聖痕十二話
ごめんね、お兄ちゃん。
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神田さんは、ぽつりぽつりと話出した。
それはただ昔話を聞かせるように淡々としていて、同時にゆっくり思い出すように丁寧だった。
今から9年前。二人が付き合い始めて五ヶ月経ったある日の話。
生前お兄ちゃんの口から、けして紡がれることのなかった、秘密の話。
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事件が起きたのは、何度目かのデートの日。
秋口にさしかかったその日の天気は、けして夏のような刺々しい日差しではない太陽が、高く高く上っていた。
けして暑くはないのに、妙に鋭い日差しだった。
地元から少し離れた場所に設定した待ち合わせ場所。
土曜の朝の駅は、平日ほどの混みはないがそれでも少し人が多かった。
神田は待ち合わせより5分は早く駅へと到着したのだが、それより早くに朝木が待っていたのをよく覚えている。
彼はどうしてか、どんなに神田が早くに着こうと待っていたと、覚えている。
「ごめんね、待った?」
「いえ。待ってませんよ」
行きましょうか。優しく微笑んで手を差し伸べる朝木に胸が締め付けられる。
朝木に触れるのはいつも緊張した。中学になって、男性らしくなってきたその手に握られるのが、どうしても慣れなくて手を取るのを躊躇する。
それに対して朝木はいつも余裕そうに、微笑みと無表情の間をさまよっていた。
自分だけがこんなに恥ずかしい思いをしているのかと思うと、妙に悔しい気がした。
「ねぇ、いつも何分前に来てるの?」
「さぁ、何分前でしょう」
「絶対わたしより早い時間に来てるじゃない」
「待たせるわけに行きませんからね」
いつも、核心に迫るような質問を彼ははぐらかした。
自分と同い年のくせに、どこかいつも大人びていた。
付き合っているのにいつも敬語で、同年代の男子とは比べものにならないほど妙に落ち着いていて、誰にだって優しくて、神田は時々不安だった。
「サヤに少しでも早く会いたいじゃないですか」
「…………トモの馬鹿」
そのくせ好意だけは馬鹿みたいにまっすぐ伝えてきて、けして神田を逃がさないのだ。
まだ今日が始まったばかりなのに、今に熱が出そうで、朝木の半歩後ろを神田は歩く。
デートをする時、なにか目的を持って行くことは少なかった。否、目的自体はあるのだがそれは酷く曖昧で、だからなりゆきに任せて町をぶらぶらすることが多かった。
この日も服を見たいというだけで、行き先は特に決めていなかった。
ゆっくりと周りを見回しながら、駅前の通りを歩いた。つないだ手と、ときどきぶつかる肩に、体の内側から熱がこみあげる。
その体の熱さに反して冷たい風が、頬をなでる。
「あ」
「?」
朝木が突然足を止める。朝木を見る余裕もなく、目をそらして体温だけ感じていた神田が朝木の隣に並ぶ。
どうしたの? そう見上げると、朝木は向かいの小物店を見ている。
桃色の愛らしい、少女向けの店だ。不思議に思いながら彼を見ていると、朝木がこちらを振り返る。
「すみません、少しここで待っててください」
「え?」
「すぐ戻るので」
あっさりと離される手に、神田はすがることもできない。
手に残る温もりは、人混みの中に紛れていった。
朝木の成長しきっていない背が人混みに溶けたのを見てから、何分経っただろうか。
時計を見ても、まだ10分も経っていない。こんなに待っているのに、どうしてこんなに針の進みが遅いのか、神田はいらだちながら壁に背をもたれる。
なんで一人にするのよ。あんな店行くんならわたしが一緒のほうがいいじゃない。
胸の奥で文句を言っても朝木には届かない。
立っているのも疲れてきたな。そう感じ始めた頃。
「君、こんなところでなにしてんの」
「えっ?」
「せっかくここに来たんだからさ~。どっか見ようよ!」
目の前には二人の男。高校生か、大学生か、判別はつかない。その浮ついた服装は、誠実な朝木とは正反対だ。
一瞬なにを言われたのかわからなかった。ただ不良的である、と直感しただけだった。
それをナンパであると認識するのに、10秒。
「わ、わたし彼氏を待ってて……!」
「こんな道路の真ん中で~?」
「待ち合わせには不便なんじゃね? どっかでお茶しながらさー、一緒に彼氏待とうぜ~?」
戸惑う神田の腕を男の一人が掴む。
乱暴な手つきで掴むから、神田の腕をひねるような形になる。乱暴するなよ、と笑うもう一人は止める様子がない。
――――やだ、やだ助けてトモ。
引きずられないように踏ん張りながら必死に朝木の消えた方向に目を向ける。
人通りの合間にちらと見えるその扉は見通せないようになっていて、朝木がいつ出てきてくれるのかわからなかった。
ずり、ずり
神田の体重よりも男の力が勝って、少しずつ体の位置がずれていく。
ずり、ずり
連れていこうとしているその先は神田のすぐ隣にある通路。大通りから少し外れれば一転、誰もいない閑散とした路地裏が待っている。
嫌な予感がした。なにをされるのかなど知らないが、それでも嫌な予感がした。
――――トモ!
