聖痕十七話

「ユイちゃん。少しみやげ話してあげようか」

「みやげ話?」

「わたしの研究のこと」

神田さんを訪れたあの日、封筒を渡し終わって帰ろうとしたのを引き留められた。

机の上には結局受け取らなかった髪留めが光っている。

「神田さんの研究?」

「わたしね、聖痕について研究してるの」

「なっ」

しーっ。唇に指を当てるまねをする。

聖痕の研究は可能なんだろうか。まずそこに疑問を抱く。

聖痕は基本的に情報が規制されている。だからテレビに流れるのは聖痕の恐怖とか、保持者への罵倒とか、そんなものばかりだ。

聖痕の本なんて出もしない。そんなものを研究していると、彼女は言うのだ。

「表向きは別のことを研究してるんだけどね。本当はいけないのよこんなの。見つかったら捕まっちゃうわ」

「なら、どうして……」

「トモのことがあったからよ」

神田さんが、髪留めをいとおしそうに撫でる。

「14歳のあのとき、トモが血を”被った瞬間”聖痕が浮かんだのがずっと気になっていたの。それで、どうにかして研究ができないかって、色々調べて……。

そしたら、ここの教授が隠れて聖痕の研究をしてるって噂を聞いたの。来てみたら案の定で驚いたわ」

それから4年かけて勉強してきたけど、聖痕って全然わからないわ。神田さんは言う。

「ユイちゃんが知りたければ、今わかってること、教えてあげる」

「……どうしてですか?」

「だって、張本人たちがなにも知らないなんて、おかしいじゃない」

どうするかはあなた次第だけど。

神田さんはずるい聞き方をする人だ。わたしが知りたがるなんて当たり前なのに。

これを聞いたら、なにが変わるだろう。

外へ出たくなるだろうか。

さらに内に籠もるようになるだろうか。

聖痕を消す術なんかは見つかっているだろうか。

せめて狂暴化しないで済む方法なんかはあるだろうか。

知りたいことは山ほどあって、隠されてることは数え切れない。

いたずらっぽいその目を見て、しっかりと頷いた。

+++

どさっ、

机一面に出された資料。一枚めくる。文字の羅列にすぐに閉じた。

もう一枚めくってみる。なんだかグロテスクな色のした画像にすぐに閉じた。

全部でいくつあるだろう。少なくとも30冊はありそうな、クリアファイルの山。山。山。

神田さんはその一冊一冊をぱらぱらめくりながら、どれから話すか考えているようだった。

「ああ、あった。これ、見てみて」

二つ並んだ画像。

見慣れた螺旋状のそれは、DNAのものだ。

「トモが血を被った瞬間に聖痕が現れたって、言ったわよね。わたしね、それがずっと気になってたの。”聖痕は血が引き金になるのか”。……これは、その実験結果よ」

「人体実験をしたんですか!?」

「広い意味ではそうなるけど、これは10代前半の子に細胞をもらっただけ。本人は無事よ」

「そんなこと、できるんですか?」

「内緒よ?」

あまりいい方法ではないのかもしれない。どんな、と考えるのはやめた。

けれど聖痕の研究なんだ、たしかに表だってすることなんかできるわけない。

「明らかに形が違うの、わかる?」

「えー……と?」

「この、記号のところ、よく見てみて」

言われて見比べてみる。

たしかに記号は全然違う。しかしだからなんだろう。

「これはね、同じ子供から取られた細胞の、血をかける前と後」

「!」

「聖痕は血をきっかけに現れる――――っていう、わたしの仮説が、当たったってこと」

「そうなると、……どうなるんですか?」

「聖痕保持者っていうのは、人間の形をしたまったく違うなにかということになるわ」

頭が、まっしろになる。

「こっちは保持者になった年齢をまとめたグラフよ。

横軸を年齢として、折れ線グラフのほうは、子供が起こした殺害件数。

棒グラフは、保持者の数。数が多いように見えるのは過去50年のをトータルにしたものだから、年単位にすればそこまで多くはないわ……。これを見て、どう思う?」

こちらを気にせず、神田さんは話し続ける。

目の前には螺旋状の図ではなく、気がついたらグラフにすり替わっていた。

グラフの下には年齢が、左には件数が書いてある。それは5歳からはじまって、18歳までをまとめたものだった。

左の端からグラフをよく見る。10歳までは比較的少なくて、12歳から増えていく。

そして、

「15歳で、ぱったり切れてます」

「そう、そうなのよ! 16歳の殺害も15歳と変わらずあるのに、どうしてか16歳は聖痕保持者にならないの!」

神田さんが興奮気味に言う。

「もしかしたら血を被る事件がなかったのかもと思って、16歳の子にサンプルももらったわ。それがこの図なんだけど……。

