ほたるの光

ぱたぱたぱた。

熱い風を送ってくるうちわを片手に、睨みつけるは理科の教科書。

扇風機を回しても、けして快適にならない気温。

ぽたり。汗がノートに染みを作る。

暦は文月。夏休みを目前に行われる、子供たちへの拷問。

そう、来週は――――期末試験である。

+++

いつもなら適当に流す勉強を、真面目にやるはめになったきっかけはちょうど三日前。

「おいセナ、勝負しようぜ」

「やだー」

「のれよ!」

「やだー」

若林がセナに突っかかる。ここまではいつも通り。

若林の方を見向きもせずにセナが拒否する。ここもいつも通り。

「勝負ってなにするんだ?」

「よく聞いた睦月!」

「むつきー、無視していいってー」

シスマに来て二ヶ月経って、もうだいぶ慣れた様子の睦月様が若林の言葉に問いかける。

彼は今やクラスの中心人物だ。元々会社を継ぎたいと言っていただけあってリーダーシップは完璧。クラスメイトからはとても頼られていた。主に勉強とか勉強とか勉強とか。

「もうすぐテストだろ?」

「そうだっけ?」

「そろそろ一週間前ですね」

特に意識もしていなかったらしいセナがぴんとこない顔をする。無理もない、だってまだ範囲も言われてないから。

言われていても勉強するつもりなんてないだろうけど。

「で、点数で勝負しようぜ、って話」

「無理だよー! だって二十点も取れないもんー!!」

「だーかーら勉強するんだろ!?」

テストの点での勝負と言うことに、セナは今までにないほど嫌な顔をした。

外の授業に比べると異常なくらい簡単な(来たばかりの人は必ず言う)テストで、セナは赤点を叩き出す天才なのだ。

いくら点数が関係ないシスマだからといってまあ頭が悪くていいとは言えないので、もうちょっとは勉強するべきだと思う。

「へぇ、おもしろそうじゃないか。俺も混ぜてもらおうかな。ユイもやるんだろう?」

「え」

部外者だとばかり思っていた話に突然組み込まれて焦る。

だって、二人の世界じゃないんですか。

勝負だなんて面倒なことしたくない。

「いえ、わたしは」

「ユイもやるんだったらセナもやろうかな……」

「じゃあ決まりだな」

「勝手に巻き込まないでください」

反抗の余地なしに決定されてしまう。

睦月様に悪気はないだろうけど、こうなってしまうとセナの面倒を見るのはわたしなのだ。やめてほしい。

「で、勝ったらなにがあるんだ?」

「よく聞いたな睦月!」

若林が、質問にうれしそうに声をあげた。

「一番点数のよかった人が一番低かった奴に命令できるんだ、一日だけ。なんでもありだぜ?」

「へぇ、楽しそうだ」

「うわああああ、セナ絶対負けんじゃんー!」

ノリ気な睦月様と頭をかかえてうなるセナ。

なんだかこの二人に決定しそうだ。

「ユイ、勉強しよう! 教えて!」

「ええ……」

「睦月、今度勉強会しようぜ」

「ああ。一緒に勉強するって楽しそうだな」

なかば必然的にチーム分けがなされる。

今から結果は見えている気がするけど、努力次第で変わるのだろうか。

+++

そうして話は冒頭へ戻る。

わたしが努力する必要は特にないが、やっぱり最下位になるのはごめんだ。特に苦手な理科の教科書を睨み合う。

さっきから計算題と戦っているがさっぱり解ける気配はない。おかしい、数学は苦手じゃないのに。

「疲れた~~暑い~~」

「セナ黙って。やめたくなります」

始めて十分ほどで飽きだしていたセナがとうとう音をあげる。

一緒に投げてもいいけどそれはあまりにも負けた気がする。

しかし、せめてこの暑さだけでもなんとかならないものか。

「ねー、クーラーつけようよぉ……」

「まだ勧告が出てないんだから、電源入れたってつきませんよ」

シスマにもクーラーはある。

しかし、それをつける特権は、役所の人たちに限定される。

だから、朝になんらかの形で「今日はクーラーつけてもいいですよ」と連絡されなければ、いくら部屋のクーラーの電源を押しても作動しない。

わたしたちのクーラーは、あくまで役所の人たちのおまけである。

「うう……とけちゃう…………」

「いいからあと三十分がんばってください。五時まで勉強するって言ったのセナですよ」

「アイスぅぅぅぅうううぅぅううう」

今にも倒れそうな声で涼を求めるが、冷蔵庫のアイスに手をのばさないだけまだ偉い。

しかし、わたしもセナも大分前からシャーペンを一つも動かしてなかった。

暑いのがひとつ。

わからないのがひとつ。

教えあえればいいけれど、セナ相手じゃそれもできない。

睦月様と勉強したかったなー……とは、ちょっと言えなかった。

+++

「睦月、これってなんの公式当てはめるんだ?」

「それは二次方程式を利用して、」

「あー、なるほど」

こちらは若林と睦月。

