ピーターパンは死んでゆく

退屈だ。退屈だった。

“役所”と名付けられた退屈の檻の中で、秋本はじっと座っている。

ここは死刑囚の檻の中、シスマだ。

役所の外で、子供たちの笑い声が響いている。平和なものだ、檻の中は。

「ふぁ~あ……。ねぇ佐々木さん。暇じゃないですか?」

「仕事ですから」

いい加減黙って座っているのにも飽きて、同僚の佐々木に声をかけるも冷淡に返される。いつも取り澄ましている女性だが、どうしてこんな仕事に大人しく従事していられるのか、秋本にはいつもわからない。

シスマの役所の仕事はたった三つ。新しく入ってきた聖痕保持者の子供の家や店を開きたいという子供への店舗の手配、小学生以下の子供に保護者役を探すこと、そして死亡届けを国に提出すること。それ以外にやることは特になく、そして数少ない仕事の頻度はもっと少ないのである。

もちろん、少ないのに越したことはないのだが。

「飼い殺しもいいとこだ……」

読み飽きた本をぱたんと閉じて机に伏せる。

飼い殺し。そのままの意味だ。

シスマで働く少ない大人たちは、物好きな公務員と認識されている。けれど秋本は聖痕保持者など興味もなければ関係もない生活をしてきたし、ここに入るまでは嫌悪さえしていた。あの事件さえなければ、今もそうだったはずだ。

秋本は、殺人鬼だった。

冤罪によってそうされた。

何度思い返しても、あのときのことは意味がわからないと思う。

仕事はすぐにクビになり、支えてくれると信じていた恋人はあっさりと逃げていった。ニュースでは嘘八百と過去の暴露がされ続け、寄りどころのない状態で脅迫まがいの取り調べを受ける毎日。

一体、どうやって手に入れたのかと思うような小学生の頃の文集が赤裸々に放映されているのを見て愕然としたのを覚えている。親に聞いても、報道陣に対応さえしていないと言っていたから、おそらく当時の同級生のだれかなのだろう。

そんなものを見せびらかしてなにがしたいのだろうと思った。同時に、自分が悪いのだろうかと錯乱に陥った。

しかしどんなに記憶を掘り返しても、被害者と呼ばれる者たちのことも、殺人現場に行ったことも記憶になかった。

そして嫌がらせの電話と顔も知らない被害者の親からの涙の抗議が延々と家の電話を鳴らし続けるのが、ニュースよりも堪えた。

電話線を抜いても、携帯にかかってくる。

携帯の電源を切っても、窓の外から声がする。

それに同じように曝されている住人と親が、秋本のところに抗議に来る。

どんなに対策を練っても姿の見えない<世間の声>というものは秋本を襲い、ただでさえ気が狂いそうになるのを最悪の状態まで悪化させた。

以来、秋本は電話が苦手だ。今はもう携帯も持っていない。テレビもだ。ニュースを見たくなかった。

<世間の声>から遮断されなければ秋本は落ち着かなかった。その点で言えば、このシスマは理想の職場だった。

結局、証拠も証言もなく釈放されたが、その短い一ヶ月の間になにもかも失わされた。犯人も捕まっていないから怒りの矛先さえ見当たらない。一応裁判で賠償金は勝ち取ったが、なにも気分は救われなかった。

そして秋本の不幸は事件が済んでも終わらなかった。

とにかく元の生活に戻そうと再就職しようと試みても、どこも雇ってはくれないのだ。ニュースで名前が知られてしまっていて、無実が証明されても偏見が積み重なっていて、消えてくれていなかった。

――――容疑者にあげられるなら、疑われるような人なんだろう。

そんな謂われのない批判の目が秋本を囲み続けていた。今まで、悪事などとはまったく縁のない生活をしてきたのに。友人たちも同情をしながら、それでも少しだけ距離を取っているのがあからさまに感じとれた。

人の信用は、あんなに簡単に失えるのか、と秋本は思った。

秋本が犯人だと誤報されたのは、単純に背格好が似ていたのと、服装がよく似ていたという、ただそれだけだった。その日はたまたま仕事が休みだったが、事件が起きた場所とはまったく別の場所にいた。それでも秋本は捕まったのだ、目撃者をなかなか捕まえられなかったせいで。

誰もが、その事実に疑いなく恐怖して、秋本本人よりもニュースを信じた。どんなに秋本と近しくても、ニュースを通して秋本を見た。

秋本は、無力だった。

しばらく経って、とうとう家からも追い出されそうになった頃に、一通の通知が来た。

市役所に来るように、と。言われるがままに行くと、公務員として今度からシスマへ出勤せよと伝えられた。

以来、二、三年ほどシスマに通っている。これが“犯罪者”のなれの果てだった。

飼い殺しだと、秋本は思う。

これはきっと口封じなのだ。もう政府にやつあたりをしないように。

そんな解釈は間違っているのだろうが、とりあえずはそんな考えを持ってここにいた。

ここは、日本の醜い習慣の掃き溜めなのだ。

「暇ですね~……」

「……」

独り言のように投げかけてみるも返事は返ってこない。

せめて佐々木と話が弾めばこの仕事ももう少しおもしろく感じれるのに、佐々木は淀んだ目で一点を見つめて口を開かない。

三年近く一緒にいても、彼女の素性は未だにわからなかった。どうしてここにいるのか以前に、なにが好きでどのあたりに住んでいるのかさえ。会話したのは、きっと挨拶くらいのものじゃないだろうか。

