聖痕十五話
「聖痕保持者を解放するんだよ」
なんでもないようなことのように、赤い帽子を脱いだ彼女――――崎守愛が言う。
聖痕保持者でもないのにシスマに入り込んだマナの目的。
それはわたしには理解のできないものだった。
怪物を檻から解放して、誰が得をすると言うのだろうか。
「そんなこと、してどうするんですか!」
「ここに入れたくない人がいるの。ユイちゃんたちのためじゃないよ」
あの人のついでに出してあげるってだけ。
マナの野望の吐露に混乱は収まらない。
「ユイちゃんたちみたいなただの子供とは違う。あの人は……睦月様は、こんなところに来ちゃいけないの。だってあの人はいずれ社会を担う人なんだから」
「その、……睦月様っていうのは、誰なんですか?」
「ユイちゃん。朋鐘調剤株式会社って知ってる?」
「な、なんです、それ……」
「まぁわからなくてもいいよ。とりあえず大きな会社なんだけど」
突然漢字を羅列した会社名を言われて戸惑う。
どこかで聞いたことがある気はするが、正直会社名なんて気にしたことがない。名前から察するに、薬を作っている会社なんだろう。
「睦月様は、その会社の社長の子なの。頭がよくて、やさしくて、将来跡を継ごうとたーくさん勉強をしててね」
薬でいろんな人を助けようとがんばってる、素敵な人なんだよ。
マナのその説明は、なんだか恋人でも紹介するようだ。その嬉しそうな顔を見て、聞いてて少し恥ずかしくなる。
ただの紹介なのに、のろけでも聞いてる気分だ。
「それで、その社長の息子なんかと、マナはなんの関係が」
「だってわたし、あの人の恋人だもん」
「えっ!?」
「冗談。でも側近って言うのかな……秘書みたいなものだよ」
ちょっと事情が複雑なんだけどね。マナが笑う。
シスマの外にいた頃のマナの立場がよくわからなくなる。
お嬢様だったのだろうか。でも秘書だと言っているし。しかしお金持ちの家にいたのは間違いがなさそうだ。
「なんか難しそうな顔してるね、ユイちゃん」
「そんな顔にもなりますよ……」
「じゃあもう少し話そうか。少し長くなるんだけど」
にっこりとマナは微笑んで、語る。
+++
マナは元々、資産家夫婦の娘だった。
高級なマンションに住んでいて、普段仕事でいない両親の代わりにいつも家政婦がいた。両親とあまり会えないことを、不満に思ったことはあまりない。
通っていたカトリック系の私立校は、社長の子供や、政治家の子供など、格式高い家の子供たちが集まっていた。
朋鐘睦月――――調剤会社の息子である彼と会ったのもその学校である。
「おまえ一人なのか? じゃあ俺とくもうよ!」
引っ込み思案であまり友達のいなかったマナ。二人組を組むときなどは必ずと言っていいほどあぶれていた。そんなとき、睦月が声をかけたのが全ての始まりである。
小学三年生のとき初めて同じクラスになって以来、二人はなんとなく一緒にいることが多かった。睦月には友達が多くいたが、それでも睦月はマナといることを選んでいた。
男と女が常に一緒に行動をするというのは小学生の間では奇妙な噂になり、幾度も冷やかされ、マナは苦しくなったことが何度もあった。
しかし睦月は恥ずかしさにマナの手を離すことはせず、ただ大丈夫といつも笑ってみせる。
「むっくん……」
「言わせとけよあんなの! あいつら、じぶんが好きな子と話せないからってすねてるだけなんだって」
「むっくんは、いやじゃない? わたしといっしょにいて、つらくない?」
「なんで? 俺はおまえといっしょにいるの好きだよ」
時折不安になるマナの問いにいつも睦月は笑顔で答えた。
それでも睦月も恥ずかしさがあったのか、自然と教室では話さなくなっていった。こっそりメールをして二人きりで会うことが、小五あたりから増えた。
その特殊さに、マナはいつもどきどきしながら会っていた。なにをするでもなく、ただ一緒にいたくてしかたがなかった。
昔も今も、告白したことはない。
時々話す事が無くてお互いに無言のこともあった。からかわれるのが嫌で、学校で一緒にいることも避けた。
それでも少しでも一緒にいようとしてくれる睦月のことがマナは好きだった。
しかし、一緒にいられなくなるような事件は、起きた。
「パパとママが……!?」
「落ち着いてください、お嬢様。まだ、まだわかりません……!」
小学六年生の頃のこと。マナの両親が交通事故で亡くなった。
両親の乗った車が後ろからトラックに追突され、運転手共々即死だったという。
原因はトラックの運転手の飲酒だった。あまりにもありきたりすぎて、恨む心も湧かなかったのを覚えている。運転手は人を殺した事実に動転していて、すぐに謝罪をしてきた。
