レジスタンス十話
嗅ぎ慣れた馬の匂いに、ラディーヌは少し心を躍らせながら厩の前に立つ。
城の馬たちは故郷の馬より顔つきがいい。戦闘の場に駆り出される者ばかりだからか、きりっとしていて勇ましい。
なにより毛並がいい。故郷の馬も丹精込めて世話をしていたが、やはり環境や餌が変れば毛並も変わってくるのだろうか。少し悔しい。
そんな中から、ラディーヌは調子の良さそうな馬を選んでいく。
ラグダッドやミドルトンには飛び切り大型の馬を。
カータレットやアロースミスには足の頑健な馬を。
スチュアートには小回りの利きそうな馬を。
そしてラディーヌには一番小柄で、かつ速い馬を。
ぱっと見れば、その馬の特性はわかる。いつも馬たちと触れ合ってきたラディーヌだ。その馬がどんな性格でなにが好きかまで、もう少し時間がもらえればわかるだろう。
「……慣れてんな。これでいいのか?」
「全員に合う馬を選んだつもりです。はい、この子が伍長の」
言われるがままに馬を手渡されるカータレットはいまいち信用していないような顔だった。
ラディーヌが遊牧民の出だということは故郷を襲った彼らなら知っているはずだが、彼は覚えていないのか。
人の故郷を滅ぼして、こんなところに連れてきておいて、とラディーヌは腹が煮えくり返る想いがしたが、思えばラディーヌもラグダッド以外覚えていない。
そんなものかもしれない。
「あ、中尉。まだ馬装具はつけないでください。あまり長くつけてると疲れちゃうから」
「お、おう。……でもつけないと、この数の馬は移動できないぞ?」
「あとで取りに来ればいいですよ。とりあえず、中庭に連れて行きましょう」
男二人、新入りに仕切られてしまってただ顔を見合わせる。
言われるがままに馬の手綱を操りながら、カータレットはラディーヌの背を見る。
「なんであいつ、こんな慣れてんですかね。厩の坊主の話なんか聞こうともしないし」
「そりゃあ、慣れてるだろう。あいつはブラウ草原の遊牧民なんだから」
「あー……そうでしたね」
言われて、カータレットは思い出す。
そうだ、彼女は自分たちが連れてきたのだった。
大陸の中央に位置する、ブラウ草原。そこには遊牧民が住んでいて各国の国境から少しだけ離れた所を巡って歩いていた。
彼らと国の間には、特殊な契約がある。
絶対中立宣言。
ブラウ草原の者たちは、絶対にどこの国にも味方しない。代わりに、金を払えばいくらでも優秀な傭兵として仕事をする。彼らはどこにも味方しないし、敵にもならない。彼らは金という絶対的第三者を挟むことで利害関係を一致させたのだ。
ブラウ草原の男たちは、優秀な兵だと言う。馬を操り、襲い来る獣を相手にいつも戦っているから、人相手には強すぎるのだと言う。だから、どの国もこぞって金を出して、彼らを雇おうとして、侵略しようなどと考えなかった。
そんな特殊な地帯の制圧だからこそ、ラグダッド小隊が派遣されたのだ。
ラディーヌはそんな場所にいた。
カータレットはすっかり忘れてしまっていた。あの制圧活動があまりいい思い出ではないのもある。それ以上に、ラディーヌに対して馴染みすぎていたのだ。
連れてきた後、自分から城に来たから、浚ってきた女だと言う認識が少し弱い。なにより彼女は、たしかとても髪が長かったはずなのだ。
そんな容貌の変化をされていたら、カータレットにはわからなくなってしまう。
だが蒼い髪と金の目はブラウ草原の民の証。間違いない。
「……恨まれてんだろうなあ」
「当たり前だろう、あれだけいじめておいて」
「違いますー、そこじゃないですー」
ラディーヌの小さな背中を、二人は見る。
まだうら若い、小さな彼女。一瞬にして故郷も家族も仲間も失った彼女。
自覚すればするほど、ラディーヌに対してどう接したらいいのかわからなくなる。カータレットたちは彼女にとって仇敵だというのに、ラディーヌは大切な仲間なのだ。
まだ一か月しか一緒にいなくても。
ラディーヌはつんけんしたところはあっても、濃い憎悪を向けてきている感じがしなくて、憎しみの対象になっているという自覚ができない。
それだけ隠しているのだろうか。そんなに上手く演じられる女だろうか。
「俺達に下った司令を忘れるな。……今のままでいいんだ」
「……うす」
柄にもなく揺らぐカータレットに、スチュアートは優しく言う。
「伍長、中尉、なに話してるんですか? 早く来てください、わたしじゃ道がわからないんですから」
