聖痕九話

「おはよ~」

少し暗い雰囲気の教室にセナはいつも通りに登校する。

原因は、昨日の朝木の狂暴化だ。

授業はあまり人気でないにしろ、生徒からよく好かれている人だった。しかしそれだけではない。

あの日、朝木を殺して戻ってきたユイの消沈ぶりに誰もが驚き、そして同情をしていた。

今学期が始まってまだ一か月。そんな中もう二人狂暴化で死んでいたら、誰だって気分が塞ぐ。

次は誰が狂い、死ぬのか。

その恐怖はいつだって付きまとう。

「おす、セナ」

「おはよう、セナちゃん」

教室に入ってきたセナを若林とマナが迎える。

見回してもまだユイはいない。いつもセナより少し遅く来るからもう少し待てば来るだろうと結論づけて席に荷物を置く。

「……お前随分落ち着いてるのな」

「だって……狂暴化するのはしかたないことじゃん」

朝木の狂暴化にセナはそこまで衝撃を受けてはいなかった。今までだって狂暴化はいくらでもあった。朝木の狂暴化はその一つでしかない。

ただ、バディを自らの手で殺すことになったユイの心中を考えると胸が痛かった。

かつてバディが殺されたあの日。どれほどの悲しみにとり憑かれたか思い出すだけでも息が詰まる。

「でも、朝木先生が狂暴化するなんて……」

「マナ、ここじゃ誰がいつ狂暴化したっておかしくないんだよ。そりゃせんせが死んじゃったのは悲しいけど、そんな言葉意味ないよ」

悲しげにマナが呟いた言葉をばっさりと切り捨てる。

セナは死というものに悲しみを覚えなかった。否、覚えなくなった。

シスマに生きる人間にとってバディの死はなによりも大きなものだ。だから、それ以外の誰が死のうとそれを超える悲しみがわいてこないのだ。

感情が死んでるなと、たまにセナは思う。

「おい……言いすぎじゃ」

「ほら鐘なるよー? はやく座りなよ馬鹿林ー」

「誰がだっ!」

突っかかる若林を放置して机の中へ教科書を移す。

ちらりと見えた理科の教科書に、せんせって誰になるんだろう、と考えた。

「えーと……今日は天野が休みだな」

朝のホームルームにて、杉崎が出席確認をする。

結局あのあと待ってもユイが現れることはなく、一番右端の席は空いたままだった。

まぁ仕方ないな、と杉崎は困ったように笑う。

バディの遺品の整理のためかと思ったが、特にこれといった連絡は入っていないらしい。

セナの胸の奥がざわつく。ユイが連絡もなしに休むだろうか?