ため息をついて時計を見る。まだお昼にさえなっていなかった。

佐々木はなにも言わずに一点を見つめている。自分より十歳近く年下の、自分より長くここにいるらしい彼女はどうしてあれで一日が過ごせるのか心底不思議だった。

退屈だ。せめてベッドがあれば寝れるのに。

寝て今日を乗り越えようとするも、体勢が窮屈で眠る気になれない。学生の頃はあれだけ一生懸命机で寝ていたのに。

ああ、早く帰りたい。

「…………」

キィ、と古ぼけた扉が開く音がした。

伏せていた顔を急いで起こす。最近誰かが死んだという噂は聞いていないから、今日も仕事はないと思っていた。

シスマでの死はなによりも早く伝わる。子供たちと関わろうとしない秋本さえも把握できるほど。

けれど、その訪問者の理由は死ではなかった。

「おじさんたち暇そうだな?」

少年が立つ。まだ小学生だろう彼は、バディが死んだとは思えない明るくいたずらっこな顔をしている。

ここに来る子供は大抵バディの死に悲しんでるものだが、この子はバディと仲が悪かったりでもしたんだろうか。

おじさん呼びにひっかかりながら、営業に頭を切り替える。しょぼくれた顔を無理矢理なぐさめるような微笑みに変えて、少年に応えた。

「そんなことないよ。今日はどうしたの?」

「別に。役所ってなにしてるんだろうなって思って」

別に。あっけらかんと返された言葉に拍子抜けする。

誰かが死んだわけではないらしい。それが嬉しいのか退屈なのか、ため息をつく。

仕事を持ってきてくれたらいいのに、と人の不幸を食い物にすることさえ思ってしまう。

「だったら帰りな。友達と遊んで来いよ」

営業スマイルが無駄になった。退屈疲れがさらにどっと肩にのしかかってくる。

役所にいい加減休憩室のようなものを作るべきだ。もしくはテレビでもいい、それでゲームが思いっ切りできる。画面が映れば、別に番組は見れなくていい。

子供は嫌いじゃないが、今はそんな気分じゃなかった。

「今冬休みだもん。みんな兄弟の手伝いで忙しいんだよ」

「君のバディは」

「せんせーになるために勉強中」

暇を持て余したあげくたどり着いたのが役所だと言うわけだ。秋本はため息をつく。

こっちは仕事中なのに。仕事はないけど。

あからさまに迷惑そうな顔をしても、少年は笑うばかりで出ていく気配はない。

「なー、おじさん」

「おじさんじゃない、お兄さん」

「おじさん、遊んでくれよ」

「嫌だね、仕事中なんだぞ」

「ちょー暇そうじゃん」

突かれた図星を無視して子供を追い返すのに躍起になる。外で遊んでいる子供だっていたんだから、そいつらと友達になってくればいいのにどうして役所を選ぶんだ。

けれど少年は、いくら秋本が睨んでも怯えることなくカウンターにひじをかける。

「俺は彼方。よろしくおじさん」

「おじさんじゃない、秋本だ」

「よろしく秋本!」

呼び捨てかよ。目で語るも気づいてないのか無視された。

それが、秋本と彼方の出会いだった。

+++

それから彼方は毎日のように役所へ来た。

「おっはよー秋本。今日も暇そうだな!」

「帰れくそがき」

「やーだね」

十二時すぎ頃にやってきては、ソファにだらしなく寝そべる。順番待ち用に用意されているはずのソファはすっかり彼方のベッドだった。

どうせ誰も来ないから寝ようと困りはしないのだが、役所というきっちりとした場所でああもおおっぴらに寝るというのは、なんとなく見ていて居心地が悪い。

しかし言っても聞かないのはこの数日でわかったので、無駄な労力は割かないことにする。

秋本は再び漫画に顔を戻して、さっきまで読んでいたコマの台詞をもう一度繰り返し読む。今日はちょっと前から気になっていたものをまとめ買いして持ってきたのだ。重かったが、そこまでしてもこの退屈はなかなか凌げるものじゃない。

役所は半ば、秋本によって漫画喫茶のようにさえなっている。佐々木が手をつけたところは一度も見たことがない。ただ秋本が退屈を紛らわすために持ってきた本をそのまま積み重ねていたら、いつの間にかこうなってしまっていたのだ。

「なあ、その漫画なんだ?」

「読むか?」

彼方も、退屈にしびれを切らしたのか秋本に声をかけてくる。そういえば彼方の前で漫画を読むのは初めてだと思った。

もうだいぶ前に読み終わった一巻を差し出すと、少し億劫そうに起きて本を取る。パラパラとめくってから、ちょっとだけ遠慮がちにこちらを伺う。小学生らしいところもあるもんだな、と思いながら頷いてやるとまたソファに戻って寝っころがる。

その態度の悪さは変えないようだが、靴を脱いでいるからなにも言わない。

「あきもとー」

「なんだよ」

「これえろいのとかじゃないよな?」

「そんなもん持ってこないし貸さない」

小さくちぇ、と言ったのは聞き漏らさなかった。あの伺いはもしかしたら期待のまなざしだったのかもしれない。ませたガキだと思ったが、小学六年生ならそんなものかとも思う。

見れば見るほど、ただのガキだ。

秋本は不思議な気分で彼方を見た。シスマの子供と接触するのは初めてだったが、出勤の最中にすれ違う子供となんの変わりもなかった。

わがままでうるさくて、元気を持て余しているような、外の子供となんら変わりないただの子供。

いっそ注意する大人がいない分外の子供よりのびのびとしているかもしれない。

ときどきこんな風に、シスマの子供への認識がわからなくなることがままあった。

――――ただの子供、なんだよなあ。

ここに来るまでは凶悪犯の子供が閉じこめられているものだと思っていたのだ。だからあまりの自由さに、一体なんのためにこんな施設があるのかと思ったし、それは今でも思う。

こうして普通の子供さを見てしまうとなおさらだ。

まるで獣であるかのようにニュースで報道される聖痕保持者たちが、こんなただの子供なのだ。ニュースのでたらめさは自分も経験したので、今はもうそれを信じてはいないが。

彼らをここに軟禁する理由が、わからないのだ。

秋本はここで、突然死する子供たちの死亡届けを受け付けて国に提出する仕事を請け負っている。

しかしどうして子供たちが突然に死ぬのか、秋本は知らない。よく見かける死因の狂暴化というものについて聞いてみたこともないからだ。今までは、知る必要もなかった。

いっそ聞いてみようか。彼方を見てそんな考えが湧いてくるがすぐに振り払う。あまりにデリカシーがない。

ここのシステムはよくわからないものばかりだった。

突然鳴る警報だったり、何を焼くのかわからない消却炉があったり、秋本には検討もつかないものがシスマには山ほどある。それを教えてくれる人もいなければ、使うところを見たこともない。

