聖痕五話
外の世界にあるのは屈辱だけだ。
味方なんてどこにもいない。
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セナが通っていたのは宮城の小さな私立校だった。
人数の少なさゆえに誰もが知り合いであり、嫌でも毎日顔を合わせた。
ばしゃんっ
「ようセナ。汚ねぇカッコで学校くんじゃねーや」
教室に入った瞬間、バケツを持った男子が立ちふさがる。
頭から被った水が全身を濡らし体が重くなる。
ずたずたに引き裂かれた制服と、ぶつ切りにされた髪。
見るも無残な格好になるほどに、セナはいつもいじめられていたのだ。
季節は冬。かけられた水は急速に体温を奪い、指先は感覚をなくしていく。
もはや寒さを通り越して痛かった。悔しさと寒さを押さえ込むため、きつく唇を噛み締めようとするが、うまく歯が噛み合わなく、ガチガチと震える。その振動が頭に響いて、また煩わしい。
――――どうして、セナが。
虚ろな瞳でただ床を睨んだ。抵抗はとっくに諦めた。なにを言っても彼らは笑うだけなのだ。周りの嘲笑をまともに聞いていたら今にも狂いそうだった。
もう何年もいじめは続いていた。誰だって気付いているはずなのに教師は誰一人助けてはくれなかった。誰一人はげましてもくれなかった。誰も同じ目に合いたくないからだ。
共働きの両親は厳しく、言う隙もなかった。相手をしてくれもしなかった。
ゆえにただセナは耐えるしかなかった。逃げ場所は、どこにもなかった。
「お前、また髪伸びて来たべ? 俺が綺麗にしたるっちゃ!」
ぐい、と髪を引っ張られた。気付けば周りに数人いて、セナを動かないように抑え込む。
手に持った鋏は容赦なくセナの髪を切り刻んでいく。
ざくざくと濡れた髪が落ちる。乱暴に切られた髪はさらにセナの凄惨な印象を強めていく。
もはや、なんの情動も浮かばない。
くすくす
嘲笑がセナを包む。
くすくす
エスカレーター制の私立校という閉ざされた檻から、セナは逃れることができない。
もう作り直すことを諦めた制服は、着られないほどに惨めだった。
なにもかもが惨めだった。なにもかもが憎かった。
――――こいつらがみんな同じ目にあえばいいっちゃ。そうすれば…いや、そんなんじゃ足りん。足りん。もっと、もっと、辛いことを。
朝のホームルームの開始のチャイムが鳴り響く。
しかしそれは、セナにとって救いの鐘ではなく、ただ今日一日の悲劇の開幕を教えるだけのものだった。
チャイムが鳴った瞬間男子たちは手を止めて、飽きたように席に戻った。それを皮切りにそれぞれセナを無視して席につく。
「うお、なにしてたんだこれ。誰か雑巾持って来ーい!」
教室に入ってきた教師がセナよりも先に水浸しの床に目をつけて掃除をしにかかる。セナの存在には目もくれない。
ゆっくりと腰をあげて黙って自分の席へ移動した。そのことに誰も関心を向けることはない。
セナは所詮、いないも同義なのだ。
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授業中。
罵倒の落書きだらけの机に、読めないほどに切り刻まれた教科書。
授業を聞くつもりはなかった。この状態ではしようがないし、もはやするつもりもなかった。
いっそ退学にしてくれたなら。そう思う。
セナの成績はほとんど底辺だ。授業に参加できるような状態でも、精神状態でもなかったからだ。
何度も学校を休もうと思った。休んだこともあった。
しかしそのたびに教師から連絡が行き、叱られた。セナの理由は聞きもしない。
『いじめられるのはお前が弱いからっちゃ。嫌なら言ってきぃ、反抗しぃ。甘ったれてんじゃねーべ』
それができたら苦労しねっちよ、おとん。
意思の強く娘にきつい両親は、セナを守ろうとしなかった。ただ必要な備品を買い足す費用を提供するだけの存在。
厳しいだけの親の態度は、もはや虐待にも近かった。
なんで、セナがこんな想いせんといけん。
ずっとセナに生き地獄を味あわせてきたあいつらには、なにすりゃ釣り合う?
