レジスタンス四話

中央道の見回りは、結局ラグダッドの肩に乗せられたまま終わった。それを見たカータレットは指をさして笑い、アロースミスはラディーヌを抱きたがり、ミドルトンは羨ましそうに見上げてきた。

それをスチュアートが静まらせ、今日の訓練の残りを終わらせて、今。

月明かりの下、ラディーヌは訓練場の裏に立つ。

通常よりも小さなサーベルを――――それでもラディーヌには大きな剣を、寸分の狂いなく同じ速度で振り落す。これは今やラディーヌの日課になっていた。

素振りをする剣の先に、ラグダッドを思い描いてその腹を切り裂く図を延々と脳裏に流し続ける。その単調な動きを数百回繰り返した後、ラグダッドがどう動くか考えながら、空想のラグダッド相手に剣を交える。夜に少女が一人で、まるで踊るように剣を振り戦う姿は滑稽であるとさえ言えたが、ラディーヌは周りからどう見えているかなどなに一つ気にせずに目の前のラグダッドに意識を注いだ。

ラグダッドに勝たねばならない。

彼の癖、特徴、力の強さ、動きの速さ――――ラグダッドの動きは、この一か月目を離さずに見てきたつもりだ。実際彼女の描くラグダッド像の動きは、ラグダッドにそっくりだった。

分析した彼の強さにどう対抗するか、ラディーヌは毎晩こうして考えていた。すべては故郷の仇討ちのために。それなのに、こんなにも理解しているつもりでもラグダッドに勝てる方法がラディーヌにはわからなかった。

本来イメージトレーニングは、自分にとって都合のいい結果へと導いてくれるはずである。

だが相手がラグダッドでは違う。

どんなに、訓練時のラグダッドを思い描いてもそれが無意味であるとラディーヌはほとんど本能的に理解してしまっていた。そのせいでラディーヌはたとえ想像上のラグダッドであっても勝てない。それがラグダッドの本気ではないとわかっているからだ。

ラグダッドの力の底は、見えない。

まるで闇とでも戦っている気分だった。なにも希望が見えないのだ。彼には勝てないと悟るたびに必死に悲鳴をあげても、ラディーヌはやはり絶望に取り巻かれて払拭できないでいた。

なにしてるのよ、勝たないといけないのに!

そうしてまた苛立ちを募らせながら剣を振る。ドーナに来てからもう一か月が経ったが、なんの進歩もない自分に腹が立った。

進歩どころか、一緒にいるほどに絶望が増してくることに。

ラグダッドと対面するということは、絶対的な闇と対峙するということだ。

ふっと、油断をした瞬間にあの戦争のときの絶望が押し寄せてくるのだ。混乱の中でたった一人、はっきりと覚えているあの大男の影。それがまるで故郷を呑み込むようにラディーヌ以外のすべてを奪い去っていってしまった、あの絶望が。

どんなに憎しみを燃やしても、抗いきれない恐怖をラディーヌは感じていたのだ。

「らぁぁあああぁっ!!」

思い切りよく下した剣が汗ですべって手から落ちる。肩で息をしながらそれを見て、今日はもう限界かと見切りをつけた。疲れにやや放心しながら、ここまで来てようやく今日の恐怖心を振り切れたような解放感を感じる。

「おうおう、土掘ってんじゃねーぞ。塀にでも剣刺したらお前が直すんだぜ、それ」

「……!!」

突如背後からかけられる声に心臓が跳ねる。

それはすぐに誰かわかった。バーニー・カータレットだ。

月明かりにくすんだ金髪を光らせながら、特徴的なにやにや笑いを隠さずに歩いてくる。今日は深夜の見回りはないはずなのに、どうしてこの男はこんな時間まで居残っているのだろうか。大抵の場合、一番に寮へ戻るのはカータレットのはずだ。