朝から晩まで、こんなところにいるせいで。

「あきもとー、続き!」

「はいよ。おもしろいか?」

「んー、わかんない」

惰性に続きをねだる彼方にちょっと残念さを感じる。

子供にはまだ早い話だっただろうか。若干年齢層の高い雑誌のものだから、仕方ないかもしれない。

「なあ、彼方」

「なんだー?」

漫画を読んでいるのにも疲れてきて、少し彼方に話を振る。彼方は漫画から顔もあげないで、ソファに横たわって返事をした。

「なんで、役所に来るんだ?」

シスマの構造や突然死について聞きあぐねた結果の、質問。

たいして話すわけでもなく、毎日ソファにねっころがりに来ているとしか思えない彼方の行動は妙なものだった。遊びたいなら適当にその辺で走り回っていればいいのだ。

「前にも言ったじゃん、みんなバディの仕事の手伝いで遊べないって」

「だからって役所に来る必要はないだろ」

「家に居づらいんだよ」

彼方が決まりの悪そうに答える。

漫画から目を離して顔だけこちらに向ける。若干の拗ねがその表情に見えた。

「そういや、バディは勉強してるとか言ってたな」

「そー。来年、先生になれるんだけどさ」

「教員免許取るために試験勉強か」

「そんなのないよ」

試験がない。それはこのシスマの緩さを端的に表しているように聞こえた。

普通、仕事につくにはなんらかの資格が必要になることがある。飲食店なら調理師免許、教員だったら教員免許のように。

しかしここには資格がない。当然だ、ここはある種の異国なのだから。日本の仕組みに倣ってはいるが、ところどころで再現しきれないものがある。

「じゃあどうやって先生になるんだ?」

「高校行けば誰でもなれるんだって」

耳を疑いそうになるが、シスマだからと無理矢理納得する。

ただの喫茶店とかだと年齢制限さえないのだ。前に小学生が店舗手配の依頼をしてきたことを思い出す。

つい外の基準で考えそうになるが、ここは子供の街だった。そこに常識は通用しないのだ。

「なのに、勉強するのか」

「兄ちゃん頭悪いからさ。冬のテストやばすぎて卒業が不安なんだってさ」

なるほど、と納得する。それならばめいっぱい勉強もするだろうしピリピリもするんだろう。

高校に行く時点で教師になりたい者しかいないのだと彼方は言う。夢に一生懸命なのは若い証拠だな、と秋本は思う。

自分が同じ年くらいのときは夢があったかさえさだかではなかったが。

「でも頭悪いのに先生になるのか?」

「兄ちゃん、体育だもん。頭いらねーって」

「なるほどなあ」

運動ができれば教師になれる教科。しかし勉強しなければ卒業はできない。まったく悲しい現実だった。

「俺、来年中学生になるんだよ」

「へえ、それはおめでとう」

「で、兄ちゃんも中学の先生になるんだよ! いやだと思わねー!?」

苛立ちに任せて彼方ががばっと飛び起きる。

バディと同じ学校で、生徒と教師の関係になるのは少し恥ずかしいかもしれない。想像して、苦笑する。

それはご苦労だったな、と言うと彼方はぷくーっと頬を膨らませた。

なんだか突っつきたくなる。

「なんで小学校じゃねーのかなぁ~」

「頼んでみれば、小学校に行ってくれって」

「小学校は人数間に合ってるってさ」

言われて、そういえばもう二人体育教師はいたことを思い出す。この間、中学校の教師が一人死んだから、その埋め合わせに彼方のバディは必要になるのか。

なんだか示し合わせたように入れ替わるな、と思う。

「それは残念だったな、あきらめろ」

「秋本、なんか役所パワーでできない!?」

「できません。業務外です」

けちー! と叫んでまたねっころがる。

どうせそこまで嫌じゃないくせに、声ばかりが大きい。

こうして子供と話すのはいつぶりだろう、と思う。

役所に遊びに来るのは、少しどうかと思うがこうして退屈な職場に会話が生まれるのは悪い気分ではなかった。

+++

「なあ、後ろのお姉ちゃんっていつもなにしてんの?」

「おま、馬鹿!」

彼方がカウンターに寄りかかり、後ろの佐々木に声をかける。

彼方が来るようになって五日目。とうとう佐々木に目を付け始めた。秋本はひやりとして、必死に彼方を止めるがそれが無意味だとすぐに知る。

「座ったまんまでなんもしてねーじゃん。つまんなくない?」

「佐々木さんは、あー、いいんだよあれで!」

彼方の言うことは秋本も思う当然の疑問なのだが、どうしても佐々木には声をかけづらいのだ。そして怖じ気づかずに佐々木に声をかける彼方に秋本がびっくりする。

佐々木の冷たい表情はいつも、会話をしようとする気力さえ失われるのだ。だから声をかけようとして、かけてみて、二言三言で諦める。

秋本はそこまでコミュニケーション能力が欠如しているわけでもないのに。

佐々木にある濃い影は、どうしても近寄りがたいものがあった。それを気にしないでいられるのは、子供ゆえなのか、それとも。

「仕事ですから」

そして、佐々木はいつもの通りに、同じ言葉を返す。

子供の無遠慮な言葉にどう返すかと思ったが、普段と変わらぬ様子に安堵と一緒に落胆する。もっと表情を変えたらいいのに、若干の幼さを残した顔はぴくりとも動かない。

「ふうん。仕事なんてなんもないのに」

「ここにいるのが、仕事ですから」

彼方の方を見もしないで、佐々木は返す。

本当にいつも、なにを考えてそこにいるのか秋本には理解ができない。

それは彼方も同じだったようで、首を傾げてまた質問を口に出す。

「じゃあなに考えて一日中ここにいるんだ?」

「特になにも」

その返答に、秋本はそろそろ彼女がロボットかなにかなのではないかと思えてくる。三年前から変わらぬその幼さを残した無表情は、なおさらそんな思いを濃くさせる。

