レジスタンス三話

ヒールの耳障りな高い足音がこだまする。

靴擦れも、息苦しさも、胸の痛みも全て無視して、ひたすらに女は走る。もう足は限界だった。それでも止まることは許されない。

捕まったら終わりだ。今度こそ。

狭い路地裏はドレスで走るには幅がない。あちこちにひっかけて、その裾は見るも無残な姿になっている。

背後から怒号が聞こえる。そして女の悲鳴も。

ドーナへ連れてこられた女を目当てに、人買いたちが走り回っている。それを聞きながら、彼女はひたすらに逃げた。もう二度とあの場所へ戻らないために。

「くそ、しつこい……っ」

ドレスのすそを、足が見えるほどに掻き抱く。いっそ破けたらいいのに。さらにヒールを脱ぎ捨てて走り続ける。土と埃のまじった地面の感触は気持ち悪い。けれどさっきよりずっと走りやすくなった。

けして捕まるわけにはいかない。ようやく、あの娼館から出る希望が掴めたのだ。

逃げろ、初めての希望を勝ち取るために。

「逃がすな、追えっ! 上玉だ!」

かなり長い距離を走ってきた気がするのに、人買いたちも諦める様子はない。少し後ろを振り向けば、初めより距離が近くなっていることに気付く。このままじゃ危ない。

巻かなければ、巻かなければ。

「きゃあっ!!」

足がもつれて前のめりに倒れる。起き上がろうとして、また前に倒れた。足が、掴まれている。

その手に、寒気がした。男の顔が、にたぁ、と笑みを作る。

「離せ、離して……この……っ」

手を離そうとして腕を、振り払おうとして髪を。次々に伸びてくる腕が、女を拘束していく。振り払うことができない。ただ痛みだけが体を襲う。

どうして自由になれないの?

どうして神様は助けてくれないの?

目の前が涙でぼやけはじめる。暴れる体はそのまま持ち上げられ、とうとう逃げることが叶わなくなる。

嫌だ。もう戻りたくない。男の相手なんてもうたくさん。

やっと、外に出れたと思ったのに。

「離して……いやぁ――――――――!!!」

+++

+++

軍への入団を希望したのは一か月前。

女の身でありながら髪を短く切ったラディーヌを見て、兵士たちはなにがおかしいのか延々と笑い続けた。初めは爆笑、後に好奇。そして猥雑な思惑。

『軍に入りたいんです』

『おいおい冗談だろ? そんなちっさい体で剣が持てるって言うのかよ!』

『やめとけ嬢ちゃん、死ぬより嫌な目に合うぜ』

せせら笑いながらラディーヌを囲んでいく兵士たち。

女に剣が持てるものか。ましてや小さな少女に何ができるとでも。

見下した笑い声にラディーヌは苛立った。何度も殺そうと思ったが、それでも柄を握らずに耐えて、ひたすら軍に入りたいと請う。問題を起こして、復讐の入り口から失敗するわけにもいかない。

だからただ耐えて――――しかし馬鹿にされたままも気に食わない。ラディーヌは言い放つ。

『笑うくらいならわたしを試して。使えるようなら中に入れてください』

軍人は実力勝負。強い者が偉いのだ。

今にその笑み、恐怖の底に叩き落としてやる。渦巻く怒りを極力抑えて提案する。

兵士たちは顔を見合わせまた笑う。小娘のざれごとだと、心の底からおかしそうに。

『いいぜ、まずは俺からだ』

にやにやと笑うその顔が、驚愕に変わるのはそう遅くなかった。

カキン! と剣と剣が交わった瞬間、空中に舞い上がる。それはラディーヌのものではなく、兵士の。

手持ち無沙汰になった男の腹を蹴りつけて、「もう終わり?」と他の者を扇動する。

大した実力もないのにプライドばかりが高い男たちは、ラディーヌの挑発にあっさりと乗った。そしてことごとくに敗れた。

一人は、まず剣を交えるまでもなく倒された。

一人は、剣を吹き飛ばされ戦力を失った。

一人は、力比べの後に体勢を崩され倒れた。

男たちの表情からは余裕が消え、恐怖を持ってラディーヌを見上げる。それを見下ろして、ラディーヌは快感さえ覚えた。大男に植え付けられた恐怖心と折られた自尊心を修復することができたのだ。