「お前、今まで道もわからないで歩いてたのかよ!」
「わからないなら早く言え、馬鹿!」
「ここまではわかるんです、ここからがわからないんです!」
カータレットがどんな感情を向ければいいのか悩もうとした矢先に、ラディーヌの気が抜けるような叱責が飛んでくる。
異常なもの知らずの困った新人は、やはり小隊のかけがえのない仲間だと、カータレットは笑うしかなかった。
+++
「全員、用意はいいな」
スチュアートが前に立ち、それぞれ馬に乗った小隊員に声をかける。
ドーナ城の門に並んだ小隊は異様な雰囲気を漂わせている。付近の別隊の兵がざわめくのをラディーヌは感じていた。
特注の大剣クレイモアを引っさげたラグダッド。
大男が、特別に大きな馬に乗り、唯一無二の大剣を下げていれば、異様な雰囲気も出るものだ。
そんなざわめきを無視して、小隊は出発する。
ドーナの門から二十分ほど馬を走らせたところで、ドーナ帝国を囲う塀が見えてくる。
これがあるから、女たちは外に出られない。外へと通じるのは門番のある国の入り口三か所だけ。そこに平然と行って、出られるほど楽ではない。
ラディーヌだけなら、門番を殺して出られるかもしれない。だが、ラディーヌにはこの国でやるべきことがある。
自分の前を歩く五人の男たち。
普段はふざけていることが多いのに、戦闘に行くとなった今は驚くほど静かだ。
誰もが顔つきが違う。意地悪なカータレットも、柔らかなアロースミスも、元気なミドルトンも、今は精神を集中させて、口を結んでいる。
緊張感で肌は張り、頬を撫でる風は夏が近いにも関わらずどこか冷たい。
やがて門を潜り、ドーナの外が見えてくる。
今まで、草原以外の場所を知らなかった。制圧戦争で初めて自分たち以外の場所に住む人間を知り、初めて故郷の外に出た。
それからまたドーナに閉じ込められて一か月。
世界を見るのは、これが二度目だ。
ドーナの外は、草原ではなく抜き身の地面が続いている。荒野とは違うが、だが植物があまり見られず荒廃した印象をうける。
少し地面を見れば、焼け跡と栄養となった大量の血がこびりついているのが見えた。
目の端にときどき、回収しきれなかったのであろう、どこの国の者かもわからない死体が転がっている。
この場所は、戦争のときから時が止まっているのだ。
これが、制圧戦争の残したもの。
これが、かつてドーナが蹂躙した証。
一か月程度で戦争の傷など癒えるわけがない。だがあまりにもそのままに残されている姿に、ラディーヌは故郷を重ねて気分が悪くなる。
けして、酷いという感情ではない。憎しみだけが際限なく溢れ出る。
勝つための戦いであったものを、ラディーヌはけして卑怯とは思わない。ただドーナが強かった。それだけだ。
しかし何もかもを奪われた、それはどうしようもなく憎かった。
あの日、なにもわからぬまま降ってきた炎の雨。
わけもわからず、ただ命がけで戦った。どうにかして女子供を守ろうと奮闘した。
しかしたった三世帯かそこらの部族に、数十人という兵が突然襲い掛かってきたのだ。
大男以外の者は、なんなく倒すことができた。あれはきっと、小隊以外から呼ばれた兵だったのだろうと、今では思う。
だが小隊だけは圧倒的だった。
ラディーヌたちはいつだって、牛たちを狙う野生動物たちと生と死を共にしてきた。
人間一人に比べれば、獣一匹の方が何倍も恐ろしい。そんな彼らと戦い、共存し、生きてきたのだ。
けれどそんな生活をしてきたラディーヌたちでさえ、小隊には勝つことが出来なかった。
あのとき軍の戦闘を率いていたラグダッドたちさえいなければ、ラディーヌは、兄は、仲間は、けしてこんな悲劇に見舞われずに済んだだろう。
ラディーヌは確信していた。彼らさえいなければ、ラディーヌはなにも失わずに済んだのだ。
ラグダッドたちはこれを見てなにを思うのだろう。
かつて浚った少女を前に、彼らはなにを思うのだろう。
その心はわからないし、わかりたくもなかった。
先頭のスチュアートが止まる。
それに続いて順に止まれば、目の前には百人ほどの、さして多い数ではない男たちが溜まっている。
身なりはいいとは言えない。布を纏っただけのようなその服装から、辛くも戦争を生き延びた者たちであることは嫌でも察せられた。
ドーナの紋章を見るなり、彼らは口ぐちに叫ぶ。
女を返せ、恋人を返せ、妻を、娘を、平和を!!