心の中で叫ぶ。それでも彼の姿はまだ見えない。
通りすがる人々はそんな神田の姿が見えていないかのように早足で過ぎ去っていく。
大河の中、男と神田だけが取り残されて、悲鳴の届く場所がない。
――――トモ、お願い、早く…………!
「あの、なにをなさっているんですか?」
声変わりしたばかりでまだ不安定な少年の声。
いつも教室でずっと見ていた、黒髪眼鏡の、よく見慣れた。
「トモ!」
「あ? なんだよこのガキ」
ゆったりとした佇まい。年上の不良たちに臆することのない、いつも通りの無表情。
その右手には先ほどの店で買ってきたと思われる、かわいい包装のされたなにかを鞄にも入れず持っていた。
彼女が連れて行かれそう、というよりも、純粋に不思議に思っているような様子があまりにも朝木らしくて神田は少し恐怖が揺らぐ。
ヒーローはいたんだ。
心からそう思った。漫画みたい、とも思った。
出来すぎた喜劇でいい。ここにトモが駆けつけてくれた。そのことが嬉しかった。
これで怖いことはないんだ。そう、思った。
「すみません。その方は僕の連れなので、もう失礼してもいいでしょうか」
「あぁ? なに言ってんだガキ、ちょーっと邪魔なんだけどなぁ?」
「そうは言われてもですね…………。彼女が痛そうじゃないですか」
朝木の登場により、少しゆるんでいた力がまた入る。
細い神田の手首に男の指が食い込んで、関節が外れそうなほどぎりぎりと痛む。その痛みにまた眉根を寄せるが、どんなに腕を振ってもその手が離されることはなさそうだった。
縦に振ったり横に振ったり、体を引いてなんとか男から離れようとしても、朝木を警戒する男たちはけして力をゆるめない。
逃げようとして自分の体をいじめているようなものだった。それに気づいて神田はとりあえず抵抗をやめる。自分の手首を切り離してまで逃げる覚悟はなかった。
「先を急ぎますので、そろそろいいですか? 邪魔なのですが」
「結構度胸あんじゃん、僕ちゃんよ」
「これ見ても逃げ出さないかな?」
「っ!」
神田の腕を掴んでいる男とは別の男がポケットからナイフを取り出す。
どうしてそんなものを持っているのか。一瞬で逆立つ毛に寒気を覚える。
大丈夫。大丈夫よ。だって、ねぇ。
ヒーローが来てくれた喜びから一転、不安が心を塗りつぶす。
朝木の表情も若干の強ばりが見える。身構える両者の周りには、遠巻きに観衆が出来ている。
なにが起こっているのか分からない様子で、しかしなにかが危険であることは分かっている様子で。
神田はナイフを取り出した男を通報しようと思っても、手は依然として折れる寸前の力で捕まれている。
少し動かせば嫌な感覚が骨に走り、それ以上に動けない。
なにかがおかしい。
そんな奇妙な確信にを前に、事態は進む。
――――なにが彼らをそんな奇行に追い込んでいる?
「周りの方が見ていますよ。やめた方がいいのでは?」
「うっせえよ、しゃしゃんな!」
心臓めがけて突かれるナイフを朝木は軽く避ける。
朝木は喧嘩をするほうではなかった。けれど運動ができないのかと思うと、そうでもない。
朝木は小学生のときから剣道をやっていると、聞いたことがある。だから部活も剣道部で、そしてけして弱くはなかった。
大丈夫だよね。ねぇ、トモ――――。
避けてばかりの朝木に苛つく男の攻撃は止まない。
誰もが息を飲み込んで見ていた。
誰も止めなかった。止められなかった。
周囲に、二人を止められそうな男性はいくらでもいた。
今すぐに取り押さえることなど容易なはずだった。
それなのに、誰も指一本動かすことができなかったのだ。
「だ、だめっ」
神田の中の止まった時間が動き出す。
一方的な攻撃が、ついに変化を見せた。
男の腕を朝木が掴み、そのナイフを奪い取る。
それはいいのだ。しかし、神田の背筋に嫌なものが走る。
「駄目、トモ――――っ!!」
きゃあああああああああああっ!!!!!
