レジスタンス五話

肉の腐った臭い。糞尿の臭い。血の臭い。

この世の全ての悪臭を詰め込んで煮詰めたような、気の遠くなるほど空気の淀んだその場所に、少女はいた。

上質なドレス――――それももう裾が泥水を吸って黒く濁り、いくらかほつれて見苦しいあり様になっている――――を身にまとい、その胸元には瑪瑙のカメオが大きく輝いている。

深みのある黒髪は、元は艶やかであっただろうが今はくすんで輝きを失っていた。白く透明感のある肌には泥がつき頬はこけ、芸術的な美しさを持っていたはずの美貌を綻ばせていた。

絹のハンカチで口元を覆い、周囲の空気の悪さのせいで顔色は紙のように白い。それでも。

赤い瞳は力を失わず、蒼白な表情とは裏腹に強い輝きを放っていた。

一目見れば誰もが身分の良いのだとわかる彼女――――ラギルダ・ティエルが居た場所は、その周囲は全ての汚物をかき集めた吹き溜まりのような場所――――スラムだった。

カツン。カツン。

空気の淀んだ、静寂の中に死に絶えている路地を少女はただ一人歩く。高いヒールを履いた足は今にもげそうなほどの痛みを発し、慣れない長距離の歩行に不平を訴えるがラギルダはそんなことも感じさせないほど無表情に歩いていく。本心では今すぐに脱いでしまいたかったが、こんなかろうじて道と呼べるような、舗装もされていない道を裸足で歩くなど考えるだけで嫌だった。

目を少し横にずらせば浮浪者や、捨てられた子供や、娼婦が死人のように在る。それを見るのが嫌で、このような場所に堕ちた高身分の娘とは思えない程堂々と前を見てラギルダは歩く。

泥と埃と血と糞と、そんなものにまみれた道は見るだけでも気分が悪かった。

本来自分の居るべき場所を思い出す。

豪奢な屋敷と、広く整えられた庭。美しく身なりを整えた教養のある人々と、それに仕えるにふさわしい教育を施された使用人。おいしい紅茶と甘いお菓子。綺麗なドレスと、華やかな社交界と、愛する婚約者の優しい笑顔。

退屈だけれど汚れを知らない聖域。そんな場所で育ち、そんな場所しか知らなかった。それなのに。

これは一体なんなのだろう。何故自分はこんなところに居るのだろう。

吐き気がした。空気にも、状況にも。

あるべき場所とは真逆のスラムに放置されてから、もう三日。

食事にもありつけず、ただひたすらに休まず歩き続けている。悪夢のようだった。

――――ウィンリルめ……。

全ての元凶に、ラギルダは怒りを向ける。

こんなところにいるのも、ラギルダが独りなのも、全てはあの男のせいだった。

ウィンリル・ボニツェール・ドーナ。

男にしては線が細く少女とも見間違えそうな、小柄な男。ドーナ王グラシェードの息子らしく、意地悪く狡猾な、あの男。

思い出すだけで腹が立つ。腸が煮えくり返る。

ラギルダの婚約者ミハエルを、虎と呼ばれたウェルタール王国の名騎士を、いともたやすく殺して見せたあの男。二回りほどもある体格差をも嘲笑うかのように、無傷で、無表情に、ミハエルの体を貫いて見せたあの男。

あのときの底冷えした氷の瞳が目に焼き付いて離れない。ウィンリルを怖いなどと思ったことは、あとにも先にもあれだけだ。

ウィンリルとは数回会ったことがある。年も近いと言うことで、次代を担う者としてパイプを作るように仕向けられて。ドーナなどという小国に興味はなく、そんな小国の王よりもティエルの権限の方が圧倒的に上だと言うのにもかかわらず。

しかしそれでも、ウィンリルの人柄というのはラギルダにとっては比較的好感の持てる部類で、彼ならば交友を結んでもいいかと考えていたのだ。

今回のことがなければ。

ラギルダは怒りに燃えていた。ミハエルを殺したこと、ラギルダをスラムに捨てて行ったこと、ティエルに刃を向けたこと、その全てになんの情動も動かしていないこと。

こんな愚弄にへらへらと笑っていられるほど、ラギルダは矜持を低く持っていなかった。

殺してやる。

怒りをはっきりと言葉に表す。ミハエルの死を目の当たりにしたときは捕らわれるより自害した方がましだとも思ったが、こうも辛酸を舐めさせられてはなにもせずに死ぬ方がよほど沽券に関わる。

