聖痕十八話

絶望。

「……」

その表情に浮かぶのは、まさにそう言ったものだった。

聖痕について神田さんに聞いたことを話してから、もうどのくらい経つだろうか。

マナと睦月様は、じっと黙り込んでいる。二人並んでベッドに座り、身動きしない。

ただ、強く強く握られた手が、小刻みに震えている。

わたしは、椅子に座って二人を真正面からとらえていた。

そうして気づいていた。二人の顔が強ばった瞬間を。

『聖痕保持者は、25歳までに100%狂暴化を起こして死ぬ』

『純ヒト科と混じってしまうことが問題』

将来、社長となるのを夢見て努力してきた、睦月様。

将来、そんな彼の背中を見守ることを望んだ、マナ。

長い間夢見ていたものが、一瞬にして全て壊された。

ただ夢を叶えられないだけでなく、二人が結ばれる可能性すら奪われた。

たった一度起こった、事故のような殺人のせいで。

「……………………」

「マナ……」

何十分もの間の沈黙の末、マナの瞳から涙がこぼれた。

無表情だった。あれほど、睦月様に関して激情に呑まれていたのに、表情もなく泣いていた。

睦月様はじっと、その肩を抱く。

「……どうして、睦月様なの?」

「…………」

「どうして、将来のために、がんばっていたこの人が、奪われないといけないの?」

「…………」

「どうして、薬で多くの人を助けたいと言っていた人が、シスマに行かないといけないの?」

「…………」

「どうしてそれが、わたしじゃなかったのよぉ…………っ」

マナが顔を覆う。けして大きな声じゃない。

消え入るような叫びが、わたしの胸を抉る。

マナを抱きしめる睦月様の表情もまた、苦しいものであった。

――――トモに恨まれてるんだろうなって、ずっと思ってた。

わたしが知っている、もう一人の“生き残り”、神田さんはそう言った。

恋人がシスマに入るとは、どれほどの恐怖だったのか、わたしにはわからない。

身代わりになれたら、そんな強烈な想いは、わからない。

外になにも残してはこなかった。当時の友達は、わたしのことをとっくに忘れていると思う。

だから、わたしはシスマに特に抵抗はなく入れたのだ。しかし、マナや睦月様のように、これほど愛し合っている二人が引き裂かれる瞬間を見るのは、辛い。

なによりそれをやろうとしているのは、他ならぬわたしなのだ。

「……なあ」

「…………」

「…………俺はこのあと、どうすればいい?」

睦月様がぽつり、と独り言のように聞いた。

どう返事をすればいいのか悩んだ。遅れて発見される聖痕保持者は、どうすればいいのだろう。

前例のないそれに、対処の仕方がわからない。

「……とり、あえず」

「…………うん」

「…………警察に、聖痕を見せれば、あとは向こうがやってくれると、思います」

途切れ途切れに方法を提示する。

マナの嗚咽が、止んだ。

「……そっか」

「……わたしは、いけないので、一人で行ってもらうことになりますが……」

「ああ、ありがとう」

マナの頭を優しく撫でる。

「…………――――っ、行かないで!」

名残惜しそうに睦月様がマナの体を離すと、予想以上に大きな声でマナが睦月様の腕にすがりついた。

「行かないで、睦月様……っ。一緒にいるためにはどうしたらいい? わたしなんでもするよ、人だって殺すよ。そうだよ、まだ間に合うんだよね!?」

「馬鹿言うなマナ!」

ぞっとする発言に、睦月様が青ざめる。

マナは本気だ。偽ってまでシスマに入った彼女なら、きっとやる。

「もう、いいんだマナ。やめよう、こんなこと」

「睦月様……っ」

「俺だって一緒にいたいよ。だけど、それ以上にお前の手を汚したくない。はじめからおかしかったんだ。お前にシスマに行かせるなんて。俺がお前にすがりついたり、お前の言葉を受け入れたりしたから、こんなにこじれたんだ」