「今日の理科は朝木先生が亡くなったため自習だそうだ。来週あたりには新しい先生が来ると思う。それから――――」

杉崎の連絡の最中にセナが立ち上がる。

なんだなんだと注目する中、セナは黙って出入り口へ向かった。

「お、おい涼風! どこに行くんだ!」

「ごめん勇平! セナ帰る!」

荷物を背負い直して教室から飛び出した。杉崎が止めに入る声も無視して走る。

ユイが休みだと、連絡も入っていないと聞いて黙ってなどいられなかった。

朝木の死は、セナにとってはたくさんあるうちの一つでしかない。しかしユイにとっては誰よりもそばにいた人の死なのだ。

――――きっと、まだ泣いてる。

励ましてあげなくちゃ。そのための友達なんだから。

ユイの家の周りは、不思議なほど無音だった。

働いている子供の声も、風になびく木の音もしない、耳鳴りがしそうなほどの無音地帯であった。

「はぁ……はぁ……」

学校から走ってきたせいでなかなか息が整わない。肩で息をしながらユイの家のインターホンを押す。

無音の中に間抜けな音が響く。

一度深呼吸してから、ユイが出るのを待つ。

セナが考えた通りならまだ家にいるはずだ。

『―――……はい……』

「ユイ!?」

少し待っていると疲れたような声がインターホンから聞こえた。

ちょっと前まで泣いていたのか、その声は少し震えていた。

『セナ……なんで……?』

「サボってきた。ドア、開けて?」

『…………』

少し機械の雑音が流れた後、ガチャリという音で切られる。

そのすぐあとに扉が薄く開かれた。

まるで亡霊のようにこちらを覗くユイの目は、いつも冷静に世界をただ見ているような目ではなく、泣きつかれた子供のように不安定で脆かった。

「……セナ……」

「ユイ。……まだ泣いてたんだね」

涙のあとはまだ乾き切っておらず、目もかすかに赤い。

普段からは想像もできないほどにユイは深く傷ついていた。

「……すみません、帰ってください……」

「そんなことできないよ!」

扉を閉めようとするのを足を挟んで止める。

その隙間へ手をかけて思いっきり開くと、あまり手に力が入っていなかったのかあっさりと扉は開いた。

「そんな状態のユイ、放っとけるわけないじゃん……!」

扉を開いてユイを見れば、服も髪も昨日のまま、ついさっきまで泣いていたようにぼんやりした表情と、想像以上にボロボロだった。

いつもしっかりしているユイが、バディを亡くすとこれほどまでに弱くなるのか。そう思うと胸が締め付けられた。

「ユイ、お風呂入っておいでよ」

ただ見つめるばかりでユイは反応を示さない。

「紅茶とケーキ、作ってあげる。あまり食べてないんでしょ……?」

+++

あまりしっかりしていると言えない足取りでユイがお風呂から上がってくる。

すっかり放心状態といった様子でベットのところまで来ると足の力が抜けたように座った。

まるで別人のように覇気のないユイの様子に胸を痛めながら、紅茶をカップへそそぐ。

「はい、ハーブティーとカップケーキ。……ちょっとは口にしたほうがいいよ」

コト、とベッドの前にあるテーブルに置くがユイはただ見つめるばかりで動かない。

ケーキの甘い匂いが漂う。いい匂いのはずなのに、胸の奥に重く溜まる。

「ねぇ、ユイ。せんせが死んじゃって、悲しいとは思うけど」

なんと言っていいか迷ったが、結局思うことを口にする。

傷つけないように話すことは不可能で、励ますのに朝木の話をしないのも不可能だった。

ユイの姿に3年前の自分を重ねる。初めて自分の味方をしてくれたあの人がいなくなった時のこと。その時義姉の友人が言ってくれたこと。

変わろうと、ようやく決めたあの時のこと。

「そんなにボロボロになるまで泣いても、せんせは戻ってこないんだよ。そのまま廃人にでもなるつもり?」

「…………」

「セナもね、おねえが死んじゃった時、本当に悲しかった。本当の意味で世界で独りぼっちになった気がした」

「…………!」

「でも、ユイは違うんだよ。セナがいるよ、マナもいるよ」

かすかにユイの体が動く。バディの死による絶望感、それはユイも例外じゃなかったらしい。

うつむいているせいで髪が顔を隠していて、ユイの表情は読めない。

「ユイ、悲しいのはわかるけど、そんなになるまで泣かないで。心配でしょうがないよ……せんせだって、そんな状態になられちゃ悲しいよ……」

手を重ねて話しかける。ユイが応えるまで、何度も。

「いつまでも悲しんでるわけにはいかないでしょ……?」

そうして話しかけていくと、ようやくユイがセナの顔を見た。今にも泣きそうな顔で、セナを覗き込む。

お互い見つめ合って動けなくなる。じっとユイが口を開くのを待つ。

「セナ……」