彼方は怪訝な表情で秋本を見て、なにこいつと目で語りかける。こういう人だと返してやっても眉間のしわは変わらない。

「……子供って」

「!」

か細い声が、耳に届く。

思わず振り向くと、さっきまで机の一点を見つめていた佐々木が、じっと彼方を見ていた。

こんなことは初めてだった。

「うらやましいですね」

その目は穏やかで優しく、初めて佐々木の見せた感情だった。

憧憬。

ただ、子供を冗談混じりにうらやむものとは少し違う気がした。優しくて、もっと重苦しいもののように、感じる。

それは佐々木の持つ暗い雰囲気のせいかもしれない。

「お、おう……。でもお姉ちゃん、若いじゃん」

「もう手遅れだから」

ゆっくりと首を振る。手遅れ、とはなんのことだろう。

佐々木の返しに奇妙な違和感を感じる。

しかし彼方にはなんのことだかわかったようで、

「そうか」

と、同情するように一言返してから、ふいっとソファに寝ころんでしまった。

なんのことだろう? 秋本は首をひねる。

佐々木と彼方の間に生まれた無言の了解に、秋本は理解ができないまま机の上でくすぶるしかなかった。

+++

「あけましておめでとうございます、佐々木さん」

「あけましておめでとうございます」

凍えるように寒い、一月を迎えた朝。

年末年始は休みだったので、こうして佐々木に会うのはゆうに五日ぶりである。久々に会う佐々木は相変わらず無表情で、長期休暇に遊んできたという雰囲気はどこにもない。

毎年のことだが、彼女の生活感のなさに秋本は悩む。彼女が年相応の女性らしく彼氏と遊ぶ、といったことをしている想像がまったくつかない。家でも職場と同じように過ごしているのではないかと思う。

秋本も三十歳を迎えて、そうのんびりと一人暮らしを満喫していられる身分ではないのだが。まだ二十歳そこそこの佐々木がこれほど生活感のない無色さを持っている方が心配に思う。

――――俺は、もうあきらめてるし男だからいいけど。

美人ではないが、醜いわけでもない佐々木だ。普通にしていれば彼氏の一人や二人できそうなものだが。

彼氏いますか、なんて聞けるわけないもんなぁ。

「どうでした、お正月。ご家族とどこか行ったり」

「家族はいません」

「……おせち食べたり」

「伊達巻きくらいなら」

いつも通り、こちらも向かずに返事をする。

何気なく聞いた話で思わぬ地雷を踏んだことに秋本は佐々木が怒ってないか不安になるが、その無表情は眉さえ動くことがない。

家族がいない、か。俺と同じだ。

冤罪事件が終わった後、ここに再就職が決まってからすぐに実家を出て、それ以来秋本は家に帰っていない。

電話もしていないし、家に顔を出すことも親が来ることもない。実質的な勘当状態だった。

秋本は、そのことになにも感じていなかったが。

佐々木はどうして家族を失くしたのだろうか。珍しく聞いた佐々木の事情に、好奇心がうずくがさすがに失礼なのでやめる。

「……今日は彼方、来ますかね」

途切れた会話をつなげようと、ぽろっと出した言葉に秋本は驚く。

たしかに冬休み中ずっと彼方が来ていたが、別に歓迎などしてはいなかったのに。毒されてるなぁ、と思うが悪くないとも思っている自分がいる。やはり退屈な職場に彼のような訪問者は欠かせないのだ。

「まぁ、毎日騒がしいガキの相手するのも疲れるしたまには来なくていいんですけどね! 佐々木さんも、うるさくて嫌だったりしたでしょう?」

どうせ、こちらを見ていないと思った。だから振り返った。のに。

「……!」

佐々木の感情のない目が、秋本を見つめている。

こんな風に目を合わせるのは初めてだった。

どんなに秋本が話しかけても、ぴくりとも動かなかった佐々木が、秋本を見ている。今までにないことに、寒気にも似た奇妙さを感じた。

滅多に動かない唇が、はっきりと言葉を発する。

「聖痕保持者とあまり親身になるのはおすすめしませんよ」

しんとした部屋に、響きわたる警句。

その意味に秋本は理解が追いつかない。

「勧めないって……あいつが保持者だからですか? ……ただのガキですよ」

「年齢は関係ありません」

その断定的な口調はけして差別的ではない。

だからなおさら、彼女がなにを言わんとしているのかがわからない。

保持者だから? 殺人犯だから? 佐々木がそんな陳腐な理由で警句を発するだろうか。わざわざ秋本のために。

「彼らが既に闇に捕らわれているからです」

「はっ……、なんですかそれ」

「あなたがなにも罪を犯していないから、言うんです」

「…………」

なら、佐々木さんはなにか罪を犯したんですか。

言おうとした口を、閉じる。

あまりに詩的な表現で、だんだん腹が立ってくる。闇に捕らわれている、ってなんだ。馬鹿にしてるのか。

この前、彼方と佐々木の間で交わされた無言の会話。それもなにか関係してくるんだろう。自分と佐々木たちの間で、きっとなにかが決定的に違うのだ。

混ぜてほしいとは、思わない。良くないことなのはわかったからだ。

だが何故そんなに隠すのか。わざわざ妙な言い回しまでして。

「それは佐々木さんだって同じでしょう」

「いいえ」

ゆっくりと佐々木が首を振る。

佐々木の濃い影が、なお濃くなる。

「彼らは、聖痕保持者です。破滅にしか向かわない子供たちです。だからこそ、親しくなったら、……きっとあなたは悲しむでしょう。彼らと同じになれなかった、わたしと違って」

静かに佐々木は言う。

そこには確かに同情があった。佐々木が初めて秋本に向ける、感情。

的を射ない忠告はもやもやとした霧のようにわかだまるばかりで、秋本は気持ちが悪かった。そうですか、じゃあ彼方と話すのはもうこれっきりにしましょう、なんて言うわけにもいかない。そんなことを言うのは嫌だ。