「わたしはただ、むっくんのそばにいたくて…………!」

「だからって、人を殺していい理由にはならないよ、マナ」

泣きすがるマナを、ただ諭す。

「お前と一緒にいたいけど、お前が安全なのが一番だ。…………そのうち、俺のことなんか忘れて、もっといい人見つけるよ」

「そんなことない! わたしにはずっと、」

「なぁ、マナ」

そこまで言って、睦月様が言葉を止める。

今更気づいたようにわたしを見て、ほんの少しだけ頬を染めた。

「悪い、少しだけ外に行ってもらえるか。すぐに行くから」

+++

3月下旬にT製薬会社社長宅にて女の死体が発見された事件について、真犯人が発見された。

当時犯人と名乗り自らを聖痕保持者と騙った少女(15)は、昨日警察において聖痕を保持していないことを証明した。

真犯人である少年(15)は右手の聖痕を露出した姿で警察に出頭、現在はシスマに入る手続きが性急に進められている。

今回、息子が聖痕保持者であることを知ったT社社長は「少女のほうが犯人だと思いこんでいた。今後真実を聞いていきたい」と語っている。

……………………

………………………………………………………………

+++

「マナのこと、勘違いしてやらないでほしいんだ」

警察へ出頭して、3日後にシスマへやってきた睦月様は、真っ先にわたしへそう言った。

ニュースは睦月様の話題でいっぱいだ。こっそりしているというマナとの電話では、連日報道陣が詰めかけて家を出るのもきつい状況だという。

どうせインタビューなどしても、情報規制やらなにやらで、真実の一割も報道されはしないのに。

マナは軽いノイローゼになっているらしく、少し気の毒だった。

睦月様は、入ってきて一番にそんなことを教えてくれた。

「勘違い?」

「結構過激なこと言ってただろ、マナ。世界を変えるとか、保持者を解放するとか……」

「はい、そうですね」

「根はすごくいい奴なんだ。素直で、おっちょこちょいで。……ちょっと、思いこみが激しいだけで」

少し困ったような顔でマナのことを語る。

「ただ、俺を助けようとしてくれただけで」

「ええ」

「ただ、一緒にいたかっただけで」

「知っています」

彼女の激情を数度見た。

ほんのすこしだけ、学校で見た彼女が仮面なのではないかと思ったりもした。けれども両方、紛れもなくマナなのだ。

「昔から、ちょっと一直線すぎるところがあったんだ。そんなところがかわいいんだけど」

「そんなことは聞いてません」

「なんだよ、少しくらい聞いてくれよ」

「嫌です」

どさくさに紛れたのろけにあからさまに嫌な顔をしてやる。

ただでさえ身近にカップルがいるのに、また一人増えるのか。想像したら少し嫌気がした。

「……聖痕保持者が隔離されるのは、保持者じゃないのと子供が出きるのを避けるため、だっけ」

「そうですね」

「そんなことなら一回くらいやっとけばよかった。少しは復讐になったかもしれないのに」

「なんの話ですか」

なんのことだろうと思いつつ、不穏な空気を感じ取る。なんとなく嫌な予感がした。

するってなにをだろう。

しかし、同時に疑問に思うところもある。

聖痕保持者と普通の人間の子供はどうなるのか。

聖痕保持者同士の子供はどうなるのか。

考えてみれば、どちらも50年の歴史の中で存在したことのないものだった。

聖痕は、未だ謎が多い。

「……結構、冷静なんですね」

「考える時間はたっぷりあったからな」

ず、と睦月様がコップを鳴らす。

少し物憂げではあれど、マナへの気遣いをしたり、冗談を言ってみたり、動転する様子が見られない。

「マナをシスマに送ってから、ずっと考えてたんだ。たとえシスマから出られたとして、それが本当にいいことなのか」

手作りのメニューに目を落としながら、言う。

空っぽの喫茶店で、オーナーは一人雑誌を読んで、こちらに気を配る様子もない。

「あれは、たしかに俺は正当防衛の悲惨な結果だったと信じてる。殺すつもりなんかなかったし、俺は確かに被害者だ」

「はい」

「でも俺は殺害者だ。そんな人間が、会社なんか継げるわけがない。今回は報道が俺の正体を伏せたけど、正直俺のせいで会社が潰れかねないことは理解してるんだ。いや、もしかしたら今頃潰れてるのかもな」

朋鐘製薬会社はかなり大きな会社だ。潰れるとしたら、やはり大々的に報道されるに違いない。

睦月様は、普通の子供とは違う。彼の殺人のせいで、一体どれだけの歯車が狂っただろう。

きっと、今は彼の父が尻拭いに走っているのだと思う。

「多分、想像以上にいろんな人に迷惑かけたと思うんだ。そうなるのがわかってたから、ああやって逃げてたんだけどさ。落ち着いてから、思ったんだ」

「…………」

「殺人を犯したやつが、人を助けるための薬を作っていいのかってさ」

「…………」

彼の言わんとしているところは、理解できる。

人を殺した医者に手術をされたくないように、人を殺した人の作った薬を信用できるとは思えない。

医療の世界は信用問題だ、と思う。

「事件当初は混乱して来たくないってわめいたけど、今回のこと、別に乗り気だったわけじゃない。言い訳みたいだけど」

「はい」

「少し遅くなっただけで、きっと結果は変わらなかったんだ」

「そうでしょうね」

「なあ、本当にみんなが本気を出せば、なにかが変わったと思うか? 聖痕保持者が団結すれば?」

「…………」

睦月様の問いに考える。

選ばなかったもう一つの道。

「どうでしょう、なにも変わらないと思います」

「…………」

「わたしたちは結局、なんの力もない子供ですから」

「そうか」

彼の頷きから、感情を探るのは難しかった。

きっと、一時でも外に出られたとしても、すぐに元に戻される気がする。

世論もあるし、政治的な意志もある。そう簡単に覆せるとは思えない。

たとえ殺人を犯したことがあるからって、戦うことに抵抗がないわけじゃない。大人の、訓練した人が相手なら、確実にわたしたちは負けるだろう。

ここから出ることは、やっぱりできないのだ。

「なあ、ユイ」

「はい」

「シスマって、楽しいか?」

ふと、不安そうな目でわたしを見る。

「はい、とっても」

その不安を少しでも拭えるように、できるかぎり微笑んだ。