ティエル家が、ラギルダが、ドーナの蹂躙に成す術なく滅ぼされたと記録に残されては末代まで残る恥だ、そんなことを許してはおけない。

ラギルダは気が強かった。負けず嫌いで、尊大で、気高く、そして貴族であることに強い誇りを持っていた。そんな彼女が全てを失った絶望の次に抱いたのは強い殺意と怒りだった。

殺してやる。自分の全てを奪った奴を、けして赦しはしない。必ずこの手で、ティエルに刃向ったことを後悔させてみせる。

赤い瞳を燃やして、その怒りを燃料にラギルダはただ歩いていた。

しかし復讐しようにも本人が場にいないのならしようがない。今はスラムを抜けて、城下町を目指すしか取れる行動がなかった。

だからラギルダは歩いている。ろくに食事も水も取れないまま、三日三晩まともに寝もせず。

不思議と苦しいとは思わなかった。ラギルダの気高い意思は疲労を凌駕して、その体を支えていた。三日で体は驚くほどやつれていたが、赤い眼だけは逆に精力的に光っていた。

「……!」

重いドレスがくんっ、と後ろから引かれる。引く力は強くはないが、振り払うには掴んでいるなにかが重い。

不機嫌になりながら、ラギルダは後ろを振り向く。

「ほ……ほうせき……っ。これがあれば、食いっぱぐれることもない…………!!」

ドレスのすそを掴んで、今に餓死しそうな男が宝石をちぎろうと必死に布を引っ張っている。

ぞっとしない光景だった。ずっと寄せたままだった眉がさらに寄り、赤い瞳に侮蔑の色が浮かぶ。浮浪者がドレスを掴んでいる。自分のドレスに、自分に、触れている。ましてや宝石を盗って金に換えようとしている。

腹立たしい。見るだけで目が腐りそうな光景。

「一体、誰に許可を貰ってこの僕に触れているんだい?」

「は……っ?」

足を上げて、座り込む男のふとももを踏む。瞬間、男があげる汚い悲鳴も無視して、ヒールが食い込むように全体重をかけていく。男が手を離すまで。

その男は比較的意地がなかった。あっさりと手の力を緩めてふとももを庇おうとするのを、ラギルダは男の手を蹴りあげて、ついで胸元を蹴とばした。

そして、またなにもなかったかのように路地を行く。もう男は追ってこない。

ここへ来てから、こんな輩に絡まれるのは一体何度目だろう。

一歩、スラムへ踏み出してからと言うもの、ラギルダのドレスに縫い付けられている宝石をもぎ取ろうとする輩がよく湧いた。そのせいでドレスに着いていた宝石も半数は盗まれ奪われ、ほつれた糸がめちゃくちゃにはねている。

始めは怯えて逃げ回っていたが、三日目となるともう慣れて苛立ちに任せてさっきのように武力行使することも厭わなくなっていた。身分も弁えずに自分に触れるような不届き者に怯える必要がそもそもなかったのだと気付いたのは二日目の昼だった。