しかしどうすればいいのか、さっぱり見当のつかない忠告すぎる。

哀れまれているのも、不愉快だった。なんのことだかわからない話で勝手に哀れまれるなど不愉快でしかなかった。

「…………そうですか。ありがとうございます」

にこりと笑顔を作って、話を断ち切る。

それに佐々木はぴくりとも表情を動かさないでまたいつものように顔を机の一点へ落とした。深追いする性格でないことを感謝する。言いたいことは本当にそれだけだったのだろう。

早く彼方が来ればいい。こんな女と二人きりなんて息が詰まる、まっぴらだ。

どかりと受付の椅子に腰を降ろして、不機嫌も隠さずに扉を見つめた。彼方の来る時間はもう少し先だったが、一刻も早くこの空気をなんとかしてほしいと思った。

今までこんなことを思ったことはないのだが。佐々木との仕事は今まで退屈ではあったが鬱陶しいと思ったことはないのに、たった二週間の間に彼方が来ないのが違和感にさえ思えてくる。

慣れってのは、怖いもんだな。

沈黙を破るものがあると、もう沈黙に耐えられないのだ。このままだと、学校が再開したときが思いやられる。

そういや冬休みって、どのくらいに終わったっけなぁ。

「!」

「よお秋本! 来てやったぜ!」

「うるせー、来なくていいよくそがき。冬休みの宿題は終わったのか?」

ばん! と乱暴に扉を開けたと思うと彼方は冬にも負けない快活さで秋本の前へやってくる。

宿題の話をするとたちまちその顔は苦そうなものになり、マフラーを外しながら睨んできた。

「……やりはした」

「終わったのか?」

「あとちょっとだよ。ほっとけじじい」

「こんなとこで遊んでる場合じゃないんじゃないか? 冬休み、もう長くないだろ」

まさかこんなところで説教を食らうと思わなかったのか、彼方は唇をとがらせて眉根を寄せる。小学生は忙しいなあ、と思うと同時に先ほどまでの鬱屈した想いが溶けていくのを感じる。

これからはもっと子供を呼ぶなにかを考えてもいいかもしれない。せっかく漫画喫茶みたいな量の漫画があるんだから、読ませて一緒に語らってもいい。

今まで微塵も考えたことがない思いつきに、子供ってのはすごい力があるもんだと思わず思ってしまう。どうせ退屈な職場だ、こんな風に遊び場にしたっていいだろう。その方が活気が出る。

「いつ終わるんだ、冬休み」

「七日」

「あと三日しかないじゃないか……」

「そうなんだよ! 手伝えよ!」

「自分でやれ」

宿題がああああ、と頭を抱える彼方を笑いながら、自分もこんなんだったなぁ、と振り返る。

宿題が好きな子なんてそう見たことがない。勉強は苦手じゃなかったが好きではなかった。きっとそんなものだろう。

あと三日で、学校が始まる。

そうしたら彼方は来なくなるだろうか。

「彼方」

「ん? なんだよ」

「お前、冬休み終わったら……いや、いいや」

「んあ?」

そこまで言いかけて、やめる。

なんだ、この漫画みたいな台詞。馬鹿馬鹿しい。

彼方が来なくなったところで退屈な仕事に戻るだけ。彼方は、遊びに来ている騒がしいガキ。

それだけのことだ。なんで楽しみにしてるんだ、公私混同はだめだろ。

うんうん、と一人頷いて納得する。彼方は意味がわからなさげにして、首をかしげているばかりだった。

+++

一月七日。

彼方が足を運べる、最後の日。

「……なにそれ」

「ケーキ」

どん、とソファに座る彼方の前に紙の箱を置いてやる。バック型になっているそれは、昨日の帰りに近所のケーキ屋で買ったものだ。

友情の証、のつもりだった。

当然そんなことは口に出さない。

「食べたくなったから買ったんだ。でも一人じゃホールケーキなんか食べれないだろ、お前も食え」

「えー、まじでいいの!? ホールケーキなんか見んの久しぶりだ!!」

「誕生日とかに食わないのか?」

「作らなきゃねーよ、ここには」

わかりやすいほど目を輝かせて彼方はホールケーキが切られていく様を見る。四号と一番小さなケーキを買ってきたが、それでも三人で食べるには少し多いかもしれない。

佐々木さんもどうぞ、と紙皿にケーキを乗せておすそわけすると、ありがとうございます、と比較的おとなしく受け取ってもらえた。

なんとなく、甘いものは苦手そうな印象を受けていたのだが、思ったより普通の女性らしいところもあるのかもしれない。フォークを握る様は少しだけうれしそうに見えた。

「ふうん、シスマって不便だな……。……なぁ、お前ってシスマに来て何年になるんだ?」

ふっと口に出してから、少し危ない質問だったかと冷や汗をかく。しかし彼方は気にしたそぶりもなく答えてみせる。

「二年かな。小四のときに来たから」

「……結構、早いんだな」

「もっと早くに来るやつもいるんだぜ。一番多いのは五、六年かな。今年は三人入ってきた」

「全部で七人だ」

「そんなにいるんだ」

毎年十人前後は入居の手続きがある。少ない人数に今年はいつ誰が入ってきて、誰にどの事件が当てはまっているのかわかるほどだ。

二年前となれば秋本が書類を手配したかもしれないが、もうそこまで覚えてはいなかった。記憶力はそこまでよくない。

「……なんで、入るはめになったんだ?」

聞いてはいけないとは思っているが、それでも言葉は口を突く。彼方の目が、明らかに厳しくなるのがわかった。

口の中を支配する甘さが、この場にふさわしくないほどに苦しい。

「やめろよ、ケーキがまずくなる」

「……そう、だよな」

人を殺した経緯なんて、誰だって言いたくない。

秋本がここに来た経緯を言わないように。彼方がシスマの公務員の事情を知っているとは思わないが、もし聞かれたら秋本だって同じ言葉を返すだろう。

沈黙が役所を支配する中で、黙々と二人はケーキを食べる。しまった、と思うも出してしまった言葉は帰らない。せっかく、もうしばらくは来ないかもしれない小さな友人との記念にケーキまで買ってきたのに、その甘さに胸焼けがしそうなほど今の空気は悪かった。

