聖痕七話

「それでね、マナ……」

「あ、ユイちゃん。おはよう~」

「…………」

教室に入ってすぐ、セナとマナに遭遇する。

セナはわたしを見るなり眉をひそめてそっぽを向いた。

わたしもわたしで、ただ一度浅いお辞儀をしただけで自分の席へ座る。

口論をしたあの日以来、一週間ほどこんな状態が続いていた。

セナはわたしと話すことをやめ、意図的に避けているようだった。

一方わたしも、どう話かけたらいいのか――――謝った方がいいのかどうなのかわからずに、そのままになっていた。

このままではいけないと思いながら、それでもどうしようもなくて、改善できないまま月日が経っていた。

今まで、喧嘩という喧嘩をしたことがなかったから、どうすればいいのかわからなかった。

わたしはあの日言ったことが間違っているとは思わない。多分、どちらも間違ってはいないのだと思う。

だからこそ、すれ違ったまま仲直りする術がわからないのだ。

「おす、天野」

「……若林」

若林がだん、とわたしの机に手をついた。その音に本から顔をあげた。

元々、集中ができなくて何度も同じ場所を読んでいたから読むのをやめるのにはちょうどよかった。

顔をあげると普段セナに見せるふざけた表情と違って、どこか真面目な顔だった。

彼はわたしと話すときは静かで落ち着いた少年になる。それを思うと、使い分けのできる人なんだなとぼんやり思う。

「……なんでしょう」

「お前、セナと喧嘩したろ。ここ最近話すの見ねーし、……あいつの機嫌最悪だし」

楽しそうに話しているセナをチラと見て、若林がため息をつく。ほんとに、セナの変化に彼は敏感だと思う。

「……ええ、まぁ」

「どーせあいつが癇癪起こしたんだろ、お前らの喧嘩だったら」

「……あれは、どちらが悪いというわけではありませんよ」

どちらも正しい。セナの言ったことはここにいる人間すべてが一度は思うことだ。そしてわたしの意見は、真理を突いていると信じている。

「……とりあえず早く仲直りしてくれよ、なんか調子狂うだろ」

よく理解できないと言った表情で若林が言う。

少し視線をずらしてクラスメイトを見渡せば、ちらちらとこちらを窺うような目が見て取れた。みんな少なからず気を揉んでいるのだ。

慣れない喧嘩と、その複雑な雰囲気に。

「――――努力はします」

今のわたしには、それしか言うことはできなかった。

+++

少し騒がしい授業中。教師とも話を交えながらゆっくりと授業は進む。

テストと言うものを重要視していないからこそここまで自由に授業ができるのだろうと思う。少し前にマナが驚いていたほどだから、恐らくよっぽど授業がゆるいのだろう。

ほとんど形式だけの授業は退屈しのぎにすぎない。

ノートを書き、ある程度勉強もするがそれをしたところで将来になんの関係もないのがシスマだ。

テストの点を比べあって一喜一憂する、そのための茶番。

すでに授業はおざなりで、先生の好きな小説の話に内容は変わっていた。国語教師らしく、その幅は広い。

役所に隣接している図書館に通っているだとか、すっかりそこの人と顔見知りだとか、さすがに本が劣化していて読みづらいとか、そんな話を授業を放ってしていた。

そんないつもの授業風景を壊す、足音。

「天野ッ!!」

「杉崎先生、どうしたんですか?」

破裂音のようなドアを開ける音に一斉に視線が杉崎先生へ集まる。

よほど急いできたのか息切れはそんなにしていないのに普段の明るい表情はなく、鋭い眼光でわたしを睨みつける。

「天野、今すぐ俺と来い」

「ど……どうしたんですか、先生」

普段は感じない威圧感に身がすくむ。

この人は、こんなに怖い人だっただろうか。少し嫌な予感がする。

「説明してる暇はない。先生、こいつちょっと借ります」

ぐいと強くわたしの手を引き立たせる。足を机にぶつけて痛い。

国語の先生の制止も無視して全力で走るものだから半ば引きずられるような格好で後をついていく。

わたしの手首をつかむ手は走るにつれて強くなり、慣れない速さと手首を締め付けられる苦しさに恐怖ばかりが募っていく。

どこに行くのだろう、わたしは何をしたのだろう。先生がこれほど焦るということは何があったのだろう?

言いようのない不安に追い立てられながら走っていると、次第にどこへ向かっているのかなんとなくわかってきた。

「――――職員室……?」

「……っそうだ」

すこし途切れ途切れに、先生が言う。

「いいか、天野。お前にはすこし、いやかなり、辛いと思う」

覚悟しろ、と低い声で言う。

やめて、言わないで。

その言葉にうっすらと不安が形になっていく。

言わないで、嫌!