事故現場はそれは悲惨なものであった。
もはや原型を留めていないポルシェ。トラックの前方はへこんでいたものの、運転手は打撲程度で済んだという。
ポルシェの周りはおびただしい量の血痕が染み込んでいた。雨を吸った時とは違う黒を示すコンクリート。車内はどす黒い赤に塗りつぶされ、その中でガラスの破片が陽の光に輝いていた。
清々しいほどに潰されたその現場に、もはやなにも感じられなかったのをマナは覚えている。
両親の死についても、死体ではなく骨で見たせいか、ひどく現実味がなかった。
生々しいものを全て取り除かれたその後には、本当になにも残っていなかった。
事件の処理は警察や弁護士、それから家政婦に任せ、問題になったのはマナの処遇。
既に両親の祖父母は他界済みであり、両親には兄妹もいなかったために、引き取り先がいなかったのだ。
莫大な遺産を背負ったマナを、誰が引き取るのかというのがその界隈では注目されていた。
両親と付き合いの深かった者が幾人か名乗り出たが、人見知りの激しかったマナが他人の家に行くのを嫌がったため、結局は孤児院に行くことに決定したのだが。
「学校、やめないといけないの……」
「な……っ。なんでだよ、別にやめなくてもいいじゃないか!」
「だって、パパとママのお金だけだとそのうち学校に通うお金なくなっちゃうの! わたしだってイヤだよ!」
それは結果的に、睦月と離れなければいけないことになる。
泣きじゃくるマナと、抱きしめ苦い表情をする睦月。
変わらずメールは出来たとしても、行く先である孤児院はマナたちが暮らす場所よりもだいぶ離れた土地にあった。
この先容易に会えなくなる。そのことが二人を苦しめた。
「やだ、やだよむっくん……。会えなくなるなんて……」
「そんなの俺だって……。――――そうだ」
マナが俺の家に住めばいいんだ。
そんな子供の思いつきは、なぜかあっさりと受け入れられた。住み込みの家政婦として、マナが起用されたのである。
学校は結局公立校へ転校することになったものの、義務教育が終わるまでは通わせてもらえることになった。
そのことに二人はひどく喜んで、そして片時も離れることを嫌がった。睦月の親も、二人の仲の良さを知っていたため、自然と睦月付きのようになっていった。
しかし悲劇はそれだけでは収まらない。
+++
それは昨年の冬。
立場が変わったのにも慣れ、家政婦が板に付いてきた頃。睦月とマナ以外、誰も家にいない日だった。いつも働きに来ているお手伝いさんも、子供が風邪をひいたと言って休みだった。
冬休み中だったため、必然的に二人は家の中で二人きり。
滅多にないシチュエーションに少し浮かれながら過ごしていた昼下がり、一人の来客によって全ては壊れた。
『こんにちは。安達ですが、朋鐘幸宏様はいらっしゃるかしら?』
「申し訳ございません。旦那様は現在会社の方へ……」
『そう。じゃあ睦月くんはいらっしゃる?』
「睦月様でしたら、お部屋にいらっしゃいますが」
艶やかな雰囲気のある妙齢の女が、睦月の父を訪ねに来た。
数こそ少ないものの、彼が特別親しい友人を呼ぶことはあった。しかし、マナはこの女を見たことがない。
あまり品のある女とは言いがたかった。真っ赤な口紅はどこか娼婦のそれを思わせ、髪も茶色く染めている。
服装はスーツだったが、それでも隠しきれない“遊んでいる”雰囲気。
妙だ。そうは思うが、旦那様の客ならば追い返すわけにもいかない。睦月の存在を知っているなら、きっとプライベートなつきあいのある方なのだろう。
そう判断して、マナは睦月の部屋へと女を通した。
それから睦月の部屋で断末魔が響いたのは30分後だ。
「睦月様っ!?」
「来るな!!」
頼む、来ないでくれ、マナ……。
弱々しい彼の声。薄く開いた扉の向こうからは、言いようのない特殊な臭いが漏れてくる。
鼻につんとくるようなそれ。鉄の錆びたような。
「睦月様……」
「頼む、見ないでくれ。でも、そこにいてくれ。俺、どうすればいいんだ、マナ。どうしよう……っ」
狼狽しきった様子に、なにがあったのかマナも不安になってくる。正体不明の臭い、混乱した睦月の声、消えた女の存在感。
そうして、わけもわからず10分ほど扉の前に立ち尽くしてから、そっと扉の隙間を覗く。
赤。
まず、それが目についた。
量は多くない。けれど赤黒くフローリングにこびりつくそれはすぐに目に入った。
ゆっくりと扉をずらしていくと、次に肌色が見えた。
血色のない、生白いそれ。酷く質感が生々しく、重量が感じられた。腕に、見えた。
音もなく開く扉に、睦月は気づかないままうつむいている。
「むつき、さま……」