「……なぁに……?」

「昔のことをね、思い出していたんです……」

「……昔のこと?」

少し視線を落として、ユイが話す。

「ここに来た時のこと、お兄ちゃんと会った時のこと……。あの人、昔からなにも変わってなくて……昔も今も、料理が下手で家事が下手で、不器用で、優しくて……」

「……うん」

肩によりかかるユイをセナはそっと抱きしめる。

ユイは静かに語る。涙は見せない。

「好き、だったんです」

「うん」

「ずっと一緒だって、思ってて……誰だって、狂暴化するのに。死ぬまで一緒にいれる気がしてて……」

「うん……そうだね……」

「まだ、信じられないんです……自分の手で殺したのに……!」

ユイの体が小刻みに震える。きつく握りしめた手の甲にぽた、と涙が落ちた。

セナはあやすように背中をなでて、言葉を紡ぐ。

「ん……。わかるよ、そう簡単に受け止められないよね……。今は、思いっきり泣いてていいよ。聞いててあげる……」

静かな部屋にユイの嗚咽が響く。セナはただユイを抱きしめて、それ以上はなにも言わなかった。

ユイが落ち着いてからというもの、二人はなにも話さないまま黙ってお茶を飲んでいた。

黙々とハーブティーを飲むユイを横目に見ながら、セナもカップケーキを口に含む。

うん、今日もいい出来。自分の作ったケーキを心の内で自画自賛する。

特に話すこともすることも無くなってしまったので、手持無沙汰にユイの部屋を見回してみる。支給品ばかりでセナの部屋と特に違うものはない。比較的セナの部屋より几帳面に物が整っているくらい。

カーテンは依然閉められたままで、電気もついていない部屋は薄暗かったが、電気をつける気にもならないのは二人の気分が落ち込んでるからだろうか。

「ねぇ、セナ」

「んー……?」

そうぼんやり考えていると、ユイが沈黙を破る。

すっかり涙は乾いて、少しだが目に光が宿ってきた。

「今日は、ありがとうございます」

「別にいーよぉ。勝手に来たんだし」

「喧嘩してたのに」

「関係ないよ」

泣いてたら慰めるのは当たり前じゃん? そう言ったらありがとう、とユイがほほ笑んだ。少しは元気になれただろうか。セナは来てよかったと心から安心する。

「昔を思い出してる時、少し思ったんです」

「……何を?」

「ほら、聖痕保持者がどうしてシスマに送られるのか、言いあったじゃないですか」

「……そうだね」

一週間前、喧嘩したあの日。

外への憎悪を爆発させていたせいで随分おかしなことを言ったと振り返る。

セナもわかっているのだ、頭では。自分が犯罪者であること、蔑まれて当然であること。

今更なにを言っていたのだろうと、少し恥ずかしくなる。

「昔のことを思い出していてね、思ったんです」

「うん」

「もしも今の状態が少しでも変えられるなら――――出れなくてもいい、せめて、あの蔑みの目を何とかしたい、って」

ユイは遠くを見ながら語る。

「聖痕が見つかったとき、周りの対応ががらりと変わりますよね。……とても、ショックで。せめて、それだけでも無くせたらなって」

「ユイ……。……でも、ユイが言ったんだよ、そんなの必要ないって」

あのときの内容を、しっかりと覚えている。セナの意見とは真逆のことを言い続けたユイ。

セナが反論をすると、少し困ったようにユイが笑う。

「……ええ、今もそう思ってますよ。ただ、もしも変えられるなら、――――この孤独感を味わわずに済むようになれるなら、そのほうがいいなって、思うんです……」

こつん、とユイはセナにもたれかかる。

ユイは頑固だ。それなのにこうして揺らいでいるのは、弱っているからなのだろうか。ユイの言葉にセナは戸惑う。

「ユイ……」

「気にしないでください。ちょっと、思っただけですから……本気じゃないですよ、もちろん」

とても冷静な口調で、ユイは言う。ちょっとした冗談だとでも言うようにユイはいつも通りだった。

セナがどう返すか戸惑って、少し考える時間がほしくて別の話題にすり替える。

「そ、……そーゆーのはさ、また今度考えようよ。若林とかマナとかも一緒にさ。みんなで考えた方が色々意見でるし」

「別に討論したいわけじゃ……」

「いーの! だからユイは、色んなことさっさと終わらせて学校来るの! ……寂しいでしょ」

自分で言っていて子供っぽいと感じたが、言いたかったことでもあるし問題ないと自己完結する。ユイは少し面食らってからクスクスと笑って、

「そうですね。セナが寂しくて死なないように早めに行けるようにします」

「セナちゃんウサギじゃないもーんだ」

お互いおどけてみれば、ようやく声を大きく出して笑いあう。

これならもう、大丈夫かな。

握る手は、もう悲しみに震えることはない。