わたしは強い。そう認識しなおして、しっかりと背筋を伸ばす。

あの大男を殺せるだけの実力を、ちゃんとわたしは持っている。

『わたしを軍に入れて』

短く命令する。早く、と急かすと一人が慌ただしく城の中へと駆けて行った。

「次。アディス」

「はっ」

そうして今、ここにいる。

二メートルほどの背丈の大男の前に立ち、ラディーヌは剣を構える。彼を相手に稽古をしはじめて一か月が経った。

ガラス玉の目をした感情のない大男――――パディ・ラグダッド少佐は、その無表情でじっとラディーヌを見つめる。いつでもしかけてこい、と言うことだった。

とん、と一歩踏み出した瞬間、ラディーヌは大男の側面へと回る。訓練用の刃を潰した剣をその脇腹めがけて突き出すも、ゆったりとした動きで防がれた。しかしめげずに、今度は背後へと回って首めがけて振り上げる。ラグダッドは表情も変えないで、一歩後ろに下がるだけ。

この大男は、自分から動こうとはしない。

最小限の動きで全ての攻撃を防いでみせる。それは怠慢なのではない、絶大な余裕だった。

ラディーヌの自慢は突出した素早さ。力では男に敵わないからこそ、攻撃される前に終わらせるのがラディーヌの戦い方だった。

今まで、それで負けたことは滅多にない。

あまり勝てなかった兄相手でも、苦戦を強いるほどには有用だったのだ。しかし、ラグダッドは表情一つ変えずに防いでしまう。

歯が立たない。

ぎり、と歯ぎしりをしてまた側面に回り込んで切りつける。これもまた、緩慢にさえ見える動きで阻止されてしまう。どうしてこの男には、ことごとく剣を封じられてしまうのだろう。

こんな訓練は一か月、ずっと続いていた。

もちろん走ったりすることも多い。しかし剣技を磨く訓練はいつも、ラグダッドとの手合せばかりだ。

そしてそれに、誰一人勝ったことはない。

小隊の中でずば抜けて大きな体はもちろん優位だ。そしてそれ以上に、絶対的な実力の差があった。この一か月、ラディーヌが見ていた中でラグダッドに傷を負わせられた者は一人もいない。体勢を崩すことさえ、誰一人できない。

それほどに圧倒的であっても、ラグダッドが実力の一割も出していないことなどわかっていた。

きき、と剣が擦り合う耳の痛い音が鳴る。父と娘ほどある身長差はあまりにも不利だ。それでもいつか殺すために、ここで一つでも傷をつけられるようにならなければならない。

とにかくその一心でラディーヌは食い下がる。汗で滑る柄を握り直して、ラディーヌの二倍ほどの太さもあろう手首めがけて振り落とす。

「っきゃあ!!」

びりっ、と痛いくらいの衝撃に腕の力が抜け、その手から剣が飛ぶ。

今まで動きの緩慢だったラグダッドが、なにをしたのか一瞬わからなかった。痺れる手を見つめてから、吹き飛んだ剣を眺める。

それまでの気迫が全て抜け落ちたように茫然と口を開いて、ラディーヌは目を見開いたまま状況を納得する。

剣が、飛ばされた。

当たり前すぎるその事実を理解するのに時間がかかった。なにもなくなった手の中と剣の落ちた場所を見比べて、ようやく腑に落ちる。ぐっと手のひらに爪を立てて歯を食いしばった。またこれだ。

ラグダッドとの訓練はいつも意味を成さない。軽く剣をすり合わせて、一定の時間が来るとこうして剣を跳ね上げられて終わる。こちらは全力で行くのに、ラグダッドはおそらく実力の十分の一も出していないのだろう、それは初めに手合せをしたときからわかっていた。そして一か月経ってもなお、引き出される実力は変わらない。それはラディーヌが何ひとつ強くなれていない証拠だった。

理解すればするほど、腹が立つ。

自分の実力には自信がある。それは数度行った他隊の兵との手合せでも証明されている、どれもラディーヌの圧勝だった。故郷でラディーヌに勝てたのは兄くらいのものだったし、どんな獰猛な獣が相手でも負けることはなかったのに。

プライドの軋む音がする。

「アディス、並べ」

ラグダッドが短く命令する。ラディーヌは不満も隠さずに睨め付けて、跳ね飛ばされた剣を拾う。乱暴に鞘に納めて隊列に戻ると、隣に立つくすんだ金髪の男がくすくすと笑っているのが聞こえた。