彼ら浮浪者は、どれもこれも食事に飢えているせいかろくに力がなく脆いのだ。それこそ、屋敷暮らしだったラギルダでも簡単に撃退できるほどに。

彼らがこれから飢えて死のうがあの攻撃が元で死のうが知ったことがない。あんな低俗な者が死のうと生きようと、ラギルダには関係のない話だ。

そう、言い聞かせる。

どんなに興味のない相手でも、死体となると気分が悪い。しかし今のラギルダにはどうすることもできないのも確かだった。

自分が生きることで精一杯だ。生きて、生き延びて、復讐を遂げること以外に手は回らない。家の権威のない一人の自分が、なんの力もないことなどわかりきっていることだ。

それでも胸を張り、貴族としての矜持を保つのは一重に自身の自我を保つためでしかない。

「あ……っ」

くら、と視界が揺れるのを見てそっと近くの壁に寄る。背中を凭れるのは躊躇われたが、突然の立ちくらみにそんな意地を張っている余裕もない。

ぜい、と大きく息を吐いて、頭の揺れに耐える。三日も無理していたつけが来たか。ぐらぐら世界が揺れるのを見ながら、小さくミハエル、と呟く。

さっきまでぴんと気を張っていたはずなのに、ただの立ちくらみでみるみるうちに萎んでいく。情けないと思った。ただ食事ができず、めまいがしただけで。

なにもせずとも出てきた食事が、今はもう出てこない。自分でどうにかしなければいけないことはわかっていた。けれど、こんな汚れた場所で手に入る食事に手を付けるということを許せない。

全部、自分の高い高い矜持のせいだった。ここでのたれ死ぬのだろうか。周りと同じように、餓死して死ぬのだろうか。

「ミハエル……」

弱った体に弱った思考。それを支えてもらおうと、愛しい婚約者の名前を呼ぶ。

明るく透けて、太陽の色に染まる髪。空を映す瑠璃色の瞳。虎と呼ばれるには似つかわしくない、あまりに優しすぎるたれさがった目と、曖昧な微笑み。

大きな手でラギルダの頭を撫でて、そして彼は言うのだ。『愛してるよ、ラギルダ』

そこまで考えて、ミハエルはこんなこと言わないなと思い直す。言うならこうだ。『命に代えても、君を守るよ』

そして実際、そうなってしまったのだが。

ミハエルは真面目で、優しくて。そして自己犠牲的だった。そんなことを有言実行しなくていいのに。ラギルダは恨みがましくそう思う。

「ミハエル、会いたいよ……」

瞼を閉じれば簡単に顔を思い描ける。これほど近くに感じるのに、今自分がいるのがドーナなどとは信じられない。

彼が死んだとは、思えない。

このままここにうずくまっていれば、また彼が見つけ出してくれる気がする。

遠い昔、小さな頃に、屋敷を抜け出して遊ぶ癖があったラギルダを見つけたのは、いつだってミハエルだった。

今日も、きっと。困った子だと笑って、抱きあげてくれるのだ。

どこにいても、絶対に。

死んでなどいない。あんな、華奢な男にミハエルが簡単に殺されるわけがない。必ずいつか、ラギルダのことを見つけ出してくれるのだ。

そう唱えて、復唱して、それから襲ってくる虚無感に途方もなく涙が出た。

うずくまって、すっかり薄汚れたドレスに顔を押し付けた。ここへ来てから三日。ラギルダは初めて涙を流したことに気付く。

ずっと、混乱と憎悪と貴族としての矜持によって胸を張ることを強要されて、ここにいることによる絶対的な絶望まで頭が回っていなかったのだ。そして今、ラギルダは空腹に立てないでいる。

――――僕は、死ぬのかもしれない。

自分らしくない、気弱な思考回路。そう思っても、どうも弱っているせいか止まりそうになかった。

死んだら、ミハエル、君の隣にいける?

だったら死んでもいいかな。

ミハエルに言ったらきっと怒られるのだろう。そんなことを言ってはいけない、君はティエルを背負うのだから、と。

だがもう、ティエルもない。ウィンリルがミハエルだけを殺して父も母も殺さなかったなどありえない。当主が殺され、跡取り娘がドーナへ誘拐されたら、もうだれもティエルを背負う者はいなくなる。

大陸の貿易を統制していたティエル公爵家。大陸のいたるところにいる親戚たちを通してその力を発揮し続けていたが、そのティエルがいなくなった今、貿易はどうなっているのだろう。抱え込んでいた商人たちは。

親戚たちが代わりを果たしているだろうか? ティエルの真似事ができるような力の大きな家はなかったと思う。

商人たちは散り散りになって、自分の食糧分くらいの稼ぎはできるとは思うが。

そもそも、こんな混乱のあとだ。簡単に元のような動きができるわけもないか。そこでラギルダは思考を止める。

ティエルもいらないなら、僕が生きている意味ないや。

ぼんやりとした頭で、強烈な眠気に襲われて、このまま瞼を閉じれば安らかに眠れるのではとさえ思う。次、目を覚ました時にはきっとミハエルが優しく手を差し伸べてくれている事だろう。