神田の声を飲み込むように、凪いだ波が突如荒れるように、悲鳴がその場を包み込んだ。
朝木の掴んだナイフは奪った勢いでそのまま男へ振り落とされる。
赤い一線。
見開いた朝木の目。
ただ朝木の名を呼ぶことしかできない神田。
なにが起こったのかも理解できていない、男の連れ。
その瞬間を、神田は見たのだ。
男の返り血が、朝木に付着する瞬間を。
一瞬にして浮かび上がる、“聖痕”を。
「…………ぇ……?」
血塗れたナイフを握る手を、朝木は戸惑いの目で見下ろす。
その足下には男が身動きせず倒れている。
傷はあきらかに皮しか切っていない。
それなのにその出血は舗装された道路を血で染め上げ、着実に赤い海にその体を沈ませた。
「とも…………トモ…………!」
「来るな!!」
動揺に男の手が緩んだのを見て朝木に駆け寄ろうとする。
しかしそれは、死体のような男の体を見下ろして動かない朝木に制止される。
勢いを止められて、足の力が抜ける。
瞬きするのも忘れて、ただじっと朝木を見上げた。
小さく名前を呼び続けて、朝木が振り向いてくれるのを待った。
一言、名前を呼んでほしかった。
「とも、…………と、とも……」
「来たら、いけない」
険しい顔で男の体を見下ろす朝木に、恐怖を覚えた。
不安を覚えた。悲しみを覚えた。
混乱と恐怖と不安が二人を包む。秋の風も一緒になって。
観客の一人が、震える手で携帯を取り出した。
終わったのだ。なにが終わったのかも理解できないまま。
「とも…………」
「…………サヤ」
ようやく呼んでくれた名も、神田の恐怖を拭ってはくれない。
二人とも泣きそうだった。
今すぐに抱きしめたかった。抱きしめてほしかった。
しかし朝木が、それを拒んだ。
「無事でよかった」
泣きそうな顔で。
こんなときも、相手の心配をする朝木に怒ってやりたかった。
人を斬った恐怖と、気づいているのかもわからないその聖痕への恐怖を、想像するだけで苦しい。
ばか、なんで、なんで……。
代わりに泣いてあげたいのに、どうしてか涙が出ない。
二人を囲んでいた観客が突然道を開ける。
そこから現れるのは紺の制服に身を包んだ警官が数人。
静かに現れて、呆然としている男と、朝木の腕を掴む。
遠くでするのは救急車のサイレン。
後から追いついたパトカーに、すべてを持っていかれる。
大丈夫、あなた。
そう警官が言うのも聞かないまま、朝木の背を見る。
『ありがとう』
少し振り返った朝木が、そう口を動かして微笑んだ。
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「これが、わたしの知ってるトモの最後」
神田さんが呟いて、部屋に沈黙が訪れる。
背筋が凍り付いたまま動かない。
そのときの神田さんの、お兄ちゃんの、心境を想像しただけで涙が出そうだ。
話を聞いている間ろくに瞬きのできなかった眼球は、潤いを求めて視界をぼかす。
「これがね、あのときトモがわたしに買ってくれてたやつ」
そっと鞄から取り出したのは、かわいいイヤリング。あのときに置いていったのを、拾ったのだそうだ。
一度も使われていないそれは、よれよれになったフィルムに包まれて今も綺麗だった。
「あの直後だったから使えなくて。そのまま置いてたら、わたしが付けるには子供っぽくなっちゃって」
時期を逃がしちゃったのよ。愛おしそうに、そのイヤリングを撫でる。
神田さんにとっては、お兄ちゃんの遺品にもあたる、そのイヤリング。
それを眺めながら過ごした9年間、神田さんはお兄ちゃんのことをどう思ってきたのだろう。
「だからね、あげる」
「えっ!?」
「あげる」
わたしが持ってても仕方ないもの。悲しそうに、言う。
「受け取れません」
「受け取ってほしいの」
つ、とイヤリングをわたしの方へ向ける。
使わないよりいいでしょ。神田さんはそう言うけれど。
そういうことじゃ、ないと思うのだ。
「あなたがいてくれてよかった。誰もいない、未知の世界で、あなたがいてくれてよかった」
そんな風に書いてあったわ。
その言葉に鼻がつんとする。泣くべきはわたしじゃないのに、気がついたら頬に暖かいものが流れていた。
「トモがそんな風に大切にしてたあなたに、つけてほしいの」
受け取れない。受け取れなんかしない。
言葉を出せないまま首を振る。
それはお兄ちゃんが、あなたに贈ったものなのに。
「トモを、愛してくれてありがとう」
涙を流すわたしを、ゆっくり神田さんが抱きしめる。
なんて返していいのかわからなくて、ただその背中にしがみつくしかできない。
優しいぬくもりが、よく覚えてもいないママと、よく覚えているお兄ちゃんに重なる。
お兄ちゃんが買ったイヤリングが、涙で光って見えた