わかる? なにも変わらないの。17歳も、18歳も同じ結果」

「つまり、15歳までの子供しか、聖痕保持者にならない……」

「そうよ。何歳から、はまだ調べてないけど」

だんだんと神田さんは早口になっていく。

頬は上気して、特に暑いわけでもないのに顔を仰ぐしぐさをした。

そうしてまた、別のファイルをわたしの前に置く。

「聖痕と年齢の関係はこれだけじゃないわ。ほら、これを見て」

『狂暴化と年齢について』

グラフのタイトルにそうあった。やっぱり縦軸は件数で、横軸は年齢が書いてある。

棒グラフと折れ線グラフの違いまでは読めない。

「これ、どうやって調べたんですか!?」

「国と掛け合って、粘りに粘ってやっと聖痕保持者の死因と年齢の書かれた一覧をもらえたの。これは、狂暴化で死んだ子供だけを集めたグラフ。

大変だったのよ、教授が20年かけてようやく手に入ったんだから。わたしも運がよかったわ、そんなときに教授のお側にいられるなんて……!」

感極まれり、という表現がよく似合っていた。

目を輝かせ、グラフに食い入る。

聖痕のことよりも、狂暴化のことよりも、この神田さんの表情にわたしはなにより驚いていた。

聖痕のことを、こんなに楽しそうに話す人を初めて見た。

普通、外の人は嫌悪を交えて、わたしたちは恐怖を交えてこれを語る。

けれども神田さんは、なによりもうれしそうに話す。

「ねえユイちゃん。シスマで30歳より上の人、見たことある?」

「ありません。居ても外から来た公務員の方です。それにシスマは子供の街ですよ、いるわけがありません」

「じゃあ、どうして子供だけの街になってしまうんだと思う?」

「それは……」

シスマには子供しかいない。

なぜなら聖痕保持者は子供しかならないからだ。

けれど聖痕保持者だって成長する。お兄ちゃんや杉崎先生のように、大人に片足を入れた人もいる。

では何故、完全に大人と思われる人が、いないのか。

「このグラフを見て、棒グラフの方。これは狂暴化の件数なんだけどね、年齢があがるごとに多くなるでしょう」

「はい。15歳が一番多いですね」

「そう。じゃあこの折れ線グラフを見て。右肩あがりでしょう、何のグラフだと思う?」

「……? わかりません」

「これはね、狂暴化する確率なの」

狂暴化する確率。

右肩上がりにあがっている折れ線グラフ。しかし件数は15歳が一番高い。

けれどこのグラフでは、25歳を境に30歳までなにも数字が入っていない。

つまり、

「聖痕保持者は、25歳までに100%狂暴化を起こして死ぬのよ」

神田さんは、自慢するような表情で、わたしを見る。

遅れて理解がやってきて、それから、気が再び遠くなった。

子供だけの街につけられた足枷。

今まで、ただなんとなく受け入れていた狂暴化についてそう言われると、急に恐ろしくなる。

25歳までに死ぬ?

まず、20歳まで生きれる確率はどれくらい?

元々そんなに長生きができるとは思っていない。けれど、25歳までとなると、なんだか急に焦りが出てくる。

「20歳になった時点で9割は死んじゃうんだけどね。だからトモがここまで生きていたのは、結構奇跡なのよ。わたし、正直もっと前に死んでるものだと思っていたの」

「そんな……」

けろりとした表情で言う神田さんに、また言葉を失う。

さっきお兄ちゃんの手紙に涙を流してくれたのに、まるでしばらく放置していた花が咲いていて驚いたような、そんな口調で。

今の彼女にとって、お兄ちゃんとはなんなのだろう。

大切な元彼だろうか。

研究をするきっかけとなった、第一の研究材料?

科学者となった彼女は、かつての少女とは違うのだろうか。

「さて、ここで質問。どうして、聖痕保持者は隔離されているんだと思う?」

「狂暴化が危険だから?」

「だったら片端から殺せばいい話じゃない?」

神田さんの質問の返事に詰まる。

たしかに、ただ危険なら殺せばいい。しかし隔離をするには理由があるのだ。

「一つは、聖痕の正体がわからないから。わたしのように、隠れて研究しているのはいくつかいるわ。表に出てしまったら捕まるけど、裏でこっそりやって研究結果を報告するの。いつか聖痕を消すことも可能になるかもしれないから」

「そんなこと、わたしに話していいんですか?」

「中から出ないあなただから、いいのよ」

公表もしない、誰にも話せない。表向きに研究しているものも疎かにはできない。

それはちょっとキツいのだと、神田さんが笑う。

「今はまだメカニズムしかわかってないけど、何十年、何百年かすれば、聖痕保持者をただの子供にすることができるかもしれない。それは出来なくても、狂暴化を防ぐことができるかもしれない。研究者や政府はそれに賭けているのよ」