「……なんですか伍長。こんな時間まで珍しいですね」

「お前こそ毎晩毎晩居残ってがんばるねぇ」

くすくすと馬鹿にするように笑うのをできるだけ無視しようと剣を拾って鞘に入れる。カータレットは人をからかうのをよく好んだ。そして大体、反抗すればするほどカータレットは喜んでいじめてくる。すでに疲れ切った体でそんな相手をするだけの余力はなかった。

「でもよ、ちょっとばかしがんばりすぎじゃねーの? 変なの湧くぜ、この時間」

「……伍長とか、ですか」

いつの間に。

剣を拾って顔を上げた瞬間、目の前にカータレットの胸が映る。それでもなお近づいてくるカータレットに押されて、じりじりと後ずさるうちに壁に肩がついてしまう。

一八〇センチを超える大男が目の前に立つと、それはまさに壁のようだった。ラディーヌの頭の両脇に腕をつけば容易には逃げ出せない檻となる。捕まった、と思った時にはもう遅かった。

――――この人、普段はこんなことしないのに。

ラディーヌは状況を理解した上でなお困惑する。こういった性質の悪い冗談だけは、この一か月言わなかったはずなのだ。今のドーナの状況を、少なくともあまりよく言っていもいなかったと思う。

それなのに今、カータレットはラディーヌを押しとどめるように三方を囲って見下ろしてくる。心なしか顔が近いことに、若干の恐怖さえ覚える。

「そうだな、俺みたいなのに食われちまうぜお前なんか。こんなに簡単に捕まるとか、まだ訓練たりねーんじゃねーの? 警戒心なさすぎだろ」

「それは、……だって伍長だから」

「俺がヤらないってどうしたら思えんだよ」

やや乱暴に顎を持ち上げられる。鼻がもう触れ合うほどに近くなり、今に唇が奪われるかと錯覚するほどカータレットは迫る。

そこまでして、ラディーヌはさあっと血の気が下がるのを感じた。

このままじゃ危険だ。

「お前ってうまそうだよなぁ。――――いってぇ!!」

「――――――――……!!」

がんっ、と額当てのついた頭で頭突きして、さらにカータレットの腹を思い切り蹴ってやる。カータレットの体は面白いほど離れうずくまり、恨めがましいような目でラディーヌを見た。

できた、空間!

恐怖に身を任せて走る。

足を上げるたび、筋肉が悲鳴をあげるのを無視して動かした。とにかく逃げなきゃ、もう夜だ、たとえわたしでも捕まったら危ない、と危険信号に突き動かされるままにまだ眼前に現れない寮へと向かった。

追いかける音も聞こえないまま。

+++

カータレットはうずくまる。腹は鎧のおかげで大した痛みはないが、額当てで頭突きをされたのがきつかった。痛みがようやく引いてきたかと思って右手を離すと、暗闇で見えづらいながらも軽く血が出ているのが確認された。

頭を掻いてため息をつく。さすがに少し脅かしすぎたかもしれない。が、カータレットの普段の生活からの忠告の仕方は、どうにもこれしか思いつかなかった。

カータレットはラディーヌの教育係だ。

基本的には行動を共にして、城での規律などを彼女に教え込むのが基本的には役割だった。城の中で迷った彼女を探したり、一般的な知識もない彼女に呆れながら常識を教えたりするのはまるで保母のようだとさえ時々思いながら、カータレットは比較的好んで彼女と一緒にいた。

これも、教育の一つである。

半月ほど前から、カータレットは彼女がこうして夜に居残って訓練をしているのは知っていた。だから寮に戻る振りをして、少し離れたところから居残りをそっと見ていた。今まで放っておいたのは、単に危険因子が近くにいなかったからだ。

ラディーヌは兵士とは言え外からラグダッド小隊がさらってきた美女の一人。幼さの中にどこか大人びたところを見せるラディーヌはお世辞を抜きにカータレットも美しいと思えたし、幼いわりに成熟した肢体は逆にそそるものがあるとさえ言えた。そんなラディーヌを狙う男がいないはずがないのだ。