ああ、ならいいじゃないか。眠ってしまえよ。

すぅ、と思考を手放そうとする。

主よ、どうかこの哀れな命をお迎えください――――。

「……――――ッ!!」

がばっ、と体を起こす。

嫌な予感が、眠気も疲れも払拭して、全ての神経が人の気配の方向へ行く。

なにかが、迫っている。

それがなにかはわからない。しかしろくでもないものなのは確かだ。ぉぉぉぉ、と低いうなり声のようなものが、ラギルダをたしかに捕らえて近づいている。

盗人か、はては誘拐犯か、強姦か。

どれであれ捕まるわけにはいかない。

立つだけで業火に焼かれるごとく痛みを放つ足を激励して、無理やりにラギルダは走り出す。死んでもいいなどという考えはもうどこかへ消えていた。

とにかく生きて、生きて、清らかなままでなければ。

ドレスのすそを抱え上げて、義務感に掻きたてられて走る。少し後ろを見ると、なにか怪物のような、もう意識もあるのかわからないような男がゆらゆらとついてきていた。

足は速くない。これなら振り切ることもできる。

「ぁかいめええぇぇ……!!」

「!」

男が唸る。“赤い目”と。

知っているのだ、ラギルダが何者であるかを。

ラギルダの身分を表すものが、濡れ羽色の黒髪でも、透き通った白い肌でも、丁寧に作られたドレスでもカメオでもないことを。

ラギルダの高貴さを保障するものが――――他に見ない真紅の瞳であることを。

ぎり、と歯を噛み合わせる。ただの貴族の娘とだけ思われていたならここまで焦りはしない。ティエル家の象徴である赤い目を知っている、それはつまり、ティエルの力を悪用することが可能であるということだ。

捕まるわけにはいくまい。ラギルダをだしに大陸全てを操るだけの力が、この赤い目にはあるのだ。

もうなりふり構っていられなかった。どんなに激痛が走っても、みっともない格好をしていても、誰にも捕まるわけにはいかなかった。

ヒールを叩きつける音がスラムに響く。のみでなにかを削るような甲高く耳障りな音と、耳元を突きぬけていく風の音が、なにかを考えることを邪魔した。ただひたすらに逃げることに集中するために鳴っているかのようだった。

心臓が痛い。肺が千切れそうだ。夏の近い空気であっても、鋭く喉に刺さる風は容赦しない。それでも走らなければならなかった。

男とラギルダ、どちらが先に倒れるかの耐久勝負。

三日歩いて、食事もできないでいたのに、一体どこからこれだけの力が湧いてくるのだろうとラギルダは思う。走ることだけに集中して、逃げることだけを考えていると、人とはこんなにも限界を超えられるものなのか。

自分の人並み以上に高い矜持に感謝する。

どさっ。

「……」

背後でなにかが落ちる音。

それを敏感に聞き取って、一瞬だけ振り返る。

男が倒れていた。

確認しても止まらずに、ラギルダは走る。少しだけ速度は落として、男が見えなくなるところまで走り続けて、少し陽のあたるところに出てようやく足を止めた。

「はぁ……っ!」

力尽きるように座り込む。

こんなに走るのは何十年ぶりだろう。幼少期以来、ずっと座っているような生活だったラギルダにはあまりにも酷すぎる。けれどこの先何度もこんなことがあるのは明白だった。

「……なにか、目を隠すものがいるな」

男の言葉を思い出して、自分がどれだけ無防備でいるか認識する。

今まではティエルの存在など知らない者ばかりだったから、ドレスの宝石程度で済んだ。だが自分の価値は本来そんなものじゃない。ラギルダを利用すれば、大陸全土の貿易を手中にできるのだ。忘れていた、あまりに、自己の価値が無意味なところにいたせいで。