「でも、ならどうして情報規制がされているのですか?」

「メカニズムくらいは言ってもいいんじゃないかなとはわたしも思うんだけどね。でもそうなったら、子供同士の接触を避けるだろうし、15歳になるまではさみさえ使えなくなるかもしれない。きっと世界から凶器と言う凶器が消えるんじゃない?」

「それは、……いいことなのでは?」

「刃物がなくなったって人は殺せるわ。余計な混乱を生むだけで、特に問題を防ぐことにはならないと、わたしは思う」

「…………」

神田さんの話はもっともだ。

現にシスマでは、鈍器を使っている人だって大勢いる。バットとか、ゴルフクラブとか。

人を殺すのに道具なんて考える必要はない。血を出す殺し方なんていくらでもある。

「二つ目。聖痕保持者はヒト科の亜種だって言ったわね。別に、亜種でなければわざわざ厳格に隔離なんてしないのよ。少年院に入れておしまい。狂暴化の問題だって、特に気にされないはずだわ」

「亜種なのがそんなに問題なんですか?」

「純ヒト科と混じってしまうことが問題なのよ」

純ヒト科。つまり外の人間だ。

しかし、聖痕があるかぎり、完全に混じることはない。服を脱げばすぐにわかるはずだ。

「この場合の混じる、っていうのは、遺伝子情報のこと。つまり、万が一純ヒト科と亜種ヒト科の子供が生まれることを防ぐためなのよ」

「でも、聖痕保持者は子供ですよ。産むだなんて……」

「今どき、中学生で子供を作って中絶だなんてそう珍しい話じゃないわ。

だからシスマは、純ヒト科の遺伝子を守るため、亜種を隔離しているの。そのほうがこっちも研究しやすいしね」

つまり、外の人間を守るためにわたしたちは隔離されているのだ。

わたしたちが納得していた理由とは違うものの、外の人間を守るというのは変わらない。

しかし、

「シスマは、神田さんたちのためのモルモットを集めた場所ということですか?」

気になったことが、口に出た。

その言葉に、神田さんの表情から興奮が消えた。

突然頬を叩かれたように目を丸くして。

「……そう、聞こえた?」

「…………」

「ごめんね。当事者であるあなたを前に、少し無神経だったかもしれない」

「いえ。興味深いお話でした」

保持者が軽蔑されるなんて当然のことだ。

わたしだって、外の人たちを守るべきだと考える。

神田さんが人の死が関わっているのに楽しそうに話すのは、たしかに少しひっかかったが、それは研究者の性だろう。

「……はしゃぎすぎたわ。モルモットのように聞こえたら、ごめんなさい」

しゅん、と神田さんが頭を下げる。

「か、顔を上げてください。そんなつもりじゃ……」

「ううん。そもそもこんな話、したらいけなかったね」

「そんなことありません!」

思わず大声を張り上げた。

それは紛れもない本心だ。

「わたしたちは、自分がどんな存在かを知りません。いつ狂暴化するかわからない恐怖に怯えながら、仲間が死んでいくのを見ながら過ごしていかなければいけません。……だから、寿命がわかったのは、少し救われたかもしれません」

「寿命がわかってよかったの?」

「20歳までに死ぬと思っていたら、気が楽になると思うんです」

20歳というのは、あまりに短い命に焦りも出てくる。

けれど元より長くはない命だ。終わりがわかってるなら、それまでを精一杯生きられると思うのだ。

なにより、何一つ知らなかった聖痕について知れたのは、よかった。

たとえ希望のなさを浮き彫りにしたとしても。

「今日は、ありがとうございました」

「ううん。……引き留めてごめんなさい」

席を立ち、おじぎをすると神田さんはもう止めなかった。

ドアノブを掴んで、ふと思い出して問いかける。

「神田さん、最後にもう一つ聞いてもいいですか?」

「なにかしら」

「聖痕は、どうして情報規制をされているんですか?」

「さぁ……わからないわ」

「…………ありがとうございます」

扉をくぐった後はもう、振り返ることはなかった。

+++

「ユイちゃん。わたしはもう、トモのことを素直に愛せないから」

ユイの去ったあとの研究室。一人取り残された神田は小さく呟く。

かつての恋人の寿命について言ったときの、彼女のなんとも言えない表情が目に焼き付いて離れない。

あの瞬間、もう恋人ではないんだと、神田は改めて自覚をした。

「トモのこと、ずっと大好きでいてあげてね――――……」