「朝木先生が、狂暴化した」

+++

気が付いたら職員室の前にいた。

灰色の、少し錆びついた職員室の扉。中から戦っているらしい音がする。

ぼんやりして、頭が働かない。息が苦しくて、めまいがする。

この扉を開けたくない。狂暴化したお兄ちゃんを見たくない。

気持ちが落ち着かなくて、杉崎先生を見上げる。

その表情は思った以上に穏やかで、憐れむような、そんな目をしていた。

「……いいか、天野」

わたしを落ち着かせようと、先生の手が優しくわたしの頭をなでる。

「この扉を開ければ、お前はとても辛いものを見る。しばらく立ち直れないと思う、先生だってそうだった。バディを亡くすのは辛いことだ……特にお前は、長い間先輩と一緒だっただろう」

静かな声だ。促すこともせず、止めることもしない。

「でも、それでも俺は、お前に最後を看取ってあげてほしい。最後の最後に先輩を手にかける資格を持つのは、バディであるお前だけだ」

「…………先生」

「どうするかはお前次第。扉を開けるでも、引き返すでも構わない。先生は、止めない」

杉崎先生と扉を交互に見る。

扉を開けるのは、怖い。

けれどお兄ちゃんの最期を、見届けたい。ずっと一緒にいたから、だから――――。

「……二人きりにしてもらえますか」

「……わかった」

震える手で扉に手をかける。

上手く力が入らず、開けようとしてもびくともしない。両手で支えても、自分の意思に反して扉は開いてくれない。

それを見かねたのか杉崎先生の手が目の前に入ってきてがら、と扉を開ける。

「があああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――――――――――――!!!!!!!!」

お兄ちゃんの咆哮が、響く。

ビリビリと空気が震えた、気がした。

そこでは数人の先生たちができる限り傷つけないように抗戦をしていた。書類は散らばり、机が横倒しになり、正直足場は見当たらない。

「……お兄ちゃん……」

お兄ちゃんが人を襲っている。それだけでどこか遠い世界の光景のように見えた。

眼鏡は振り落としたのかかけないままで、口からはだらしなくよだれが垂れていた。少し前までのお兄ちゃんの面影は、もうどこにも感じられない。

わたしたちはいつか狂暴化する。それはよくわかっていた、覚悟もしていた。

それでもお兄ちゃんだけは、そんなことはないとどこかで信じていた。

その幻想が、壊された。

本当はあんなお兄ちゃんの姿を見たくない。

だけど、あんな姿をいつまでもお兄ちゃんにさせているのはあまりにも可哀想だ。

きつく拳を握りしめる。杉崎先生がさっき言った言葉を反芻する。

お兄ちゃんを殺す資格があるのは、わたしだけ。

はやく楽にしてあげないといけない。

「天野。これ使え」

「……ありがとうございます」

杉崎先生から包丁を受け取る。軽く振って使い心地を確かめてから、お兄ちゃんを見据える。

一度武器を取ったら、わたしは殺人者だ。お兄ちゃんだろうと関係ない、危害があるなら殺すだけ。心の整理がある程度済むと、神経が研ぎ澄まされて落ち着いてくる。

「あとは任せてください」

「……ああ」

杉崎先生が他の先生に目くばせして教室から出ていく。扉の閉まる音がするのを待ってから、お兄ちゃんへ向かってゆっくり歩を進める。

狂暴化した人間の腕力は普通の人間の比ではない。まともに相手をしたならこっちが殺されるだけだ。仕留めるなら、一発。

足音が聞こえないように散らばった書類を踏まないように気を付けて、筆記用具が入っていたであろうペン立てを手に取ってできるだけ遠くへ投げる。

静かな教室にカコンと鳴り響き、お兄ちゃんがそちらへ気を取られる。

正気ならば絶対にひっかからない罠。もう人格など無いのだ。

その隙に机を踏み台にして後ろから首めがけて包丁を突き刺した。

がぼっ、と嫌な音を出してお兄ちゃんがのけぞる。落ちないように肩に手を回して、もう一度深く頸動脈を切った。

ヒュー、ヒューとお兄ちゃんの喉元から空気の漏れる音がする。

ゆっくり体が傾ぎはじめたから包丁を抜いて足を付けた。

お兄ちゃんの体を支えようとしたけれど、力の入っていない体は重たくて、ゆっくり降ろそうとしたのに半ば落とすようになってしまった。

「…………っ」

見開いたままの目を閉じてあげる。

殺したんだ。わたしが殺した。お兄ちゃんは、もういない……。

首筋から溢れる血がそれを物語る。悲しくて、切なくて、涙が流れる。

お兄ちゃんの髪を梳きながら、もう動かないお兄ちゃんを見下ろす。白衣が血に染まる様を、眺める。

「お兄ちゃん、いままでありがとうございました」

ぽつり、

「わたし、一つだけお兄ちゃんに隠していたことがあるんです」

生前はけして言わなかったことを。

「お兄ちゃんは気づいていたかもしれませんね」

今だからこそ。誰もいないからこそ。

「お兄ちゃんが、好きでした」

ずっとそばにいてくれた、たった一人の人。

「あなたがずっと、好きでした……」

涙が一つ、お兄ちゃんの頬にかかる。

「ありがとう――――……さよなら」