しかし、知りたいと思ってしまう、想いもある。

このなんでもないただの少年がどうして殺人を犯すはめになったのか。秋本ではまったく想像がつかないのだ。

殺人なんて、そう犯すものじゃない。しかもここにいる子供たちは本当にどこにでもいるような、ただの子供なのだ。

殺人犯の考えなど秋本には理解できるはずもないが、それでもどうして、こんなに殺人を犯してしまった子供があつまるのだろうと思うのだ。

だから、初めて知り合った聖痕保持者の子供のことを、ほんの少しでも知りたくなったのかもしれない。このごく普通の少年の中に、凡人では想像もつかないような狂った、どうでもいい赦されない殺戮の動機が眠っていると思うと、怖いものみたさに触れてみたくなる気持ちもあるのだ。

理解が、できないからこそ。

「……もう一切れ、食うか?」

二人とも食べ終わったところで、沈黙に耐えかねてケーキを勧める。こういうときは子供が優先だろうと、最後の一切れを彼方の方へ寄せる。

しかし彼方は、ぱっと目を輝かせたと思うと苦しげに顔を歪ませて、いいよと小さく首を振った。

「なんだよ、腹いっぱいか?」

「……そうじゃないけど」

やや歯切れ悪く、ケーキから目をそらす。普段なら遠慮なくいただいていくはずなのだが、彼方の様子は妙だった。

無理矢理我慢をしているように唇をぎゅっと噛んで、深く眉根を寄せて気難しそうにしているかと思えばどこか青白くも見える。

気分が悪いのかと思ったが、そうとも違う気がする。もっと的確な表現をするなら、

――――怯えてる?

「秋本が食えよ」

「俺は一つでいいよ」

「お姉ちゃんは」

「わたしも結構です」

「……」

大人二人にあっさりと遠慮をされて逃げ場がなくなった彼方はただケーキを見ないようにと顔を背けて、再びフォークを取ろうとはしない。

「なにをそんなに遠慮するんだよ」

「いい、いらない」

「食べたそうにしといて」

「そんな気分じゃない」

頑なに首を横に振る。

いらないなら、仕方ない。秋本はケーキを箱に戻して持ち帰るかと片づける。片づけようと、ケーキを持ち上げる。

「……!」

その行為を物欲しそうに見つめる彼方の目が突き刺さって、結局紙皿はもう一度テーブルに置かれた。いっそ悲痛とまで形容できそうな彼方の視線はケーキに一心に注がれていて、秋本はもうどうしていいかわからなかった。

「……彼方、だから食べたいなら食べろって」

「う……」

ずい、と彼方の前にケーキを押し出すと磁石のように体を引く。食べたいならなにをそんなに我慢までして遠慮するのか、秋本は不審に思う。食べる人間はこの三人しかいなくて、食べたい人間は彼方一人だけなのに。

「……だ、駄目なんだ、最後の一切れは。俺が食べたら駄目なんだ」

「えと……なんでだよ? 食べたいのはお前だけだぞ」

「そ、そうなんだけど……」

もごもごと言葉を口の中で転がす様子はあまりに彼方のイメージからはかけ離れている。

最後の一切れは駄目。

自分に言い聞かせるように小さく繰り返す彼方の様子はなにかにとり憑かれているようでもあり、聞いてはいけないものを感じる。

なにか、嫌な思い出でもあるんだろうか、ケーキの最後の一切れに。

ケーキを仕舞うこともできないで、秋本はどうしようと手を泳がせる。このまま受付に戻るのもどうかと思って、ソファから立ち上がることもできない。

「……あのさ、なんで俺がここに来たか、聞いたじゃん」

「……おう」

「……ずっと忘れようとしてたんだ。なのにお前が思い出させるから、ケーキが食えない」

「わるい……」

困惑の中で秋本は謝るしかできない。

自分の起こした事件を忘れようとしていたなんてずいぶん無責任だと思ったが、子供の身には余りすぎることなんだろう。人を殺したことを覚えていたいはずがない。秋本は殺したことなんかないが、そんなの想像する必要もなかった。

そもそも彼方が、自分の意志で殺したなんて限らないのだ。

「……俺が殺したの、親友だったんだ」

「!」

「きっかけは、ケーキだった」

「彼方、いい」

「聞けよ、聞きたいんだろ」

ぽつりと唐突に、彼方が告白を始める。

そうやって打ち明け始められると秋本はどうにも覚悟を決められず、止めようと思うも彼方は顔を伏せたまま続ける。

「小四のときの、給食の時間でさ。その日はクリスマスが近くてケーキが出たんだ。たまたま休みがいたから、じゃんけんでおかわりできる奴を決めてさ、俺と親友が残った。

それで俺が勝ったんだけど、あいつ悪ふざけでケーキ横取りしたんだよ。まぁよくある悪ふざけだよ。なんだけど、俺どうしてかキレてさ、――――そいつの頭、椅子で殴ったんだ」

「……!!」

「何度も殴って、先生に止められたときにはそいつ意識なかった。血とケーキが混ざってさ、椅子が刺さったのか目は飛び出てて、ぐっちゃぐちゃで、あったかい血が、床に溜まってて、殴ってるときに飛んだ血が手にはいっぱいついてて、それで、それで」

「やめろ、彼方!」

想像よりずっと凄惨な状況を細かく言う彼方に、秋本は声を張り上げる。こんなことなら言わせなきゃよかったと、手遅れなことを思ってその蒼白な顔を見た。

「……ケーキ見て、思い出した」

「ごめん……」

「……それまでずっと、忘れてたんだ」

「ごめん……」

震える声でケーキを見つめて、彼方は静かに涙を流す。子供らしくない、わめき声も上げない静かな泣き方。

痛ましかった。

「ひどいよな。自分のしたこと、今まで必死に忘れてたんだ。親友だったのに」

「そんなの誰だって忘れたい」

「俺がケーキくらいで怒らなければ、あいつと今でも一緒にいたはずなんだ。ただの悪ふざけなのに、どうしてあんなに怒ったのか、俺今でもわからないんだ。あのときのことは、ただただ怖くて、自分が怖くて、ずっと忘れようとしてた。怒るのも避けてた。だけど駄目だ、思い出しちゃったら」