包丁を持って、睦月は部屋の真ん中で膝をついている。
その足下には、わき腹から血を流し倒れている客人の女。
フローリングに流れた血は少し乾き始めている。
「どうしよう、おれ、俺」
「むっくん」
「来るんじゃない!」
駆け寄ろうとしたマナに睦月は釘を刺す。
蒼白な顔色で、体は一切動かさない。
俺が、片づけるから。消え入りそうな声でそう言って、あくまでもマナを遠ざける態度を一貫した。
どんなに混乱をしても、マナを守るその態度を揺らがせないことに、マナはさらに不安が募る。
言葉づかいを間違えると一番に指摘した彼が、あだ名で呼んでもなにも言わない。
「どうしよう、マナ……。俺、人、殺して」
「むっくん……なんで」
「わからない。襲われたんだ。身を守るのに必死で、だから、だから」
これは後に知ったことだが、女は睦月の父の愛人だったという。捨てられた愛人が、私怨で子供を殺しに来た、なんとも単純な話だった。
しかし問題なのはそこではない。
「どうしよう、俺、聖痕が……!」
睦月が怯えているのは自分の犯した罪についてではなかった。
睦月の震える右手の甲。まるで入れ墨でもしたかのような、文様。
それがなんなのか、この国の人間な察しが付く。
「……!!」
「い、いやだ、嫌だ嫌だ嫌だ。あそこに行くのか。ここまで必死にがんばってきたのに、これじゃ、これじゃ」
混乱に同じ言葉ばかりを彼は繰り返す。
周りに気を配っている暇などなさそうなのに、マナが近づこうとすると決まって来るなと叫んだ。
むせかえる血の臭いに、マナは自分の思考がどんどん明晰になっていくのを感じる。
その言葉は、自然と口についていた。
「むっくん、大丈夫だよ」
「マ、ナ……?」
「大丈夫。わたしが、助けてあげる」
+++
「だからわたしが代わりに来たの。睦月様の身代わりに」
「そんな、めちゃくちゃな……」
長いマナの話が終わってなお、わたしのマナへの認識の霧が晴れない。
好きな人のために、普通こんなところに来れるだろうか。
誰もが恐れ、気味悪がるシスマなのに?
「ここに来るのは簡単だったよ。死体はちょうどあるし、指紋はわたしのべたべたーっとつけてあげればよかったし。ああ、適当に買収もしたっけな。結構管理ずさんなんだね」
「……どうしてあなたは、そこまでできるんですか」
「なにが?」
「ただ好きってだけで、どうして罪を肩代わりまでできるんですか」
なんでもないように語るマナに寒気がする。
だって、わたしならできない。いくら好きでも、その罪ごと愛するなんて。その罪を肩代わりまでするなんて。
マナは笑みを解こうとはしない。
「睦月様はわたしの恩人で、親友で、恋人で、尊敬してる人なの。わたしみたいな役立たずより、あの人が外にいるべきなのは当然じゃない。馬鹿女の策略のせいで睦月様がこんな檻の中に入らないといけないなんて、それこそ世の中がどうかしてる」
マナの語りは止まらない。
「でも肩代わりじゃ応急処置にしかならないでしょう? だから睦月様が排除されかねないこの構造をなんとかするの。あなたたちみたいな役立たずでも、捨て駒くらいにはなるもんね。光栄でしょ? 睦月様のおかげでシスマから出られるんだよ」
目が、本気だった。
ぞっとする、というのはこういうことか。理解ができない。
その愛の大きさというか、歪み具合というか。とにかく普通とは違う。
理解できない。そしてしあえない。
彼女の中で睦月様というのは絶対なのだろう。だからわたしたちを利用してみせるし、自分さえも犠牲にできるのだと思う。
彼女の行動について、なんの感情も沸いてこないのはあまりに自分とかけ離れているからだろうか。
それともそれが無駄な努力と知っているからだろうか。
短い間でも友達だった彼女は、わたしのことを友達とは思ってくれていなかったらしいのは、少し悲しかった。
「は、はは」
「……なにがおかしいの」
「本当に無駄な努力だなぁ、って、思いまして」
ちょっとした腹いせに、マナの行動をあざ笑う。
そう、無駄な努力。このシスマから出たって外に希望なんてない。
馬鹿みたい。本当に馬鹿みたい。背負った罪を贖おうとするどころか跳ねのけようとするなんて。
マナの表情が明らかに不機嫌になっていく。
「どういうこと、ユイちゃん。冗談なんてらしくもない」
「そんなんじゃないですよ」
学校ではけして見なかった表情。眉根を寄せて、こちらをにらんでくる。
ねぇマナ。世界っていつも、希望なんて理想論をあっさりと潰してしまうんだから残酷ですね。
「そんなことしたって意味ないんですよ。だってあなたの大好きな睦月様は、社会人になる前には死ぬんですから」