勉強しているのは若林ばかりで、睦月はというと図書館から借りた本を片手に若林に教えているだけである。

「お前本当に頭いいのな……ついでに教え方もうまいのな……」

「そうか? 若林の飲み込みがいいから大したこと教えてないよ」

睦月がなんでもないように答える。

若林は自分が頭のいい方だとは思っていたが、あくまでシスマ内だけの話であると痛感する。きちんとした勉強をしてきた外の人間と、外のまねごとをしているにすぎないシスマの中じゃ教育に明らかな差があった。

受験のないシスマでは基礎しか教えない(というより教師がそれくらいしかできない)せいもある。

「そういえば」

「んー」

「セナに何言うつもりなんだ?」

「はっ!?」

「命じるつもりなんだろ、なにか」

唐突で率直な睦月の質問に、若林は動揺を隠せない。

なにも意識せずに勉強をしていたのが、急に恥ずかしくなる。みるみるうちに顔に熱がのぼるのを感じた。

「な、なに言って」

「いやー、今更ながら割り込んで悪かったなって思って。だから、理由を教えてくれたら、次のテストで手を抜こうと」

「ば、ばっかじゃねーのおま、あほか!」

「顔真っ赤だぞ?」

くすくすと笑う睦月に、熱で倒れそうになる。

体にまとわりつく湿気の強い暑さ以上に、今は顔のほうが熱かった。わかりやすい体が嫌になる。

「だって、勝てるって確信しなきゃあんなこと言わないだろ」

「……」

「なに言うつもりだったんだ?」

面白がる様子に腹が立ちながら、若林は利害を計算する。

睦月が本気で来たら、勝てないのはわかっていた。

「……誰にも言うなよ」

「もちろん」

+++

二つの机をくっつけて、それを囲んでお互いを睨む。

腕に抱えているのは白いプリント。全五教科のテスト結果だ。

「いいか、いっせーの、で全部晒せよ」

若林の言葉に、三人とも静かに頷いた。

それぞれ神妙な面持ちだが、その中でも特に気合いが入っているのは若林とセナだった。

「セナに負けて土下座する準備はいーい?」

「ほざくなよセナ。てめーこそ土下座する準備しとけよ」

放課後の、誰もいない教室の静けさが妙に雰囲気にマッチして、緊張感を盛り上げる。

全員の心臓の音が合わさる。

「――――いっせーの…………」

「うわああああああああああああ!!!」

「はーはっはざまーみろ!」

セナの悲鳴と若林の高笑いが交差する。

わたしたちの点数は、それはそれは予想通りだった。ただ一人を除いては。

まず、わたしは三七○点。いつも通り。

一位だった若林は四○七点。普段の点数を知らないが、勉強はできる方だったはずなので、意外性はない。

最下位のセナは二一四点。合計点数こそ低いが、勉強のおかげか普段の二倍近い点だ。あれだけ喜んでいたから、この結果は少しかわいそうだった。

そして、睦月様は。

「……睦月様」

「睦月でいいって」

「……睦月様、手、抜きました?」

合計三三六点。全体的に六十点程度しか取ってない。

普段の授業の様子や、かつての環境を考えると、これはあきらかに不自然だった。あれだけ周りに教えておいて、できないことがあるわけがない。

「抜いてないよ。勘ぐりすぎて間違えた」

そう言って理科の答案を見せてくれる。たしかになんだか難しそうな言葉がたくさん書いてあった。このなんたらとか言うものはどこで覚えたんだろうか。

「とにかく、この勝負は若林の勝ちだな」

「うううぅぅぅ……」

結論をはっきりと言う睦月様に、セナが低くうなる。

予定通りといったように若林は誇らしげだ。彼はなにを命令するんだろう?

「わかったよ、なんでも聞いてあげればいーんでしょ! で、なに!?」

「やけに物わかりがいいじゃねぇか」

「だからやだって言ったのに……」

かわいらしい顔を憎々しげに歪める。眉には深い皺が刻まれ、それは恐ろしい表情になっていた。

負けて悔しいというより、若林の言うことを聞くことが屈辱的、と言ったところだろうか。

「ほら、早く言ってよ」

「……再来週の金曜日」

「?」

「あの、あるだろ、あれ」

「あれってなによ」

いざ命令しよう、というときに若林が口ごもる。

心なしか顔は赤く、声は急に小さくなっていた。その変化に気づいているのかいないのか、セナはいらだったように急かす。

「ねぇ、はーやーく」

「うるせぇな! 夏祭りでおごれってだけだよ!!」

半ばやけくそに叫んだ。

その言葉に、思わず若林を見る。隣でくすりと声がした。睦月様がいたずらな目で二人を見ている。

これは驚くべきことだった。若林がセナを遊びに誘うのは初めてのことなのだ。

ときどきわたしがいたずらで呼んだり、道で偶然会ったから合流したりする以外で、若林がセナと遊ぶのは、知ってる限りでは初めてだ――――これはもしかしたら進展もあるかもしれない。

