすのは大変でしょう? だから、そのために考えられた制度なんですよ」

つまり保護者代わり。それを素直に受け取るかどうかを、迷った。

この優しい態度が、また変わってしまうことが怖かった。

「でも、どうして。……赤の他人なのに」

どうして優しくしてくれるの?

純粋な疑問だった。突然知らない子供の世話を頼まれて、あっさり受け取れるものだろうか。

どうせうわべだけなんじゃないか、あの警察の人たちみたいに。

「たしかに赤の他人ですけど……」

少し面食らったように男の人が詰まる。

言ってから、少し無粋な質問だったかもしれないと焦った。けれど応えが気になったから黙っていた。

「ここにいるのは、あなたと同じ境遇の子供だけなので助け合っていかないといけないんです。外みたいに大人が導いてなんかくれませんから」

少し難しい言葉を使う人だ。けれど、わかるように話されるよりも心が伝わる気がする。

「僕も、ここにいる人たちも、みんなひとりは殺しましたし、外の人間に追いやられてきた人ばかりです。仲間を助けるのは当然でしょう?」

少し、わかりづらいくらいにだけれど、男の人が笑う。

あまりわかりやすいとは言えないけれど、それでもこの人もわたしと“同じ”だということだけはわかった。

あの冷たい目を、態度の急変を目の当たりにした人なのだと。

それに、この人がうわべだけの優しさなんて、そんな器用なことができる人ではないと思った。信用しても、いいのかもしれない。

「…………」

「え、ええと……。こんなんじゃ駄目でしょうかね?」

じっと見ていると、男の人が困ったようにはにかんだ。

その言葉にはっとして、ようやく言葉を発する。

「ご、ごめんなさい。……あの、これからおねがいします、あさぎさん!」

あわてながらお辞儀をするとごんっと鈍い衝撃が額を走ってうずくまる。距離が近すぎたのか頭突きをしたらしい。

「~~~~~~っ」

「だ、大丈夫ですか、天野さん……」

「へへ……だいじょうぶ、です」

痛かったけれど、変な緊張がとれて逆にリラックスができた。

知らない人と一緒に暮らすなんて信じられなかったけれど、なんとかなる、気がした。

「これからおねがいします、あさぎさん」

「はい、こちらこそ」

行きましょう、と差し出された大きな手を取る。

少し緊張もしたけれど、ようやく安心できる場所をみつけた。

あの時握った手は、世界でたった一つだけの拠り所だった。

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カーテンの隙間から、さわやかな日差しが差し込んでいる。

お兄ちゃんを殺した昨日、すぐに早退をさせられてわたしは家へ帰った。

「………………っぅ、…………ひっく」

なにもする気が起きなくて、じっと、ただじっとベッドの上で夜通し泣いていた。

いい加減涙が止まってくれてもいいのに、ひたすら溢れるばかりだった。

涙に反射してうっすらと見える陽がさらに眩しく見える。

あんなに悲しい想いをしても、誰が死のうと、太陽は変わらずさわやかで、眩しい。

泣き腫らしているわたしがみじめに思えて、陽が漏れないようにカーテンを閉め直した。

服は、昨日のまま。食事もとってなくてお腹が空いていたけど、こんな状態で食べる気になんてなれなかった。きっとボロボロの髪もあいまって悲惨なことになってるだろう。

時計を見ると朝の九時。昨日帰ったのが三時間目の最中だったから、文字通り一日中泣いていたことになる。

悲しみで塗りつぶされた思考は上手く動いてくれない。

ただ一人、すがりついてきた人がいなくなった。

またわたしは、ひとりぼっちになった。

ねぇお兄ちゃん。これからわたしはどうしたらいいでしょう。

あなたがいない世界なんて信じたくないよ――――。