「ごめん」

「ケーキのせいで、秋本を殺すんじゃないかって考えちゃってどうしようもなかったんだ」

「彼方……」

目を合わせないまま、彼方が話す。

秋本はただ、後悔の前に愕然とするしかなかった。

あまりにも事故のような殺人だった。子供ならば誰だって犯してしまいそうな理由で、彼方は人を殺したのだ。それも親友を。

もっと理解のできない理由だったらよかった。そんなものを秋本は期待していた。

だけど彼方は、どこまでもただの子供だった。

嫌悪も恐怖も浮かばない。出てくるのはただの同情で、そんなのただの事故だと口走ってしまいそうになる。

人を殺した人間の心理を、秋本は初めて知った。知るのがこんな、子供の罪なのがもっと辛かった。

今まで怖い怖いと思っていた、テレビの向こうの殺人者たちに思いをはせる。

彼らにもこんな、悲劇が隠れていたのかもしれない。

「……俺は、お前みたいなガキの力じゃ死なねえよ」

「……うん」

「その……ごめんな、無理矢理聞き出して」

「いいんだ」

彼方が涙を拭いて秋本を見る。

悲愴感はそこにはなく、ほんの少し大人びた無表情で秋本の目を見つめた。

「話したらすっきりしたから」

ふわっと、この話にはそぐわないほほえみを浮かべる。

「ずっと、誰かに言いたかったんだ、多分」

「誰にも言ったことないのか」

「兄貴も知らないよ」

バディも知らない、殺人の過程。

どうしてそんなものを秋本に話したのか。それを聞くのは野暮だと思った。

「ごめんな」

「なんでお前が謝るんだよ」

「ごめんな、秋本。こんな話して」

労るような目で彼方は言う。

謝るべきはこっちなのに。秋本は妙なくすぐったさを覚えて眉をしかめる。彼方の中身が、自分よりも年上のように一瞬でも感じたことが気に入らない。

「とにかく、もうこの話は終わりだ。ケーキは俺が持って帰るぞ、いいな」

「おー」

間延びした声で彼方が返事をする。すっかり声の震えはなくなって、気分も落ち着いてきたようだ。

「!」

ケーキを冷蔵庫に入れようとして、佐々木と目が合う。

「……」

佐々木はなにも言わないまま、少しだけ哀れそうに見ていた。

「秋本ー、俺、今日は帰るわ」

「えっ」

佐々木の目を振り切ってケーキを冷蔵庫に入れると、背後から彼方の声がかけられる。

帰るには、いつもよりずっと早い時間。引き留めようか。口を開くも彼方はドアノブに手をかけていた。

こんな話をしたら、やっぱり居たくないかもしれない。

「また春休みになったら来るよ。それまで寂しさで死ぬなよ!」

「ばーか、うさぎじゃねえんだぞ」

じゃあな。二人で口を揃えて言う。

扉は、閉ざされた。

+++

冬休みが終わった。

「暇だ……」

「……」

彼方はぱったりと来なくなり、秋本はまた同じ台詞を繰り返していた。

毎日毎日、暇だ、退屈だ、と。

そして誰かが扉を開けないかと待っている。あの声変わりをしていない、妙に高い声の少年を待っている。

土日ならば来れるのだろうが、土日は秋本たちが休みだった。だからどうしても、会うことがない。

机につっぷして、眠気に耐えながら秋本は時計の針が進むのをただ見つめる。

「佐々木さん、春休みって、いつでしたっけ」

「明日からです」

「ほんとですか!」

なにげなく聞いた質問の回答に、がばっと起きあがって振り返る。佐々木は相変わらずこっちを見ないまま、それ以上の言葉を言わない。

ゆえに、頭を抱える。なんでこんなに嬉しそうなんだ俺は。三十過ぎようとしてる男の態度じゃないって。

そんな葛藤さえ無視してくれる佐々木の態度はこういう時ばかりはありがたいと思う。どんなに恥ずかしいことをしたと思ってもからかうどころか聞いているかすらわからない。

「暇だ……」

彼方が来なくなってから、何度つぶやいたかわからない台詞を繰り返す。

今日も誰も死なないで、掃除くらいしかやることのない一日が終わる。訪れる人はいない。

彼方は来ない。

「……すみません」

「!」

きい、と扉が開く。

暗い顔をした青年が顔を見せて、小さく礼をした。

本当はもっと明るい青年だと思うのだが、赤い目がそれを台無しにする。秋本より大きそうな背丈を丸くして、カウンターに座る秋本を見下ろす。

ああ、バディが死んだのか。

直感的に気がついた。誰かを亡くした人は、みんな同じ顔をする。

今日も退屈だったら、よかったのに。そういえば最近小学生が一人死んだと噂で聞いた。胸くそ悪い話だ。

「……本日は、どのような用件で?」

「バディが、死んで」

「それではこちらの書類に記入をおねがいします」

暗い暗い表情の青年を前に、秋本は無表情に手続きを促す。青年には悪いが、死人のような顔をした相手と長く顔をあわせたくないのだ。

紙とペンを渡して、青年が名前を書いていくのを見る。

自分の名前と、死んだ相手の名前。死因と日付。関係、住所。たったそれだけを記入したら、シスマでは死んだことになる。

あまりに簡略化された、シスマの死亡届。とは言うものの秋本もまだ死亡届を見たことがないのだが、外とまったく違う世界であるここで外と同じ届けの用紙を使うとは思えない。

杉崎勇平。でかいわりにまだ十八か。

小さなボールペンを滑らせる青年を見る。運動をよくするのだろう、秋本よりずっとしっかりした体つきだった。若いなあ、とのんきに思っていることが知られたら胸ぐらを捕まれてしまいそうだ。

「……彼方……っ!?」

「!」

ガシャン!!