ラディーヌは彼らに加担したい想いを抑えてポーカーフェイスを決め込む。
これから彼らを殺すのだ。
浚われた女が、戦に負けた彼らを清掃するのだ。
皮肉だと思う。彼らを気の毒であるとも思う。
だが彼らはラディーヌの仲間ではない。殺すことに躊躇はなく、むしろ実戦ができることにラディーヌは高揚さえしていた。
戦うことはいつだって全てだった。昔も、今も。
慣れ親しんだ刃の重みを、ラディーヌは忘れることができないのだ。
忘れてはならないのだ、復讐のためには。
あまり質のいいとは言えない、もうぼろぼろの剣や槍を男たちが構える。
誰に命令されるでもなく、ラディーヌたちも応戦の準備をした。
アロースミスを筆頭に、順に抜いていく。
最後にラグダッドが特注の大剣を引き抜く音が、開戦の合図。
+++
それは苦戦するような戦いではなかった。
ドーナの精鋭である小隊と、生きることが精一杯な彼らが比べものになるはずがなかった。
それ故に、ラディーヌは落ち着いて彼らの力量をうかがうことができた。
もちろん、普段共に訓練はしている。手合せもしている。
だが訓練と実践では何一つ違う。本当の彼らの実力を、今までラディーヌは知るときがなかったのだ。
手始めに、一番近くにいるカータレットを横目に見る。
意地の悪い性格を表すように、彼の戦い方は獰猛だ。
獣のように、噛みつくように。
しかしそれは威嚇のようでもあり、あまり技術が高いとは言えない。
訓練のときも、男女の違いさえなければラディーヌとほぼ同じほど、もしくはラディーヌの方が上と言える程度だ。
だが、それは小隊内だけでの話。
彼の気迫と殺意は、既に疲れ切った相手にとって絶望以外のなにものでもない。けして逃げ場を与えないその気迫は、傍で戦っているだけで気がそがれてしまいそうだ。
その隣で冷淡に剣を振るうのはアロースミス。
カータレットと同期である、彼の技量は隊の中でもラグダッドの次に高い。
普段は温厚で、明るく優しげなアロースミスであるのに対し、戦闘においては冷酷ともいえる無表情で殺すことに躊躇がない。
ただ的確に相手の隙を突いて、作業のように殺していく。戦闘とさえ言えない状況だった。
うすら寒ささえ感じる。
あの恐怖は、ラディーヌは見覚えがある。きっと、戦争のとき対峙したことがあったのだろう。
「ラディーヌ、よそ見するな」
「中尉」
知らぬうちに、スチュアートが傍に来ていた。
ラディーヌの背後に迫っていたらしい敵を叩きのめしたのは、スチュアートに付いていたミドルトンだ。
ミドルトンはその大きな体で相手を圧倒し、気付けばラディーヌに集中していた敵は散り散りになっている。
彼はいつも、子供が腕を振り回しているように剣を振るう。一体を確実にしとめるのは下手だが、それを逆手に取って敵の体力を減らし味方の護衛やサポートをするのが彼の役割らしかった。
「ありがとう」
「はい! けがは!」
「ないわ、大丈夫」
「カータレット、左に回れ! アロースミスはもっと遠くを見ろ、今に詰まるぞ!」
ラディーヌたちが一息ついている間に、スチュアートがどんどんと中心に走っていく。味方の動きを注視しているのに、自分に寄って来る敵はもれなく致命傷をあたえている。
大立ち回りをするわけではない。ただ通れる程度に邪魔な草木を切り払っているだけというような滑らかな動作にぞっとした。
スチュアートは、隊の中ではそれほど強くない方なのだ。
だが誰よりも器用だ。こんな、指令を出しながら戦う器用さを誰にも真似はできまい。自分のまわりを彼は見てさえいないのだ。
そうして全体を見回していれば、ひとつ、ふたつ、と障害物が倒れて景色が開ける。
馬がなにかを踏んで一瞬よろけた。目だけを下へずらせば踏み荒らされた肉がつぶれて土へと混ざっていた。
重い馬が乗ればその皮はあっさりと果肉を見せる。中には胎の見えているものもある。
そうして馬が踏み場を探す度に地面へとのめりこみ、養分となる。