戦争の後、城に多く入ってきた給仕の女たちは名目上は王の所有物。ゆえに下級の兵は手を出すことを許されない。だからそんな者たちは夜な夜な町へと降りて女を漁りに出るのだ。しかし兵であるラディーヌはその限りではない。彼女はこの城でたった一人、王の所有物でない女だ。女であるだけで軍で飛びぬけて有名なのだ、それが美人であれば男たちの思考は見えている。

「さて……あいつは無事に逃げられたかな」

カータレットはラディーヌの走り去っていった方向を見る。

それから、周囲を見回す。視界の端に一人、男が見えたところで視線を止めた。少し離れたところにいる中年の男は、苦々しく舌打ちをして踵を返す。カータレットが邪魔をしたせいでラディーヌに手を出すことができなかったのだ。

まったく世話の焼けるやつだ。あんなのに気付かないほど熱中しやがって。

「まったく、そこまでしてセックスしたいのかよ。彼女の一人や二人作っとけってーの」

わざと大声を出してカータレットもまた寮に向かって歩き出す。ドーナの男たちが目の色を変えて女たちを襲うのは、カータレットはとてつもなく気味の悪いように思えた。恋人をこよなく愛する彼には本命でない女など眼中になかったのだ。

人をいじめるのは好きだが、傷つけたいわけでもないのだ。だから、カータレットにはどうしてもこの風潮が理解できなかった。

無事でいろよ、とカータレットは願う。

そのための自分なのだから。自分たちなのだから、と。

+++

「はぁ……はあ…………っ!!」

訓練場からだいぶ離れたところでラディーヌは息をつく。

だいぶ走ってきたと思ったが、少し周囲を見回すとすぐにまだ寮から遠いのだとわかった。すでに限界を訴える足に鞭打って、今度は早足で寮を目指す。後ろからカータレットが追ってくる気配はないが、はやくあの恐怖を振り切って眠ってしまいたかった。

カータレットのからかいは比較的いつものことだった。しかし今回はわけが違う、あのままじっとしていたらなるようにされていただろう。そう考えるだけで寒気が止まらなかった。普段そういった方面でからかってくることがないカータレットだからこそ、そこに大きな恐怖を感じた。明日、また顔を合わせなければならないことが憂鬱になってくる。

あんな風に男に迫られることはおそらく初めてだった。どこで誰が被害に遭った、と聞くことは少なくはないのだが、ラディーヌは例外的にまったくそんな気配がなかった。だからこそ油断をしていたのかもしれない、あれほど訓練に熱中して背後に誰かが近づいていることにも気付かないなどドーナでは命取りにもほどがある。一か月経ってようやく気付くとは馬鹿なものだ。

故郷では、性交は子を作るときのみに限定をされていた。夫以外の者と交われば不貞とされて、追放される。昔、小さいころにそんな人が一人いた。夫よりもその人を愛しているのだと叫んで、喚いて、けれど誰にも聞き入れてもらえないで軽蔑の目で追い出された人が。今、どうしているかは知らない。猛獣たちの餌にでもなったことだろう。

そんな幼いころから言い聞かされ続けていた重大な規則を、この国ではいとも簡単に破られてしまう――――夫でも、愛しているのでもない男に。想像すると一緒に、兄の軽蔑するような目が思い浮かぶ。規則を破ることは兄に背くことだ、そんなことは、ラディーヌにはできない。

ようやく現実味を帯びた恐怖に肩を抱く。頼りない小さな肩が硬い鋼板に包まれているのは、自分の小ささを強調するばかりだった。一回でも捕まれば逃げ切る自信はないというのに、どうして隊が同じというだけで信用ができただろう。それがラディーヌを油断させるための罠でない可能性なんてないのに。

――――もう、隊の人と二人きりになるのも危険だな。

同じ隊に居る以上、二人組にされることも多いため絶対に避けるということは難しいが。ラディーヌは気持ちを新たにして警戒心を煽る。この一か月、ラグダッド小隊のラディーヌの態度がいやに好意的で油断していたが、彼らはラディーヌの故郷を滅ぼし、兄を殺し、自分をここに連れてきた張本人であることを忘れるわけがない。その好意の裏になにか隠されていることをどうして疑わずにいられただろう、自分の単純さに舌打ちする。