ぐるりと周りを見渡してみる。

死体。

死体、死体。

嫌になるほどの死体の山。そろそろ情動が麻痺してきたのか、ただの餓死体くらいならば特に驚きもしなくなっている自分にも吐き気がした。

死体がなにか有用なものを持っていないか、観察してしまっていることにも。

「……」

そうして、一人、青年を見つける。

薄汚れたマントを羽織って、うつぶせに寝ているから青年かは定かじゃない。しかし手に皺はなくごつごつしていて、背は女性にしては高すぎる。

青年に触れることを、ためらう。

自分の中で絶対的にしてはならないことに触れることだ。

自分は今なにをしようとしているのか。――――盗みを働こうとしているのだ。

罪。それを犯すことは最も許されないものだった。正しく生きるラギルダにとって、その決断をするのはあまりに難しかった。

じっと、動かない青年を見つめる。睨み付けて、それでわかるのは、ただ彼が死んでいるらしいことだけだった。

彼に触れたらきっと、ラギルダは綺麗なままの少女ではいられないだろう。

なにも知らない、あらゆるものに守られた、貴族の娘ではなくなるのだ。

怖いと思った。

「……」

じっと青年を見つめる。

ミハエルは、今しようとしていることをどう思うだろう。ラギルダが復讐のために動くことを、どう思うだろう。

――――きっといい顔はしないだろう。

けれど曖昧に笑って、無事でよかったと笑うのだ。容易に想像ができた。

生きていることは何物にも替えられないと、言ってくれるだろう。都合のいい妄想かもしれない、だけれどミハエルがこれを責めるとも思えない。

走ってクリアになった思考は、もう死を思うこともない。

今死ねばミハエルが守ろうとしてくれたことが無駄になってしまうと思ったのだ。

今の状況を想う。誰も守ってくれないこの場所で、己を守るのは誰だ。

まぎれもない自分である。

ラギルダは青年を見る。

ラギルダは彼のようにのたれ死ぬことなど許されなかった。ラギルダの背には大陸の貿易と、愛する人たちの犠牲があるのだ。

なにをしてでも、生き延びる必要があった。

――――ミハエル、どうか生きるために罪を犯す僕を許して。

「……っ!」

震える指先で青年に触れる。

真夏なのにいやに冷たく、それでいて固い。薄汚れているけれどまだ綺麗なコートを引っ張ってみるが、青年の体重が重しになって取れそうにない。

つま先に青年をひっかけて転がしてみる。

ごとっ、

と大きな音を立ててひっくり返った青年は、なにか怖い夢でも見ているような顔だった。まだ若い、ラギルダとそう変わらない年に見えた。

青年の首元にある留め金を外し、硬直した死体から丁寧にマントを剥ぐ。乱暴をするとマントが裂けてしまうのではないかと思った。

地獄のような、作業だった。

死体の感触は気持ち悪く、その臭いを吸ってしまうのは気分が悪かった。それでも手を止めないで慎重に、マントから青年をどかせる。ようやく剥げた。

死体の着ていたものを身につけることに抵抗はあったが背に腹は代えられない。まだ死体が新しかったのもあって腐臭も強くないから我慢できた。長い裾はドレスの盛り上がりのおかげで引きずることのない高さまで引きあがる。フードはやや大きい気がしたが、目を隠すためのものだから問題ない。

もう、これで手は汚れた。美しい貴族の世界は遠のいて、生きることに醜く執着しなければならない。

それでも後悔はなかった。ラギルダにはあらゆる権力への糸口があるのだ、死んでもなにかに利用されないという可能性はない。だったら生きて生きて生き延びて、己の力で家を復興させるだけだった。