苛立ちを交えて見上げると目が合った。目つきの悪いくすんだ金髪の男、バーニー・カータレット伍長は嫌なからかいの笑みでラディーヌを見下ろして、小さく「おつかれ」と言ってみせる。不機嫌なところに追い打ちをかけられた気分でラディーヌはさらに眉間のしわを深くした。「どうも」と一応言うも棘のある声は隠さない。

意地の悪いカータレットはその返しににやにやとした笑いを酷くさせる。訓練に集中したらどうですか、と釘を刺してみるが俺の番じゃないしとカータレットは気にするそぶりも見せない。カータレットはラディーヌの一つ前に順番が終わって退屈だったのだろう。 できるだけ無視しようと、今は隊で一番若いエルヴィス・ミドルトンがラグダッドに立ち向かっているのに目を向ける。

ラグダッドの甥だと言うラディーヌより年下の青年は、ラグダッドに似た巨躯で剣を交える。ラグダッドには及ばないとはいえ一九〇センチをゆうに超える身長を持つため、ラディーヌのように体格差で圧倒されるということはまずない。

しかしこうして見ているだけでも、ミドルトンが勝てないことはすぐにわかった。

無駄に大きな腕の振りやがむしゃらに動くせいで荒れる息、正面突破しか知らないような稚拙な剣技。これじゃ無理ね、とラディーヌは内心ため息をつく。無理もない、ミドルトンはその体躯を持ってしてもラディーヌに負けるのだ。ラグダッドに勝てるわけがなかった。

ミドルトンから、ラグダッドへと視線を移す。ミドルトンの動きの稚拙さはともかく、その力はかなりのもののはずだがラグダッドは顔色一つ変えずにあしらっている。その様子は遠い昔に兄から聞いた、闘牛というものに――――見たことはないが――――に、似ている気がした。布に向けて突進してくる牛が頭突きをする直前に布を引くという、単純ながら命のかかった遊戯。クルクルと立ち位置を入れ替えては、ミドルトンをあしらっている。当然ラグダッドは傷一つついてはおらず、ミドルトンが疲弊していくばかりだった。

――――こんな訓練に一体なんの意味があるんだ。

思わず頭をよぎった疑問に、またラディーヌは眉を寄せる。

別に詳しく剣技を教えてもらえるわけでもなく、ただラグダッドと剣を交えるだけの訓練。無益だとは言わないが、これだったら他の人に教わった方が強くなれる気がするのだ。

どんなに見ていてもラグダッドの弱点一つわからないのだから、なおさら意義が見いだせない。

それに、剣を交えるたびに勝てないんじゃないかと言う想いがこみ上げてくることに怒りも感じるのだ。

圧倒的な力の差を感じれば感じるほどに、自分のしていることは無謀なのではないかと思ってしまうことに怒りを感じる。

カーン!!

剣が高らかに空を舞う。

「あっぶね」

「……っと」

ざっとカータレットとラディーヌは間を空けた。くるくると回った剣は綺麗に地に突き刺さり、さっきまで二人の立っていた間に綺麗な亀裂を入れた。

危なげなく避けはしたものの、耳元を通った剣の空を切る音にその重量の違いを自覚して寒気がする。ラディーヌの剣はいわゆる少年兵用の特別軽く小さい、あまり実践向けではないものだ。対してラグダッドやミドルトンの剣はその背に合せて重量もありラディーヌの体より太いのではないかと思ってしまうほどに大きい。

細い剣と太い剣。強さで言うなら、当然。

努力で覆せない差を見ると、自分が女であることが恨めしい。

「おつかれエルちゃん」

「ちゃんはやめてくださいよー」

ミドルトンが突き刺さった剣を抜く。その顔はすがすがしいほどで、汗はさわやかささえ感じさせる。負けるのが当然と言うように笑って冗談を流して見せるその態度はプライドがないのかとさえ思ってしまう。この中で、ラグダッドに負けてイライラしているのはラディーヌばかりだ、いつも。

「お前ら、話をやめろ」

生真面目な一声に隊員が黙る。

息一つ乱さないラグダッドの隣に立った壮年の男、アシュリー・スチュアート中尉は当たり前のように隊をまとめる役を買って出る。無口なラグダッドは滅多に指揮を取らない。剣技ばかりで他のことはあまり上手くないのだろう、本来隊長がするべき仕事のほとんどはスチュアートがやっていた。