腕を大きく振って歩いて、ようやく見えた寮の入り口に安堵して歩く速度を落とす。ここまで来たら、女子寮も近くてわざわざ来る男も少ないだろう。

ふぅ、と疲労を吐き出して、鉛のように重い足を動かした。

早く帰って、今日はもう寝よう――――。

「――――っ!?」

「静かにしろ」

にゅっ、と木の背後から伸びた腕がラディーヌを捕らえて引き込む。疲労と安堵していた体は反抗する力もなく、気が付けば口を塞がれ木に押さえつけられていた。

なんだ、と思う余裕もなく両腕が頭の上で固定される。相手は片手だというのに、それだけで身動きすることができない。あまりにもあっさりと捕らえられたのに理解が及ばずに、ラディーヌはぼんやりと相手を見た。

暗がりでよくは見えないが、少なくとも若いようには見えなかった。暗い中でも頬肉がたるんで下がっているのがよくわかる。着ているものも鎧ではなく、装飾の多い服だった。ほんの少しだけ見たことがある、指揮官の服に似ている気がする。

「ん、んん……っ!?」

「騒ぐな、すぐに終わるさ」

「――――――…………!! ……!!!」

口を押えていた手が外れたかと思うと、男の手はそのままラディーヌの下腹部へと移って、片手で器用に防具のついたベルトを外していく。片足をあげて、ラディーヌの股下を擦り刺激するのが気持ち悪い。そのせいで腰が持ち上げられてしまってかかとが浮き、抵抗しようにも体の重心を取るのに精一杯だった。

ガシャン、と耳障りな音を立てて防具が落ちる。それを気にも留めずに男はショートパンツに指をかけた。下着も一緒に一気に降ろされる。

「ひ……っ」

漏れる悲鳴と一緒に、羞恥心に顔が熱くなる。露わになった恥部に男が息を荒らげる。熱く浅い呼吸はそのまま首筋にかかって、ぞっと背筋に悪寒が走った。

逃げなきゃ。

犯される。

必死に腕を外そうと暴れてみてもびくともせず、逆に腹部に拳を落とされた。

「うぐっ」

「そんなに手荒にされたいか、お望みならその通りにしてやろう」

なにを言っているんだ、こいつは。

痛みにむせながら、恥部に触れようとした男の手が自らのズボンへと移ったのを見る。ずるっ、となにか棒のようなものが現れたのを見て、ラディーヌは回らぬ頭で疑問符を浮かべた。

正体はわからないが、ただなんとなく嫌な雰囲気だけは感じる。

「い……いや、やだあ!!」

身をよじって嫌がるも男の腕力には敵わない。

おぞましい棒が恥部へと近づくのを感じて、本能が叫ぶ。

兄さん、助けて。兄さん!

「っや―――――!!!」

「ぐ……っ!?」

体重を背の木にかけて、つま先立ちの不安定な状態で思い切り足を振り上げる。目標も定めずめちゃくちゃに右足を振り上げて、男の脇腹を何度も蹴って暴れ、一緒に腕を今度こそと左右に振る。不意を突かれたのか男の力が一瞬緩み、その隙を見逃さずに膝を腹に沈めた。

