聖痕十六話
がこんっ
と、コップが倒れる音がした。中身の入っていなかったコップから、氷がいくつか躍り出る。
「どういうこと、ユイちゃん」
気がついたら、マナの腕がわたしの襟を掴んでいた。
反応する暇もなかった。彼女がこんなにも機敏に動くのは初めて見る。
「社会人になる前に死ぬって、どういうこと」
襟が引っ張られるせいで机に前のめりに乗る体勢になる。
手に氷が触れる。冷たい。
「そのままの、意味、ですよ」
「ユイちゃん、言って。あなたはなにを知ってるっていうの。それがなにを意味するか、あなたは知ってて言ってるの」
マナの丸い目が今は三角になっている。
感情の押し殺された声はいつもよりずっと低い。それは問いかけではなく、脅迫にも近かった。
そんな一番の怒りをぶつけられているのに、わたしは妙に冷静だった。
それは恐怖でも、焦りでも、驚きでもない。
同情。
「知って、ます。離して、くれませんか」
「吐け。吐くまで離さない」
ぎりぎりと力は強まっていく。
距離は次第に近づいていき、今にもおでこがくっつきそうだ。
だんだんと首に力が入っていく。
そのうち絞め殺されるんじゃないだろうか。なんだか頭がくらくらしてきた。
「い、う、から……」
「首が締まって言えないっていうの? ふん」
乱暴に座っていた場所へ投げ出される。
首が締まっていた苦しみと、急に入ってきた酸素にむせる。
頭が痛い。
気持ちが悪い。
マナは怒りと不機嫌が入り交じった険しい表情をしている。まるで教室での彼女が演技だったように。
否、彼女にこんな表情をさせているのはわたしのせいだ。本当はこんな子じゃない。
マナが自分で言ったように、たしかに人見知りで少し臆病な、子犬のような子のはずなんだと思う。
『睦月様』になんとなく申し訳なくなる。
彼は、自分のためにここまでしてくれる彼女を、どう思っているだろう。
「言って。ユイちゃん、あなたはなにを知っているの。――――どうして睦月様が、死ななくちゃいけないの!?」
悲鳴だった。
本当に、ただ一緒にいたいだけなのだ。マナは。
そんなにも強く人を愛せることを、少しだけうらやましくなった。
パパやママにも、お兄ちゃんにも先立たれたわたしは、後でも追えばよかっただろうか。
マナを見ていると、それだけの衝動と、強い想いを、持てなかったことが恥ずかしくなる。
けれど、わたしには両親やお兄ちゃんだけが世界だったわけじゃない。
「マナ、睦月様のところへ連れていってください」
「どうして」
「あなただけが知ってもしょうがないじゃないですか」
わたしの言葉に、マナの表情はさらに厳しくなった。
+++
東京。
バスもないシスマから都会へ出るのは少し面倒だったが、駅で迷いながらようやくマナの地元へとたどり着いた。
相変わらず切符の買い方はよくわからない。そういえば、ママと一緒に電車に乗ったこと、なかったな。
「はい、あと30分もあれば着くと思います。今駅なんです。人がいろんな顔で睨んできて、なんだかおかしいですよ――――……」
一緒に歩きながら、マナは睦月様に電話で実況をしている。こころなしか、頬が赤い。
マナの言うとおり、周りの反応は様々だった。そして総じて、それは好印象ではない。
あふれかえるほどに人がいるのに、わたしたちの通る道だけが奇妙に空いていた。
一歩歩けば人が左右に割れていく光景は、たしかに滑稽かもしれない。
わたしの胸元には、それを作り出すワッペンがある。
マナにはつけさせなかった。しかしそれは逆におかしかったかもしれない。
かつてのユダヤ人のように連行されたりはしないけれど、それでも気分はよくない。
「ユイちゃん、そっちじゃないよ。こっちの出口」
「どうして出口がこんなにあるんですか……」