生真面目な性格の彼の指示は素早く的確で、あるべき立ち位置にいるだけなのだと言うことはラディーヌにも入ってすぐにわかった。どことなく、父や兄と立ち姿が似ている気がして。

「このあと昼を挟んでから街の巡回に当たる。場所と組み合わせは――――」

行き場のない怒りを地面に向け、スチュアートの話も上の空につま先で地面をえぐる。ざく、ざく、と深くなっていく土を見ていると少しだけ気持ちが落ち着いた。土と一緒に苛立ちもえぐり出しているようで。

「アディス、土掘ってないで話を聞け」

「すみません」

見咎めたスチュアートに怒られる。ぱっと足を揃えると頭上からくすくすと笑い声が聞こえた。カータレットだ、性格の悪い。せっかく落ち着いてきた怒りがまたゆっくり炊き出される。人を苛立たせる技術は特一級だ。

真面目になれる時あるんだろうかこの人。

「アディスは少佐と一緒に中央道を――――」

「えっ!?」

「なんだ」

「なんでも」

なんでよりにもよって。

内心苦々しい想いでスチュアートを見返す。二人きりになったらそれはそれで、ちょっと辛いじゃないか。相手は無口でなに考えているかわからない、大きな木みたいなラグダッドなのに。二人きりで歩くだなんて、考えただけで息が詰まりそうだった。仇を討つにも中央道は一番人通りの多い場所で、下手なことはできないし。

「えー、ラディーヌと組むの俺じゃないんですか中尉ー」

「お前は俺とだ。わがまま言うな、アロースミス」

「ちぇー」

その通告にゆったりとクライヴ・アロースミスが抗議する。その口ぶりは当然本気ではない――――が、彼は妙にラディーヌを気に入っていて、たびたび一緒に行動したがることがあった。性格は非常に温和でのんきな性質であり、ラディーヌとしても一番一緒にいて気が楽なのだが、こうして決定されてしまった以上変えることはできない。

一瞬、ミドルトンの方からいいなぁという声が聞こえた気がして、いっそ交換してくれたらいいのにとラディーヌも思う。

「……おねがいします」

「……ああ」

ラグダッドに一礼すると、地を振るわせるような声で一言返事をして、すぐに背を向けられる。その歩幅は大きく、ラディーヌはやや駆け足でその後を追った。

+++

中央道。城の正門から出たところにまっすぐ通る、ドーナで一番大きく整っている道だ。国から出る門までずっと続いていて、城から少し歩くとドーナでも有名な市場と城下町がある。それを教えてくれたのはカータレットだ。

ラディーヌの歩く速さをまったく考慮せずにずしずし歩くラグダッドの背中を必死に追いながら、少し先に見えてきた人だかりを見る。ぱっと見て女の姿の目立つ城下町は、これだけ見れば平和のように見える活気があった。しかしここが危険な国であることは変わらない。本当の姿はもっと夜遅くに現すのだ。

ここに来れば女が犯せる。

そんな噂が流れているのか、単に戦勝国で生き延びたいのか、この一か月入国者が多かった。そのせいで治安が悪化したらしく、こうして兵士が見回る回数が増えた、という。今日はラグダッド小隊と、もう一つ別隊が見回る日だった。

しかし見回るのは昼間だけだ。夜になれば警備は城と門だけに集中して、街は無法地帯となる。仕事を終えた兵士や、不正入国した者や、女を扱う商人や、そんな男たちが一斉に、女を捕らえる。

見回りをしたときに、血と精液にまみれて女が死んでいるのを見つけてしまったことがある。あるいは性交中に反抗されて死んだらしい男を見つけたことがある。

この国はそういう国だ。

「少佐、待ってください」

「……」

「もう少しゆっくりお願いします」

駆け寄っては離されるのを繰り返して、いい加減疲れて声を上げる。体力がないわけではないが、こうもずっと走らないといけない状態で一日中見回りをしないといけないのは辛い。

しかしラグダッドは止まることもせずに大股で歩いていく。この調子で人ごみに入られたらすぐにはぐれてしまいそうだ。

手を伸ばすか。逡巡して、伸ばしかけた手を止める。この男に頼るなんて絶対に嫌だ。

伸ばした手を握って走る速度を上げる。これも鍛錬のうち、これがラグダッドを殺すための糧になるならいくらでもやってやろう。

やがて二人の前に商店街が現れる。そこは質素な服の貧しそうな女から、比較的裕福そうな女まで、多くの国内国外の女が溢れる場所だった。城の方に向かう道はほとんど人通りがなく、時々城へ荷を運んだりする馬車が通るばかりであったが商店街の入り口を示す門飾りの向こうはまるで魚の卵が孵化している最中のように人々が蠢いていた。