「うわっ、たかる気ー?」

「負けたのお前だろ、全額負担な」

「ふざけんな! そこまでは払えないからね!」

そんなことも気にせず、セナは全力で嫌な顔をしてみせる。

その調子に巻き込まれ、一瞬だけ見せた若林の恋愛感情はなりを潜めてしまった。

「これ、どうなるのかな?」

「さぁ……」

「そのときは尾行しようか」

「そんなことしなくても、向こうから誘ってくれますよ」

睦月様のおもしろがるような声に予想を返す。

若林もセナも、おとなしく二人きりで遊んでられるわけがないのだ。

「ユイ、行くでしょお祭り!」

「睦月、つき合え!」

断られることを考えない二人の言い方は、なんだかとってもそっくりだった。

+++

シスマの祭りは、簡素だけれどとても楽しい。

普段どこにいるのだろうと思うほど、小学校前の通りに人が集まる。小学校前には商店街があって、そこの人たちが店を出して客を呼ぶのだ。

提灯はないが、フランクフルトやじゃがバター、焼きそばなど、シスマでも作れるような簡単な料理が売られているのはとても夏らしい。

「来たな」

「早かったんですね」

「わぁ、祭りだー!」

待ち合わせ場所である小学校前には既に若林たちが来ていた。

ほとんどが小学生な中で、わたしたち中学生は少しだけ目立つ。

「……浴衣じゃないんだな」

「着方知りませんし」

喧嘩をしながら先へ進む若林とセナの後をついていると、睦月様が少し残念そうに言った。

シスマで浴衣を着る人はいない。着方を知らないのもあるし、そんなに着るものでもないからだ。スーパーに売ってないこともないが、買う人はほとんどいないんじゃないだろうか。着たいと思わないでもないけれど。