おかん、おとん、せんせ、みんな。
みんなみんな、セナ以上に辛い目にあわせんと、許せんちゃ――――
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とある日は、教科書などの私物が全部燃やされていた日があった。
とある日は、階段から突き落とされた。
とある日は、煙草を押し付けられた。
とある日は、髪と服をずたずたに切られた。
とある日は、
とある日は、
とある日は、
とある日は、
とある日は、
・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・。
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もう我慢できん。
自宅の台所で、明かりもつけずに包丁を手にとる。
ぷつ、と指先を切って切れ味を確認する。
切った指先の痛みすら、普段と比べたら気持ちいいくらいだった。
もう我慢できん。
殺す。みんなみんな、殺す。でんと釣り合わん。これでも釣りが来る。
苦しめて殺さんとならん。セナが苦しんだ何倍も苦しませて殺さんとならん。
すぐには死なせてたまらんちゃ。
初めは、両親。明日は朝会だから、全校生徒が一か所に集まる。
逃がさない。誰一人も逃がさない。
復讐を誓う。犯罪とか、そんなものはどうでもよかった。ただ全てを壊したかった。
ガチャリとドアの開く音がした。両親が帰ってきたのだ。
「ただいまー…。セナ、まだ起きとったっちか」
「うん。――――おかえり」
電気もつけずにいることにも、またさらに髪が短くされていることにも触れない。
むしろ、深夜まで起きていることを叱ろうと、たちまち母の表情が固くなる。
「セナ、こっちゃござい!」
腕を引かれ、母の懐へと連れ込まれたとき。
…………どすっ…
「………―――――!?」
腹を包丁で一突きされ、痛みに悶え床を這う、母。
心臓がばくばくと鳴り、腕が振るえた。刺した感触に、興奮しているのが自分でもわかった。
「せ…っ、セナ!! お前――――!!」
「うるさい」
ヒステリックに叫ぼうとした父も、同様に突き刺した。
床に這いつくばる父の腹の傷を踏みつける。
暗い眼は、ただ失望に満ちていた。
「痛いけ? 痛いべ? セナはそれよりずっと傷ついて来たっちよ」
「あ…あああああ…!! やめ…やめ…」
「いじめられるのはセナが弱いからって、おとんは言った。なら、おとんが今痛がってるのもおとんが弱いせいっちゃ!」
腕の付け根を突き刺した。両親の叫び声がシンクロする。
「泣け!! 喚け!! セナの辛さ、思い知ってから死ね!!」
ざく、ざくと何度も突き刺した。そのうち叫び声は消え、血の泡を吹き始める。
心がすっきりしていくのが自分でもわかった。ずっとこのときを待ち望んでいたのだ。全てに復讐できるこのときを。
「セナ…狂ったっち…か…」
母が息も絶え絶えに呟いた。それすらも、セナの神経を逆撫でた。
「狂った!! セナが狂ってるならおかんたちは!? セナが苦しんどるの知ってて助けようともせんかったおかんらは!? セナを何年もいじめ続けた学校の奴らは!? 冬に水を浴びさせて、髪を伸びるたびに切り刻んで、階段から突き落としてたばこの火を押し付けて、カッターで切られそうになったこともあっちゃ!! やつらは狂っちょらん言えるべか!!!」
激情に任せて、喉を突き刺す。何度も、何度も。返り血など気にもせず。
何も話せないように、もう自分を傷つけることができないように念入りに突き刺し、引き裂いた。血と粘液にまみれて切りづらくなっても、力任せに引き裂いた。
「みんなみんな、殺してやる」
どすっ、と父の腹に包丁を突き刺す。
「誰一人生かさん。絶対っちゃ――――!!」
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そうして、悲劇は起きた。
誰もが逃げようとしたが、門付近にはガソリンがまかれていて炎が燃え上がり、その日校内にいた者は誰一人生き残ることはなかった。
大量殺人者として捕らえられ、聖痕保持者であることがわかったのは、いじめの傷が癒えて聖痕がようやく露わになった、三か月後のことだった――――。
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「どうしてお前が生きてるんだ! みんな殺したはずなのに!」
ぶんぶんと斧を振り回すがなかなか当たらず苛立ちはさらに募る。
大牧と呼ばれた男は戸惑いと恐怖に逃げ惑うばかりで抵抗する余裕はなさそうだった。
「お前……っ、まだ、殺したりな……っ」
「当たり前だっ、セナをあんなに苦しめてきたお前らを! 生かしておけるかああああああっ!!」
斧を槍のように構え腹部めがけ突進する。ぞぶりと肉を貫く感触がして自然と口元が笑みの形になる。
あとはもうなしくずしだった。
力任せに首を折り、腕を折り、開いた腹部から覗く内臓を踏みつぶした。
始めはぴくぴくと痙攣しているのが目についたが斧を振るっているうちに動かなくなった。そのことに満足しながら、腕を止めずにさらに振り落とそうとすると、後ろから腕を取られ振るう勢いが止まる。
「セナ! あなたなにをしているんですか!?」
「ユイ……?」
せっぱつまったようなユイの言葉にきょとりとする。振り返ってみればユイが少し怯えたような表情でセナを見つめていた。
「離してよユイ。まだ終わってないんだから」
「戦闘はもう終わりました。その人だって死んでるじゃないですか! もうやめなさい、セナ」
命令と言うより懇願というような形でユイが言う。
少し冷静になって大牧を見れば、もうどこが肉でどこがなんだったのかすらわからない状態になっていた。それを確認してようやく心の荷が降りた。
これで、もうセナを傷つけた人間は誰一人いなくなった。
涙を流しながら、自分が笑っていることにも気付いていた。ユイが怪訝そうに、なにか言いたそうにしているのも気付いていた。自分が異常なのはわかってはいた。けれどこう思わずにはいられなかったのだ。
――――ざまぁみろ。セナはもう、お前たちに屈服していた時のセナじゃない。
「ユイ、ごめんね。コレ片づけたら戻ろっか」
「…………ええ……」
足取りは軽く、笑みさえ作って彼女は言った。