故郷の閑散とした大平原を見慣れているせいで、ラディーヌはこの光景がやや苦手だった。必要なものも最低限しか買いに来ないで、できるだけ避けているくらいには。一体どこからこんなに人が湧くのだろうといつも思うのだ。

特に、人ごみを歩くのは苦手だった。流れに負けて思うように目的地にたどり着けず、無意味に体力を消費するばかりでなにも手に入らない。そんなことをラディーヌは来るたびに繰り返していた。

本能的に速度を落として、商店街に対して身構える。それにラグダッドは気づかずに、変わらず女の道を突っ切っていった。

女たちはラグダッドの異質な雰囲気にさっと道を開ける。そのためラグダッドはなににも邪魔をされずに、どすどすとあたりを見回しながら歩いて行ってしまう。

「あ……少佐!」

速度を落として空いた距離に、女たちが押し寄せる。手を伸ばしてももう届くはずもなく、通りすがりの女に触れそうになって引っ込めた。

分断された。

意味もない絶望感が押し寄せる。やっぱり手でもつないでもらった方がよかった。

人ごみの中、ラディーヌは思わず立ち止まる。まるで孤独になったかのような空虚感がラディーヌを襲う。女たちはラディーヌが見えないかのように避けて歩き、それがなおさら閉塞感を強めた。

慣れない土地に、ただ一人。

追いかけようにも、人ごみを歩くのに慣れないラディーヌには無理な話だ。追いつくより先に陽が暮れることだろう。城に戻ろうにも、商店街の入り口は気が遠くなるほど向こうに見えた。全部人のせいだ。

「どうしよう……」

人の流れが途切れない光景は、背の低いラディーヌにはまるで壁が押し寄せてくるようにさえ思えた。恐怖とさみしさがこみあげてくる。

ああ、ここに兄さんがいたら、きっとわたしを助けてくれるのに。

せめて誰か、いてくれたら――――。

「ちょっと退いて――――――――!!」

「!」

くらくらと熱と人にやられているのを、甲高い女の声が引き戻す。

それを引き金にどっと人がはけていき、先ほどまでは隠れていた脇道が現れた。一瞬で人の消えたことに追いつけなかったラディーヌは、どしんとなにかにぶつかられたことに気づくのに時間がかかった。柔らかく、雲のようにつかみどころのない重み。

驚きながら転んだ相手を起こす。息が止まった。

美しい女だった。

並んですぐに気づく長身痩躯。切れ長の深緑の目が特徴的な大人びた顔立ち――――それが驚きにきょとんとあどけない表情をさせているのがなお愛らしい。透き通るほどに白い肌には、ゆるくウェーブした薄茶色の髪がよく似合っていた。太陽の光に溶け込んでしまいそうな、そんな雪のような美しさだった。

目があって、ラディーヌは動きを止める。女に見つめられると体中の血液が沸騰するような錯覚にまで陥った。女以外に視線が向けられない、まるでなにかの魔法のように。

女の唇が、動く。

「あんた、兵隊さん?」

思考がしびれたようにぼんやりとしていると、その美しい女はラディーヌの服装をじろじろと見て言った。なんと返していいかわからずに、ラディーヌはただこくこくと頷いて見せる。

「あ、あなたは……」

「あいつらの相手、お願いね!」

「あ、あの……!!」

勇気を出して聞き返したとたん、女はラディーヌの肩をたたいて出てきたところと反対の通りへと走り出す。引き留める暇もなく、女は路地の闇へと消えて行ってしまい、ラディーヌは茫然と伸ばした手を下した。

あいつらの、相手?