人混みに飲まれながらセナたちに追いつくと、ヨーヨーつり――――というより水風船に近い――――をしていた。

針金を曲げて作った針に、水風船をひっかけようと、若林が苦戦している。

「へったくそー」

「うるせぇ!」

「お金無駄にしたら怒るからね!」

さっきから針をひっかけて水風船を割ってしまう若林にセナがやじを飛ばす。

ヨーヨーつりと違って難しいのは、間違えて割ってしまうことがあることだ。三回割ったらゲームオーバー、お金は無駄になってしまう。

小さな輪ゴムに、針金をひっかけるのはなかなかに難しかったりする。

「よし、取った!」

ようやく取れた若林が、感動のあまり立ち上がってガッツポーズ。

しかし、

「――――え?」

ボチャンッ、と音を立てて、水風船が落ちる。

セナと睦月様が、大きく吹き出した。どうやら輪ゴムの方が切れたらしい。

「あっははははは、さいっこう!」

「お前ついてないなー」

「笑うなぁ!!」

「はーい、君はここまでねー」

爆笑するセナと睦月様に、怒鳴ってる間に針金が回収される。

真っ赤になって怒鳴る様は、文字通りピエロのようだ。

「……ふふ」

「天野まで!」

「あ、ユイー! ポップコーン食べよ!」

「セナのおごりなら」

「置いてくなー!!」

+++

「なあ、花火しよう」

そう言い出したのは睦月様だった。

手にはいつ買ったのか、簡単な花火セットがある。

「わ、いいね!」

「どこで買ったんですか」

「そこの屋台で見かけたんだ。祭りに来たならこれだろ」

すぐに終わらないように、ちょっと高めのお徳用。中には打ち上げ花火まである。

ついでにチャッカマンまで持っていて、なんて用意周到だろう。

「いいけどここじゃできねぇぞ。どこでやるんだ」

「中学校の校庭でやろうよ。セナ、バケツ持ってきてあげる!」

「決まりだな」

もう十分祭りは楽しんだし、と睦月様が笑う。

時刻はもう十時近い。祭りも収束へ向かう頃。――――たしかに、締めにはちょうどいい。

花火なんて何年ぶりだろう。少し心が踊った。

+++

しゅばばばばばばばっ

「くらえー、若林ー!」

「っあっぶねーだろーがよ! その服燃やすぞ!」

「きゃ――――っ」

「こら、人に花火を向けないでください!」

勢いよく出る花火を、セナと若林がお互いに向けて発射する。小学生じゃあるまいし。

花火は夜闇に煌々と煌めいて、赤や緑や紫なんて色に変わりながら、その短い火薬を消費する。

空に星が見えない代わりに、夏は花火が星となる。その命は短いけれど。

「ユイ、火ちょうだい」

「どうぞ」

セナと若林がはしゃぐのを見ながら、睦月様がわたしの花火に火を受けるべく花火の先を向ける。

なかなか付かず、火元へくっつけるとようやくシャワーのように火花をふき始めた。

「セナと若林は楽しそうだなぁ」

「こっちに被害が来ないといいんですが」

バケツのそばで呟いていると、セナの花火は終わったらしい。新しく取りにこっちへ来る。

「そんなしかめっ面で、ユイちゃんと楽しんでる?」

「楽しんでますよ、安全に」

「もー、うるさいなぁ。やけどしないようにやってるよー」

遠回しに小言を言うと、セナは複雑そうな顔をした。

ごそごそと派手なのを選んで、またチャッカマンで火を付ける。

「でも花火なんて久々だなー」

「いつもはやらないのか?」

「何故か思いつかなかったんです」

「準備、面倒だしね」

睦月様は釈然としないらしい。しかし、どうにもそうなのだ。

ここに長くいると、外の当たり前を忘れていく。それは寂しい気もするが、ここの文化でもある。

浴衣はない。花火もあまりしない。けれど、友達と祭りではしゃぐのは、やっぱり楽しい。

「花火ってほんと、あっと言う間に終わるよね」

「そうですね」

「やらない理由、たぶんそれだよ」

セナがぽつりと、言う。

「なんだか寂しくなるんだもん」

こちらに背を向けたセナの表情は、わからない。

寂しくなる。

花火の光を見て考える。夜を照らす花火は、寂しいのだろうか。

「おーいセナ! そろそろでかいのやろうぜ!」

「あ、やるー!」

燃え尽きた花火を持って、若林が駆けてくる。

お徳用の花火はもう三分の一までに減っていて、打ち上げ花火をやるにはちょうどいい頃合いだった。

筒状の花火を校庭の中心に設置して、若林とセナが仲良く準備をしている。

「あの二人って仲いいよなぁ」

「そうですね」

睦月様が独り言のように言う。喧嘩ばかりの二人だけど、仲はおそらく飛びきりいい。

だからこそ、クラスのみんなは二人の関係に注目しているのだが。そういえば、二人以外でなにか浮ついた話は聞かない。

「ユイは、セナが若林をどう思ってるのか、知ってるのか?」

セナは若林の想いに気づいているのか。

セナは若林のことが好きなのか。

それは二人を知る人の共通の関心事項だ。それはよく聞かれる質問であり、実はあまり気持ちのいいものではない。

「さあ。本人に聞いてください」

セナが語らないならわたしは聞かない。

それがわたしのスタンスだった。語らないなら、言いたくないことなのだ。

だからわたしはセナがどうしてシスマに来て、どうして小学校は行っていなくて、セナが若林をどう想ってるかなんて、知らないのだ。それはセナだって同じだ。

「普段聞かされるのは若林なんて大嫌い、の一辺倒ですけど」

「そうだろうけどさぁ」

シュ――――――ッ

会話を遮るように、噴出花火の音が鳴き出した。

噴水のように湧き出す火の粉はころころと色を変え、あたりの雰囲気を変える。

「たーまやー」

「……少しちがくありません?」

「気分気分」

のんびり睦月様が声を上げる。久しぶりに聞いた言葉だ。

そういえば言ったことが無い気がする。

「たーまやー」

呟きは、音に消されて虚しく散った。

+++

噴出花火の赤い火が、若林たちを照らす。

さきほどまであれほどはしゃいでいたのが嘘のように、眺めながら黙り込んで。

「なあ、セナ」

「…………」

花火を眺めながら、若林は沈黙を破る。

ユイと睦月は声が聞こえないくらい遠い。このときをずっと待っていた。

「ずっと、言いたいことがあったんだけど……」

「……」

セナの返事はない。

若林より幾分か背の低い彼女は、こちらを振り返ることもしない。

そのことに若林はひっかかりながら、続ける。

「俺、お前のことが――――」

「あーっ、そうだ!」

「!?」

思い出したようにセナが叫び出す。

「夏休みの補習ってあったっけ!? セナ確認するの忘れてた!」

「しらねぇよ、俺はやる必要ないからな!」

「ユイー!! 夏休みの補習ってさー!」

小さな体が、離れていく。

――――避けられた?

セナのテンションに流されて憎まれ口を叩いたが、今のは確実に避けていなかっただろうか。若林は会話を反芻する。

花火の尽きる反動で、円筒が情けなく倒れた。