椅子の倒れる音がする。青年が驚いて腕を止める。

死亡者の欄に、あきらかに見たことがある少年の名前が、あった。

見間違いか? 悪い冗談だろ。

秋本は死亡者の欄を見る。

清水彼方、十二歳。死因、狂暴化。三月二十日、同級生の手によって殺害。

「嘘だろ……っ?」

「……ああ、あんたが、秋本さんですか」

青年がペンを置く。

無理矢理笑うせいでおかしな表情になって、初めて秋本を見た。赤い目は、大人になろうとしている青年には不釣り合いだった。

「……彼方が、お世話になりました」

「嘘だろ、なんで」

「馬鹿でしょう。俺より先に狂暴化しやがったんですよあいつ。春休みも近くて、秋本さんのとこ行くの楽しみにしてたのに」

「狂暴化って」

驚きのあまり上手く言葉が紡げない。

知っていて当然のように言われる狂暴化というのもわからない。今まで何度も見てきた死因だが、これほど気にかかるのは初めてだった。

秋本は、シスマの構造をよく知らない。

彼方の生きていた場所を、よく知らない。

だから彼方がどうやって死んだのかわからない。理解できないのが、苦しい。

混乱で上手く悲しむことが、できないのだ。

「友達が、申し訳なさそうに教えてくれました。俺が彼方を見たときは、もうただの肉になってた」

「――――!」

「狂暴化なんて、いつもそんなもんだけど。やっぱバディがなると、キツいっすね……」

青年は秋本の混乱に気づきもせず、ただ心情を吐露する。それがなおさら、秋本の理解を遅める。

肩をふるわせる青年を前に、混乱に止まった頭で秋本は呆然と死亡届の名前を見た。

あいつ、清水って言ったんだな。

そんなどうでもいい小さなことを思って、椅子を直して座る。

気持ちがついていかない。

薄情者。

+++

青年が去ったあとの役所は、いつも以上に静かだった。

鳥のさえずりさえない。ただ息づかいが聞こえる。

そんな中で秋本は、心が死んだように呆然と扉を見つめていた。

結局秋本には、理解ができなかった。

彼方が死んだという事実だけを、手元にある届けによって突きつけられるばかりで。墓の場所を聞いたが、共同墓地に他の骨とぐちゃぐちゃに入れられていると聞いて行く気も失せた。

役所の扉は閉ざされた。もう、少年はいない。

「だから言ったのに」

「……」

「関わらない方がいいと」

「佐々木さんは知ってたんですか、狂暴化って」

「あなたも知っているものだと思ってました」

ぼんやりとした目を佐々木に向けると、佐々木はあの哀れんだ目で秋本を見ていた。

「なんなんですか、狂暴化って」

「そのままの意味です」

「聖痕保持者ってなんですか」

八つ当たりしてしまいそうなのを我慢して、佐々木を問いつめる。

知り合いの死を聞いても何一つ感情を動かさないで、佐々木は秋本の質問に対して答える。

「ピーターパン、でしょうか」

「はぁ?」

ふざけているのか。

声に怒りがこもった。しかし佐々木はいたって真面目な顔で言う。

「彼らは大人になる前に死ぬんです。人ではなくなって」

「なんの冗談ですか」

「嘘は言っていません。ここは子供の街です」

子供の街。わかっている。

大人になる前に死ぬ。わかっている。

今まで見てきた書類に、大人と言える年齢は一握りだった。そしてその一握りの大人さえ、大学生程度の青臭い子供ばかりだった。

彼らを子供のまま殺すのが、狂暴化だろうか。

「罪を背負った子供たちは、大人になる前に気が狂って殺されます。ここは死刑囚を隔離する街です。それはあなたも知っているでしょう」

「……だけど、そのたとえじゃここがネバーランドみたいだ。胸くそ悪い」

ここが子供だけの楽園なわけがあるものか。

どこか諦めのつきまとう、子供らしい未来はどこにもないこの街がネバーランドみたいな輝かしい街なわけがない。

ピーターパンは、永遠に少年のまま生き続けるというのに。

「一説には、ピーターパンというのは大人になった子供を殺すそうです」

「さっきからなんなんですか」

「狂暴化が大人になった証拠で、それを同級生たちが殺すのは、なんだか似ていると思いませんか」

明るく子供らしい冒険譚のそんな暗い面など知りたくない。しかも今。

佐々木は、どうしてこんなに秋本の機嫌を悪くすることばかり言うのだろう。本人に悪気がなさそうなだけに、余計に腹立たしかった。

敬語を外して怒鳴ってやりたかった。だが秋本にはもうそんな気力も残っていない。苛立っては無力感に塗りつぶされるせいで、どんどん疲れていくのだ。

「佐々木さんは詩的ですね。こんな街をネバーランドなんかに例えるなんて。ネバーランドみたいにいい街じゃないのに」

鼻で笑って揶揄をする。怒鳴る力はないが、それでも少しくらい馬鹿にしてやらないと気がすまなかった。

しかし佐々木は気にもせずに続ける。

「わたしには、ネバーランドに見えました」

遠くを見つめて、佐々木がうわ言のように言う。

その真意を問いただすのが、なんだか怖いと感じて秋本は佐々木から目をそらした。こういったものをつついてろくなものが出ないというのは、彼方のときでもうわかっていた。

なによりそんなものにかまけているほど、今の秋本には余裕がなかった。

「……ピーターパンみたいに、彼方も死ななければよかったのに」

馬鹿みたいなことを言っているとわかっていても、秋本はその思いを止められなかった。最後に会ったのがあのケーキの日だなんて、なんて後悔しか生まれない別れだろう。

佐々木は慰めを口にしない。ただしんとした役所の中、鬱々とした気分だけが秋本を襲った。

春休みに来るって、言っただろ。

扉は開かない。少年はもう来ない。