「くそ、どこ行ったあの女!」

「逃がすわけにゃいかねぇ……あんないい女、そういねーぞ」

女の去った方向を見つめていると、女が逃げていたらしい男たちが逆の路地から現れる。

そこですべて合点がいった。つまり、女は犯されようとしたのを逃げていたのだ。

まだ女の美しさへの魅力に浸っていたいのに、ラディーヌは男たちを見て地へと叩き落されたような気分になる。

さきほどの女とは、正反対の輩だった。

元は服であっただろう布きれをまとい、年単位で風呂に入っていないだろう髪はほつれてあらぬ方向へと飛び跳ねて、それなりに距離があっても臭いが鼻についた。息荒く雑言を口走る口は、歯が何本が抜け落ちて無残なようにも見せた。土気色の肌は、それが地の色なのか垢だか土なのかわからないほどだ。

眉間にしわを寄せて、ラディーヌは男を見る。こんな男共があの美しい女をとらえようとしていたなど、なんて身の程知らずの馬鹿だろう。

男たちはラディーヌに見向きもしないで女を探す。しゃがれた声ときつい方言で話される言葉は半分ほどしか聞き取れないが、やがて標的が周囲の女に移ったような気配は感じた。

「……ちょっと」

不快感を丸出しに、ラディーヌは低く言う。

その声に男たちはようやくラディーヌに気が付いて、きょとんと見下ろしてくる。こんな男たちの視界に入るのも不愉快だ。ラディーヌは無言で剣を抜き、すっと男たちに向かって切っ先を向ける。

状況がわからない風の男たちは、その剣に一歩だけ下がって、それからお前のような子供には重くないか、というような台詞を吐いた。

ラディーヌは返事もしないで、低く宣言する。

「ここはドーナの城下町。お前たちのような薄汚い連中は場違いであると知れ! 指一本でも女たちに触れてみろ、その指切り落としてやるぞ!」

帰れ! そう一喝すると共に男の片方の首すれすれに剣を突く。薄皮一枚切れたらしい、にじみ出る赤い血だけはたいそう透き通って輝いた。

そんな浅い傷を、まるで重症であるかのように押さえて男がわめく。しゃがれて、低くて、耳障りな声で叫び、のたうち、苦しんで、苦痛の中でラディーヌを睨み付けた。ラディーヌはそれを冷めた目で見返してやり、もう一度剣を突きつけて帰れとだけ言った。

「次は皮一枚じゃ済まさないわよ」

はっきりと最終通告をすると、男たちはゆっくり後ずさりをして、やがて来た道を走り戻っていった。男たちは丸腰で、下手に反抗するほどの意地もなかったらしい。

汚い血で汚れた剣を素振りして、ラディーヌは剣を鞘に戻す。あの男たちがいなければ、きっとあの美しい女ともっと見つめ合えていただろうに。胸に残るあの恍惚とした喜びを振り返る。もう二度と会えないだろう、あの女の美しさはまるで幻でも見ているかのようだった。あれほど美しい女が、このドーナを探して他にいるだろうか。

はぁ、とため息をついた瞬間、ラディーヌのまわりに人があふれる。男たちがいなくなったおかげで、再び時が動き出したのだ。

「しまった……少佐を探さないと」

はっと気が付いて、ラディーヌも人ごみをかきわけて歩き出す。あれほど大きい人だ、見つけるのにそう苦労はしないはずである。よたよたと人に流されながら、上を見て歩く。快晴の空が見えるばかりで、どんなに遠くにもラグダッドの頭が見当たらない。

「あの人はどこに……うひゃあ!?」

「……」

無造作に腰をつかまれて足が浮かぶ。気が付けばだれかの肩の上に、まるで俵のように担がれる。固い鎧は腹に食い込み妙に痛く居心地が悪い。だが暴れて降りようとしても大きな手がラディーヌをがっしりと押さえつけて離してくれない。

なんなんだ。混乱に振り返っても見えるのは男の頭部ばかり。しかしそこまで確認してようやく状況を認識した。ラグダッドに担がれたのだ――――しかし、一体この男はどこから出てきたのか。

「少佐! おろしてください、一人で歩けます! ていうかどこから出てきたんですか!!」

体をめいっぱいひねって後ろを向くと、右側を指す指が見えた。その先には女の走り去っていった路地とは別の脇道がぽっかりと口を開けている。大通りを迂回してきたから、ラディーヌはラグダッドを見つけることができなかったらしい。

「俺からはぐれるな」

「置いて行ったのは少佐です!」

「……」

ラディーヌは止めたのに、一人で行ってしまったことに自覚はないらしいラグダッドは、ラディーヌの叫びに黙る。戻ってきてくれたことはいいが、初めからはぐれてくれなければよかった話である。

けれどここで心細さから解放されている自分に気づいて、ラディーヌは焦る。

この人は敵でしょ、なんで一緒にいて安心してるのわたしは!