「……――――――――っ!!!」

「待て、小娘――――っ」

「あーらよっと」

拘束から逃れて躓きながら走り出す。男の制止も気にせずにショートパンツを無理やり上げて、一目散に寮の入り口へと駆けだした。

「じじいが色ボケてんじゃねーぞおらっ!」

背後で若い男が、なにかを蹴りつける音がした。

それでも振り向かずに、ラディーヌは寮の中へと転がり込んだ。

+++

「はーっ、はー……っ!!」

深く呼吸を繰り返す。がたがたと震える体で扉に寄りかかって恐怖に震える。もう追ってくる気配がないのを確かめて、それから慌てて扉に閂をかけた。

そっと外を確認したときには、襲ってきた男は倒れて身動きもせず、乱入してきたらしい若い男が悠々と帰っていく様子が見えたので少なくとも今日はもう安心だと思えた。

――――カータレット伍長、だったのかな。

一瞬だけ月明かりに照らされて見えたくすんだ金髪。乱入してきたときの粗暴な声。よく知っているカータレットの特徴だったが、しかし彼がラディーヌを助ける理由がよくわからなかった。自分が襲おうとしてきたというのに、わざわざ追いかけてきて助けてくれるのはなんだか奇妙だった。

――――自分がする前に他の男に取られたくなかっただけ?

できるだけ不快に不快に想像すると、そんなところに行きついた。

助けてくれたからと言って、カータレットが信用できるというわけではない。ましてや、あの若い男がカータレットである確証もない。顔はまったく見ている余裕がなかったのだから。

「……部屋、いこ」

そこまで考えて、ラディーヌは思考を放棄した。なんであれ、男に不用意に近づいてはいけないと身を持って覚えた所で既に疲れ果てていた。あまりの恐怖に続けて晒されたせいか、もう頭をこれ以上動かすことが嫌になった。

ぼんやりと立ち上がって、階段へと歩き出す。

この国から逃げなければ。出なければ。

ふらふら歩いて言い聞かせる。知らぬ間に流れていた涙が、静かに頬を舐めた。

+++

疲れた体で階段を上る。

ラディーヌの部屋は最上階にあり、こんなにも疲れていると上ることを放棄したくなった。最終的には一段上るごとに休みを取るほどにゆっくりになって、重い足を無理に上げた。

はぁ、と重いため息をついてようやく最後の階段を上り切る。最上階の一番端。そこがラディーヌの部屋だった。元々は給仕のための棟だが、兵士であるラディーヌは特別に、小さいが一人用の部屋があてがわれているのだ。