あたり一面がそんな潰れたもので赤かった。特徴的なにおいが鼻につく。
今まさに生きて、剣を交えた男たち。
それのなんと、脆いことか。
「う、うあ、わああああああああ!!」
残り五人となったところで、二人がウェルタールの方向へ逃げていく。
それを誰も追いかけなかった。
今回の目的は、ドーナ軍の圧倒的実力を見せつけることだ。そのためにはどちらにせよ、一人は逃がさなければならなかった。
一人が逃げ出せば、生き残った者たちも次々あとを追って逃げていく。
戦闘終了。それを感じて、ラディーヌたちは剣を仕舞いはじめた。
しかし。
「ひ………………――――ッ」
悲鳴を上げる暇もなかった。
逃げる男の目の前に、突然壁が現れた。
飛んでいく首が、まるで冗談のようにゆっくりと落ちていく。その表情は恐怖になりきらないまま固まっていて、処刑がいかに早かったのかを物語っている。
宙を泳いでいた首が、ぐしゃりと嫌な音を立てて地面へと転がった。
刹那、ラディーヌはなにが起こったのかわからなかった。
とても大きな壁が、なにかが、信じられない速さで現れたのだ。
初めからそこに居たとでもいうように、なんの音もしなかった。剣が空を切り裂く音だけがやけに大きく聞こえていた。
なんだ、今の。
自分が襲われたわけではないのに、背筋を冷たい汗が伝う。
感じたそれはたしかに恐怖だった。
感じたそれはたしかに敬意だった。
ウェルタール王国への道を阻むように立っていたその壁は、ゆるやかに動く。
無表情に血を拭うラグダッドが一人、自らが止めた時の中で動いていた。
+++
約百人を殺すのにかかった時間、およそ三時間。
短い、あまりに短すぎる戦闘。
たとえ向こうが農具のような寂れた武器だけで、馬も防具も持っていなかったとはいえ、こちらはたった六人なのだ。
一人ひとりの技量がいくら高くとも、こうも圧倒的な戦いができるというのだろうか。
ラディーヌは男たちの背を見ながら、恐怖に取りつかれていた。
――勝てるの? この人たちに?
獣相手に戦い続け、かなりの実力を誇っていたはずの仲間たち全員で挑んでも、彼らに傷一つつけることは敵わなかったのだ。
ラディーヌは茫然と、あの戦争のことを思い出していた。
あのときは今日のウェルタール側だった。わけもわからないまま戦闘に巻き込まれ、戦って、戦って、連れ去られた。思い出す。
あのときと同じような恐怖を。
復讐してやると、言い聞かせていままでやってきた。それでも今、ラディーヌは恐怖している。
彼らの実力を、冷静に見た瞬間怖くなった。
自分より大きな彼ら。自分より力の強い彼ら。自分より素早い彼ら。
どんなにラディーヌが技術に秀でていたとしても、女であるというハンデは拭いきれない。
男と対等に渡り合うために磨いたスピードとバネも、さらに上をゆく彼らには歯も立たない。
初めから怪物であるとわかっていたラグダッドに加え、ほかの全員を一人で相手にするとしたら。
限界は、見えていた。
かつてのように背中を任される仲間も、兄もいない。
怖かった。一人で立ち向かうことが。
感情だけで走っていたものが急に冷やされて胸の奥が沈む。ほんの少しの迷いが、ラディーヌを取り巻く。
立ち止まるわけには、いかないのに。
どんなに歯噛みしても、現実のみせる大きな恐怖が霧散しない。
兄さん、力を貸して。兄さん。
こいつらを、一人で殺せるだけの、勇気を。力を。希望を。
唇をきつく噛んだ。いつのまにか切れていたらしい、口の端から血が流れてくる。
冷たい鉄の味。憎しみの味。あの日味わわされた、焼ける痛みと同じ味。
負けるなラディーヌ。これから強くなればいい。
ラディーヌは思考を転換する。今勝てなくても、これから弱点を探っていけばいい。そのために軍に入ったのだ。忘れるな、やつらは敵だ。
先を走る、男たちの背を見る。
一仕事終わったと、歓談しながら走る彼らを睨み付ける。
見ててね、兄さん。
きっと殺すわ。