どこかの迷路より精巧に作られた駅は、遊園地にでも設置すればいい。
大学に行ったときもそう思ったけど、どうして東京はこんなにごちゃごちゃしているんだろう。今すぐにでも帰ってしまいたい。
マナに腕を引かれるままに、慣れない人混みを歩いてたどり着いたのはなんだかお高そうなマンションだった。
一級地の家ってどれくらいするんだろう。
入ってすぐに貼ってあった見取り図には、マンションなのにプールやら体育館やら、売店だ食堂だ色々書いてある。
ここにいるだけで生活ができそうだ。
でもシスマがこんなんじゃなくてよかった。外を歩けないのは退屈できっと死んでしまう。それこそ文字通り監獄だ。
慣れない高級マンションを見てくらくらしているわたしの横で、マナは慣れたようにインターホンを使う。
『はい』
「マナです」
1秒もなさそうなやりとりで自動ドアが開いた。
人影はどこにも見えない。
「エレベータ、こっちだよ」
「……すごいところに住んでるんですね……」
「こんなの普通だよ、別荘のほうがよっぽど豪華。睦月様のおうちは9階だよ」
元お嬢様であるマナはこんなマンションはまだ序の口なのだと言ってみせる。
とはいえ、このマンションだって一部屋が普通のマンションの二倍は広かったり、二階建てだったり、庶民であるわたしは倒れてしまいそうだ。
「でも、こんな家に住んでてよくシスマの小さな家で暮らせましたね」
「自分の部屋だけだって考えたらそんなに苦じゃなかったよ。家事は仕事でしてたもん」
マナは思った以上にたくましい子だ。
わたしがシスマに入ったときはどうだっただろう。記憶をさかのぼっても、あまりに遠くてわからなかった。
9階までエレベーターで登る。
それまで誰にも会わず、安心する。
マナ曰く、この時間はせいぜい家政婦くらいしかいない、らしい。
907と書かれた札の下に、『朋鐘』の表札がある。
通路に自転車が置いてあったりして、そんなところはお金持ちでも一緒なようだ。
エントランスのときと同様の手続きで、ドアの重い鍵が開けられる。
がちゃり、
がちゃり、
二回それを繰り返して、ゆっくりと扉が動く。
中から出てきたのは、同年代の男の子。
「……マナ、おかえり」
やさしく笑った、マナの恋人。
+++
案内されたのは男の子――――朋鐘睦月の部屋だった。
勉強道具と難しそうな本で埋まっている。物はあまりなく、塵一つないほど片づけられている。
ただの子供部屋にしてはリビングくらいあるんじゃないかと思うほど広いその部屋では、この物の少なさはかえって奇妙だった。
代わりに壁際に本棚が並んでいるから、広いわりに少し圧迫感を感じる。
ぽす、と睦月様がベッドへ腰をおろす。
少し癖毛の彼は右手にだけグローブをしていた。
薄手の、指の出ているタイプのグローブ。両手にしないその不自然さは、聖痕を持っていると言っているようなものだ。
「で、なんだっけ。この人がマナの言ってた?」
「はい。ユイちゃんです」
「初めまして、天野由井です」
正面に座る彼にぺこりと一つお辞儀をする。
改めて眺めると、なんだか優しそうな目をしている人だ。
マナがあれほど入れ込むのだから、悪い人だとは思わないけれど。彼がマナをシスマへ送り込んだ張本人なのか。
「本日はお忙しい中お時間をいただき――――……」
「あ、いいよいいよ。同い年なんだから、固くならなくて。そんな偉いもんじゃないからさ」
「そうですか」
「それじゃあ、ユイちゃん教えて。あなたはなにを知ってるの?」
マナが性急に話を進める。
しかしそのために来たんだから、さっさと話をすませてしまおう。
「今から話すのは、ある研究者の方から聞いた話です」
長い話の最後に、彼らはどんな反応を示すだろう。