どっぷりと疲れた体を引きずって扉を開ける。

「……?!」

すぐに異変に気付く。いつもの少し埃っぽい空気に紛れて甘い香水のが部屋に漂っていた。

「はぁい。遅かったのね、結構待ってたんだけど、兵隊さんってみんなこんなに帰りが遅いの?」

「……――――!?」

淡く波打った茶色の髪に、胸元を大きく開けた桃色のドレス。切れ長で魔力を持った深緑の瞳がラディーヌを見上げ、そしてにっこりとほほ笑んだ。

昼間に出会った、あの女だ。

彼女は当然のように微笑んで、入り口に足踏みするラディーヌの手を掴んで部屋へ引き込んだ。状況の読めないラディーヌを置いて、女はひとりでに語る。

「アタシね、ずーっとあんたに会いたかったのよ、ラディーヌ」

「うぇ……っ?」

「今日休みでほんとよかった。こんなに早くに身元が割り出せるだなんて思ってなかったわ。昼間に会ったのはきっと運命ね!」

優雅な見かけのわりによく喋る。いたずらっ子のような微笑みを浮かべて、混乱するラディーヌを楽しんでいるかのようにさえ見えた。

ぽかん、としてラディーヌは話についていけない。疲労に頭は回る様子がなかった。思考は完全に停止して、目の前の存在を受け入れることを拒否している。

「初めまして、ラディーヌ。アタシはルーシィ、あんたを迎えに来たわ!」

高らかに言って、手を差し出す。

そのどこか子供っぽく自慢げな笑顔に見惚れて、差し出された手を見て、そこからようやく思考を取り戻す。

「ま、待って! なんで名前知ってるの、どうしてわたしの部屋にいるの、あなたは何者なの、そもそも迎えに来たってなんのことよ! 帰って!!」

「そんなにいっぺんに聞かなくてもちゃんと答えるわよ」

どっと押し寄せた疑問を吐き出すと、女はぱちくりと首をかしげた。大人びた容姿に似合わず、所作はどこか子供っぽい。それがなんだか不自然だった。

そうね、順番に答えましょうか。そう言って女はゆっくりと語り出す。

「まずは自己紹介ね。アタシはルーシィ、城下町で娼婦をしているわ」

「しょう……ふ? なにそれ?」

「えっ? あ、えーと、そこ聞き返しちゃうのね?」

しょうふ。聞いたことのない単語に首をかしげる。ルーシィと名乗る女はやや挙動不審にどもり、教えていいのかしらと小さく呟いて目を逸らす。

「教えられない仕事なの?」

「だーって……。まあ、その、男の人の相手をするお仕事よ」

「……ああ、なんだそういうこと」

「わかっちゃうの?」

「わかるわよ、子供じゃあるまいし」

なんだかいけないことをした気がする、とルーシィが少し顔をしかめた。ラディーヌのことを子供と思って言うのを渋っていたようだが、実際の年齢を言うのも面倒で自己解決にとどめておく。

娼婦が、とりあえず女を売る仕事であるとわかれば十分だ。胸元を大きく広げた薄桃のドレスや、扇情的な赤い口紅、ルーシィの持つ独特な、酔いそうな色香を見ればどんなにぼかした言い方をされてもなんとなく察しがついた。

続けて、と目で促すと、ルーシィは少し決まりが悪そうに口を開く。

「名前を知っていたのは、お客さんが世間話で聞かせてくれたのよ。蒼い髪に金の目の、小さな女の子が兵に志願してきたんだって。ラディーヌ・アディス……あなた有名みたいよ。いろんな人から名前を聞くもの、まあ当然だけど」

「小さくないわ。……女が入れば目立つものね」

王宮で、妙に視線を感じるのは事実だ。

ただ今まで実害がなかったために、たいした危機感を抱くこともなかったのだが。ついさっき起こった出来事を思い出して思わず少し身震いする。ルーシィが部屋にいたことの衝撃で少し忘れかけていたが、二回連続して――――特に二回目に―――――男に襲われ危険な目に合ったばかりだった。見ず知らずの彼女が知るほどなら、自分の特徴など王宮全てに知れ渡っていることをいい加減自覚した方がよさそうだった。

「でー。昼間に会って顔もわかったしー、部屋はわからないけどとりあえず来てみちゃえーって思って来てみましたー。途中で仲間見つけたから結構簡単に教えてもらったわー」

「来てみましたー……って、門番がいたでしょう?」

「いたけど、ちゃんとお願いしたわよ。入れて―って」

「……そんな簡単に入れるものなの?」

「勘違いしたんじゃない? 王様が呼んだ女だって」

軽々しく言ってのけるルーシィの言葉は信じがたいものだったが、彼女が自分のように門番を倒して入ってくるような手荒な真似をするようにも思えなかったので仕方なく信じることにする。ドレスを着ている美しい女ならもしかして全員適当に入れてくれるのではないだろうか、この城は。城の警備が薄いことにラディーヌは一切困りはしないが、あまりいいことではないだろうなぁ、と少し他人事のような心配を抱いてしまう。

「……まぁ、あなたが誰かは、わかったわ。それで、用って? わたし正直疲れてるんだけど」

「もー、そんな焦らないで。ちゃーんと言うから」

すっとルーシィがベッドから腰をあげて、座るラディーヌの前に立つ。

隣に座っていてもその高さにやや圧倒されていたのに、向き合うように立たれると想像以上にルーシィの背の高さに圧倒される。小隊の人間の高さにはどう考えても及ばないのに、それでも“なにかが迫ってくる”恐怖感のような圧迫感が、ラディーヌに立ちはだかる。