ミハエルの死を、無駄にもできない。守ってもらったこの命、彼の望んだ未来のために燃やし続けるのだ。

――――君は大陸の女王となるんだよ。

――――それに恥じぬ淑女におなりなさい。

今の姿は、彼の願った未来に泥を塗るかもしれない。けれどそんなことなかったかのように返り咲くだけの自信が、ラギルダにはあった。そうしなければならなかった。

ラギルダはティエル公爵女なのだ。大陸の貿易を統制する商いの女王。

失脚することは許されない。

「ミハエル、あなたにもらったこの命を、僕はあなたに捧げよう」

宣言するように、ラギルダは言う。

もう弱ったりなどしない。方向性は決まった。ラギルダにはやらねばならないことがあるのだ。

「だから見ていて、僕がティエルに戻るその時を。僕は必ずこの国から出て、あなたの望んだ女王となるよ」

重いポケットの中身をひっぱり出すと、少し綻んだダガーが顔を出す。そっと振ってみて、ラギルダでも扱えそうな重さなのを確認する。

これが一歩だ。僕がティエルに返り咲くための。

「そのためにはまず貴様から殺してやる――――……待っていろ、ウィンリル・ボルツェール・ドーナ――――ッ!」

+++

夜の帳が降りる頃。女たちは目いっぱいに化粧をして、暗闇でも最大に美しく見えるように着飾る。望んでもいない男の相手は憂鬱なはずなのに、それでも女たちは誰よりも美しくあるための努力を惜しまない。そのために、開店前の娼館はいつも騒然としている。

ルーシィもまた、雪のように白い肌へ椿のように赤い紅を乗せていた。

ゆるやかにうねる明るい茶の髪のカールが決まっているかを鏡で見て、それからとびっきりの笑顔を練習した。

男の相手は好きじゃない。けれど醜い状態で抱かれるのは屈辱だ。

そんな屈折した矜持から、ルーシィもまた、今夜も最高に美しい姿であることに幸福を感じた。

「……ママ、準備しないの?」

そんな開店前の喧騒の中、一人だけ化粧もせずに考え込んでいる女に声をかける。

娼婦たちのまとめ役であるその女は、闇より暗い漆黒の髪を垂らして難しい顔で考え込んでいた。やわらかな雰囲気を持った人なのに、眉間にしわを寄せているのは似合わない。

「ああ、いや……やるけどな。少し気になることがあって」

「ふぅん、なあに?」

きょとん、と首をかしげる。

気になることってなんだろう。にきびだろうか、嫌いなお得意がいるのだろうか。あとは……反乱軍の存在がバレた?

ふっと背後にある裏口のドアを見る。壁に寄りかかっている用心棒の彼は、今日も女たちの会話に興味がなさそうだった。

「最近、廃屋になった娼館が盗人に入られることが多いらしいんだよ」

「あら、不思議でもないんじゃない? なにか残ってたらめっけもんじゃない、一文無しだったらアタシもそうするわ」

「あんたはほんと、図太い子だね」

呆れたように笑って、難しそうにしていた顔が綻びる。うん、いい笑顔。

「そうは言っても、ドーナだろう? うちに強盗に来ないとも限らないし、不安分子を少しは削れたらいいなってね……男たちの相手で手一杯なのに、そのうえ身剥ぎやら盗人やらなんかに警戒してらんないよ」

「ふーん、そっかー」

別に、来たって用心棒くんがなんとかしてくれると思うけどなぁ、との言葉は飲み込む。そういう話ではないのだ。

そこで、ひらめいた。

ちょうどいい人材がいたじゃないか。

「ねぇママ、その件アタシに任せてよ! なんとかしてあげるわ!」

「なんだい、いきなり……」

「次、その盗人が現れるのってきっと三軒隣の道のあそこよね? 潰れたばっかりだもん」

「まぁ……でもいつ現れるかわかったもんじゃないからなあ」

「なんとかなるわよ! アタシ運強いし!」

どっから出てくるんだい、その自信。ママが呆れたように笑う。

しかしなんとなく自信があった。明日、きっとそいつは来るだろう。ほんとに当たったら小説みたいで面白い。

「せっかく入った戦力だもの、力量測るのにちょうどいいわ」

蒼い髪に金の目の、小さくてかわいい彼女を思い浮かべる。

正直に言えば、あんなに小さい女の子がほんとに役に立つのか不安なのだ。力を測るのにこれほどちょうどいいこともないだろう。ついでに目障りな盗人も排除して、使えそうなドレスは持って帰ってくればいい。

うん、我ながらいい作戦。

「決めた決めた! ママ、明日の報告を待っていてね。きっといい人材が入ってくるわよ!」

ルーシィはご機嫌に笑う。

今日はいつもより楽しく仕事が出来そうだった。