感じてしまった安心感を振り払って思い直す。どうにも人を憎み切れない自分の性分に、今はほだされている場合ではないと言い聞かせる。

この人は敵。兄さんを――――故郷を滅ぼした悪鬼。絶対に殺してここから出ないといけない、そう、殺して故郷の兄さんたちに報告してやらないといけない!

きっと心を持ち直して、もう一度ラグダッドの腕の中であがく。

「少佐、こんな状態じゃ見回りにならないんで下してください!!」

「お前は後ろを見ればいい」

「このままじゃなにか見つけても対応ができません!」

「お前のすることなどない」

ラディーヌの叫びを無視して、再びラグダッドはすたすたと歩き出す。

お前のすることなどない。――――役立たずと、ラグダッドははっきりと言う。

かっとあふれ出る対抗心にラディーヌは手のひらに爪を立てた。自分がまだ弱いことは認めよう、しかしこんな見回り程度でお荷物のように言われるのはたまらなく不愉快だった。

「たとえあなたに勝てなくても、ただの侵入者程度にわたしは負けるつもりはありません」

「思い上がるな。そして勘違いするな、お前に力がないとは言っていない。だがここでお前一人で歩くことは危険だ」

「なぜ!」

「自力でこの中を歩けるようになってから言え」

言葉に詰まる。

それを言うのは、あまりにずるい。実力のあるなし関係のないところで制約されてしまうと反論ができそうもない。たしかにラディーヌは、この商店街を一人で歩ききることなどできない。

ここまで言われてしまうと、さすがに反抗する気力も失せて力を抜く。普段見ることのない高さからの景色は壮観で、そしていつ落とされるかわからない浮遊感が怖かった。

ごつごつした鎧の上に肘をつく。妙なものを見る目が刺さって痛い。

絶対、殺してやるんだから。

ほとんどむくれるような形で、ラディーヌはそう言い聞かせた。

+++

「はぁ……。まったく驚いた」

ため息を一つ、美しい女はついた。

憂いを帯びたその瞳はけだるそうに伏せられて、形の良い桃色のルージュの塗られた唇はすねるようにとがっている。たったそれだけの動作でも、女はあまりにも美しかった。

埃と土と、血と精液の混ざった路地裏は女の立つにはそぐわない。けれど、その桃色のドレスの裾が汚れることも女は気にせず、慣れた足取りであまり整えられていない路地を歩いた。彼女は誰よりも輝いているのに、その輝きを押し殺すように薄暗い路地を好んで歩いた。

仕事の始まる前に少し歩いただけで、まさかあんな妙な連中に捕まるとは思わなかったが、女は同時に気にもしていなかった。汚い男に抱かれるのは慣れたものだ。しかし逃げたのは単に金が絡まないからだった。金を払ってもらえるなら、女はきちんと抱かれてやったことだろう。

走ってきた路地を振り返っても、もう入口はかすんで見えない。偶然そこにいた少女兵に押し付けてきてしまったが、彼女はなにもされなかっただろうか。らしくもなく女は心配をする。ほんの少しの遭遇だったのに、彼女の容姿は目に焼き付いていた。

美しい蒼髪のショートヘアに、アーモンド形の金の目。ふっくらとした頬はかぶりつきたくなるほどに柔らかそうで、そして焼きたてのパンのようにほかほかとしていた。背が低く、たんぽぽのような愛らしさを持った少女兵。かわいらしい雰囲気に不釣り合いな鉄の鎧も、逆に愛らしさを強調させているように見えた。

自分よりずっと小柄で華奢なように見えたのに、その腰には背にそぐわない大きさの剣がぶらさがっていた。あれでいて強いのだろうか、興味が湧く。

以前相手をした客はこう言っていた。

――――ラグダッド小隊に、どうやら女が入ったらしい。それは大層かわいらしい、背の低い少女だそうだ。

特徴はこうだった。蒼い髪に金色の目。背は低く幼げである。まさに、さきほどの少女兵にぴったりだった。

あの話が本当なら、絶対に戦力になるわ。

口の端を釣り上げて笑う。確実な戦力になるのなら、引き込まない手はない。

「また後で会いましょう、兵隊さん――――」

小さく呟いて女は前に現れた館の扉を押した。

その先には、思い思いに着飾った蝶たちが閉じ込められていて――――。