それまでどこかおちゃらけたような雰囲気を持っていたルーシィの表情が引き締められ、切れ長の瞳から愛嬌が消える。

本題だ。

「アタシ……アタシたちね、反乱軍の仲間を集めているの。このドーナから出るために、ドーナの男たちに復讐するために。

戦争に負けた後、大陸中を蹂躙するみたいに各地を火と血の海に沈めて女だけを浚ってきたあげく――――道に打ち捨てて、放置されて。奴隷にされるよりましって思うかもしれない。だけどなにもないまま放り出されたら、食べるものもないし職もない。おまけに夜道では自分の体を狙ってくる男がたくさん。やっとありつけた仕事先で、奴隷みたいに働かされてる人だって当然いるわ。

惨めったらありゃしないわ。だからアタシたちはここから出るために戦わないといけない。たった一か月でも過ごせばどんだけ酷い国かあんただってわかったでしょ? アタシたちは路上で生き延びる犬猫みたいに、時にやつらの好きなようにかわいがられるために連れてこられたのよ……これを抵抗しない理由なんてない。立ち上がって、国から出て、もとの場所で新しくやり直さないと! 国は男も女も壊滅的で、生き残ってる人なんて一握りかもしれないけど、だったらなおさら自分の手で故郷を復活させたい、そう思うのは当然だわ!

だからアタシたちは戦うために人を集めてる。王の首を取るために。そのために――――ラディーヌ・アディス、あんたの力が必要なの!」

拳を握って力説する。

己の身を守るために、この国から出よう。そのために徒党を組もう。感情のこもった、けれど冷静な語り口の演説は疲れたラディーヌの思考にも強く残った。

ただし。

なおも語るルーシィの目を見る。嘘はけしてついていない。だが彼女を信用していいものだろうか。

「アタシたちは、当然今まで剣なんて握ったことが無い、なんの力のない女にすぎない。だからね、ラグダッド小隊に入るほどの実力を持つあんたがいないと、不安なの。話では五人の男を傷一つ負わずに打ち負かしたと聞いたわ。それだけの力を持つあんたがいれば――――きっと、この希望は無謀な想いじゃなくなる。現実味を帯びてくる! ねぇ、お願い。アタシと一緒に来て。一緒に戦って、外に出ましょう」

ラディーヌの手を取って、視線を合わせるようにルーシィがしゃがむ。まるで求婚する王子のように、それを品定めする姫のように二人はじっと見つめ合った。

国から出ることはラディーヌの目的の一つ。いずれ起こるだろう戦争のどさくさにラグダッドを殺すのだって可能だろう、いや、それ以外で真っ向から彼に立ち向かうことは難しいかもしれない。

己の身の危険は、ついさっき味わった。もう二度と味わうなど御免だ。この国に一分一秒長く居るだけで、危険は膨大に増えるばかり。

切れ長の目は、強い意志をラディーヌにぶつけて光る。まばゆいばかりの美貌を持つ彼女でも、その出自では信用に足るには難しい。……だが信用する必要がどこにあるだろうか。

敵でも、味方でも。一時的にこちらに力を貸してくれるならいくらでも利用してやろう。ここから出るのに自分一人でできると思うほど、ラディーヌだって自分を過信はしていない。力はいる、数の力が。

この誘いはまたとない機会。逃がす理由はない。

「わかったわ」

これは協定。ラディーヌが彼女の徒党を利用し、彼女がラディーヌの力を利用する。

目指す未来は、ただ一つ。ドーナ王グラシェードの死とドーナからの脱却、そして男たちへの復讐。

「あなたたちに加わる」

はっきりとした口調で、ラディーヌは宣言する。

瞬間、ルーシィの口紅が妖艶に吊り上り、真摯に瞬いていた瞳が勝利を確信したものに変る。

その表情の変化を見た瞬間、蜘蛛に捕らえられたような錯覚をしてラディーヌは少し眉を寄せた。勘違いとはわかっていても、彼女の妖艶さにはどこか罠のような香りを感じてしまう。しかしそれを覚悟で入るのを決めたのだ、後悔はない。

「ありがとうラディーヌ。歓迎するわ!」

抱擁でもするかのように大きく腕を広げて、ルーシィは高らかに告げる。

これから、革命は始まる――――。